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書評を書いてくださった皆様に、この場を借りて、感謝の意を表させていただきます。

                          茂木健一郎


茂木健一郎 「脳とクオリア」 日経サイエンス社 (1997年)書評

 

「脳とクオリア」の書評 by 養老孟司 in 読売新聞

読売新聞 1997年6月22日 掲載

(c) 読売新聞 1997

評者 養老孟司

すべての認識 細胞活動に還元(見出し)

漠然とした、「文学的な」、脳の話など、飽き飽きした。そう思う人があれば、この本を読めばいい。理科的に脳をどう考えるか、それを可能なかぎり、明瞭に書いているからである。著者の議論は、その意味できわめて爽快である。

脳の問題の核心とはなにか。クオリアを神経細胞の活動から説明することである。著者はそう喝破する。クオリアとは、要するにわれわれが認知するものである。それには色もあれば、音もあれば、触感もある。それらはたがいに、明らかに異質である。しかも鮮明で生き生きとしている。それが全部、要するに神経細胞の活動に還元する。

そんな馬鹿な。だれでもそう思う。そこを避けるから、脳の議論は歯切れが悪くなる。しかしおそらく、もはや著者のように思うしかないのである。さもなければ、超能力とか、心霊現象とか、ありとあらゆる神秘主義がやってくるだろう。

「認識のニューロン原理」を著者は前提として受け入れる。それはこういうものである。「私の認識の特性は、私の脳の中のニューロンの発火の特性によって、そしてそれによってのみ説明されなければならない。」それで当然なのだが、それをボカす発言は、いつでも生じることである。

脳の科学に必要なのは、こうした還元主義である。還元主義自体は評判が悪いが、それは科学の発展段階による。私は長らくそう思っている。脳科学者はある意味で還元的でなさすぎた。そうした状況を引き起こしたのは、もちろん社会的「常識」である。化学はあらゆる物質は百ほどの元素からなるという。遺伝学は生物の形質はDNAという分子の塩基配列に還元するという。それなら脳の活動を「ニューロンの発火の特性」だけで説明しようとして、どこが悪いというのか。もっともその説明は、まだできていない。(日経サイエンス社、3200円)

「脳とクオリア」の書評 by 米沢富美子 in 岩波書店「世界」

「世界」 第640号 1997年10月 「この本を読もう」 今どきの科学 p116 ~ p.117掲載

(c) 岩波書店1997

評者 米沢富美子

「脳関係」としては、茂木健一郎著『脳とクオリア』(日経サイエンス社)を取り上げる。

近年、脳の研究はかなり進み、構造も顕微鏡的に明らかにされている。人間の大脳は、およそ100億の神経細胞(ニューロン)のネットワークで、われわれのあらゆる認知、意識、理解、記憶、行動は、このネットワーク上の電気的信号の伝播によって決定される。おのおのの神経細胞は、他のニューロンからの信号を受け取る入力受容性の刺を一万本以上も持っている。したがって、人間の脳の中にある刺の数は全体に100兆におよぶ。脳の働きの様子を、ブライテンベルグは、「100億の信号が100兆の接点を駆け巡っているのが、人間の一生だ」と表現している。

ニューロン同士の結合の詳細が、おのおののニューロンの個性を左右する。すなわち個々のニューロンの活動は、それ自体と他の全てのニューロンとを含むニューロン集団から成る全体のネットワークの結合様式から決定される。逆に全体のネットワークの結合様式は、個々のニューロンの活動の様子によって時々刻々変化していく。このように、個々のニューロンと全体のネットワークは、典型的なフィードバック・システムを構成しており、その意味で立派な複雑系である。ネットワークの巨大さと結合様式の複雑さゆえに、脳の働きの全貌を理解するのは不可能に近い。

しかし、脳の作動原理そのものは単純であり、すべてはニューロンの発火現象に帰せられる。ネットワークを伝わって信号が、いま注目されているニューロンに流れ込むとき、信号の積算量がある閾値を越えると、そのニューロンは信号を発信できる状態になる。ニューロンが、休止状態(発信をしない状態)から発信可能な状態に移ることを、ニューロンの発火と呼ぶ。ニューロンは発火して信号を発信したあとは、再び休止状態に戻る。

いかに巨大であろうとも、いかに複雑に結合していようとも、信号の伝達をするネットワークという、所詮は物理的現象から、どのようにして「心」が生ずるのかという問題は、脳の研究における現在の最大の課題である。本書ではこの課題に「クオリア」(qualia)という概念を通して迫る。「クオリア」とは「私たちが世界を感覚するときに媒介となる様々な質感のことを指す言葉」として、著者が定義したものである。

本書ではまず、二段組三一三ページの半分以上のスペース(全10章のうちの五章)を割いて、「認識」とは何かが説明される。脳と心の問題を考える際に認識の問題が最も重要であるという判断からである。これらの章を読み進むうちに、最初はなじみにくかったクオリアの概念が次第にはっきりしてくる。そのあとの各章では、「意識」「理解」「新しい情報の定義」「人格の同一性と生と死」「自由意思」の問題が論じられる。

「クオリアによって満たされた私たちの心の世界」を、物質としての神経細胞の活動のみから説明することこそが、心と脳の問題の核心だと指摘し説得するのが本書の目的であり、その目的は十分に果たされていると思われる。「心と脳の関係を求める知的探究の旅、これほど、人間にとって意味深い、そして高貴な営みがあるだろうか? すべては、いまだ深い闇の中に沈んでいる。私たち人類の、心と脳の関係を理解しようとする試みは、今始まったばかりなのである。」という文章で本書が締めくくられている。一九六二年生まれの、まだ若い著者が、いずれその答を携えて続編を書いてくれる日が待ち遠しいことである。

 

「脳とクオリア」の書評 by 桜井芳雄 in 岩波書店「科学」

Will be posted here soon

「脳とクオリア」の書評 by 瀧澤弘和 in 週間ダイヤモンド

週間ダイヤモンド 1997年8月16、23日合併号 「今週の一冊」掲載

(c) 週間ダイヤモンド 1997

演繹を重ねて「脳と心」という難問に迫っていく知的醍醐味(見出し)

評者 瀧澤弘和(東洋大学講師、当時)

われわれは皆、脳が複数のニューロンの相互作用によって機能していることを知っている。しかし、脳についてのこうした生理学的描像は、われわれが日常的に経験する「心」の態様とどのように関連しているのだろうか。

「心の作用はニューロンの相互作用以上でも以下でもない。それで終わりである。」という人もいるかもしれない。しかし、単なる物理現象にすぎないニューロンの発火からどのようにして、統一され、しかも多様性に富む意識の世界が生じてくるのかという不思議は依然として残る。脳の生理学的見地と心的現象のあいだには、いまだ越えがたい溝が横たわっているのである。

本書の題名にある「クオリア」というのは、われわれが世界を感覚する際に味わう生々しく原始的な質感、たとえば赤いバラをじっと見つめたときに感じる赤らしさの感覚である。クオリアは、それ自身が脳に集まってくるさまざまな情報を統一したところに成立するという性格を持ちながら、より複雑な認識の構成要素としての役割も果たしている。著者は、心脳問題において提起されるさまざまな問題を具体的に考察するなかで、それらのほとんどすべての問題がクオリアを成立させるメカニズムの開明に帰着することを主張するのである。

本書全体を通しての著者のよって立つ立場は、意外なほど簡単だ。「私たちの認識は、脳の中のニューロンの発火によって直接生じる。認識に関する限り、発火していないニューロンは存在していないのと同じである。私たちの認識の特性は、脳の中のニューロンの発火の特性によって、そしてそれのみによって説明されなければならない」という「認識のニューロン原理」がそれである。この仮説は一見すると自明にも思えるが、実はその射程距離は意外なほど大きいのである。

壮大なる知的な旅

「認識」について説明した第1章から第5章で、著者はこのほとんど唯一とも言える仮説をとことん考え抜いていくことにより、既存の説明のどこが問題なのか、どのような方向でもっと探求すべきなのかを明らかにしていく。議論の過程で必要なものは演繹的推論能力のみであり、まるで哲学書を読んでいるかのようである。こうして読者は、壮大な知的な旅を、著者とともに経験していくことになるのである。

第6章以降は議論の幅をやや広くして、「意識」の定義の問題、「理解」することの意味、人格の同一性と生と死の問題、自由意志の問題などをとりあげている。これらの問題の大部分は、これまでも哲学で取り上げられてきたものである。とりわけ興味深いのは、生と死の問題と自由意志の問題だ。

われわれは睡眠の前後で心が蘇ることを死とは呼ばない。しかし、それならば死ぬ直前のニューロンの発火パターンと似たパターンが(宇宙のどこかで)将来再現される可能性がゼロでない以上、われわれは決して死ぬことはないという議論がなされる。また、自由意志が存在するかどうかという問題を量子力学の非決定性と結びつけて論じつつ、結局否定的な結論を導いているところも興味深いところである。

本書で取り上げている問題の困難さに鑑みて、著者が決定的な結論に到達していないのはむしろ当然である。しかし、もっともららしいと思われる単純な原理を措定し演繹を重ねて難問に迫っていく姿勢をまのあたりにすることこそが、本書の醍醐味なのだ。また、最先端の科学がいかに深いところで哲学と結びついているかを発見することも、本書を読むことによって得られる喜びの一つである。

思うに、二〇世紀の科学は肝心な部分をブラックボックスにしたり、あるいは誘導形で問題を考えることで大きな成果をあげてきたのではなかろうか。今、さまざまな分野でそのブラックボックスが開かれようとしている。二十世紀の科学の新展開の胎動を感じさせる一冊である。

「脳とクオリア」の書評 by 堀川哲 in 出版ニュース

出版ニュース 1997年6月中旬 p. 18-19 掲載

(c)出版ニュース 1997

評者 堀川哲(札幌大学、思想史)

心と脳は別のものだ。なんて考えている人間は、いまではそういないだろう。そりゃ、この世界ではいろいろな宗教を信じているひとはたくさんいる。そういう人たちは、自分が死ねば、自分の魂は天国に行くのだ、あるいは、天国に行きたいものだ、と思っているのであろう。しかし、そういう信念は、たいていの人にとっては、ぼんやりとした期待のようなものであり(「そうあってほしいな〜」)、輪郭がそうはっきりとした思考であるわけではない。それがまた、こういう信念の強みであるわけだが、こういレベルでとどまっている限りは、こういう信念は、こういう信念を持たない人間にとって、有害なものになるわけではない。ぬいぐるみの人形に話しかけている人間は、「本当に」このぬいぐるみが心をもっていると思っているわけではない。しかし、本当に心がない、と思っているわけでもない。こうした行為や思いは、人生の過ごし方の一つのスタイルなのである。

神様を信じている人でも、身体の調子や心の調子が悪くなれば、病院に行く、クスリを飲む。私たちの心の状態は(ある程度)クスリによって左右される、ということはだれでも知っている。「脳内物質」なんて大げさなことは言わなくても、そういうことは日常的に経験できる。大酒を飲めば、心の状態も変わるのである。

クスリによって心の状態が変わる、ということは、脳内での化学物質の運動によって私たちの心の状態が左右される、ということだ。難しく考えなくても、私たちの心と脳の中での化学反応とは無関係ではない、ということは誰でも了解する。

さて、私たちの脳の中で起きていること、これについて、科学者たちはいろいろなことを教えてくれる。脳の神経細胞(ニューロン)のネットワークの中に電気信号や化学信号が走り回る、その仕組みを科学者は説明してくれる。分からないことは、まだまだたくさんあるけど、まあ、多分、時間の問題なんでしょう。

物的な仕組みはまだよくは分からないにしても、脳科学の成果をみせられると、誰でも、心とはニューロンの発火であると自然に考えるようになるでしょう。そう考える以外に、心についてどう考えたらいいのか、見当もつかないのである。

しかし、本当の問いはここから始まるのである。乱暴に言ってしまえば、心を考えるという問い(関心)にとっては、脳のなかの様子をコンピュータ画面で見たり、電気パルスの動きを見せられたり、脳に電極を埋め込まれたサルなどにポルノ映画を見せたとき、サルの脳がどう反応するか、そういうことは「どうでもいいこと」なのである。どうでもいい、なんて言うと叱られそうだが、しかし、やっぱりそういう「実証的」なことは、基本的な問題ではないのである。心と脳の関係についての、基本的な事柄は、こういう次元を超えたところにある。茂木健一郎の「脳とクオリア」(A5判・三二五頁・三二〇〇円・日経サイエンス社、一九九七年四月)を読むと、そういう思いが強くなる。

著者は一九六二年生まれの若い科学者。「生物物理学」というのが専門であるそうで、ケンブリッジで神経科学を研究しているとのこと。本書のサブタイトルは「なぜ脳に心が生まれるか」である。本の中身、難しいところもあるにはあるが、一般の読者でもおもしろく読める。大体、この種のものは、私たちには、細かいところは、まあどうでもいいのである。私たちが知りたいことと、現場の科学者が、当面知りたいことは同じではない。私たちが知りたいのは、心である。心とは何であり、どのような仕組みで変化するのか、という問題である。この問いを考えていく場合には、神経科学についての大まかな知識は必要になるにしても、細かい点はどうでもいいし、その知識の有無は心を考える場合、そう重要ではないのである。逆に言えば、細かな専門的な話題を垂れ流し的に書き、全体の大きなテーマを見えづらくする、その原因は、問題の複雑さにあるというよりも、多くの場合、書き手の書く能力と問題の本質を掴む出すセンスの問題である。だが、この本は違う。心と脳という大きなテーマをしっかりと見つめている。

さて、「心とはニューロンの発火である」と言うとする。心という言葉は、あいまいな言葉だけど、まあ普通は、晩飯のおかずを考えたり、彼女のことを思ったりする、という現象である。私のこうした心の働きが、私の脳のニューロンの発火と関係しているということ、これは疑いない(と思うしかない)。しかし、ちょっと考えてみれば分かるでしょう。ニューロンの発火は「ニューロンの発火」なのである。それ以上でもそれ以下でもないのである。それは電気的な、あるいは化学反応的な出来事である。そういう反応過程を記述してみても、それはどこまでいっても、化学反応過程の記述にしかなることはない。だけど、彼女に対する私の思い(色々あるが)は「彼女に対する私の思い」なのである。「ニューロンが発火している」ということと、「彼女に対する思い」とは同じではない。だって、そもそも、言葉が違う。

言葉が違っていても、「同じことだ」という味方もある。私もそういう気がする。しかし、「同じ」とはどういう意味なのか? 何と何が同じなのか? 同じ事象を異なった言葉で表現しているのだ、と言ってみても、でも、一体、「同じ事象」ってどういう意味なのか?

こういう風に考えていくと、心とニューロンの発火とをつないでいく作業は、単純なものではない、ということが分かる。これは哲学の伝統的な心身問題である。神経科学の現場の科学者たちが、この問題をどう考えているかは知らぬ。おそらく、現場の問題は考えていないものである。その方が仕事を進めていく上ではいいのでしょう。しかし、神経科学の様々な成果から、ごく素朴に、心の問題は「科学的に」解決ずみだ、という錯覚が生まれる場合もある。で、本書はそうではない、ことを教えてくれる。

だけど、この問題はやっかいなのである。「こころ」「こころ」と言ってみても、結局は、私たちの脳の中での出来事である。脳の中で起きていることは、ニューロンの発火である。だが他方では、彼女に関する私の思い、黄昏を見るときの私の感じ、こういった感じ(言葉にはならないような「それ」)、こういったものは確かに存在する。存在するという感じは疑いのないものだが、それが何であるか説明できず、ただ「それ」としか言えないものだが(本書では「クオリア」と呼ばれる)、こうしたクオリアはどのようにして、ニューロンの発火という出来事と関係づけられるのか。

クオリア、つまりは心的な現象、の存在がニューロンの発火と関係づけられない、ということは考えられない。これが本書の出発点である。「心というもの」がニューロンの活動とは別個に存在する、と思うのも勝手であり、自由であるが、そういう前提で、心的現象を説明しうる道が拓けるとは、幸か不幸か、思えない。しかし、である。クオリア(心的現象)をニューロンの発火と関連づける、と言ってみても、一体、どのように考えればよいのか、見当もつかないのである。

これが神経科学の現状である。本書でもその問いへの解答が示されているわけではない。「分からない」というのが結論である。しかし、何が分からないのか、何が問いであるのか、それがここで説明される。コンピュータは理解できる能力を持つ、あるいは持たない、という場合、私たちがまず考える必要があるのは、「理解する・しない」という言葉の意味である。しかし、この問いもそう簡単なものではない、ということは少し考えてみればすぐ分かる。コンピュータの能力は驚異的であり、私たちもそれに影響を受けて、脳を情報処理装置として考える習慣がある。実際、その方が、すっきりとした考え方ができる。しかし、情報を処理する、とはどういう意味であり、その場合の「情報」の概念にはどこか問題はないか、本書ではこういったテーマが見事に整理されている。

脳、神経科学方面の本というのは、最近ではブームのようでたくさん出ているが、私たち一般の人間が読んでみても、面白い、刺激的、と感じるものは意外に少ない。細かい話ばかりで退屈なものか、なかにはオカルトっぽいものさえある。「心と脳」と解明とうたっていても、中身はほとんど脳の部位の話ばかりなんてものも多い。この本は、しかし、本当に刺激的な作品である。私たちは解答を得るというよりも、これで問題の出発点に立たされることになる。

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茂木健一郎 「心が脳を感じる時」 講談社 (1999年)書評

 

「心が脳を感じる時」の書評 by 布施英利 in 日本経済新聞

1999年9月26日掲載

(c) 日本経済新聞 1999

 人間の内面に迫る理科系の哲学 (見出し)

 「心が脳を感じる時」 茂木健一郎著

評者 布施英利

 人はなぜ、心を持っているのか。

 この著者の立場は明快である。

 「心の中の表象の全ての性質は、脳の中のニューロンの発火の性質によってのみ説明されなければならない」

 ぼくたちが心と呼んでいるもの、それは、全て、脳の中の細胞の反応にすぎない、というのだ。脳細胞の反応だけで、心が語り尽くされる? なんて味気ない話なんだろう。そう思われるかもしれない。しかし脳という観点で心を説明することは、決して、心の世界を狭く味気ないものにするわけではない。逆に、脳という臓器のミステリーが深まり、人間の不思議さが増すことになる。この本には、心が、脳のなかでどのようにして誕生するか、そのプロセスが細かく論じられる。そういう「脳に心が宿る瞬間」を説明されると、まるで地球に生命が誕生した、神秘の時間を垣間見ているような気分にすらなる。

 これまで哲学や思想や心理学や、あるいは社会科学が、人間の内面の謎に挑んできた。しかしこれからは、こういう「理科系の哲学」が二十一世紀の思想のベースになっていくことは間違いない。脳という視点なしには、人間の心はみえてこない。

 だが旧来の哲学や人文系の学問が、科学をベースとした「理科系の哲学」の台頭によって、消え去っていくわけではない。例えば十九世紀の哲学者ブレンターノの「志向性」という概念は、脳の仕組みを考える上で、とても助けになるという。「哲学者が積み上げてきた思考のテクノロジーの力は侮れない」。著者は、そうも書く。

 二十一世紀の脳科学は、このように古い哲学や思想のなかに、新しい意味を発見していくことにもなることだろう。だから、科学しか分からない科学者には、脳の謎は解けない。

 本書は、たんなる脳科学の説明書ではなく、二十一世紀的思考法のトレーニング本でもある。

(講談社・一、八〇〇円)

 作家 布施英利

「心が脳を感じる時」の書評 by 青野由利 in 毎日新聞

1999年10月3日掲載

(c) 毎日新聞 1999

 心が脳を感じる時  茂木健一郎著 (講談社 1800円)

評者 青野由利

  生物物理学を専門とする著者は、留学先のケンブリッジ郊外で、突如不思議な思いにとらわれた。それは「目の前に広がる牧場の風景は、私の外側に存在すると思っているが、実は、私の頭蓋骨の中にある神経細胞の活動によって生じた現象に過ぎない」という実感だった。

 これを当たり前と感じるか、衝撃的な発見と感じるかは人によって異なるだろう。衝撃を感じた著者は、ここを出発点にして、脳と心の科学に深く分け入っていく。

 「赤の赤らしさ」「痛みの痛さ」などと表現されるクオリア(質感)をキーワードに、心が脳の活動からどのように生じるのか、謎解きを進める。

 クオリアは哲学の課題と考えられ、自然科学の対象とは捕らえられてこなかった。それを科学的な考察の中心に据えているところに、本書のユニークさがある。

 21世紀は脳の世紀と言われる。内容には多少難解な部分があるが、従来の哲学的課題が、自然科学の範疇に入ってきたことが、感じとれるはずだ。

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茂木健一郎 「生きて死ぬ私」 徳間書店 (1998年)書評

「生きて死ぬ私」の書評 by 布施英利 in 東京新聞

1998年8月23日掲載

(c)東京新聞 1998

科学と日常の差埋める試み(見出し)

生きて死ぬ私  茂木健一郎著 (徳間書店・一七〇〇円)

評者 布施英利

脳科学者の本である。しかし、これは脳科学の解説書ではない。著者の日常生活での「実感」と、脳科学の成果とをどのように折り合いをつけるか、その試みの書である。

著者は、「まえがき」の中である重苦しい気分について書く。「どんなに広大な風景の中に自分を置いても、結局私は私の頭蓋骨という狭い空間に閉じ込められた存在に過ぎないのだ。」そう考えると重苦しくなるという。

どんな広大な風景も脳の中に閉じ込められている。脳科学によれば、たしかにその通りだろう。それを「重苦しい」と感じる著者は、脳科学というものに疑問を持つ。学会で行われていた研究と自分が「ずれて」いると思い始める。

そして著者は、脳の「外」に出て行こうとする。それが本書である。

意識の変性状態(オルタード・ステーツ)や、臨死体験という「まっとうな」脳科学では扱わないようなオカルト的なテーマにも取り組む。

しかし、著者の姿勢はオカルト嗜好ではない。むしろ臨死体験者や宗教者の意見には批判的である。たとえば臨死体験をした人が、しばしば「満たされた状態になった」、と語ることについて疑問を呈する宗教の「悟り」についても、強い違和感を表明する。

 「もし、本当に『悟り』を開いてしまって自分は全てのことを知っていると思ってしまったとしたら、もはや自分にとって美知なものに立ち向かう緊張感が欠けてしまうのではないか。」

著者は、こう書く。まさにその通りである。

この本の著者は「さめて」いる。これは生粋の科学者の態度である。科学は、いつまでも未完成だ。その未完成を良しとする。

しかし、著者は、オカルト的なテーマとのかかわりを捨てない。この微妙なスタンスこそが、著者の志の表明であり、いちばん「ほんとうのこと」なのだろう。

「生きて死ぬ私」の書評 by 宝田茂樹 in 産経新聞

1998年8月22日掲載

(c) 産経新聞 1998

評者 宝田茂樹

「ニューロン(神経細胞)が百四十億個集まった、タンパク質や核酸でできた複雑な機械」である人間の脳の働きについて研究を続ける気鋭の脳科学者が、「人間の心は、脳内現象に過ぎない」という命題のもと、「脳内現象である人間の心とは、一体何なのか?」を極めようと、日々思うことをつづったエッセー集である。

題材の多くは、日常だれもが何気なく見つめながらも、その実態を深くは考えないようとしない風景ばかりである。だが、脳科学者は、それらを哲学的次元にまで引き上げて思索し、考察する。といっても、専門家でなければ分からないような難解な学術用語が方程式が次から次へと出てくるわけではない。まったくその逆で、文章はきわめて明快で、潤いがあって整っている。

人間が脳によって自らの存在や外界のありさまを認識するのであれば、人生のすべては脳の中にあるといってもよい。愛も喜怒哀楽も神も宇宙も、すべては脳内のニューロンの発火による「たまもの」ということになる。むろん「心」とて「たまもの」の一つなのだ。とはいえ、人間存在の神秘となぞは、最先端の科学をもってしてもそうやすやすとベールがはがれない。

そんなミステリーを解く鍵になるのは、哲学者が「クオリア」と呼んでいるところの、風が風であることを知らせるような。夕焼けが夕焼けであることを知らせるような「質感」にあるという。その「クオリア」が脳と心を結び付ける。学者にありがちな理屈っぽさは微塵もない。同じ「生きて死ぬ」人間同士の哀歓が行間を漂う。

(徳間書店 一七〇〇円)

文化部 宝田茂樹

あとがきのあと 生きて死ぬ私 in 日本経済新聞

1998年8月2日掲載

(c) 日本経済新聞 1998

「目の前の、この美しい風景も脳内現象に過ぎない」

英国留学中のこと。ケンブリッジ郊外の田園で、気鋭の脳科学者は「頭がい骨に閉じ込められているという、へいそく感」を強烈に味わった。「世界はすなわち脳内現象だ」ということを知識として知っている人は多いが、それを感じられる人は少ない。その希少な一人が、生活体験に根差した問題意識と科学の視点を交差させ、物質である脳に心が宿る不思議を考えた。

「心とは、物質的にはニューロンの発火に過ぎない」というのが議論の前提。著者は大学で生物物理学を専攻し、生物を物理化学的にとらえる訓練を積み、現在、脳型コンピュータ開発に取り組む。

「私を構成する原子や分子はその昔クレオパトラのものだったかもしれず、数十億年後には新星の材料にもなる。」

そんな発想で脳の解明にも挑んだが、すぐに壁にぶつかる。情報処理の仕組みが極めて並列的ということは分かったが、それを統合する上位の仕掛けが皆目分からないのだ。

そこで、哲学者が議論してきた「クオリア」という概念に注目する。これは夕日の赤い色、ほおをなでる風、草のにおいなど生き生きとした質感のことで、脳科学でも近年キーワードになっているらしい。著者は「クオリアを通し私たちは世界を認識し、その豊かさこそが人生の豊かさだ」と位置づけ、少年時代のチョウ採集、知人の死、慶良間諸島への旅など、自分のクオリア体験を内省的につづる。

臨死体験にも真剣に頭を悩ます。それが事実なら脳科学は根底から覆るからだ。「関係者がウソをついていると思いたい」と語るが、脳科学的思考も絶対視はしない。

この五年ほどは自分の夢を記録に残してもいる。「物質と精神の関係を探究する脳研究は、新しい科学研究の糸口になる」と予感している。

(徳間書店・一七〇〇円)

 

 

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