美術手帖 2003年2月号(Vol.55)p.50-0.51

創造性と感情のシステムにおける他者との関係  茂木健一郎

 私たち人間の創造性は、何によって支えられているのだろう?
 何もないところから、形が生まれる、音が生まれる、色彩が生まれる。ボッシュの「快楽の園の図」やフェルメールの「青いターバンの女」のような、見る人の心を一瞬でとらえ、生涯離さないような作品が生み出される。このような作品を生み出す天才の脳の中では、一体何が起こっているのだろうか。
 脳科学の劇的な発展にもかかわらず、創造のプロセスの秘密については、本質的なことはほとんど何も明らかにされていない。「あっ、判った!」と感じる瞬間(いわゆるaha! 体験の瞬間)に、神経細胞が大脳皮質の広い範囲で同期して活動することなど、いくつかのヒントになりそうな事実は知られている。しかし、創造の結果作り出される産物(アイデア、作品)が、いかに偶然に生み出されたとは思えないほどのクオリティを持ちうるのか、その肝心の秘密は誰も知らない。
 ただ一つ、おそらく確実に言えることがある。それは、創造性には、脳の「感情」のメカニズムが深く関与しているということである。
 脳のメカニズムに関する多くの知見がそうであるように、例外的な事例、異常と思われるような事例が、創造性と感情の関係について多くことを教えてくれる。ダニエル・キイスの小説の主人公であるビリーミリガンは、その好例である。
 いわゆる多重人格障害(解離性同一性障害)で天才的な絵を描くビリーミリガン。「多重人格」については、その存在自体を疑う人も多い。キイスも小説中で描写しているように、多重人格というのは、犯人が罪を逃れるために作った嘘なのではないか、あるいは精神科の医者が作り上げたフィクションなのではないか、と考える人もいる。
 私も、実は、解離性同一性障害の存在自体を疑っていた時期があった。しかし、ある確実に存在する症例の意味について考える過程で、ビリーミリガンのような人物が実在してもおかしくないと考えるようになった。
 カプグラの妄想は、自分の親しい人、たとえば妻や父親などが「地球人に化けたエイリアン」であるとか、「よくできたロボットである」というような荒唐無稽な妄想を抱いてしまう症例である。フランスの神経科学者ジョセフ・カプグラによって、1923年に初めて報告されている。最近の研究により、このような妄想が生み出される脳内機構が判ってきた。これらの患者の大脳皮質の視覚野は通常通り機能していて、親しい人の顔をそれと認識することができる。ところが、大脳皮質の下側にある扁桃核などの情動系の障害により、自分の知っている人に対して抱くべき、「親しみの感情」が生まれてこない。その結果、「私はこの人を良く知っているのに、なぜ親しく感じないのだろう」という矛盾を処理する必要に迫られる。この過程で、脳は、荒唐無稽なストーリーを勝手に生成してしまうのだと考えられている。つまり、「親しみを感じないのは、そっくりだがニセモノのエイリアンやロボットだからだ」と合理化してしまうのである。
 カプグラの妄想は、感情のシステムのズレが、奇妙だが独創的なストーリーの創造へとつながるケースである。同じように、ビリーミリガンの多重人格も、感情のシステムのズレが生み出した奇妙だが独創的な創造物であると考えられる。私たちは、人格というものは、体験、記憶に基づいて生涯首尾一貫して続いていくものだと思っている。だから、ビリーミリガンのようなケースに接すると、驚く。まさかそんなことがあるはずがない、と思う。しかし、二十四もの異なる人格も、感情のレベルでの解離に基づいて後から生み出されたものであると考えれば、それほど不思議な現象でもなくなる。ビリーミリガンの多重人格も、彼が描く魅力的な絵も、幼少時の切実な体験によって動き出した感情のシステムが生み出した創造物と考えれば良いのである。
 ところで、カプグラの妄想やビリーミリガンの多重人格のような一見異常に見える感情の作用において、他者との関係性が深く関与しているように見えることは偶然ではない。他者との関係は、人間の感情のシステムの機能にとって何よりも重要なものである。幼少期において、私たちは、人によって認められることを何よりも求める。「子供にとっては、誰かに見られていない出来事は起こっていないのと同じである」という警句がある。夏のプールの飛び込み台で、後ろに人々が並んでいるにもかかわらず、「ママ! 見て!」と叫び、母親が目を向けてくれるまで飛び込まない女の子。幼稚園の学芸会で、自分の出番の直前、親がちゃんと来てみてくれているか背伸びしてのぞき込む男の子。このような、誰にでも思い当たるような子供たちの振るまいの中に、私たちの感情において他者との関係が占めている中心的な位置が現れている。
 「アルジャーノンに花束を」の構想を得た経緯が、「アルジャーノン、チャーリー、そして私」に書かれている。キイスがニューヨークの英語学校で教えていた時に、授業が終わった後で「ぼくは賢くなりたい」と言ってきたという少年のエピソードが印象的である。私たちの感情の動きのほとんどは、他者との関係において生じる。「賢くなりたい」という、一見純粋に知性に向けられたように見える欲望も、実は他者との関係という文脈の中で生まれている。手術によって賢くなったチャーリーが、過去における自分と他者との関わりを振り返り、その意味を悟るシーンが、「アルジャーノンに花束を」という作品の最も感動的な部分なのは偶然ではない。
 現代の脳科学は、人間の知性というものは、その本質において社会的なものであるということを示している。映画「レインマン」で有名になった、時に天才的な能力を示すケースが出現する「自閉症」の子供たちの問題点も、他者の心を推定する能力にあることが指摘されている。脳の中の感情をつかさどる部位が、どのようにして天才的な創造の能力を生み出すのか、その詳細はまだ明らかではないが、創造を支える感情のシステムの中核に、他者との関係があることは間違いない。作品を創るとき、それが誰かに見られることを予期しない芸術家は一人もいないだろう。創造の行為とは、すなわち、広い意味でのコミュニケーションなのだということを、ビリーミリガンのようなケースは私たちに教えてくれる。