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言語の物理的基盤

ー表象の精密科学へ向けてー

大修館書店 

「言語」Vol.28 No.12 (1999年12月) p.49-57

(c)茂木健一郎 1999 (c)大修館書店 1999

1、二つの文化

 

 1959年、イギリスの物理学者、作家の、C・P・スノウは、その講演「二つの文化と科学革命」の中で、現代社会が、科学的文化と人文的文化という二つの文化に分裂し、二つの文化の間には深い溝があると指摘した。当時大きな反響を呼んだスノウの議論は、もちろん、当時の英国社会の文化風土というコンテクストに影響されていた。しかし、スノウの指摘する、「二つの文化」の対立は、近代の文化状況の世界的に普遍的な一面を捉えており、今日でも、その対立は、微妙に形を変えながら存続している。

 スノウの指摘する「二つの文化」の対立は、その多くが、それぞれの文化が依って立つ記述のフォーマットの違いに起因している。すなわち、科学的文化が依拠している数学的言語と、人文的文化が依拠している自然言語の間の性質の違いである。

 物理学を規範とする自然科学においては、数学的言語の、自然言語に対する優越性に関する根強い信仰がある。しばしば、物理学者は、自然言語による自然の記述は、曖昧であると言う。極端な論者は、自然言語に基づく考察をしても、それが数学的に厳密な法則に昇華されない限り、意味がないとする。一方、人文的立場からは、物理を規範とする自然科学ではとらえられていない、広大な領域があることが指摘される。特に、言語活動や、その他の表象を伴うような人間の社会、文化、芸術を記述しようとする時、自然科学は無力であると揶揄される。

 もちろん、自然言語と、数学的言語が、厳密に分けられるかどうかという点については、大きな疑念がある。特に、意味論の深淵に踏み込んだ時、言語を構成する音や文字などの表象と、それに附随する意味(それがどのようなメカニズムによって支えられているかは今は問わない)の間の関係は、数学的言語においても、自然言語と同じように、深い謎を孕んでいる。

 意味論に関する留保を抜きにすれば、私たち人間の知的活動が、数学的言語を基盤とする科学的文化と、自然言語を基盤とする人文的文化に分裂しているという現状は、現代日本においても、さらに広く世界を見ても、スノウが講演した時とさほど状況は変わっていないということができるだろう。

 近年、このような「二つの文化」の間の溝を埋められるかもしれない、そんな可能性が見えてきている。急速に発達しつつある脳科学が開きつつある新しい知の世界である。私たちの脳は、非常にユニークな位置にある。極めて複雑ではあるが、物質からなるシステムに過ぎない脳は、従来の意味での自然科学の分析の対象となる。一方、私たちの人文的文化を生み出すのが、脳であることは言うまでもない。脳は、いわば、科学的文化と、人文的文化が交差する地点にある。私たちの脳の中の物理的過程と、私たちの心の中の、言語を含む表象の関係を考えることは、私たちの心とは何か、意識とは何かという究極の哲学的問いに対する答えを求めることであると同時に、未だに存在する「二つの文化」の間の溝をうめる努力でもある。

 本稿では、脳科学の現場で現在進行している知の革命への序章について報告しつつ、数学的言語、自然言語の双方を含む我々の「言語」について、これからの探究の方向性について考えていきたい。

 

2、自然言語は、数学的言語に還元されるのか?

 

 脳科学を含む自然科学の根底には、「物理主義」というイデオロギーがある。すなわち、自然言語を生み出している、私たちの脳を含めて、全ての物質系は、究極的には物理法則によって記述されるという考え方である。

 17世紀から18世紀にかけてのニュートン力学に始まり、今世紀の相対性理論、そして量子力学という二つの革命を経て、物理学は、ミクロな素粒子から宇宙の構造まで、森羅万象を記述する自然法則の基礎としてのの地位を確立した。情報科学、複雑系の科学などの新しい視点の登場を経た今日でも、イデオロギーとしての「物理主義」は否定されてはいない。むしろ、コンピュータ・シミュレーションの発達により、構成要素の間の相互作用に基づいてシステムの複雑な振る舞いがあらわれるという意味での物理主義は、ますます広い対象においてその実効性が示されつつあると言えるだろう。

 自然言語を生み出している、私たちの脳も、また、物理法則に従う存在である。このことを認めた時、自然言語の本質を理解する上で、また、科学的文化と人文的文化の関係を考える上で、重要な論点が浮かび上がってくる。すなわち、果たして、自然言語は、物理学のメルクマールである、数学的言語に還元されるのかということである。

 現在、脳科学、コンピュータ科学、さらには、自然言語処理の研究に携わる研究者の多くは、暗示的に、時には明示的に、自然言語は数学的言語に究極的には還元されると仮定している。特に、問題を、自然言語処理能力を機能的に再現する(すなわち、「チューリング・テスト」に合格する)という視点に限れば、自然言語が、数学的言語に還元されるという結論は、ほとんど避けがたいものであるように思われる。なぜならば、どのような複雑なシステムであれ、法則性をもって時間発展する以上、それが数学的言語によって記述されるということが、まさに自然科学が示してきたことだからである。

 もちろん、自然言語の意味を考えた時、特に、ヴィットゲンシュタイン、クリプキが問題にしたような、意味論の深淵について真摯に考えた時、自然言語が、数学的言語に還元されるという立場は、あまりにもナイーヴなものであるように感じられる。

 意味論については、後に脳科学に関連して再び触れることにして、私がここ検討したいのは、次のような一連の可能性群である。すなわち、まず第一に、自然言語は、数学的言語に還元されないかもしれないという可能性である。さらには、数学的言語も、意味論を考える時には、それが依って立つ基盤は、自然言語と共通であり、また、世界は、従来考えられてきたように、いわゆる「数学的言語」に従うのではなく、自然言語を含むより広い基盤の上に立つ、ある種の「言語的世界」に従うのかもしれないという可能性である。

 私が、このような可能性を真剣に考慮しなければならないと考えるのは、

脳科学の現場で、人類は、今、従来の物理主義のパラダイムではどうしても解明できないように思われる難問に直面しつつあるからである。私は、脳科学が、この難問を真に乗り越えるためには、物理主義のパラダイム、特に、世界の時間発展が、数学的言語によって記述されるというパラダイムを、何らかの形で乗り越えなければならないと考える。

 脳科学が直面している難問とは、物質である脳に、いかにして私たちの心が宿るかという、いわゆる心脳問題である。

 

3、クオリア、志向性、<私>

 

 脳を、物質として研究している限り、方法論上の問題に遭遇することはない。例えば、記憶は、ニューロンの間のシナプスの伝達効率の変化として表現される。この変化に関与する、膜電位変化、神経伝達物質、受容体、細胞内の生化学ネットワーク、さらには遺伝子制御のメカニズムがどれほど複雑でも、それらは、究極的には物理的法則に従う複雑な物質系の性質として、何の方法論上の問題も引き起こさない。 

 脳科学が、深刻な方法論上の問題に直面するのは、脳の中の物質的過程に随伴する奇妙な現象、すなわち、私たちの心の属性を説明しようとする時である。従来、自然科学は、私たちの心のような現象が附随しない(と私たちが思い込んでいる)物質系を扱ってきた。しかし、対象が脳になったとたん、私たちは、脳が私たちの心を生み出す臓器であるという事実に直面する。心と脳の関係、すなわち、心脳問題が脳科学にとって深刻な問題になってくるのである。

 今日、心脳問題には、大きく3つの難問題(hard problem、Chalmers 1997)が存在していると考えられている。すなわち、クオリア(qualia)、志向性(intentionality)、そして主観性(subjectivity、「私」)の問題である。

 クオリアとは、私たちの感覚の持つ、鮮明な性質のことである。赤い色、サックスの音色、砂糖の甘さ、氷の冷たさ、林檎の香りなど、私たちの感覚は、様々なクオリアからできている。コンピュータの中の情報表現は、一つ一つは個性を持たないビットから構成されているのに対して、私たちの心の中のクオリアは、一つ一つが、鮮烈な個性をもっている。もちろん、クオリアを生み出しているもともとの物理的過程は、コンピュータの中のビットと同じように、個性のないニューロンの活動膜電位に他ならない。ニューロンの活動という物理的現象から、どのようにして、私たちの心の中のユニークなクオリアが生まれてくるのか、この問題は、心脳問題の核心の一つである(茂木1997)。

 次に、志向性は、ブレンターノやフッサールによって問題にされてきた、心のユニークな属性である。志向性とは、「〜に向けられている」という、私たちの心の基本的な性質である。例えば、私が赤い色を見ている時、その視覚的経験の性質は、赤のクオリアと、その赤のクオリアに向けられている私たちの心のあり方に分解することができる。視覚を支える神経機構に関する最近の知見によれば、クオリアは後頭葉にある低次視覚野から、側頭葉の高次視覚野へのニューロンの活動のクラスターに随伴すると考えられる。一方、志向性は、前頭前野や高次視覚野から低次視覚野へ向かうニューロンの活動のクラスターに随伴すると考えられる。そして、私たちが赤い色を見るためには、上のようにして表現されたクオリアと志向性の間に、マッチングが成立する必要があると考えられる(茂木1999)。

 もちろん、ある程度、クオリアや志向性を生み出す神経メカニズムが分ってきたと言っても、クオリアや志向性の問題が、依然として極めて困難な問題であることには変わりがない。そもそも、物質に過ぎない脳に、いかにして、クオリアや志向性といった私たちの心的表象が随伴するのか、この問題の根本的解決の糸口は、まだ見えていない。

 主観性(「私」)の問題は、ある意味では心脳問題でもっとも難しい問題であると言える。特に、いかにして、他のどの「私」でもない、まさにこの自分としての<私>が成立するのかという問題(永井1998)は、経験科学としての脳科学をいくら進めていっても、何らかの方法論上のブレイクスルーがない限り、恐らくは永遠に解けない問題である。主観性の起源を解明することは、ある意味では人類にとって究極の問いであるということができるだろう。

 もちろん、クオリアを感じるのも、志向性を持つのも、「私」の心である。従って、クオリア、志向性、主観性という心脳問題の三大難問は、お互いに関連しあっている。

 そして、これらの心脳j問題の難問の背後に、言語の問題が見え隠れしているのである。

 

4、言語の脳内メカニズム

 

 周知の通り、脳の中には、二つの代表的な言語関係領野がある。

 言葉の意味を司っている脳の領野は、ウェルニッケ野(Wernicke's

area)である。ウェルニッケ野が損傷を受けると、言葉の発話自体には問

題がなく、言葉が流暢に発せられるが、その内容が意味のないものに

なる。ウェルニッケ野があるのは、上側頭回(Superior temporal gyrus)

と呼ばれる脳の領域で、ほとんど例外なく左脳半球に見い出される。上側頭回には、ウェルニッケ野の他に、聴覚野がある。さらに、少し下側の側頭野には、視覚関連の連合野がある。

 一方、言葉の発話を司っている領野は、前頭野の、運動野近傍にあるブローカ野(Broca's area)である。ブローカ野が損傷すると、言葉の意味は理解できても、発話がうまくできなくなる。

 興味深いのは、言葉の意味を処理していると考えられるウェルニッケ野を含む側頭葉は、私たちの心の表象の要素である志向性とクオリアが出会う場所であると考えられることである。

 薔薇の花を見るという視覚経験を例にとってみよう。この時、私たちの心の中に表象されるものは、大きく分けて、薔薇の花を構成する色やテクスチャといったクオリアと、「ああ、これは薔薇だ」という認知に分類できる。前述したように、クオリアは、低次視覚野から側頭野にある高次視覚野にかけて形成されるニューロンのクラスターによって生み出される。一方、「ああ、これは薔薇だ」という認知は、下側頭野の形態視の中枢において志向性として成立し、低次視覚野へ向かうニューロンの逆向きの投射によって、薔薇を構成するクオリアに張り付けられると考えられる。すなわち、私たちの視覚的に薔薇を認知する時には、薔薇のクオリアに、「ああ、これは薔薇だ」という志向性が張り付けられているということになるのである。

 上のような認知機構における志向性の役割は、私たちが言語において「意味」と読んでいるものの役割に酷似している。実際、文字を構成する視覚的クオリア、あるいは単語を構成する音声のクオリアに対して、「ああ、これは、こういう(意味の)言葉だ」と認識する張り付けられる志向性は、「ああ、これは薔薇だ」という志向性とほとんど同じ感覚を伴って私たちの心に表象される。

 最近になって、上のような意味での志向性は、私たちが、感覚情報や運動のコントロールを、「私」という主体性の枠組の中でコーディネイトする際のコンテクストを与えるより高度の認知機構に、切れ目なくつながっていることを示唆する脳科学の知見が得られつつある。

 例えば、運動前野には、自分がある行為をしても、他人がその行為をするのを見ていても、同じように活動する、「ミラー・ニューロン」と呼ばれるニューロンが見い出されている(Gallese & Goldman (1998))。ミラー・ニューロンが見い出されるのと同じ領域には、ある物体を見た時に、その物体を使って何ができるかという行為の可能性(アフォーダンス)を表現していると思われるニューロンが見い出されている。これらのニューロンの活動は、私たちの心の中で、クオリアのような鮮明な質感を伴わない、志向性として表象される。また、これらのニューロンの活動においては、感覚の情報と運動の情報が、一つのコンテクストの中に融合している。

 どうやら、私たちは、側頭野から前頭前野にかけての領野に自律的なコンテクストや意味、ダイナミクスを持つ志向性の中枢を持っているらしい。そして、このようにして生み出された志向性が感覚野によって生み出されるクオリアと出会うことによって、外界を意味のあるものとして認識しているらしい。また、志向性が、様々な運動に結びつくことによって、外界に豊かなコンテクストをもって働きかけているらしい。

 このような見地は、「言語」を、感覚や運動を環境と相互作用しつつ有機的にコーディネイトする、私たち人間のより一般的な認知機構と結び付ける。

 志向性とクオリア、そして運動のシームレスな結合は、まさに、文字情報や音声を構成するクオリアに「意味」という志向性を結び付け、さらには発話という運動へと結び付ける、私たちが「言語」と呼ぶ活動の本質に他ならない。すなわち、言葉を表現するものは、言葉を構成する視覚的ないしは聴覚的(あるいは他の感覚モダリティの)クオリアであり、言葉が意味するものは、言葉を構成するクオリアに張り付けられる志向性であると考えられるのである。

 このように、様々なクオリアと志向性、さらには運動との結びつきが、「私」という主観性の枠組の下に、ダイナミックに起こる、それこそが言語活動であるというのが、現代の脳科学から見た言語観となるのである。

 

5、表象の精密科学へ向けて

 

 クオリアと志向性、さらには運動の間のダイナミックな結合がすなわち言語であるという視点から見ると、従来私たちが言語の典型的なものとみなしてきた、書き言葉、話し言葉以外にも、私たちが環境や他の人間と相互作用する時の様々な形式は、一般に、言語であるとみなすことができる。

 例えば、手話、点字などは、当然、本来の意味での言語であるとみなされる。さらには、いわゆるボディ・ランゲージのみならず、私たちが環境、ないしは他人との相互作用において、様々なニュアンス、意味合い、コンテクストを読み取り、それによって新たな行為をする、あるいは行為が影響を受ける現場においては、言語が成立していると考えられる。すなわち、極論すれば、私たちが主体的に行なう感覚と運動の連合の全てが、前頭前野や側頭野を中心とする志向性のダイナミックスを介在しての言語であるとみなすことができるのである。

 このような視点から見ると、従来、科学的文化、及び人文的文化という「二つの文化」をそれぞれ特徴付けてきた、数学的言語と自然言語の間には、実は本質的な違いはないと考えられる。とりわけ、それぞれの言語を表現している視覚的ないしは聴覚的クオリアと、それらの表現の意味を与える志向性の結びつきの形式においては、数学的言語と自然言語の間に、本質的な差異はない。クオリア、志向性、そしてこれらの心的表象をささえる脳の中の神経機構を考える時、数学的言語と自然言語の差異は解体され、その背後から、より一般的で深遠な、「言語的世界」が立ち現われてくる。

 従来、我々の脳を含む自然を客観的に記述する際のフォーマリズムは、数学的言語が殆ど独占してきた。確かに、数学的言語は、自然の振る舞いを予測する上で、素晴らしく有効であった。しかし、このような数学的言語の作用の背景についてあまりにもナイーヴであることにより、私たちは、幾つかの難問を未解決ののまま残してきた。一つは、数学的言語によって記述される物質である脳に、いかにしてクオリアや志向性といった表象を持つ<私>の心が宿るかという心脳問題であり、もう一つは、言葉の意味とは何かという意味論の深淵である。そして、これらの問題は、恐らく深い関連性をもっている。

 今後、必要となるのは、「表象の精密科学」とでも言うべきアプローチであると私は考える。ここで、「表象の精密科学」とは、従来、数学的言語だけに求めてきた精密さ(exactness)を、自然言語、さらにはクオリアや志向性といった心的表象にも見い出し、物質、言語、心的表象を、一つのシームレスな構造、世界観の下につなぐことである。そして、世界の発展を記述する言語としての数学的言語の役割を見直し、その背後にあるより深い言語構造を見い出すことである。その時、世界が従っている秩序を本当の意味で与える、普遍的な「言語的世界」が視界に入ってくるだろうと私は考える。

 もちろん、「表象の精密科学」の具体的な道筋は、まだ誰にも見えていない。ただ一つ確かなことは、数学的言語万能の従来の科学的文化も、あるいは人間の主観を安易に前提とする従来の人文的文化も、世界の真実の一端しか捉えていないということである。スノウの指摘した二つの文化の対立という社会学的な問題は、物質、言語、心的表象を巡る私たちの世界観が分裂しているという、より深刻な問題の現われなのである。

 

参考文献

 

Chalmers, D. (1997) The Conscious Mind. Oxford University Press.

Gallese V. & Goldman A. (1998) Mirror neurons and the simulation theory of mind-reading. Trends in Cognitive Sciences 2, 493-500

C・P・スノウ著、松井巻之助訳 「二つの文化と科学革命」 みすず書房1967年 

永井均 「<私>の存在の比類なさ」勁草書房 1998年

茂木健一郎 「脳とクオリア」 日経サイエンス社 1999年

茂木健一郎 「心が脳を感じる時」 講談社 1999年