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読むという純粋体験 ー普遍と個別の汽水域ー

藤原書店 『環』所収

茂木健一郎

 

一、文字に貼り付けられる仮想の世界

 

 私たちは、今日、「読む」という行為を、主に文字というメディアを通して行っている。

 「主に文字というメディア」とわざわざ断ったのは、「読む」という行為に伴って進行している脳内のプロセス、すなわち、外界から入力したデータ(感覚的表象)に、ある解釈(志向的表象)をマッチングするプロセスは、文字を前にしている時にだけ立ち上がっているわけではないからである。私たちは、絵画を「読む」ことも、風景を「読む」ことも、人の表情を「読む」こともある。いずれの場合も、感覚的表象と志向的表象の間にダイナミックなマッチングが取られている。

 たとえば、ある人の顔を構成するのは、皮膚の色、髪の毛の色、目の輝き、口元の陰影といった感覚的表象である。このような感覚的表象に対して、私たちの脳は、「今この人は怒っている」とか、「今この人は悲しい思いをしている」というような解釈を貼り付ける。解釈は、必ずしも意識されるわけではないが、意識される時には、志向的表象として私たちの心の中で感じられている。感覚的、および志向的表象は、そのユニークな質感に着目すれば、「クオリア」と呼ばれることになる。今日の脳科学、認知科学、哲学などの領域においては、およそ意識の中で区別され得る二つの状態の差は、クオリアの差であるとされている。

 色や形としてとらえられる感覚的表象は、幻覚などの特殊な場合を除いて、「今、ここにあるもの」である。それに対して、感覚的表象に貼り付けられる解釈としての志向的表象は、「今、ここにはないもの」、仮想である。対象が本であれ、絵画であれ、風景であれ、それを「読む」ということは、すなわち、「今、ここにあるもの」を通して、「今、ここにはないもの」を仮想するという行為である。

 このような意味での感覚的表象と志向的表象のマッチングは、たとえば、小林秀雄がベルグソンの哲学を論じた『感想』の冒頭で、蛍を見てそれを亡くなったお母さんだと思ったという有名な場面にも現れている。目の前に飛んでいる一つの光は、「今、ここにあるもの」、感覚的表象である。それを「蛍」だと解釈するのは、志向的表象(「蛍」という仮想)を貼り付けるプロセスである。もとを正せば、「今、ここにあるもの」は暗闇の中を点滅する光だけであり、「蛍」という表象は、人間の脳がつくり出した仮想にすぎない。仮想であるという意味で、蛍も、「お母さん」も変わらない。従って、点滅する光を「蛍」だと思うのも、「お母さん」だと思うのも、本来は等価なことである。暗闇の中を点滅する光を「読む」という行為には、このように、根源的な仮想の自由が内在している。

 本を読む時という行為は、文字という紙の上のパターン(今、ここにあるもの)を通して、はるか昔の時代の歴史の物語、世界の真理を求めての探求、人生の回想録、身を焦がす恋の思い、架空の世界での物語など、「今、ここにないもの」の仮想を立ち上がらせるプロセスである。このような、仮想することの自由こそが、「読む」という行為が人々を魅了する理由である。

 とりわけ、映画、音楽、テレビゲームなど様々なメディアが発達した現在でも、文字を通して世界を構築する本というメディアが人々を魅惑し続けているのは、仮想することの自由度が本においてもっとも大きいからに他ならない。

 

二、活字の喚起する純粋な文学体験

 

 本を読むという体験の中でも、文学を読むという体験は特別な位置を占めている。

 文学には、私たちが人生の中で体験する様々な表象(クオリア)の多様性が、そっくりそのまま反映されている。普遍的な理論、抽象的な論理を求める人間の知的探求には、独自の価値と倫理性があるが、その普遍化、抽象化の過程で人生の表象体験のうちのかなりの部分が失われてしまうように見えることも事実である。文学は、文字を通して立ち上げる仮想の世界の豊穣において、本を読むという行為の喜びの中でも格別のものを提供する。

 ところで、文学を読むという行為について、私は、しばらく前から、ある一つのことが気になっていた。すなわち、なぜ、自筆原稿を読むよりも、活字となったものを読む方が、文学的体験として純粋なものが立ち上がるように思われるのかという問題である。

 きっかけになったのは、夏目漱石の自筆原稿を見たことだった。以前に奈良の国立博物館に行った時に、龍門文庫と呼ばれる古典籍、自筆本のコレクションの展覧会をやっていた。その中に、漱石の「それから」の自筆原稿の展示があったのである。

 「それから」は、ロマンティックな狂気の気配に満ちた作品である。高等遊民としてぶらぶらしていた代助は、背徳の愛を貫くことを決意し、そのために父親からの金銭的援助が打ち切られる見込みになる。代助は、「焦る焦る」とつぶやきながら路面電車に乗る。まず、赤い郵便筒が飛び込んでくる。それから、赤い蝙蝠傘が、真赤な風船玉が見えてくる。やがて、目に飛び込んでくるものすべてが真赤になり、代助はそのまま自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心する。

 最初は実際に赤いものが見えているのだが、次第に、代助の見る赤は幻覚の赤になる。第五節にイタリアの詩人ダヌンチオのエピソードを引いて、赤を興奮色だと断ずる箇所がある。この伏線を受けて、上の末尾があるわけである。

 自筆原稿を見ると、興味深いことがわかる。「赤のカタストロフ」に至るきっかけとなる風船玉や、郵便を載せた車が「赤い」という記述は、後から挿入されているのである。おそらく、漱石は、末尾を書いている最中に、「赤のカタストロフ」という趣向を思いついたのである。あるいは、趣向という言葉が軽すぎるのならば、代助の自己発見と社会的破局の物語を終わらせる上で、世界が赤に染まるという幻覚が適切であることを芸術家の直観で見抜いたのである。

 「漱石山房」の特製原稿用紙に書かれた自筆原稿には、そのような創作過程の秘密だけでなく、漱石その人の筆跡の持つ何とも言えない風合いのようなものが現れている。漱石の文学の愛好者ならば、誰でもこの貴重な資料に深い関心を抱かざるを得ないだろう。

 それにも関わらず、「それから」という文学作品の体験としては、自筆原稿を「読む」よりも、活字になった文章を「読む」行為の方が純粋であるように思われる。代助という架空の人物の内面の物語という仮想的表象が、活字となった文章で読む方が、漱石その人の風合いが伝わってくる自筆原稿を読むよりも、むしろより鮮明に心の中に立ち上がるように感じられる。

 一体、これはどうしたことなのだろう。文学とは、その著者の個性の発露であるならば、活字よりも自筆原稿により深い味わいがあるべきではないのか。奈良国立博物館で実際に見た自筆原稿のことを思い出し、手許にある龍門文庫の特別陳列のパンフレットを眺め、岩波文庫の「それから」の文章を読みながら、私は折りにふれてこの問題を考えていた。

 手書きの文字に比べれば、活字の文字は整っていて、ノイズが少ない。読みやすい。情報を受け止めることが容易である。そのような単純な理由であるようにも思われる。しかし、それだけではないように思われるのは、手書きの原稿に現れている漱石の個性が、有り難いことのように思われる一方で、どうやら文学体験という意味では邪魔になるらしいという点が気になるからである。

 なぜ、自分の尊敬する文学者の手書きの文字に現れた個性が、その文学者がつくり出した文学作品の鑑賞の邪魔になるのか? なぜ、手書きの原稿よりも、活字になった文章の方が、より純粋な文学体験を喚起するのか? この疑問を考え詰めると、結局は私たち人間にとって文字とは、そして言葉とはどのような存在かという問題に行き着くように思われる。そして、私たちが、「読む」という行為を、今日圧倒的多くの場合に活字を通して行っていることの意味についても、新たな角度からの洞察が可能になるように思われるのである。

 

三、エピソードの集積から立ち上がる言葉の意味

 

 文学作品に限らず、文字として定着されたものが通常の意味で「読まれる」ためには、当然のことだが、それが言葉として認識される必要がある。未解読の古代文字を前にした場合にも、私たちの心の中には何らかの志向的表象が立ち上がるが、それは、慣れ親しんだ母国語によって表記された文字列を前にした時に立ち上がる志向的表象=意味の豊穣さには比較しようもない。

 そもそも、言葉の意味は、どのようにして立ち上がってくるものなのだろうか? 

 近代的な辞書が整備されて以来、私たちは、言葉の意味はどこかに定義されているものだという考え方に慣れ親しんでいる。実際、日常的に使われている言葉の意味ならば、たいがいのものは刊行されている辞書によってチェックすることができるし、辞書を通して新しい言葉の意味を学ぶことも多い。

 しかし、辞書というものが整備される以前の、人類の言語の発達の長い歴史においては、言葉の意味は明示的に定義されることなしに使われ、獲得され、変化するものであったはずである。個人の人生における言葉の獲得も同様である。この世に生まれ落ちてから、私たちは、周囲の大人たちが交わす言葉、テレビやラジオから流れてくる言葉のシャワーにさらされる中で、一つ一つの言葉が何を意味するかを明示的に問いかけることなく母国語を獲得して行く。実際、子供が、言語を獲得して行く過程で、「それってどういう意味?」と聞くことはまれである。圧倒的多数の言葉は、その意味を直接問うことなく語彙の中に取り込まれて行く。言葉のやりとりという体験の痕跡が言葉の意味として脳の神経細胞の結合様式の中に定着して行くという点において、言葉の意味は、一つの記憶の形式であるということができる。

 言葉の意味が、その様々な用例に接する中で次第に脳の中で記憶として定着して行くメカニズムは未解明である。しかし、様々な知見を総合すると、言葉の意味の獲得のプロセスと、脳の中でエピソード記憶が次第に意味記憶へ移行して行くプロセスは深く関係していると考えられる。ここに、エピソード記憶とは、「あの時あのようなことがあった」という具体的な出来事の記憶である。一方、意味記憶とは、「バラというのは、赤い花のことである」であるとか、「アメリカというのは国の名前である」というように、様々な言葉、概念の意味の記憶である。

 一般に、私たちの脳の中では、エピソード記憶が次第に意味記憶に整理されて行くという形での記憶の変容が起こると考えられている。そして、この過程で、個々の言葉の意味が成立していくのだと考えられる。たとえば、「かっこいい」という言葉の「意味」は、「かっこいい」という言葉が用いられる個々のエピソードにおいてこの言葉が置かれれいた文脈を整理して、次第に「かっこいい」の会話における普遍的な位置づけが脳内に痕跡として残っていく過程の中で成立すると考えられる。「かっこいい」という言葉が用いられる様々な文脈に出会うことで、「かっこいい」という概念のイメージは少しづつ修正されて行く。生まれ落ちて以来、「かっこいい」という言葉の意味を一度も明示的に問うことがなくても、私たちはいつの間にか「かっこいい」という言葉の意味を獲得して行くのである。

 言葉は、その言葉が用いられた個々のエピソードの個別性を超えた普遍性を獲得して初めて言葉となる。ある特定のエピソードの記憶のみに支えられている記号を、言葉と呼ぶことはできない。言葉は、脳の中で、エピソード記憶が意味記憶に変容して行く中で、個々のエピソードを超えた普遍的な世界の把握形式として成立して行くのである。

 

*言葉の本性と文学の特質

 

 言葉の本性を、上のようにとらえた時に、なぜ、自筆原稿よりも活字の方が純粋な文学体験を喚起しうるのかという問いに対する、一つの答のようなものが見えてくる。

 言葉は、ある状況下でその言葉が発せられたとか、ある人がその言葉を喋ったとか、そのようなエピソードの個別性に依拠しない形で表象されてこそ初めてその普遍的意味を全うする。活字は、このような、特定の文脈、状況に依存しない、抽象的、普遍的な志向的表象としての言葉の意味を喚起するためのメディアとして優れている。それに比して、手書きの文字は、その人物の人となり、パーソナリティーを喚起させるという点で、言葉が本来持つ抽象性、普遍性に不純なものを混入させてしまうのだと考えられる。もちろん、良寛の書のように、その人の運筆の何とも言えない味わいが、抽象的、普遍的存在としての言語を超えた魅力を持つ、ということはあり得る。漱石の自筆原稿も、確かにそのような魅力を持っている。しかし、良寛の書、漱石の自筆原稿を前にして立ち上がる志向的表象は、体験のエピソード性が昇華された果実としての言葉の意味とは異なるものであり、そのため、言葉というものの持っている本来の純粋な訴求力に、雑味が混ざってしまうのだと考えられる。

 もちろん、文学作品が、その人自身の体験に依拠するということはしばしば見られる。その意味では、文学は、宙に浮いた抽象的な言葉で構成されるのではなく、直接的、間接的な形でその作家の人生経験のエピソード性に依拠している。一方で、一つの作品が普遍性を獲得するためには、その人の具体的な体験のエピソードが抽象化、普遍化されなければならないことも確かである。

 小林秀雄は、学生向けの講演の中で、「文学というものは、人生の現実を描くものだと思いますか?」と質問されて、「そのままの現実など、生々しすぎて、とても文学になどなりはしない。私が女と死のうと思った時のことなど、生々しすぎて、とても文学にはならない」と答えている。

 小林秀雄が言うように、文学が文学として成立するためには、その書き手の体験が、その個別的エピソード性を離れて普遍化されなければならない。文学に限らず、およそ言葉による表現は、表現者の体験の個別性から、ある普遍的な概念へと飛翔を経なければ洗練されない。私たちが、友人の生活上の体験を聞いていて退屈してしまう時、しばしば、その語りが個々のエピソード性にとどまり、普遍化への志向が感じられないことが原因となっている。

 文字として定着された言葉を読むという行為は、人類が言語を獲得してからの時間の流れの中で、人類の様々な体験を構成するユニークなエピソードが、次第に世界を把握する形式としての言葉の普遍性へとゆっくりと熟成されていった結果を受け止めるということである。そこには、当然、過去の記憶とさえ呼べないような人類の体験の総体が反映される。文字を読むということが、構造として過去との対話であるのは、言葉というものがそもそも過去の膨大な人類の体験の総体、そのエピソード多様体から普遍性として抽出されたものである以上、当然のことである。

 言葉は、個別的体験の普遍化の結果であり、過程であり、道具である。文字を通して本を読むということは、すなわち、そのような普遍化の運動に自らも巻き込まれるということを意味する。自筆原稿は、時に、そのあまりにも強いエピソード性を喚起する点において、言語が本来志向している普遍化への運動を妨げてしまう。漱石の「それから」のように成功した作品は、その作者という個性に起源しつつ、その個性のエピソード性から浮遊した普遍性を獲得したからこそ、傑作となる。そして、そのような普遍性を表現するのに適したメディアは、一見没個性に見える活字なのである。

 活字は、私たちの脳の中で言葉が個々のエピソード性から独立した普遍性を獲得して収納されている、その記憶の形式に近しい形態なのである。

 

*個別性と普遍性の汽水域

 

 もちろん、文学が、あるいはより一般的に文字によって表現される世界が、必ずしも個々の体験のエピソード性から完全に独立して存在しなければならないということでもないし、それが望ましいということでもない。

 最初から制度的に個別のエピソード性から浮遊し、抽象化された普遍性を立てて、その世界の中での表現を試みる分野もある。たとえば数学や論理学といった分野がそうである。もちろん、これらの分野も、その起源をたどれば、私たちのこの世界の中での体験の個別性から普遍化されたものとして理解することができる。一方で、これらの形式言語に基づく思考は、私たちが生活の中で遭遇する体験のユニークなエピソード性を引き受ける形で行われることはない。時代の気分というようなマクロな体験を含めて、私たちの体験の総体を引き受け、個々のエピソード性から普遍化、抽象化された意味性へのゆっくりとして移行を支えているのは、自然言語である。

 文学、より一般に自然言語による表現は、恋愛、戦争、生、死、不安、青春といったテーマについて、これらの概念をめぐって日本語の長い歴史の中で積み重ねられてきたタッチポイントの中ですでに辞書的に結晶している意味をただ組み合わせただけでは、陳腐になる。エピソードの個別性と、辞書的な普遍性の間の領域に、すぐれた文学の、そして自然言語による表現一般の固有の場所がある。文学という自然言語による仮想の世界の構築は、エピソードの個別性と意味の普遍性の汽水域に棲息する芸術なのである。

 読むという行為も、また、個別性と普遍性の汽水域に所属している。本を読むことで、何らかの普遍にふれるということは確かにある。しかし、そのような、普遍にふれる行為を、私たちは、必ずある特定の場所で、ある特定の時間に行っている。その意味では、ある本を読むという行為は、有限の時間と有限の空間の中を生きる私たちの人生の軌跡の中で必ずエピソード的に起こらざるを得ない。

 たとえば、内田百けんの作品を、今日の文庫本で読む時と、初版本で読む時の体験の差は、読むことに内在するエピソード性に起因している。手の平に収まる文庫本に印刷されている活字も、奥付に著者自身の検印が一枚一枚押されている初版本も、そこから得られる抽象化された文学体験はおそらくほとんど同じである。しかし、両者を読むということに付随するエピソード性には、差がある。初版本の頁を、紙を傷つけないように気を付けながら捲る時に得られる体験にはは、初版本が出版された当時に固有のエピソード性が混入している。

 私たちは、文字を書くときも、読むときも、普遍性を志向している。一方で、書くという行為も、読むという行為も、人生の具体的な局面における具体的な行為として起こらざるを得ない。ここに、死すべきものとして有限の時間を生きる、人間の存在条件に内在するパラドックスがある。