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心脳問題ml、最も印象に残った投稿賞

qualia ml Most Impressive Submission Award

第1回 [qualia:0000] - [qualia:1000]

(Tue, 2 Mar 1999 16:36:10---11 Sep 1999 15:23:37)

塩谷賢 Life Series 4部作の投稿

[qualia:0417] Re.life-1.s1 Rheingold

[qualia:0418] Re:life-1.s2 die Walkuere

[qualia:0419] Re:life-2 Siegfried

[qualia:0420] Re:life-3 Goetterdaemmerung

 

From: "Ken Shiotani" <saltcat@bc4.so-net.ne.jp>

To: "qualiaML" <qualia@freeml.com>

Subject: [qualia:0417] Re.life-1.s1 Rheingold

Date: Tue, 11 May 1999 03:00:40 +0900

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塩谷です。

昼に投稿したら茂木から

>今、qualia mlに流したやつ、長過ぎるということで弾かれてしまいました。

>二分割か3分割して、もういちどとうこうしてください。

といわれました。4分割して送るので、皆さん合わせて読んでみて下さい。

タイトルはRe:life-1.s1、Re:life-1.s2、Re:life-2、Re:life-3です。

 

なんかニーベルンゲンの指輪みたいになってきたなあ。

序を0にするのはオリジナルに悪いので遠慮したため、厳密には分け方が違うけど。

 

 ではでは始まり始まり。

 

(序曲)

かとうvsまひとlifeスレッドはとても面白い。「この私」に関して相当に詰まってき

ましたね。

外野からちょっと物知り顔のオッサン的な感想を。

 

(大体まひとさん優勢で収束しそうなんですが、ここでは少し意図的に逆噴射してる

かもしれません。

しかし、もう一度やり取りを追っかけるのはたいへんですね。部分で繋がっているか

ら。

メールは全文記録に残るけど、その部分で繋がるやり取りの心は全文記録から既に蒸

発しているのかも…)

 

さて、「この私」のお二人のやり取りを見ていて感じることは、

「この私」の

論理的先行性or意味論的時間性というようなものと、

体感的時間or肉体的現在というようなもの、

そのような一種のダイナミックス(を含みそうなもの)同士のせめぎ合いがウマク出

ていることです。

前者は、

場所・状態・過去・意味の基盤・科学的?

などにつながり、後者は

時の過ぎ行き・動き・未来・体験のインパクト・芸術的?

などにつながるものと大雑把には言えましょう。

そして「この私」は

両者の接点or重なり合いのように思われている

場・力・現在・事実・世界?

などに足をおいているor(無貌の)顔を覗かせているように思えることです。

上の例示の5つ組みは互いに対応させています。そもそもソノコト自体が幻想かもし

れない。

例示の5つ組を「この私」が繋いでいるように感じる。けれどもそれこそが有効な、

しかし偶然の事なのかもしれない、むしろそれが偶然に感じないこと、感じさせない

何かが働いておりその結果「この私」を作っているのではないかとも感じています。

 

なんとも瑣末なやり方ですが、お二人のやり取りに沿ってちょっと考えて見ましょ

う。サブタイトルは僕が勝手に付けてます。

 

(第一幕第1場)

§1波と基盤

Katoh-san:#393

>「私」が揺らいだ時、一時的に

>「この私」の方も複数になっている、などということはないんでしょうか。も

>ちろんこの状態は関知できませんが。

Mahito-san:#398

>「揺らいでいる」波に合わせて「この私」があると考えると波がずれたとき

>のことをどうしても想像してしまうので「この私」が複数化するようなイメー

>ジを持ってしまいますが、そうではなくて(私としては)「揺らぎ」ができる

>その盤がすでに「この私」を形作っているのではないかと考えます。

>盤が何かというのはその内RFCにでも・・・といいたいのですが仮説ばかり

>でイメージが固められません(苦笑)

Katoh-san:#404

>私は「盤」がないと思っているのかもしれませんね。ここから先はまだ考えて

>いません。これから考えていきますので、RFC楽しみにしてます。

 

まひとさんのイメージによる直観はとても豊かなしっかりした深さに達していると感

じます。

まひとさん、僕もRFC楽しみです。

では「揺らいでいる」とはどういう状況でしょう。揺らぎの「基盤」はどういう意味

で必要なのでしょう? 

波のズレをどうして、どのように想像するのかが重要です。以下は僕の感じですが、

そこでの波のズレは、「可能な」波のズレの具現という感じが既に入っていないで

しょうか。そしてそのズレの測定は波を可能な様々な側面の様々な具現の大きなシス

テムとして捉えていないでしょうか。

この場合、基盤はこのような「様々な」可能性の具現を投網を打つようにして捉えま

す。これはもちろん、全ての「可能」が明示的に在るということまではいかなくても

いい。「この波」といわれている、この「この」を、「単なる」「この」以上の「何

か」、繋がり得る「何か」であることを示したい、捉えたいという欲動?に基づきま

す。

この波は既にこの投網に属する、何らかの仕方で捕らえられた結果です。その意味で

波に例えられた「私」は「既に」基盤の「この私」を前提にしています。

このような投網システムによって捉えられる内容は時間的?ダイナミックスとしては

「既に」のレベルを作り上げて行きます。その内容は「可能」の具現として属性的で

す。それゆえ「この」のもつ現在の優位性、力はシステムの中には求められません。

それはシステムの「既に」をもたらし、それ自身「一」であることを暗黙に含んでい

る「基盤を置く企て」です。それがまひとさんの「この私」であり、それへの過去的

な切片としての通路が「基盤」=「場所としての心」なのだと思います。(「誤解を

恐れず言えばこの「盤」は多分心ではないかと思います。」:Mahito-san:#412)

(注意)

「盤がすでに「この私」を形作っている」(Mahito-san:#398)というのはこの意味

での「この私」と「心」の差をはっきり出していません。しかし、まひとさん自身

が、

Mahito-san:#412

>メタな視点から「この私」を語ることはできない。

>ただひたすらに「この私」が見ているものとして「この私」を考えなけれ

>ばいけないと思うのです。

というときには、見る=上の意味での企て、として考えられると思います。

そう、まひとさんの直観は「目の直観」なのかもしれませんね。

そしてこの立場から「この私」を

Mahito-san:#414

>ですが真の、本当の(と言うことが嘘っぽいですが)「この私」はそこには

>ないのです。「この私」は「『この』私」が見ている(見ることをしている)そ

>のものであって見られる性質は備えていないのです。

と考えるのです。

この道は認識論的道行きとも言える気がします。

 

(チョットした寄り道)

ここでの「この「私」」と「この「この」」の言い換えは、もぎさんの#384とまひと

さんの#385の問題に関わります。ワーグナーの墓石が「物理的な意味」で石であるこ

とは、上の投網システム?での「この「私」」として既存基盤に依存していることと

対応します。そして「(戦略的に)全て生成流転し消えていくということを忘れてし

まっている」ことは、投網システムの一部による自己言及的ループの生成に方法論的

に固着することです。そのときには先ほどの(注意)で述べた差の戦略的な同一視と

切り離しを行ってループを形成します。(閑話休題)

 

(第1場了)

 

Ken

From: "Ken Shiotani" <saltcat@bc4.so-net.ne.jp>

To: "qualiaML" <qualia@freeml.com>

Subject: [qualia:0418] Re:life-1.s2 die Walkuere

Date: Tue, 11 May 1999 03:00:49 +0900

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塩谷です。

これが2個目だよ。

 

(第一幕第2場)

 

さて、この企てがどういうこととして位置付けられるべきでしょう?

今度はかとうさんに近づいて考えましょう。

かとうさんの「「盤」がないと思っているのかも」(Katoh-san:#404)という感じ

は重要です。

このときのかとうさんの感じはハッキリとは言えないのですが、波のメタファーで続

ければ、僕の感じとしては、波を波形というよりも、その瞬間での動き・リズムのよ

うな感じで捉えているのではないか、という気がします。リズムのズレは、統一的な

場を形成しません。それが一つの複雑なリズムになるためには、何らかの「繋がり」

が必要です。

 

もし、このメタファーが適切だ(もしくは何とか許容される)とした上でですが、そ

の場合の難しさは、我々は実はリズムそのものをよく分かっていない、よく「生き

て」はいるけど、よく「知って」はいない、ということです。

 

(ちょっとウンチクっぽい注)

リズムは音楽の根本だということは多くの文化圏に通底することだと思われます。そ

れはハーモニーと結びつきます。音階も空気振動のリズムですから、ある意味ではリ

ズムの諸関係が和声としてのハーモニーをも生み出すといってもいいでしょう。

(もっともハーモニーが和声の意味になったのは近世以降です。)そして中世・ル

ネッサンスまで西欧では音楽は3つの階梯があるとされていました。上位からmusica

mundana(世界の音楽)、musica humanica(人間の音楽)、musica instrumentalis

(道具の音楽)です。(ラテン語は怪しい…。)世界の音楽はマクロコスモスの、人

間の音楽はミクロコスモスの調和の原理を表し、実際に聴くことが出来るのは道具の

音楽のみです。上位の調和ほど神・完全であり、そしてそれぞれの調和は共鳴し合う

(世界の音楽への影響は考えていませんが)ということです。

この考えのなかにあるリズムは必ずしも時空領域をその限界・枠としません。むしろ

musica mundanaなどを通して時空を作ると考えられていたのではないかと思います。

ライプニッツのモナドの予定調和と空間の関係説の思想もここに関係していると思い

ます。(誰かキチンと考えてください。)(閑話休題)

 

僕にとってのメタファーとしてのリズムは階梯は底抜け・脱線、じゃなかった、底抜

け・天井知らずです。それは機能・作用を中心に考えるからです。もし上の3階梯を

考えるなら、それらは有限のレベルで隣り合っているのではなく、互いに無限に離れ

た階梯、もしくは階梯領域あるいはその領域の極限として考えられます。(最後は

ちょっと問題含み。)

これらの階梯のハーモニーを貫いているのがリズムです。このリズムは「共鳴」とい

う形で、その「現われ」の場を作って行きます。場・基盤はリズムそのものの存在領

域ではなく、ある階梯のハーモニーの具現の場所です。なぜ具現が必要かがこっちの

考えでは重大な問題ですが、ここでは取りあえず、具現を通して新たな共鳴を生み出

す偶然の足場と考えておきます。(ここからリズムの浸透の深さという概念が可能に

なりますが、ここでは触れません。)

そのとき新たな共鳴により新たなリズムが起こると思いますが、そのリズムにとって

は共鳴は引き金に過ぎません。共鳴に全てがあるのではなく、共鳴にenfoldされた、

しかも共鳴では見えないかもしれない現にある、その共鳴を通路として関わる他のリ

ズムとの関係が問題なのです。その意味では基盤はある意味で二次的なもの、新たな

具現の場所を開くが、そこにある共鳴にenfoldされた諸リズムの関係を展開しきれる

とは限らない。まして可能的なリズムをenfoldしつくすなどということはひどく強い

想定だ、という事になります。そして我々の「知っている」所、通常存在していると

イメージしているのはこの(複数の)共鳴の場所でしかない。どの階梯でもそれぞれ

は「知り得るところ」ですが、それらを「一挙に」「知り得るか」はとても問題で

す。(ここらに論理の本質的問題が関わっています。)

 

この道は、さっきのまひとさんに沿って考えたのを「認識論的道行き」と呼んだのに

対して、「存在論的道行き」と言えそうな気がします。

 

メタファーの入り口はこの程度にして、いままでのことからかとうさんの「この私」

を考えると、それはリズムに相当するのではないか、と感じます。リズムはそれ自身

でしかない。外からリズムを捉えきることは出来ない。しかしリズムは閉鎖されてい

ない。共鳴の機構を通じて常に新たなリズムを作り出す。それらは通じ合ってある意

味で私を拡大する。これが先の「「私」が揺らいだ時、一時的に「この私」の方も複

数になっている。」(Katoh-san:#393)に対応します。

 

ただし、「私」と「この私」の区分はそのとおりには取っていません。(人生を2回

生きるとか。)敢えて言えば、この区分は階梯とリズムの区分に対応します。ある階

梯において複数のリズムの具現が認められたとき、それを二つの人生とみなしてもい

いでしょう。しかし、それは階梯内での話でリズムそのものについては数多性が一致

するという保証は在りません。(もし在れば、それは可能なリズムをある意味で

enfoldし尽くすのでかなり強い仮定であり、ここでの議論に合致しません。)仮に一

致していても、それはタマタマのことであり、本当の「この私」の影に過ぎないかも

しれないのです。

(ここまで常識を捨てるのは変だと思われますが、一方で宗教家、芸術家、かなり

イッチャッタ科学者?などの自己についてよく「考えた」ものと結構近いと思いま

す。)

かとうさんの「もちろんこの状態は関知できませんが」(Katoh-san:#393)は階梯

がリズムを必ずしも捉えきれない、むしろ生成の場面は捉えきれないのが普通だ、と

いうことです。

 

予め可能な単一の「この私」の場があるわけではない。

ここら辺がかとうさんの

Katoh-san:#393

>「私」の揺らぎも含めたものが「この私」なのだ、と言われそうな気もします

>が、でも、どうも私には確固たる(=単一の:Ken注)「この私」が瞬間の途切

>れもなく連続してる、というのは逆に想像し難いのです。

ということに関連すると思われます。

 

先に述べたように、リズムのズレが一つの複雑なリズムになる=新たなリズムが起こ

るためには、何らかの「繋がり」が必要です。その繋がりがすぐ上の引用の場合の

「この」として考えられているのではないかと思います。

ここでの「繋がり」は共鳴です。そうすると「この」の単一性は可能な共鳴全てを何

らかの形で把握することとなります。その一つが共鳴の場所を枚挙または囲い込むこ

とです。が、現に起こった、起こってしまった共鳴の場所以外の「可能な」共鳴の場

所を今、現に関わっているリズムのみから全て囲い込めるのでしょうか? 多分Noで

しょう。それほど強く全てを統制するのは存在論的にはウソクサイ。せいぜい、それ

らを端から「見る」、認識論的括り方として在り得るような気がする。

ここでのリズムの相互作用は現実の作用として、可能な作用の表現を作る基礎として

考えられています。投網システムはいくつかの階梯で働くシステムですから(ここに

さっきのenfoldの問題と「いくつかか=全て?」の問題が絡みます。)投網システム

が捕まえるのは私の影でしかない。そして投網システムを企てる「この私」は新たに

作られた(過去形に注意!)リズムであってこのリズムを作り出す(進行形or直後の

未来、意志)共鳴システムに関わる諸リズム全てではない。

このようにして「この私」の複数性、より正確には分散性が考えられます。

 

ここで気になるのは、複雑なリズムになる=新たなリズムとしたところです。前者は

通常の道具の音楽のレベルからの類推、例えば弦楽器が3/4拍子、打楽器が5/8拍

子で演奏している場合などです。ここには音波の重ね合わせがあってそれが複雑なリ

ズムを作っている、まひとさんに沿った考えが生きる構造があります。この問題は

「この」ということで我々がイメージするのは第一に時空位置・領域を囲い込むこ

と、「ここ」と近しいところから始まっている、ということです。

まひとさんが、

Mahito-san:#398

>「この私」の「この」は本当にそのままの意味で(しつこいくらいの)

>『この』であって絶対に、少しも、僅かなりとも、他ではない。

>だから、「この私」の連続は「私」の求めうる可能範囲での「この」

>でしかない。故に「この私」は揺らいだ存在としてそれを強化した

>形でしか現出しない。

というときの「本当にそのままの意味で(しつこいくらいの)『この』」は、もしか

するとこのような時空の「ここ」と既に強く結びついた「この」なのかもしれませ

ん。我々は抽象的にさえ「この概念」とか「この形式」という際にも、どっかしら空

間化されたイメージ、空間化する理解(の形態?)をとっているように思えます。そ

のような「この」では、位置を可能にする場所が既に与えられている前提となり、し

かも意味・論理・理解構造のベースに位置することになります。それゆえ共鳴の場で

の現にあるenfoldされた限りでのリズムの具現の関係が考えることの要素、どうして

も分解できない点になります。これは空間にブロック的に分解不能な要素があるので

はなく、空間ソノモノは連続していて、その点の中の構造に触れられないというイ

メージです。さらに「ここ」の構造が比較的単純でどこでも同型に見えること、これ

がuniversalな場所を設定する契機なのではないか、という気がします。

 

しかし、このような言葉、既存の言語システムへの依拠が全ての新しいリズムの場合

に根幹を成すとは限らない。まるで異なったリズムの生成があっていい気がする。

詳しくは述べませんが、その例が精神分析とくにラカンと多重人格あたりから考えら

れるのではないかと思います。ラカンはある意味で既存の言語システムへの依拠とい

うよりもその強制と服従としての正常性、逸脱としての精神病という文脈で考えてお

り、両者に通底する無意識の心の運動は中立的なものとして捉えようとしている気が

します。晩年の結び目による表記法などは、そのための新しい表現、ここで使ったメ

タファーで言えば時空とは異なった構造を持ちうる共鳴の場所の形式の探求と考えら

れると思ってます。

多重人格については多重人格における「この私」をどのように意義付けるか、という

問題を引き起こすことにより言語と意識および脳の関係を考え直させるようになると

思われるからです。(ここには身体と肉体の関係、記憶の問題、属性で決められる

「私」群に対する「この私」の「この」の意味、といったものも含まれます。)

 

まあ、

Mahito-san:#398

>本当はここには書きたいことが余りあるほどあるのですがそれは

>スパンをもっと大きくとらないと意味を盛り込めないでしょう。

とのことなので、RFCででも、もっとお話を伺いたいところですね。

 

(第一幕了)

 

Ken

From: "Ken Shiotani" <saltcat@bc4.so-net.ne.jp>

To: "qualiaML" <qualia@freeml.com>

Subject: [qualia:0419] Re:life-2 Siegfried

Date: Tue, 11 May 1999 03:00:57 +0900

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塩谷です。

長いと疲れるでしょ。ゴメンチャイ

 

(第ニ幕)

§2予測とパターンの可能性

 

このようにまひとさん(認識論的な道行)vsかとうさん(存在論的な道行)という対

比を付けてみました。分かりやすさの都合から、まひとさん、かとうさんの順に述べ

たのでかとうさん側にまひとさんを容れ込むような形になりました。

しかし、それは波とリズムのメタファーによっているからです。

このときここでの存在論的な道行では次の問題が生じます。

「一般に予測、それを可能にするパターンの成立ということをどの様に考えるか?」

認識論的な道行ではこの問題を、「それが知れるように、もしくはそれが可能となる

形としてそもそも基盤を作るよう投網システムを企てた。」と答えられそうです。た

だし、実際にどのようなパターンが成立するかは何も言いません。もう少し考えてみ

ましょう。

先に述べたように、

Ken:This mail

>基盤はこのような「様々な」可能性の具現を投網を打つようにして捉えます。

>「この波」といわれている、この「この」を、「単なる」「この」以上の「何

か」、

>繋がり得る「何か」であることを示したい、捉えたいという欲動?に基づきます。

ここでの「この」が上で述べたように、実際の我々に対する制約(言語的、物理的、

心理的etc.)に依拠しながらも、意味・論理・理解構造のベースにとってしまうた

め、かえってそれらの構造の基礎となる、「連続した」、「隙間のない」、

universalな階梯をつくるのです。しかし、まさに、この基盤化がベースとなってし

まうため、その階梯の構造が具体的には出てこないのです。きわめて基礎的な言語理

解、日常的な物理現象、頷きやすい心映えなどが中核として相互に関連し合うので

す。その上には如何なる言語システム、物理体系、心理学でも乗せることが出来ます

が、その乗せ方(これがrepresentationです。)、実際にどれを乗せるべきか(これ

が経験性です。)、乗せたものが中核にどの様に関わるか(これがapplicationで

す。)はすべて「可能」で塗りつぶされます。この辺はKantの超越論的議論とまった

く同じです。そしてここでも「私(Ich)」は只一人だけです。超越論的観念論、超越

論的独我論といわれるところです。(永井さんもこの道です。)

しかも、さっき述べたようにその中核は「見る」=視覚的枠組み(これはメタファー

ですよ。)に

依存している、強い影響を受けていることは事実と思われます。さらにこの「事実」

はKantでは決して問題になれない、理性の権利の外にある「物自体(Ding an sich)の

ような位置なき位置を占めています。

 

まひとさんが、

Mahito-san:#398

>私が本当に本当に本っ当に言いたいのはそれら思考実験で表される

>「この私」の非連続さは「この私」の非存在を問うものではなく、

>「この私」がいつ、いかなるところに「私」が現れようとそれは事実「この

>私」でしかない。だ・か・ら・「この私」が複数になることは不可能だ!とい

>うことです。

というときの「いつ、いかなるところ」、「現れる」、「それは事実××でしかな

い」ということを構成している、むしろ権利付けている議論が何であるかが問題です

が、もしかすると上のようなことかもしれない。

このことは非難ではありません。むしろ超越論的議論はものすごく強力な議論でそれ

を打ち破ることはまず不可能です。なぜなら自分で自分の面倒を見れる構造になって

いるからです。信念として持たれたら、まず説得は無理です。

超越論的議論はKantをチャンピオンとし、それ以降も、自己批判をし、取りこむ領

域、概念を変化、拡張させながらHegel、Schopenhauer、Marxのある面、現象学、

Wittgenstein、分析哲学の半分?(多分Keynesを含む)、Deleuze、Derrida、Lacan

のある側面、などなどに生き続けているのです。

その基本的な問題点は中核とそれによるベースの性格をどうするか、です。『純粋理

性批判』でのKantはそれをa prioriなものとしました。実践哲学や『判断力批判』で

はそれで収まらないというか、別の雰囲気、問題点のギャップをギャップとしたま

ま、むしろすることによって豊かな議論を伝えているような気がします。

Wittgensteinは生涯をかけて言語の理論(文法)と使用現場から考察しようとし、

Derridaは差延や散種、現前の拒否ということで領域を相転移させようとしたりして

います。

しかし僕の見るところ、どれも成功してはいません。

そこに掛かってくるのが機械や身体の操作性、科学・法則などの持つ(普遍性に示さ

れる)どうしようもなさ、実際の因果の強力さなど、中核と同様に、もしくは中核の

中で無定義用語ふうに使われているきわめて日常的・よく「生きて」いながら、よく

「知りはしない=説明できない」ことなのです。この問題にどう向き合うかは認識論

的道行をとる者のある意味で全てを掛けることになるように思ってます。しかし、認

識論的道行一般には固定した向き合い方はないし、最大公約数のところでは問題にす

るのを止める、中断しているといって良いでしょう。

 

では存在論的道行はどうするか? これもろくな答えは出てこない。

でも多くは先の問題に取り組もうとしており、とくに科学との親和性を考慮に入れて

いるものが多い。いわゆる有機体の哲学といわれる人々はそのように思えます。

(Leibniz、Whiteheadが僕は好き。)ただ難解だったり、飛躍があったり、科学の形

式に囚われすぎたり、そのために洞察が浅くなったりといった問題がよく見られま

す。

 

どっちにしろ問題はそのまま残っているわけです。

これに絡みそうなのが、お二人の

Katoh-san:#393

>このあたり、相互作用同時性の固有時の方は連続しているように感じられるの

>だけれども、物理的時間の方は関知しようがないことに似ている、と勝手に思

>っています。

Mahito-san:#398

>固有時の連続って面白い言葉ですね。

>連なりをすべて一点に凝縮してしまった物に対してさらにそれの

>連続性を問うというどこにもない恒常さの現れというか・・・

>(何が言いたいんだ。何が)

Katoh-san:#404

>私が注目したいのは、揺らいだことによって資源の方に変化は現れないだろう

>かということです。もちろん、この変化はいいものとは限りません。(善し悪

>しという価値観は私にはないのでどちらも「変化」ですが。)

>そして、この、資源に変化が起きる時には、「私」の変化だけではなく「この

>私」の不安定さをも必要としているのではないかということです。前のメール

>で述べたように、一直線な時間というのは想像しにくくなってますので、そう

>すると、重なり合っている瞬間もあるのではないかと想像してしまうのです。

>そのときって「この私」が多重になってるんではないかと。。。

Mahito-san:#412

>しかしもちろんこのまま心を追い求めても無限問答になってしま

>うでしょう。やはり「この私」を解くには心の存在がもう少し明確に

>なってからでしょうね。

 

といったあたりです。時間はもっとも基礎的で困った問題ですからね。

只、最初に挙げた両方の道行の対比と問題点となる「この私」の関係に時間的例示を

出したけど、僕は時間についての再検討は、もしかするとそれに関わってこの三分法

(両道行+問題の土俵としての「この私」)が大きく変化するのではないかと思いま

す。

その点を我田引水すればかとうさん(#404)の問題提起での「資源」は利用可能なも

のではなく、既に消費されているもの、私の世界を支えて且つ見えなくなっているも

のとして解すべきでしょう。まひとさんのそれに対する答え

Mahito-san:#412

>それはメタな視点

>からのことであって「この私」が見ているものではありえない。なぜなら

>「この私」にとってはそれがすべてであり(これが100%ということ)、揺ら

>ぎはない。ということは「この私」と「資源」は同じレベルの存在であり、

>「この私」から見て「私」が揺るがない以上「変化した資源」は察知しえな

>い。だから一番重要な「この私」の視点から見て変化しない「資源」は

>実質変わらない、ということです。

というのは、この意味での問題を回避した旨の宣言です。

 

しかし以下で見るまひとさんは問題をある形で捉えようとしています。

Mahito-san:#412

>最近少し思うのは心を考えるには脳科学の要素に新しい生物学を

>ミクスチュアしないといけないのかもしれないな、ということです。

>現在の生物学では(私の知識では多分)、生物は原子が組み合わ

>さって出来ている。ハイ、終わり。になっているような気がしますが

>その原子の組み合わせの構造というものがどんな意味を持つのか

>が非常に重要になってくると思うのです。

>もっというと遺伝子の持つ意味、なぜ進化という方向性を持つのか

>ということです。ここを「神の言語」という方へ逃げずに追い詰めて

>いくと新しい原子構造が見えてくるのでは?ということです。

と関わってきます。

僕の意見では、これは認識論的道行と存在論的道行の双方が、作用・機能ということ

について貧弱なイメージしか持っていないことによるものです。言いにくいので双方

とも先に使ったメタファーで話します。

 

認識論的道行では、波は「可能な」波の具現化されたものとして見られ、この両者の

存在の身分は後者が上のように感じられます。そしてこの「可能」は先に述べた「連

続した」、「隙間のない」、universalな階梯のポイントの集積に分解可能打として

捉えられます。この階梯、ここではむしろ(広義の)可能性の空間ですが、ここでの

作用は全てポイント間の関係と見なされます。そして作用は究極的には、このポイン

ト間の外的関係として考えられ、そのダイナミックスはいわばポイントにおける微分

法のようなものによって表されると考えられます。先ほど述べた中核の問題から「微

分法」のメカニズムがハッキリせず、かなり単純化したモデルであろうということが

考えられます。また、作用の層というか、レベルというかが基本的に一つしかありま

せん。それが合理的理解のレベルと合致します。

 

一方、存在論的道行では、リズムの間の「法則」がウマク考えられない。あるリズム

全体が他のリズムと出会うとき、共鳴の場所が可能になるけどリズムが細分化されな

い形で捉えられやすいため、構造が入りにくい。定式化するとなるとリズム全体を点

にして、考えることになってしまう。この場合のリズムの演算の「空間」は決してリ

ズムそのものの存在領域にはなれない。それが可能になると1)神の目で見た=存在

させた場所であるか2)全てのリズムがコーディング可能なuniversalな階梯である

か、という事になってしまうからです。こっちは様々な作用が在りうるけど、それら

を一挙に纏める場がない。それは作用の違い=リズムの差異を表す構造がなく、下手

な構造を入れるとuniversalな地が出てきてしまうからです。

 

(第ニ幕了)

 

Ken

From: "Ken Shiotani" <saltcat@bc4.so-net.ne.jp>

To: "qualiaML" <qualia@freeml.com>

Subject: [qualia:0420] Re:life-3 Goetterdaemmerung

Date: Tue, 11 May 1999 03:01:01 +0900

MIME-Version: 1.0

X-Priority: 3

X-MSMail-Priority: Normal

X-MimeOLE: Produced By Microsoft MimeOLE V4.72.2106.4

Sender: owner-qualia@freeml.com

Precedence: bulk

Reply-To: qualia@freeml.com

Delivered-To: FreeML mailing list qualia

 

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塩谷です。

 

これが最終幕。

(第三幕)

 

§3新しい道?

 

「そんならば上みたいに七面倒臭いこといわないで、両者を交互に使い分ければ良い

じゃんか」、という極めて健康な思考が出てきます。弁証法(dialectic)というのは

こう言った考え一般の名称です。

確かに、これは実行的に有効性のあるやり方です。この実効性の位置付けは後で触れ

ますが、ではその「使い分け」をどのように考えるのでしょう。いわゆる弁証法の論

理はここで躓きます。「事実さ。」というのは答えであり、且つ答えになっていな

い。事実そうなんだけど、起こって「しまった」事実なら常に認識論的道行が優位を

しめることになります。ここを梃子の支点としてダイナミックスを入れようとするの

が、解釈学的循環です。しかしその場合、「解釈」が宙に浮きます。この「宙吊り」

を認識論的道行の循環に従って安定させるのが一つのテではあります。シュールレア

リスムの一部や80年代ニューアカデミズムで、「宙吊り」は自虐的に肯定化されまし

たが…これは知性の自閉的オナニーでしょう。

 

もっと実際的に「使い分け」を対話(dialogs)における使用とすると次のような場合

が起きます。

Mahito-san:#412

> 「私」の揺らぎによって「資源」が変化するのは間違いない。ここは当然

> だと思います。(自由意思の問題を除けば。)しかし、それはメタな視点

> からのことであって「この私」が見ているものではありえない。

Katoh-san:#413

>> メタな視点から見たら「この私」は常に一つ、ということについては私も同感

>> です。というよりも、議論するための定義の方ですからね、「この私」は。

Mahito-san:#414

>あれ?超重大な相違が!(最近「超」って使うの好きなのです)

>私はメタな視点から見るのであれば「この私」が二人になっているよう

>感じることもあるかもしれない、と書いていたつもりだったのです。

>で、この「メタな視点」というのは傍観者から見たオリジナルとコピー人

>間と言う関係ではなく「「私」が「私」について考える」というときに現れる

>視点のことです。この場合「私」の視線は一回外に出てそこから「私」

>(前者の「私」は後者の「私」を「この私」として捉えている)を見るのです

>から傍観者足り、時空系列によっては「この私」が二人になることも

>やぶさかではないのです。(もちろんそれは少しも想像できることでは

>ないのですが。)

ここでの相違は「私」と「この私」というまさに問題になっていることの捉え方のズ

レでしょう。

なんとなくお二人の話しを関係付けられるように思われるかもしれませんが、それで

は茂木のいう「科学の暴力性」や「事実のどうしようもなさ」を避けてしまう恐れが

大です。それは事実に寄りかかっただけの態度です。逆に宙吊りの肯定に向かうと

Mahito-san:#414

>この問題で構造的に難しいのは問題を伝えることが出来ないことです。

>今回は運良く表面的に相違が発覚しましたがこれがもし私とかとうさんの

>間で合意が成立してしまったらもうその合意の内容が合っているかどうか

>は確かめようがないのです。

>ですからこの問題を私は「一人相撲大会」と呼ぶのです。

>これ、ジョークじゃありませんよ。念為何為。

ということになってしまいかねないのです。

ここで止まれば知性の自閉的オナニーのdead endでしょう。まひとさんの、

Mahito-san:#414

>私は人にレスしようとするとそこから言葉が出てきてそれを

>おっかけっこしながら書いているのです。で、捕まえられると良いのかと

>言うと逆で捕まえられないぎりぎりのところで逃げているときの方が良い

>文章が書けるのです。捕まえてしまうともうそこでdead endって感じで

>いくら考えても先に進めなくなります。

はその狭間をよく表しているように思います。

 

これらのことから、全く新しい作用の見方、接し方が必要だといえるでしょう。僕が

提案しているのがローカルな場所=背景とインターフェイスという考え方です。いま

までにこのMLやその他で述べたことは、学問的=パターン的な足元に原理を接続させ

る状況が多かったため、認識論的道行に近い語り口が多かったのですが、本質的には

認識論・存在論+現実という三分法を超えることが望みです。そのために背景のロー

カル性、そのある側面は物自体的事実への従属ということが入りますが、ここがまだ

うまく言えないし、一番分かってもらえません。

 

ここでのポイントは、作用の違うレベルを実際によく見ること、しかし「見る」にす

ると視覚的枠に影響されてすぐに認識論的枠組みに陥る。更に言えばベースの階梯の

「隙間のなさ」からこの「すぐに」は見る側からは「既に」に見える!のです。

 

(ちょっと寄り道だけど大切)

ひょっとするとこの、「すぐに」→「既に」/認識論的道行(→はλ計算のβリダク

ションのようなメタファーと考えてください。)は、視覚での同時性、相互作用同時

性の問題点と事実(物自体的事実)において絡まっているのかもしれません。このと

き視覚に対する議論が物自体的事実のレベル(のモデル)として働き得ることが「感

じられます」。このモデルをさらに一般パターンの記述法により書いたもの(モデル

のモデル性をモデル化したもの。ややこしい!)が形式的には認識論的道行の構造と

同型です。このときの形式・同型は本来、リズムと同じようによく分かっていないも

ののように思われるのですが、認識論的道行に入ってしまうと通常の中核の一部とな

ります。そしてuniversalityから中核の階梯がそこでのチャンピオン、極限として働

くのです。(閑話休題)

 

ですからここでの「見る」は「する」、「される」、「感じる」といった力のメタ

ファー、「物自体的事実」(これは認識論的道行からの反省的言い方で、そのものと

しての位置付け語ではないです。誤解の無いよう。)のレベルでの働きとして考えね

ばなりません。コノコトがクオリアに通じており、クオリアが心、私に根本的に重要

なパラダイムをもたらす可能性を秘めている点です。

まひとさんの

Mahito-san:#398

>QMのこともありますしこのまえ私が掲示板に書いたように

>私は芸術とかのメタファーを感じることができません。

>クオリアもクオリア自体を「みる」ことができないのです。

>必ず「クオリア」という意識を持ってクオリアを見ているのです。

>即ち、「理性覚」を持って。

>嘘です。単なるそれを持っている人に対する劣等感です。

 

にもあるように、クオリアについてのクオリアのレベルでの議論可能性はまだまだ受

精卵程度ですので、直接そこのレベルの話は避けます。

そのかわり、すぐに言えることは上の議論での「物自体的事実」はある意味で事実の

暴力性と強く関連します。それは科学の持つどうしようもなさ、でもあります。そこ

での「事実」を見よ、

理解のための枠組みに完全に委ねきることなく、ということがポイントになります。

僕は別のメールで神経と細胞の話を書きましたが、そこに科学を通したものではあっ

ても「事実的に」働きのレベルの違いが見出せるかもしれないと感じているからで

す。

それがまひとさんも指摘する、

「心を考えるには脳科学の要素に新しい生物学をミクスチュアしないといけないのか

もしれない:遺伝子の持つ意味、なぜ進化という方向性を持つのか:「神の言語」と

いう方へ逃げずに追い詰めていく:と新しい原子構造が見えてくるのでは?:(以上

Mahito-san:#412より)」と密接に関わってきます。これは「科学」というフィル

ター越しに新しい道を探す方向を暗示していそうです。

そして弁証法の実効的有効性も同じように、ただし「する」にウェイトが大きく掛

かっている現われとして考えることが出来ると思っています。

また、まひとさんが、さきに引用した「ただひたすらに「この私」が見ているものと

して「この私」を考えなければいけない」(Mahito-san:#412)の直前で言ってい

る、

Mahito-san:#412

>そのことからいって、「この私1」は「この私2」が「この私3」を感じること

>に他ならない。(「この私3」はイマ、ココで考えている私。「この私2」は

>それを感じているココロ。

というところの「感じる」、「ココロ」ということをどの様に考えているかが気にな

ります。

認識論的道行もしかするとまひとさんの議論そのものでもこの二つがクオリア的な意

味で十分には働いていないかもしれない。ただ突破口は道行の中に「既に」(ああ、

この既には難しい!!)呼びかけているということは確かであり、まひとさんもそこ

は「感じて」(笑)いることと思います。

 

さてここまでが、大雑把にお二人の話しを「ミクロなところの「この私」の多発の

話」(Katoh-san:#393)を中心に、ちょっぴり「マクロなところ」(Katoh-san:

#393)の匂いを嗅いで来ました。(時空や日常生活のサイズということではない、働

きとしてのマクロなところでの「議論」は今のところまず出来ないんですよ、かとう

さん。)

でも、マクロがどのようにありそうか?

これはクオリアの層(羽尻さん、憶えてる?)にも大きく関わります。

その一つの戦略拠点が「感情」ではないかと思います。

この話しは大きくなりすぎるので、お二人のやり取りにちょっとしたことだけを。

Q.M.#14にもあったようにそこへの手掛かりは詩や音楽です。(音楽がまた巡ってき

た。これがリズムです。It's a half joke!)

宮澤賢治の詩集「春と修羅」の「序」は、僕も非常に好きです。でも意味ではなく、

それらを連ねる謳い上げられているもののリズム(音声・音韻的リズムはその共鳴を

受けているに過ぎない!)が「しっくりくる」のではないかと思います。

羽尻さんの言う言葉の空所性はこのリズムが共鳴を「受ける」音声・音韻・表記など

の道具の音楽のところではenfoldされてすべて展開されずに、しかし通路として通っ

て行くということかもしれませんね。(無限後退の循環のチューブの中を!?)

 

Katoh-san:#404

>おそらくですが、宮澤賢治は一般的に言われるところの芸術活動をイメージし

>てなかったと思います。だから、自分の詩も「詩」と言わずに「心象スケッチ」

>と呼んだんだと思うんですね。

「一般的に言われるところの芸術活動をイメージ」して仕事をしてれば、それだけで

三流以下の証でしょうね。きっと詩人はココロの状態でなく、感情もその一つの現わ

れであろうココロのリズム(上に上げたメタファーに近い意味で)に共鳴する場を作

ることに生きると思います。

その意味では「スケッチ」の「技法」が賢治には大変な問題だったではないでしょう

か。

「心象スケッチ」は「心象」の「スケッチ」、単純な模写ではないと感じます。

 

序の最後はこうです。

 

  すべてこれらの命題は

  心象や時間それ自身の性質として

  第四次延長のなかで主張されます

 

命題、時間、時間と違うように思われる第四次延長、主張、

どれも大変な言葉ではありませんか!

(賢治は相対論を聞きかじっていたらしいとのうわさを聞きましたが、時間と第四次

延長の違いは彼が相対論を知っていたとしたら、その限界を感得していたのかもしれ

ません。)

 

そこでは

Mahito-san:#412

>宮澤賢治が自分の詩を心象スケッチと呼んだのはそれが彼のイメージ

>(クオリア?)だったからで私がそれを見て詩と思う以上彼の「心象スケ

>ッチ」を私は感じることができないでしょうね。私が感じられるのはその

>意味を私的に、詩的に感じることだけでしょう。

というレベルを突っ切ろうとしているように思います。

もちろん、傍目で「見る」と、事実としては突っ切れていないかもしれないけれど。

 

ちなみに僕が好きなほかの詩人は(人よりもここの作品で選ぶ方が多いですが)萩原

朔太郎、ポー、泉鏡花(これは小説)といったところですかな。

 

(第三幕了)

 

ああ、長くなってしまったが、言葉が追いつかない。疲れた。(これ書くのに夜明か

し+昼の作業で9時間!)

 

(一巻の終わり)

 

Ken