「山本耀司―May I help you?」展関連イベント 茂木健一郎講演会 「スキンタッチを着ること」

私は普段、神経現象学というのをやっています。、脳の中には神経細胞が一千億あって、ずっとその物理化学的な活動と、私たちの主観的体験のの現象学的な側面がどう関係するかということを考えてます。2ヶ月前くらいに、山本耀司さんの服について何か喋りませんかというお題をいただいた時は、かなり呆然としました。今まで、服について真剣に考えたことがなかったんです。それでコレクションのビデオを見たり、自分でヨウジヤマモトの服を着たりしているうちに、「これでいこう!」という視点が見つかったので、今日はそのお話をします。
服について考えるとき、ファッション雑誌を見るにしてもお店で服を見るにしても、圧倒的に視覚が優位なものとしてあるわけですよね。だけど、服を着るという体験を考える場合、服が自分の目の前にあるときは視覚中心ですけれど、一旦着ちゃったら視覚からは消えて、トイレで鏡を見るときくらいしか服を着ている状態を視覚的に確認することはないんです。つまり、服を着るというのは、圧倒的に「スキンタッチ」の体験なんです。そのことは山本耀司さんというデザイナーを理解する上でもすごく重要な鍵になると思うんです。ヨウジヤマモトのトレードマークである「黒」という色の問題。山本さんご自身が言われる、新品で糊がよくきいている服ではなく、何回も洗ってクタクタになったような服への志向性。あるいは身体にタイトにフィットせず、余裕をもたせるデザイン感覚といった特徴を「スキンタッチ」という視点から見ると、新しいことが色々と言えるんじゃないかなと思ったわけです。つまり服をデザインするというのは、実はスキンタッチをデザインするという側面があるんじゃないんかと思っているんです。
さて、服はそれを着ている間ずっと皆さんのことを撫でているはずです。身体を動かすと自分の皮膚と布の間に摩擦が生じますよね。そういうことを通して皆さんはずっと服によってスキンタッチを受けているわけです。例として小津安二郎の「東京物語」の一場面をご覧ください。原節子演ずる娘が、東山千栄子が演ずる義理のお母さんをマッサージしています。これを見ると、人間が人間をマッサージしていると同時に和服がおばあさんの皮膚を撫でているわけだし、原節子はおばあさんを撫でながら自分の着ている服に自分の皮膚を撫でられているわけですよね。我々は大抵、こういうシーンを視覚的に捉えますが、実はこのときこの二人の脳の中に入っている感覚情報のうち、圧倒的に大きな位置を占めるのはスキンタッチなんですよね。
普通、感覚っていうと意識できるものを想像しますよね。だから「スキンタッチ」という問題設定をしたときにも、意識できるものがスキンタッチであると考えてしまいがちです。しかし、スキンタッチには、実際には無意識の感覚も含んでいます。最近見つかった興味深い症例をご紹介しますと、一切の皮膚の感覚が失われてしまったイギリスの女性がいるんですが、痛覚も触覚も温覚も何もないのに、ものすごくゆっくりと皮膚をスキンタッチされると楽しく豊かに感じるという感覚は残っているということがわかっているんです。人間の皮膚には、ゆっくりと撫でられると快感を感じるメカニズムがあるようなんですね。でもこれは、意識できない感覚です。
ところで、あるイギリスのコメディアン(Peter Whitehouse)は、人生というものは、生まれて、時間オーバーになれば死ぬ。その間にあるものは、ボーナスのようなものだと言っていますが、そのボーナスの中でどういうことを感じるかというのが我々にとって非常に重要なわけですよね。私たちの体験の持つ重要な特徴は、「一回性(onceness)」ということです。我々の生涯のほとんどのことは一回しか起こらないということなんですけど、その一回性の体験が積み重なったものが私たちなんですよね。一回性の体験とは、あの時あんなことがあったという強烈なエピソードとして覚えていること指しているというわけでは必ずしもありません。私たちの脳とか生き方とか世界観というのは、むしろ思い出せないような一回性の体験の積み重ねでできあがってくるということがあって、それが非常に重大な問題なんです。そして、そのことと今日のテーマであるスキンタッチということが非常に深く関係してくるんです。
今申し上げているようなことは、我々の脳内の一千億の神経細胞の活動で支えられており、全てのことは脳内現象として起こっています。そして、そのような神経細胞の活動によって、「クオリア」が生み出されてくるわけですね。僕が色々考えている「クオリア」っていうのは、我々が意識的に感じるもの全てを構成している質感みたいなもので、今日のテーマである服のスキンタッチもひとつのクオリアです。神経現象学の立場から、我々が服を着るというときに感じているクオリアとは何か、山本耀司さんの洋服を着ることに伴う固有のクオリアとは何なのか、そしてそれを一般化して、そもそも服を着るということは我々にとってどういうことなのかという体験そのものの質を問題にしているのです。
非常に簡単な脳の図をお見せしておりますが、後ろの方が感覚野で前の方が運動野だと思ってください。不思議なことに、脳というのは、一旦自分の外に出さないと完結しないんです。端的に言えば、主観は客観なしでは完結しない。音楽家は自分で音を出してみないとその音を評価できないし、小説家は自分で文字を書いてみないとその小説を評価できない。同じことは我々の身体にも言えます。我々は自分の身体を動かして、外からのフィードバックとして何かを感じないと身体そのものを知覚できない。例えば、今日僕は、大体こんなことを喋ろうというストーリーはもってきているんですが、今ここで喋っている具体的なことはアドリブなんですよね。だから自分で喋りつつ、それを自分で聞いて驚いたりする。つまり、運動野の出力する自分とそれを聞く感覚野の入力される自分というのは別の自分だってことです。
その原理で言うと、服を着る自分と服を感じる自分は違うということになります。ヨウジヤマモトの服を着て、意図的に自分の身体をある方向に動かしている自分と、その動かした結果をスキンタッチとして感じている自分というのは違うんです。だから服を着るという体験は、ある意味では服を通した出力する自分と入力される自分のコミュニケーションなわけですね。だから服は脳科学の研究テーマとしてすごく面白いと思っています。我々はそもそも服なしで自分のボディメージを作れるのでしょうか。もちろん大昔には裸で歩いていたわけだから、その頃は服なしでボディメージを作っていたと思うんですけれども、もう服を着るようになって長いわけですから、我々のボディメージを感じるというカルチャーそのものが、こういう出力入力関係を抜きにしては成り立たなくなっているのではないかという気がしているのです。
山本耀司さんの服がなぜ黒いのかということについてですが、その答えは暗闇と母親にあるというのが私の仮説です。実は、私の中で山本耀司さんがヒーローになったのは、バイロイト音楽祭の「トリスタンとイゾルデ」で、山本さんが日本人で初めて衣装を担当されたときです。「トリスタンとイゾルデ」という作品そのものの性質と、山本さんの服が黒いこととの間には親和性があるように思われる。この作品はすごく哲学的で、第二幕の中盤に、「と」(und)とは何なんだという議論を永遠にするところがあります。「私とあなたの愛」というけれども、この愛はあなたが死んだら無くなっちゃうの? というような議論です。愛というのがAとBの関係性において定義されている限り、どちらかが消えるとなくなっちゃうだろう、じゃあ永遠の愛って何なんだという話をしているのですが、同じように「私と服」について考えてみたいと思います。例えば私がY’s for men に行って、気に入った服を買ったとします。そのとき服は私の外にある限り「私と服」なんですよね。けれど、私が服を着ると「と」がなくなります。イゾルデが問題にしていたのは、彼女とトリスタンの愛の「と」がなくなって、一体のものになるようなことがあるのだろうかということだったと思うんです。何かが外にあるときの「と」と、それに包まれて一体化したときの「と」とは違うんですよ。一体化すると、恐らくそれは意識的には認識されないものになるんだと思うんですが、まさに服というのはそういうものとして作用し、着ていることを意識しないんです。逆に言うと心地よいから忘れちゃうわけで、ずっとスキンタッチを意識しなくちゃならない服というのはできの悪い服なわけですよね。
そこで暗闇の話になっていくわけですけれども、暗闇は「と」という形で取り出しては見られないものなんです。その中に包まれることができても、外に「私と暗闇」という形で見ることができないものが「暗闇」なんだと思うのです。そしてちょっと短絡的かもしれないけれど、山本耀司さんの「黒」はこの暗闇の包まれるということにすごく関係していると思います。服というものは自分を包んでいますが、自分の皮膚と服の布の間の暗闇、その暗闇が黒だとすると、服を黒にするっていうのは、逆説的だけれども、裸でいることと近いんですよ。歌舞伎や人形浄瑠璃の黒子だって文法的にはいないことになっているでしょ。あれは暗闇だからなんじゃないかなという気がしています。
いろんなものを読んでいると、山本耀司さんにとってお母様はすごく大きな存在だったわけですね。私たちを包む服は、「母親(mother)」のような役割をしていると思うんです。ここでいう母親とは、胎児の時に自分を包んでいた何かであって、自分の外にいるものはそのような意味での母親ではない。もちろん、この世界に出てきた後でも母親っていう人がいて、自分の世話をし、ミルク飲ませてくれる。でも最も強烈に母親的なものっていうのは、自分がこの世に産み落とされる前に自分を包んでいたもので、それをmotherというならば、生れ落ちてから自分の前に立っている人はmotherダッシュなんですよね。そういう意味でいうと服っていうのはmotherなんですよ。人間にとって、母親というものは、自分がその胎内にいるような存在です。それで、出てきたらmotherダッシュになるわけで、同じ母親が劇的に性格を変える。それと同じような劇的な変化を提供するものって、恐らく服と食べ物しかないんだと思うんです。三木成夫っていう生物学者が、人間も動物は全て一つのチューブだっていう話をしているんだけど、実は食べ物を食べたときって我々の内側の皮膚をマッサージしているんですよね。物理的にもマッサージしているけど、化学的にも色々な栄養素を出してくれてマッサージしているわけです。
三木成夫は、東京芸術大学にずっといらした人で「胎児の世界」という代表作があります。ずっと「生命記憶」ということを問題にしていました。生命記憶とは、胎児が、母体の中で形態がどんどん変わっていく過程で、人間の長い進化の歴史を後付けして追うことに着目した議論です。その三木成夫の授業を1985年に私は受けたことがあったのですが、実はつい最近まで忘れていました。この間、そのことを全く思い出していなかったにも関らず、どうやら俺は彼のそのときの授業にかなり強烈な影響を受けたらしいんです。例えばその後にバリ島に行って、海に打ち寄せる波を見ながら、「俺も昔は、あそこらへんにいたのかな」なんて思っていた時に、私は、無意識のうちに三木成夫の影響を受けていたような気がする。三木成夫のことを考えていて、改めて認識させられたのが、思い出せない記憶の大切さです。人生のある時期になにか決定的な体験をしているのにそれを何年間も思い出していない、ということがある。私たちにとって、motherというのはそういうものなんだと思うんです。自分が母親の胎内にいたことを「思い出せる記憶」として覚えている人はおそらくいない。でも、胎内にいた時間の流れによって、現在の自分は決定的な影響を受けているはずです。そういう作用の仕方をするものが世の中には確かにある。三木成夫の生命記憶とは、すなわちそのことでしょう。我々は水の中にいるときには常にスキンタッチという意味で服を着ていたわけですけれど、母親の胎内にいるときにも、羊水の中で愛撫を受けているようなものなんじゃないかっていう感じがするのですね、そして、ヨウジヤマモトの服を10年、20年着ている人にとって、それは羊水のようなものとして作用するのだと思う。ヨウジヤマモトの服を着るという体験そのものは、思い出せない記憶として蓄積されていく。我々の身体とか脳の中の神経活動のパターンを作り出すその結合の中に残っている、30何億年の時間の流れの痕跡、それがあるときに突然我々の中で、強烈な作用を起こすってことはある。服を着ている時間の流れの中で、自分の身体とか脳が受けた痕跡の作用がどういうものとして、今、自分がここにいることに影響を与えるかっていうことを考えたときに、服を着るというのは大変なことだと思う。現代における人間のあり方を考える上で、は徐々にそういうことを問題にせざるを得なくなってきているのではないか。。
人間は一日一回脱皮します。つまり、家に帰ったら服を着替えるのが普通で、そのことを「脱皮する」ってここでは言っている。脱皮というメタファーは突き詰めるとものすごく深い問題を孕んでいます。たとえば、言葉を発するということは、脱皮するようなものです。言葉を発することで脱皮することの応用例が。サイコセラピーです。何かに悩んでいて、それを言語化できなくて苦しんでいる患者さんが、それを言語化することによって次の視点に行けるということがある。あれは言葉という皮を脱皮することによって、生まれ変わるっていうことです。人間というものは、脱皮しながら変わっていく存在です。養老孟司さんも、情報は変わらないけれど人間は変わるとよく言われる。昆虫がどんどん脱皮して幼虫がさなぎになってさなぎが成虫というように劇的に変わっていくように、人間も服や言葉を脱ぐことによって変わっていく。母親が子供を産むということも、子供にとっては母親から脱皮するってことですよね。外に出てきた時に「私と母親」という形で目の前に存在する母親は、今自分が脱皮してきたばかりの抜け殻でもあります。この人生最初で最大の脱皮によって、私たちは全然違う存在になる。もちろん、物理的には母親の胎内から出ても精神的にはまだしばらくは母親の中にいるわけで、恐らく、思春期にもう一度、親を精神的に脱皮する。そのようにして、人間は変わって行く。私たちは人生の様々な局面で脱皮する。脱皮する前に自分を包み込んでいる皮は、自分と「それ」というかたちで、「と」で結びつけて客観的に議論できないものです。脱皮前、私たちは「それ」と一体化しています。そして、私たちを包み込んでいるものは、つねに服がスキンタッチするように常にマッサージ的に作用して、自分がそれによって影響を受けるということがある。このように考えて、初めて、服を着て、服を脱ぐという行為の持つ普遍的な意味が明らかになる。そのようなことを考えた時に、山本耀司さんの服が黒いということの象徴的な意味も何となく腑に落ちるように思います。
今日はスキンタッチということをかなり強調してお話しました。スキンタッチは、あくまでも第一人称的な体験ですが、一方で、私は、服を着るという行為がきわめて対社会的なものであるということを否定しているわけではありません。服を着るということが他者とのコミュニケーションにおいて重要な意味をもつことは、当然のことです。その際には、視覚的要素が当然重要になってくる。ただ、山本耀司さんの服について考えたときに、僕にとって彼の服を理解する上で非常の重要なコンセプトとして浮かび上がってきたのが「スキンタッチ」であったことは事実です。「スキンタッチ」ってことを考えていたら、通常の意味での服の問題を超えて、人間にとっての母親的な存在とか、自己と世界との関係とか、生きることとか死ぬこととか、そのようなエッセンシャルな問題を考えざるを得なかった。そのようなことを考えさせる山本耀司さんの服というのはすごいんじゃないかと思うわけです。

(6月1日、原美術館ザ・ホールにて開催された講演より抜粋・編集)。

原美術館URL
http://www.haramuseum.or.jp

茂木健一郎URL
http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html