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「風の旅人」 連載 

『都市という衝動』

茂木健一郎

第二回

 昨秋、新築のマンションに引っ越した。

 部屋からは、すぐ近くの森の木々のシルエットが見える。夕方にはカラスが群れ、コウモリがさっと横切る。東京二十三区内でも、まだ随分自然が残っている。都市は、人間だけの専有物ではないのだ。

 ベランダに置く蜜柑の鉢を買ってきたら、アゲハチョウの幼虫がついていた。毎日楽しみに眺めていると、やがて、鳥の糞のような形をして若齢幼虫が緑の終齢幼虫になった。緑になってからは、ぐんぐん見違えるように大きくなり、指でそっと触れると、オレンジ色の突起を二つ、にゅつと出した。

 ある週末の朝、その幼虫が鉢植えから姿を消していた。鉢を動かして裏を見たり、周囲の壁を丹念に見たりしたが、どこにもいない。鉢は、見通しの良いベランダの、一番隅に置いてある。鳥に食べられてしまったのか。空から見れば、灰色の中の緑の点は、ごちそうがたっぷりのオアシスに見えるだろう。そんなことをくよくよ考えた。心に小さな穴が空いてすうすうと音がするような気がした。

 その日の夕方、あたりが暗くなり始めた頃、鉢のある場所から10メートルは離れている壁に、幼虫がじっと身体を固定しているのを見つけた。まさか、それほど長い距離を幼虫が移動するとは思わなかった。インターネットで調べると、アゲハチョウの幼虫はサナギになる前に移動する習性があるという記述がある。それにしても、途中にいくらでもサナギになりやすい場所はあるだろうに、なぜそこまで移動したのか、日当たりや風の流れや雨露といった条件をいろいろ考えてみたが、本当のところはどうしても判らない。

 夜になり、ワインを飲みながら、幼虫の長距離移動の謎についてあれこれ考えた。鉢の木にそのままいれば苦労しなくて良いのに、何が彼らを突き動かしたのだろうと考えた。考えているうちに、生物にとって、移動するという行為が持つ切実さということに思いが至った。

 私たち都市に住む人間も、毎日移動する。駅まで歩き、電車に乗り、地下鉄に乗り、都市という巨大な迷路をくぐり抜け、違った風景の中へと再び浮上する。インターネットが発達すれば、家で仕事ができる、SOHOに移行するという議論があったが、結局、人々は都市を移動し続けている。ベランダの幼虫と同じように、コンクリートの上を移動している。

 巨大な都市の中を移動するというのは、人間のほとんど押さえがたい衝動であるようにも思われる。開高健の小説の中に、セーヌ河畔の街に生まれ、そこで育ちながら、今までセーヌ川を見たことがないという老人の話が出てくる。そのような老人が神話的な存在であるように思われるのは、都市の中を移動するということが、私たち人間にとってあまりにも自然な衝動だからだろう。

 移動することによって、確かに、新しい人との出会いがあり、新しい事物との出会いがある。様々な質感(クオリア)との出会いがある。しかし、都市を移動することは、新しい人、事物、クオリアとの出会いによってのみ正当化されるわけではない。都市を移動すること自体の喜び、電車に乗り、流れる景色を眺め、暗いトンネルに入り、高架を疾走し、通りを歩く、そのような、都市の中の移動に伴う「絶対移動感」のようなものが、人々を魅惑し、かき立てる。

 そして、人間は、夜になると自分の家に帰り、布団の中に丸まって一夜の眠りをむさぼる。巨大な都市の迷路を移動し、最後に同じ場所に帰っていく。時には、違う場所で、違う人々と一緒に眠りにつくことがあるとしても、ほとんどの日々は、同じ場所で、同じ人々と眠りにつく。東京やロンドン、パリといった都会で、人々は、その複雑な多様体の編み目の中をはい回り、探り回り、そしてやがていつもの場所にさっと帰って行く。太陽が都市の上に昇り、沈み、空が青み、暗闇が包む。そのような光の満ち引きの中に、人々が海岸を行く蟹の大群のようにざわざわと集まり、やがてざわざわと散って行く。

 小津安二郎の「麦秋」の中に、原節子演ずる娘が階段を上り下りするシーンがある。帰ってくると、ただいまと言って台所に行き、きっと紅茶でも入れるのであろう、やかんを持って二階に上がって行く。朝になると、下りてきておはようと言い、ご飯を食べる。そのような、何気ない日常の動作の気の遠くなるような連続、昨日と同じ今日の繰り返しの中に、何時の間にか人は取り返しのつかない変化を迎える。まだまだ無邪気だった娘が、小さなきっかけから男やもめと結婚することを決意する。そのことによって家族がばらばらになる。小津は、人々の何気ない日常の繰り返しの積み重ねとして起こる大きな変化を描いた。それと同じことが、都市を移動する人々の何気ない日常の繰り返しの結果として起こる。人々の人生が変化し、都市の景観が変化する。

 幼虫がベランダを大移動してサナギになった数日後のことである。ちょうど、幼虫が通ったと思われるあたりのコンクリート・タイルの隙間から、緑の草が一つ芽を出していた。むろん、私が見ていない時にそのあたりを幼虫がもぞもぞと這っていったであろうということと、そこに緑の草が芽を出したということの間に直接の関係があるわけではない。しかし、私には、その芽が出たことと、幼虫がベランダを移動して行ったということが、どこか深いところでつながっているように思えた。初夏の気配が日々強まる季節、私を驚かせた幼虫の大移動と、タイルの隙間を縫っての小さな草の芽吹きは、新築のマンションという人工物が都会という空間の中に受け入れられ、定着し、息づき始めた一つの証拠のように思われた。

 幼虫が、美しい蝶になる準備段階としてサナギになるための場所を求めてさまよったように、ベランダの上で息づき始めた植物の種も、芽吹くための場所を求め、おそらくは風に運ばれ、あるいは鳥に運ばれて私の部屋のベランダまで移動して来たのだろう。生物は、様々な理由で移動する。種を根付かせるために、仲間に出会うために、食物を得るために、時には困難に遭遇し、時には命の危険にさらされながらも移動する。人間も、都市の中を移動する。未知との出会いを求めて、旧知の関係を暖めるために、何か得体の知れないものに突き動かされて、何かから逃げるために移動する。そのような都市の中の人の拡散と集合、満ち引き、流動の繰り返しの中に、人々は何時の間にか昔がどうであったか思い出せないほど変化し、都市も、昔の景観がどうであったか思い出せないほど変化する。移動することが、生命にとっての根源的な衝動の一つであるとすれば、その衝動は、都市という人工的な空間の中に受け継がれている。

 毎日毎日の人の満ち引きの中に、都市という景観は気づかないほど少しづつ変化し、やがて過去とは見違える未来が出現する。そのようにして、私たちは生きてきたし、都市も生きてきた。移動することに向けられた切ない衝動が、私たちの生命を支え、都市という人工空間の生命を支えている。