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「風の旅人」 連載 

『都市という衝動』

茂木健一郎

第一回 

 以前、インドネシアのバリ島で、信じられないものを見た。

 夕陽で有名なクタ・ビーチを歩いていた時のことである。特徴的な暗い色の砂浜の上に、精巧なバリ寺院のサンドキャッスルがあった。屋根の装飾や、壁の造形まで、まるでプロの模型屋が作ったように、緻密に美しく仕上がっていた。

 あれは何であったのか、今でも、不思議に思っている。というのも、その、高さ30センチ足らずのサンドキャッスルの横にしゃがみ込んでいたのは、8歳かそこらと思われるような現地の少年2人だったのである。

 その時、私は写真を撮り、その写真をうかつなことに無くしてしまって、いかにも観光客らしくその景観を浪費してしまった。時間が経つほど、あの時見たものが類希なる光景であったように思えてくる。あるいは、プロのサンドキャッスル作りがいて、バリ寺院の模型を残し、それをあの少年たちが見ていただけなのかもしれない。だが、私は、あの少年たち二人が実際にバリ寺院のサンドキャッスルを作ったと思いたいのである。そのように思うことで、立ち上がってくることを味わってみたいのである。

 あの時、私の心を打ったのは、建造物を造ることへの、あるいは、建造物が集合した都市というものを作ることへの、人間の持つ根深い衝動のようなものだったのかもしれない。

 東京のような大都市は、もはや個人がコントロールできるスケールを超えている。店も、サービスも、景観も、もともとは都市という巨大な複合体に一人一人の人間がアリのように張り付いてつくり出していくもののはずなのに、私たちは、あたかも都市というものが所与のもの、最初からこの世界に存在しているものであるかのように感じている。砂浜でサンドキャッスルを作る時には、建造物は自分の手のひらの上に納まり、自分がそのスモールワールドを作り上げていくという喜びがある。一方、都市の中をさまよう私たちは、誰かが作った迷宮の中を歩くはぐれアリでのようである。大手建設会社で設計をする人でもない限り、あるいは、パリのシャンゼリゼ通りをレイアウトしたオスマンのような誇大妄想気味の都市計画者でもない限り、都市を実際に造っていく喜びに、私たち個人が浸る、ということはまずない。私たちは、ただ、誰かが作った都市景観を消費するだけである。

 子供は、都市というものが自分の手のひらのスケールになる時に、めまいがするほどの興奮を感じるものらしい。展望台などで、その周辺のジオラマが展示されているのを発見した時の子供の熱中ぶりには、何か根源的な情念のようなものを感じさせられる。展望台の外に現実の都市が広がっているにもかかわらず、ガラスケースの中の小さな模型の方をいつまでも眺めている子供がいる。都市の模型を前にした子供は、まるで東宝の怪獣映画の中のゴジラのようだ。ゴジラが持つ都市を俯瞰した視点に興奮し、嫉妬する私たちの心の中には、掌の中におさまるようなスケール感の下に都市というものを一度俯瞰してみたいという切ない思いがあるように思う。

 都市の模型を前にした都会の子供の興奮は、バリ島の砂浜で、自分の足下の自然を変形させてバリ寺院を作ることに熱中していた子供たちの興奮とつながっている。都市というものの圧倒的なスケールに抗して、能動的な態度で生きるための一つの回路は、砂浜で楼閣を作った、あるいは画用紙に未来都市の想像図を描いた子供の頃の情念にもう一度接続してみることなのではないかと私は考える。もちろん、個人が都市の骨格自体をコントロールできるはずがないし、すべきでもない。都市というものは、自ら作るものではなく、他者によって与えられるものであるという圧倒的な無力感から出発しつつも、柔らかな形で、自らのできる範囲で、都市の景観、肌合い、空気というものを変えていく。そのような工夫の回路を見いだしていくことは、私たちが子供の頃に持っていた情念の自然な成熟なのではないかと思う。

 私が、ああ、個人が、あるいは個人の集まりが都市の景観を変えているなと感じたのは、たとえば、1970年代末に原宿周辺に出没した「竹の子」族という現象ではなかったかと思う。奇抜な服装に身を包み、路上で音楽を流し、踊り、それをギャラリーが見るという光景は、「歩行者天国」というパブリックな装置を必要条件とはしていたものの、個人がその身体のスケールで生み出したそれまでにない全く新しい東京体験であり、新鮮な都市の景観であった。

 あの時、竹の子族として踊っていた若者たちが、いったい何を考え、何を感じていたのかは、当時内気で神経過敏な高校生だった私には分からなかった。今となっての後知恵ではあるが、彼らのやっていたことのどこかに、バリ島の砂浜でサンドキャッスルを作っていた少年たちに通じるものがあるような気がしてならない。彼等は、あのように踊ることで、都市という圧倒的なスケールの暴力的な存在を自分達の掌の中に取り戻し、その身体の動きの中に都市の景観をこね回していたのではないかと思えるのである。竹の子族たちを冷ややかな目で見ていた良識ある大人たちが、都市への能動的な関わりということについて諦めていた人たちであるのに対して、あの踊り手たちは、実は諦めてはいない人たちだったのではないか、少なくとも、彼等のうちの何人かは、自分がまさに今都市の景観を作っていると実感できる瞬間を持っていたのではないかと思えるのである。

 せっかく作ったサンドキャッスルも、やがて潮が満ち、波が打ち寄せて砂を洗い流してしまえば消えてしまう。原宿の歩行者天国も今は過去のものとなり、あれほど熱狂的なお祭り感をかもし出していた竹の子族の踊り手たちと、それを見つめるギャラリーたちもそれぞれの人生の中に散っていった。だが、私の心の中にもう20年近く前のある夕方に目撃したビーチの光景が残っているように、あの頃の彼等の運動の軌跡は徐々に薄れてはいるが、消えることのない痕跡として原宿に、そして東京のあちらこちらに残っている。

 「都市は自由にする」というヨーロッパ中世のことわざを引くまでもなく、私たち人間は、都市というものに強く惹き付けられる気持ちを持っている。その一方で、東京の町並みを歩く人の胸の底には、ある種の絶望、諦観が基調低音としてあるのではないかと思う。自然の生命の生成のプロセスの豊穣が鉄やコンクリートで排除され、塗り固められてしまっていることに対する絶望。都市というもののスケールが、個人のコントロールできないものになっていることに対する絶望。

 都市という制度が、これからも恐らくは存在し続けるものである以上、私たちはこのような無意識に押し込められた絶望を軽やかに超えていく回路を見いだして行く必要がある。竹の子族とその末裔たちに、バリ島のビーチでサンドキャッスルを作る子供たちと通じるものを見いだすことで、東京という空間を、少し柔らかに見ることができる。ターミナル駅でギターをかき鳴らす若者も、同僚と千鳥足で夜の盛り場を歩く会社員たちも、ソフトな意味での都市の景観を作っている。そのことをある程度自覚的にやったのが竹の子族たちだったとすれば、彼らのディスプレーの中に、都市というコミュニケーションの場の可能性の中心があったということになる。