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Qualia Magazinze 第38号 (2001.7.7.)所収 エッセイ

笑いについて 第1回  笑いとリアリティ

 

 良質の笑いは、どこかで、世界のリアリティに接続しているところが

ある。

 気が短くてすぐにけんかする男が、心学の先生に心の治め方を

学びに行く。

 風が吹いても受け流している柳を見習え、と言われても、納得しない。

 そこで、先生は、男と次のような会話をする。

 「もし、道を歩いていて、小僧が道にまいた水がかかったらどうするな?」

 「間抜けな小僧め、どこに目を付けているんだといってぶったたくわ。」

 「でも、年端もいかない子供だったら?」

 「店に怒鳴り込んで、やい、番頭、なんで間抜けな小僧を買っているんだ

とまくしたてるわ。」

 「では、街を歩いていて、風が吹いて、屋根から瓦が落ちてきたら?

 「てめえの所では、高慢な顔をしているくせに、普請代をけちるから

こんなことになるんだと怒鳴り込むわ。」

 「それでは、野原を歩いていて、急に大雨が降ってきて、びしょぬれ

になったらどうするね。」

 「木の下で雨宿りすればいい。」 

 「ところが、木一本ない。バケツの水をひっくり返したような大雨だ。

いったい、どこに怒鳴り込むね。」

 「・・・へい、もうようがす。」

 「ようがすとはどういうことかな?」

 「そういう時は、短気なあっしでも、運が悪かったと思ってあきらめ

ます。」

 「そこだ。」

 「どこなんです?」

 「人がやったことだと思うから、腹が立つ、ああ、これは天が

やったことだ、すなわち天災だと思えば、腹も立たないだろう。」

・・・・

 人間の意志とは何か?

どこまでが意志に基づく行為で、どこからが偶然なのか? 一連の

因果の連鎖の中で、どこまでをある人の行為の結果としてとらえ、

どこからは自然の営為と見なすのか? そもそも、自然と人為の

間に境界はあるのか? 人間もまた、自然の進行の一部に過ぎない

のではないか?・・・ 

「天災」の作品としての素晴らしさは、自然と人間

の関係という世界の根源的な

あり方について、ある種のリアリティを立ち上げる点にある。

 戦前の軍歌から、戦後のジャズまでの歌謡史を実演しつつ、近代

日本の歴史を振り返ってカルト的な人気を誇る川柳川柳(かわやなぎ

せんりゅう)の高座にも、切れば血が出るようなリアリティがある。

イデオロギーの対立を超えて、

戦争という体験が一体どのようなものだったのか、笑いの中にはっきりと

した輪郭を浮かび上がらせる。

 良質の笑いは、世界のリアリティを曇りのない目でみる視線に

つながっている。

(c)茂木健一郎2001