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「仮想に酔いつつ、現実的な算段をすること」

茂木健一郎

文學界 2003年11月号所収

(c) 茂木健一郎 2003

 私たち人間の体験の中で、現実と仮想の関係はかなり微妙なものである。原理的に考えれば考えるほど、両者の関係は微妙である。微妙であるにもかかわらず、私たちは、両者の間に厳然とした相違があると普段は考えている。端的に言えば、そうしなければ生きていく上で支障が生じるからである。

 たいていの場合、日常の生活の中で起こることは現実に属していると思っている。たとえば、自分が朝のコーヒーを飲むためにとりあげるマグカップ、外の光を取り入れるためにガラガラと開けるガラス窓、身につける服。これらのものは、現実だと思っている。これらの「今、ここ」にあるもの、意識の中ではっきりと知覚されるものは、おそらく現実なのだろうと、私たちは考えている。

 一方、本当は「今、ここ」にはないのに、私たちの脳がかってにつくり出してしまったものは、現実とは異なる、仮想のカテゴリーに属していると考えている。鬼や龍、麒麟といった現実には存在しない動物たちは、仮想の世界の住人である。平成15年は確かにんげんじつであるが、かっては現実であったとしても、もはや「今、ここ」にたぐり寄せようもない記紀万葉の過去も、今となっては「仮想」であるとしか考えられない。

 「今、ここ」にあるものは現実であり、ないものは仮想である。そして、現実の生活の中で起こったことを記すのが随筆であり、仮想の世界のことを記すのが小説である。このような棲み分けを前提に、たいていの場合の人間の思考は成り立っている。

 ところが、内田百間においては、このような現実と仮想の棲み分け、随筆と小説の峻別がおそらく成り立たない。成り立たないところに、百間の文学のユニークな価値があるのだと私は思っている。

 現実と仮想の棲み分けが定かではない、と言っても、たとえば「冥途」の中で、主人公が食す「酢のかかった人参葉」や「どろどろした自然生の汁」は現実であって、一方でどうやらお父様らしい、「親指をたてた」人は仮想だが、「羽根の撚れた様になって飛べないらしい蜂」は現実か仮想か判然としない、だからこそ、蜂は現実の世界から仮想の世界への橋渡し役をつとめることができている、といった類の話ではない。

 それを言うならば、そもそも言語によって世界をとらえる人間において、何が現実で何が仮想なのか判ったものじゃない。開高健の絶筆「珠玉」の最後には、「女だった。女だった。」という一文がある。この「女」が、その時主人公の前にいる現実の女なのか、それとも仮想の女なのか、そんなことは判然としない。判然としないところに、言葉で世界を構築する人間が見る世界の本質がある。

 もちろん、人間の主観的体験の中に現れる様々な表象のうち、ごく一部分しか言葉として定着されてはいない。ピカピカ、ギラギラ、キラキラといった言葉のレパートリーよりもはるかに複雑で豊かな輝きのニュアンスを、私たちの意識はとらえる。意識のとらえる広大な表象の世界のうち、マグカップや窓といった「今、ここ」にあるものは、物質的実在によって担保されている現実であるように、私たちはふだん考えている。しかし、表象の成り立ちを冷静に考えてみると、そこには物質的実在による担保に支えられた自然主義態度ではとらえきれない仮想の自由が入り込んでいることが反省される。

 

 椰子さん、僕はいつも汽車に乗る時、そう思うのですがね、汽車が走っている時は、つまり、機みがついて走り続けているなら、それで走って行ける様な気がするのだが、こうして停まって、静まり返っているこれだけの図体の物を、発車の相図を受けたら動かし出すと云う、その最初の力は人間業ではないと思う(中略)気になるのは、動いている汽車と停まっている汽車とは丸で別物だと云う事です。その別別のものを一つの汽車で間に合わせると云う点が六ずかしい

 

 百間の「阿房列車」の中のこの一節は、汽車というのはすなわち外の客観的世界にある物質実在のことであるという素朴な態度を超えた、私たちの表象する世界の本来的無限定性をとらえている。いわゆる現実は、いわゆる仮想と一つながりの大陸なのだ。

 開高健が「珠玉」で言う「女」が、現実の女によって担保されている必要はどこにもない。表象としての女は、現実存在としての女に比べて、途方に暮れるくらい大きな仮想の世界につながっている。思春期にあこがれる女と、現実の女は別者である、その別別のものを、一つの女で間に合わせようとするからむずかしい。階段で上るビルの4階と、エレベーターで上るビルの4階は別物である。その別別のものを、一つの4階で間に合わせようとするからむずかしい。さあ、これから食べるぞ、と表象されるラーメンと、実際に食べている時のラーメン、そして、食べ終わってああおいしかったと振り返るラーメンは丸で別物である。その別別のものを一つのラーメンで間に合わせると云う点が六ずかしい。

 私たちの意識がとらえる表象は、それが現実を代表しているように見える時でも、実は現実によっては担保されない仮想の世界の自由度を内包している。そんなことは、自らの体験を少し振り返って見れば、当然のことであって、そう考えれば、内田百間の随筆と、小説を峻別して、前者は現実を書き、後者は仮想を書いているから両者は別のカテゴリーだと言うことはできない。百間の随筆の中の汽車は、現実の汽車であると同時に、仮想の汽車でもあるのである。

 私たちの人生はもちろん有限であるが、その有限の人生にさまざまな表象が密に絡み合っていることを思うと、有限の人生が本当に有限なのか、判らなくなってくる。その判らなくなったところに百間の随筆がぽんと入ると、独特の感銘が生じる。あからさまなフィクションを描いた百間の小説は、もちろん仮想の世界を扱っている。一方、現実を描いているかのように見せて、そこに無限定な仮想の世界の気配が絡んでくる「阿房列車」のような随筆は、有限の人生における現実を扱っているかのように見えて、実は無限定の仮想をも扱っている。その微妙な間合いがたまらない。

 

 遁道を出たと思うと、線路の近くで蛙の鳴いている声が聞こえて来た。蛙の鳴く時候ではあるし、夜ではあり、そうだろうと思った。

 放心した気持ちで、聞くともなしに聞いていたが、暫くすると、或はそうでないかも知れないと思い出した。蛙の声にしては、あまりいつ迄も同じ調子である。又その調子が規則正しく繰り返しているのがおかしい。蛙の声でなく、車輪の軋む響きが伝わって聞こえるのかも知れない。そう思って聞くと、そうらしい。そうだろうと思った。

 

 「鹿児島阿房列車」の中で、保土ヶ谷の先でずっと聞こえてくる「蛙の声」は、もしそこに注意を当てて拡大すれば、その中に「冥途」も「旅順入城式」も全て入ってしまうような広大な領域へとつながっている。何気なく書かれたかのように見える阿房列車の進行の随所に、無限定な仮想の世界への入り口がぽっかりと口を開けている。

 小林秀雄が、そのベルグソン論「感想」の冒頭で、扇ガ谷を飛ぶ蛍を見て、死んだおっかさんだと思う。この時、蛍という表象は現実で、おっかさんという表象は仮想だ、と整理するのは一見わかりやすい。しかし、本当は、蛍という表象自体が、すでに仮想なのである。現実の世界のどこにも、私たち人間が「蛍」という言葉で指し示している表象は存在しない。和泉式部は、「物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞ見る」と詠んだ。江戸時代の若い恋人たちが、沢で蛍を見て、「ああ、蛍だ」と言った。「蛍」という言葉には、日本語という体系の中でこの言葉が使われてきた履歴の記憶が何層にも積み重なっている。そのようなニュアンスをも引き受けた表象として、「蛍」は私たちに意識される。つまり「蛍」は、人間の精神が生み出した仮想である。一方、現実に存在するのは、腹の節の一部を光らせ、黒々とした羽根を持ち、触角を奇妙な感じで動かしている節足動物だけである。節足動物の存在によって、「蛍」という概念が担保されると考えて安心するのが自然主義的態度である。それではとらえきれないのが、表象の世界の実相である。

 「鹿児島阿房列車」で、保土ヶ谷の先からずっと聞こえていた蛙の声は、やがて、山系が言い掛けた「ちッとやそッとの」という言葉へと変容する。

 

 汽車に乗っていて、そう云う事が口に乗って、それが耳についたら、どこ迄行っても振るい落とせるものではない。「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」もう蛙なぞいない。今度著くのはどこだろう。お酒がないだろう。

 ちッとやそッとの、ちッとやそッとの「山系君」

 「はあ」

 ちッとやそッとの、ちッとやそッとの「お酒はどうだ」

 口に乗り、耳に憑いたばかりでなく、お酒を飲み、佃煮を突っついている手先にその文句が乗り移って、汽車が線路を刻むタクトにつれ、「ちッとやそッとの」の手踊りを始めそうになった。

 

 人は酒に酔うばかりではない。人は、仮想にも酔う。蛙の声から変容した「ちッとやそッとの」は、百間を酔わせる。その有様は、歌舞伎の名作「義経千本桜」の道行初音旅で、佐藤忠信に化けて静御前の供をする狐忠信が、折からの春の風に舞ってきた蝶に、思わず獣性をあらわにしてじゃれつく様子を思い起こさせる。

 おそらく、百間という人は、阿房列車の旅をしている間中、仮想という精神の酒に酔ったままだったのだ。

 もちろん、私たち人間は、物質的、実際的限定の中に生きている。仮想に酔ってばかりいて、生活の実際的限定の中での実際的な段取りの算段に心を砕かなければ、現実の阿房列車は出発しない。時刻表を毎晩眺めては飽くことのない百間のことだから、仮想の阿房列車に乗っているだけでも満足かもしれないが、やはり現実の阿房列車が出発しなければ、「阿房列車」という作品も成立しない。

 「阿房列車」の最初の作品、「特別阿房列車」は、その現実的算段の部分が、味わい深い。列車はなかなか出発しないが、何時までも出発しなくても別にかまわない、と思われる。「阿房と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分で勿論阿房だなどとは考えてはいない。用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。」という書き出しから、「さて読者なる皆様は、特別阿房列車に御乗車下さいまして誠に有難う御座いまする」という文まで、手元のちくま文庫で二十五ページを費やしている。阿房と言えば、全くの阿房であるが、極上の読み心地の阿房である。

 百間の現実的算段は、おおむね二つの動機に導かれている。一つは、自分の美意識に合うように、事を進めようという動機である。そんなどうでも良いことは、適当でいいだろうと思ってしまっては、百間がその「どうでも良いこと」にこだわる心根が由来する、蝶にじゃれつく狐忠信に通じる明るい狂気の世界に触れることはできない。

 一等車に乗るか、三等車に乗るかということは虚栄に属することのように思われるし、もちろん内田百間は虚栄の人でもあるのだけれども、そのスノッブが突き抜けて得体の知れない狂気に転じているところが、百間の凄いところである。

 

 今度は用事はないし、一等車はあるし、だから一等車で出かけようと思う。お金の事を心配している人があるかも知れないけれど、それは後で話す。しかし用事がないと云う、そのいい境涯は片道しか味わえない。なぜと云うに、行くときは用事はないけれど、向こうへ著いたら、著きっ放しと云うわけには行かないので、必ず帰って来なければならないから、帰りの片道は冗談の旅行ではない。そう云う用事のある旅行なら、一等になんか乗らなくてもいいから三等で帰って来ようと思う。

 

 百間の現実的算段を導く動機の二つ目は、いかにして旅行の費用を調達するかという点にある。ここでも、金のやりくりをつけるという最も現実的な工夫が、「ちッとやそッとの」の手踊りに転化している。

 

 「大阪へ行って来ようと思うのですが」

 「それはそれは」

 「それに就いてです」

 「急な御用ですか」

 「用事はありませんけど、行って来ようと思うのですが」

 「御逗留ですか」

 「いや、すぐに帰ります。事によったら著いた晩の夜行ですぐに帰って来ます」

 「事によったらと仰しゃると」

 「旅費の都合です。お金が十分なら帰って来ます。足りなそうなら一晩くらい泊まってもいいです」

 「解りませんな」

 

 阿房列車という作品自体が、実際的な人なら「解りませんな」と感想を漏らすであろう現実的算段の繰り返しである。どの列車で行ってどの列車で帰ってくるか、夜のお酒をいかにおいしく飲むか、余ってしまった握り飯を、いかにもったいなくない形で処分するか、いかに、見送りの椰子君に紳士たるものの体面をつぶされないようにするか。

 一つ一つをとればとるに足らないように思われる現実的算段の積み重ねが、いつの間にか奇妙な非現実に転化して行く。スノッブな人のスノッブなふるまいが、幻視の人の幻視のふるまいにずれていく。「阿房列車」は、現実と仮想、日常と非日常、実際と幻想の間のありきたりの思いこみを溶かし、現実を実際的に生きることがすなわちもっとも幻想的な行為と思われるような、メタモルフォーゼを起こす作品である。

 考えて見れば、私たち人間の人生とは、そのほとんどが次に何をどうするかという現実的算段の繰り返しである。その現実的算段の繰り返しの中で、私たちは様々なことを夢見るが、そんな中でも時間はどんどん進行して、肉体は衰え、やがてこの世界から去る時がやってくる。現実よりも夢の方が人間の魂の本来の場所である、という類のロマンティックな幻想を抱くことは実はやさしい。むずかしいのは、人生とは現実的算段の積み重ねであるという事実を直視した上で、実はその現実的算段の中に、底抜けの仮想の世界の気配がいつの間にか忍び込んでいることに気づき、それを味わうことである。人生の有限性が、そのまま仮想の無限性に接続していることを悟ることである。

 「まあだかい」は、あからさまに人生の有限性を扱った作品である。百間が還暦を迎えた時、三畳の間ばかりの手狭の家に誕生日前日の五月二十八日から飛び飛びに日を選んで八月四日までに九晩を祝い収めた。今度は、教え子たちが秋の祝賀会を虎ノ門の晩翠軒で開いてくれた。その祝賀会が恒例化したのが「魔阿陀会」である。

 

 その御迷惑と云う事を考えると、既に昨年還暦を祝って戴いた私が、今夕またかくの如き仕儀となっては、この糞じじい、まだ生きているかと云うのが今晩の魔阿陀会です。まアだかいとお聞きになるから、私はまアだだよ、とこうして出てまいったわけであります。こう云う事にして下さいました以上、どうか来年もさらい年も、一先ずまアだかいと尋ねて戴きたいのでして、その内にきっと、もういいよと申し上げる所存で御座いますが、その節は御香典のご用意を成る可く沢山と云う事にお願い申します。

 

 「まあだかい」を読み進めるうちに、読者は、ある種の緊張感を自覚する。毎年積み重ねる魔阿陀会の様子をおもしろおかしく記したこれらのエッセイが終わる時は、すなわち、内田百間という人がこの世からいなくなる時であるという単純なる因果関係を悟るからである。

 第二回の魔阿陀会の百間の算段は、「私が招かれてその席へ出掛けるに就いては、先ず当夜の出で立ちを心に描く。お洒落で云うのではないが、お洒落でない事もないけれど、それは呼んでくれる諸君に対する礼儀であり、お目出度い会なのだから縁起に叶う必要もある。」であった。第六回の魔阿陀会の当日の百間の心配は、「彼らが今年も後を追って私の家に闖入するか否かはその時のはずみであり勢であって、勿論こちらからは誘引はしないが、だからと云って、来てはいかんと予めことわっておく可き事でもなく、又ことわっても来る者は来るだろう。」であった。どちらの心配も、どうでも良いと言えばどうでも良く、気持ちの良い酒席を開くという意味では、これ以上重要なこともないと言えばそうとも言える。

 魔阿陀会は積み重なり、第十六会を迎える時には、百間の算段の内容は変化する。その変化は、読む者を不意打ちにし、やがて厳粛な気持ちにさせる。

 

 楽しみにしていたその魔阿陀会がいよいよ近づき、後もう二三日という時になって、どうも足もとがおもしろくない。(中略)なにしろ広くもない家の中で、畳の上を歩き、廊下を伝うのにさえ事を欠く始末になった。膝の前にある机や卓袱台に両手を突いて、先ず起立する姿勢を準備し、気合いを掛けて、やっとこさと起ち上がる。その上で自分の行きたいと思う方へ行こうとするのだが、独り歩きは容易でない。柱につかまり、壁に手を支え、つまりしかし、そうしなければどうなると云うのだろう。よろよろしながら考えて見ればおかしな話で、柱も壁もなければ、一足も前へ出られないと云うのだろうか。(中略)二三日後に迫った魔阿陀会へ出掛ける自信があやしくなった。

 

 ここで生じている厳粛な気持ちは、人生が有限のもので、いつしか終わらなければならないという事実だけに対するものではない。実際的な段取りに心を砕く算段というものが、案外人間が生きる上で本質にかかわっているのではないか、という発見に伴う背筋がぴんと伸びるような気分が、読む者を打つのである。どうでも良い、取るに足らないことのようについつい思ってしまう、日常の生活の中の様々な算段たちが、突然人生そのものであるように思われてくる。

 百間は、やがて、毎年開かれる会に出られなくなり、自宅でその事後報告を聞くようになる。第二十回の魔阿陀会では、テープレコーダーに挨拶を吹き込んで、東京ステーションホテルの参会者に挨拶をする。そこまでするのも、魔阿陀会をはじめとする教え子との会に、「みんなもとの様に出たいな」と百間が心から願っていたからである。その願いの強さは、大雨の夜に姿を消してしまった愛猫に対する思いを綴った「ノラや」と同質のひたむきさで、読む者の心を打つ。

 その一方で、百間は、もちろん魔阿陀会にもとの様に出ることはもはや叶わぬことを悟っていた。

 

 天知る地知る。わかっとる。

 

 十九年目の魔阿陀会に出られなかった顛末を書いた「殺さば殺せ」の末尾のこの文章には、ひんやりとした秋の夕暮れのような寂しさがある。

 作品としての「まあだかい」を読んでいる限りでは、魔阿陀会がどのように終わりを迎えたのか、百間がどのように亡くなり、その死を教え子たちがどのように受け取り、その後魔阿陀会はどうなったのか、判然としない。その意味で、「まあだかい」という作品は、尻切れトンボである。毎年の会の様子を小説新潮に報告するという作品の成立の由来からして、そうなることは運命付けられていた。そもそも、人生というものは、文学という仮想の世界の論理など気にせずに、ある日突然脈絡なく終わってしまうものである。起承転結のはっきりした作品という芸術の一つの理想は、人生の実際によって裏切られる運命にある。ウェルメイドな作品につきまとううさんくさは、私たち人間の生の実感に由来している。

 仮想に酔う人、内田百間も、衰える肉体という現実からは逃れきれずに、入滅した。人間がいつか死すべき存在であるという現実は、分かり切ったことである。いつか死ぬという現実は分かり切ったこととして、酔い心地の良い仮想の世界を構築するのが、文学者である。百間は、仮想の酔い心地を、日常の世界のもっともつまらない算段と一つながりの世界の中に醸成した。そこに、実際的な配慮が人々の生活体験の大部分を占め、一方で生活の実際から乖離したファンタジーが純粋の仮想として消費される現代における百間の今日的な、そして文学の未来につながる価値がある。

 締め切りや原稿料を巡る現実的な算段をしつつ、文学者は、時々永遠のことを気に掛ける。酒の酔いは、いつか醒める時がくる。一方、仮想に酔うことに、本当に終わりがくるのかどうかは判らない。仮想の酔いはひょっとしたら永遠に続くのかもしれない。死とは、実は仮想に酔ったままになることなのかもしれない。文学作品が永遠の命を持つとは、つまりそういうことなのだろう。