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心脳問題ml、最も印象に残った投稿賞

qualia ml Most Impressive Submission Award

[qualia:2001] - [qualia:3000]

(Sat, 26 Feb 2000 23:04:45 -Wed, 19 Jul 2000 12:06:02 +0900)

中野 昌宏

[qualia:2830] Re: 大塚洋子氏への公開質問状

 

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Date: Mon, 10 Jul 2000 18:50:45 +0900

From: Masahiro NAKANO <nakano@cc.oita-u.ac.jp>

To: qualia@freeml.com

Subject: [qualia:2830] Re: 大塚洋子氏への公開質問状

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大分大学の中野といいます。ラカンを研究しています。

 

我慢できなくなってきました。「公開」質問状である以上,ここへ私が割り込ん

でもいいでしょう。

 

bartok> さて、大塚さんは

bartok>

bartok> 大塚>ソーカルがラカンたちにもとめるのとおなじように。

bartok> 大塚>わたしは「科学」に謙虚さをもとめます。

bartok>

bartok> と言っているからには、ご自身は十分に謙虚なのでしょうね。それでは、

bartok> 大塚さんの言説を検証させていただきます。

 

伊藤さんは,自分は「知的誠実」で大塚さんが「知的不誠実」だと言いたいよう

ですが,私の感覚ではまったく逆です。論理実証主義が自らの「厳密な」,厳密

すぎる方法論を徹底することで,逆にそれにうち負かされたのは周知の事実では

ないのですか? 伊藤さんの立場は,論理実証主義の運動史において「厳密」な

意味で自己論駁的だとされてきたものであるように見えます。

 

Aardvarkさんに答えて,大塚さんが指摘していますが,

 

> わたしはその論理実証性、厳密性のあやしさについてもちょっとうたがってみてもい

> いのでは

>

> とおもうのです。

 

ここです。むしろ,実はこのあやしさって科学論では逆に確認済みでしょう? 

伊藤さんもこの議論をご存じなのではないのですか? 知的誠実を云々しながら,

どうしてそうした立場を維持しよう・維持できると思えるのかが私には理解でき

ません。やっぱり端的に不誠実なのだとしか思えません。

 

大塚さんが必要だという「謙虚さ」とは,自分の意見が絶対であることは証明で

きないということを自ら知っておかなくちゃいけない,という意味だと思います。

この点で,私は大塚さんの見解に全面的に賛成です。だいたいポストモダニスト

だってもともとはそういう絶対的思考を何とかして相対化しようとしていたわけ

で,そこを押さえれば彼らの主張は神秘的でも意味不明でも何でもありません。

むしろ「意図が丸見え」とか,「手を変え品を変え同じことばかりやっている」

とかいう点について彼らを批判する必要があるくらいです。

 

ただそう言うと「anything goes」ということになってしまうのが許せん,という

向きもあろうかと思いますが,私もまったくそう思います。しかし「絶対的に正

しい意見はない」ということから必然的に「何でもあり」とまで言わなくてもい

いわけでしょう。個人の意見としては,つまり個人の確信,確実性の問題という

のがあるのだから,自分はこの仮説でとりあえず行こうと思っている,それでで

きるだけやってみて,反証があれば考え直そう,というのが「知的誠実」なんじ

ゃないでしょうか? 実際アメリカのポストモダニストであるリチャード・ロー

ティーの「自文化中心主義」の概念はそうしたもので,リオタール的(anything

goes的な)考えとは対局にあるものです。みなさん「ポストモダン」というと十

把一絡げですが。

 

そりゃ彼らの主張には,細かい部分にいろいろ間違いはありますが(だから文系

の人間にもそれなりに言うべきことがあるわけで),全体としてみればぜんぜん

理解可能です(冗長だという批判なら当たっていると思いますが)。ドナルド・

デイヴィドソンの言う「慈愛の原理 principle of charity」(相手の言っている

ことはつじつまが合っていて理解可能である,ということをまず最初に仮定する

こと)が,理解とか解釈という場面には必ず必要です。当たり前のことですが,

最初から批判する意図で読んでいてもダメです。読んでいて何にも読めないはず。

「ひょっとすると,こいつが正しいのかもしれない……」とちょっとは思いなが

ら読むことです。読むんならです。理解したくなきゃ読まないことです。

 

bartok> 私は、科学者の(といっても物理学や工学しか知らないが)専門的な論文

bartok> や専門書で「詩や文学を濫用」している例を知らないのですが、大塚さん

bartok> は知っていると言うのですね。

bartok> では、その具体例を挙げていただきたい。(一般向け啓蒙書はダメですよ。)

 

別に具体例なんて挙げなくたっていいでしょう。だいたい,ちょっとした間違い

があるということを1個挙げてどうしようっていうんですか。本当に,そんなこと

が本質的だと思っているんですか? しかも何で「一般向け啓蒙書は除く」なん

ですか。一般向けの方がよほどたちが悪いのに。実は単にそれを入れるとものす

ごく多くなるからでしょう?

 

誤解くらい誰にでもあるし,それを本に書いていけないこともない。しかもそれ

が即,知的不誠実というわけでもない。単なる誤解なのか,知的不誠実なのかを

区別する厳密な検証方法はありますか? どっちにしたって,あれ間違ってまし

たよ,ああそうですかすみません,ってなもんです。その人にとって自分の専門

じゃないことは。そりゃあどうでもいいとも思いませんけど。自分の専門領域で

やってることとちょっと近いかも,みたいに自分の知ってることを提示すること

自体は,読者の理解を助けるためにと思って著者はやっているわけだし,別にや

ってもいいんじゃないんですか? (ソーカルはポストモダニストが「読者の理

解のために……」と思っていない,ということを主張しているのかもしれません

が,そういう意図こそ検証不能でしょう。)

 

bartok> 仮に、科学の専門的な論文なり専門書なりで、文学や詩や哲学の「大家」

bartok> の用語や論理を、その内容を理解していないのに濫用して、読者を煙に巻

bartok> き、その文学者や詩人や哲学者の権威に訴えて自分の主張を正当化するよ

bartok> うな議論があれば、そんなのは批判されて当然でしょう。

 

では聞きますが,ある命題の「真理性」とか,もっとマイルドに言い換えて「説

得力」でもいいですが,そういうものを伊藤さんはどこから調達するんですか?

たとえばこのMLでもみんな,松浦さんに「物理学の教科書を勉強しろ」とか言っ

てたじゃないですか。忘れてもらっては困りますが,物理学の教科書ははっきり

と「権威」であり,従来物理学界で「標準」として言われてきたこと,物理学界

で一般に信じられていることが書かれた代物ですよね。もし権威に頼るなと言い

たいのなら,松浦さんに直接この場で,教科書に頼らずに一から物理学を教授す

るのが言行一致っていうもんじゃないですか? もちろん他人の実験報告も信じ

ちゃダメですよ。全部ご自分で追試してください。

 

私はもちろん,そんなことが可能だとも必要だとも思いません。教科書けっこう。

言いたいことは,要するにいまの自分の信念群は,ただ単にロジカルに考えた場

合には,過去の他人の信念(往々にしてあからさまな「権威」)か,自分の体験

といったような個人的個別的で一般化しがたい経験にしか支えられていないとい

うことです。ひらたく言えば,現在の自分の信念は,人から聞いたことと自分の

見たことによってしか支えられていないということです。にもかかわらず,かり

にそういうことすべてを知っていたとしても,人間,相対主義者としては生きら

れなくて,それでもやはり自分にとってはそれがもっとも確実だと感じられる理

論をもつものだ,ということです。もちろんどの理論がもっとも確実だと言える

かというところで,しっかり考えないといけなくて,そこで踏み外すと「と」の

方面へ行ってしまうわけですが,少なくとも,それにすがれば大丈夫と言える確

固たる地盤があるわけではない,というのはむしろ科学的事実です。自分の依拠

する理論が未来永劫唯一絶対だといわんばかりの伊藤さんの態度はどうかしてい

ます。それこそ「信仰」というほかない。

 

筆者が読者に自分の見解を聞いてもらおうというときには,必ずレトリックとい

う問題がでてきます。「わかりやすく伝える」というのも一つのレトリックであ

り,一つの戦略です。しかしフランス人のように,一見わからないものを見せて

「何だろう?」と相手に思ってもらうのもまたひとつの戦略です。フランスでは

伝統的にそうした戦略が有効だったというだけの話です。そりゃ好き嫌いはある

だろうし,私自身もラカンを含めてフランス人の文体は嫌いで,アメリカ的なほ

うが好きです。しかしそれは個人的問題で,別に議論の本質じゃない。ただしラ

カンは意図的にそれをやっていましたよ。そうすることで聴衆を引きつけること

ができるというのは,彼の理論の一部でしたから。しかしそれはいけないことな

んでしょうか? 聴衆に聞く耳持ってもらおうということが。(このへん,問題

になりそうですね。)

 

だいたい,ちょっと読者や聴衆をバカにしすぎなんじゃないですか? 彼らだっ

て,わけのわからん権威に惑わされたり本当にしてるんでしょうか? 自分が理

解できないからスゴイ,なんて,少なくともちゃんとした人は言いませんよ。ソー

カルはまさにその裏返しなんですが。

 

bartok> こう断言されるからには、、大塚さんは、トポロジー理論とか、無限集合

bartok> 論における連続体仮説とか、選択公理とか、流体力学とか、特殊相対論と

bartok> か、カオス理論とか、ゲーデルの定理とかをきちんと理解しているのです

bartok> ね。その上で、「ソーカルの抜粋したもの」には明瞭な意味があるとおっ

bartok> しゃるのですね。

 

これは言いがかりです。ラカンやクリステヴァやその他もろもろの人たちがいわ

んとすることを理解するのに,トポロジーがどうしても「必要」なわけじゃない。

それは「利用できる」だけです。彼らは自分の主張を読者や聴衆に「納得」させ

るために(「理解」とはちょと違う)それを利用しているにすぎない。むしろ彼

らの言いたいことのポイントをつかめば何でそんな説明をしているのかは明瞭に

わかります。「「ソーカルの抜粋したもの」には明瞭な意味がある」,まったく

そのとおりです。むしろまったく「意味がない」っていうことを証明できますか?

ここで確認しておきますが,ソーカルが証明したのは「意味がない」っていうこ

とじゃないですよね? 従来の数学の概念からすると間違っている,ということ

だけです。それとも,「検証によって真か偽に決定できない命題は無意味だ」と

いまだにお考えなのですか? 

 

トポロジーの記述が間違ってりゃ,別の記述から理解すればいいだけです。した

がって本当の問題は,にもかかわらずソーカルが「彼らの主張は意味不明だ」と

言っている点です。これこそ「知的不誠実」の見本です。理解しようという努力

をまったくせずに,自分が理解不能なものを「意味不明だ」と言い張ることはい

くらでも可能です。先駆的業績(彼らの著作をそこまで評価する気はありません

が)はいつもそういう世間の無理解にさらされるものでしょう? ゲーデルでも

カントールでも。自分が理解できないから批判するというんじゃなく,まったく

逆に,自分が理解できてないものはちゃんと(内在的に)批判できない,と考え

ることこそが「知的誠実」です。

 

あと,何をもって「間違い」と言えるのかということも慎重に考えなければいけ

ない。フランシス・ベーコンが言うような「決定的実験」はありえないというこ

とは,21世紀も見えてきた現在の科学論ではすでにはっきりしていることではな

いのですか。ソーカルが言っているのは「彼らの数学的概念の用法は,従来の数

学的概念とは違っている」ということであり,従来の数学的概念を別に言いたい

わけではない筆者たちは,それを自分の理論の説明のためにアレンジしているだ

けです。したがってそれを「間違い」と言えるかどうかも疑わしい。横領された

ほうが怒るのはわかりますが。そんなもん怒ってもしょうがないでしょ。外野な

のに。しかしまあ,文句は文句として,ソーカルのようにちゃんと言うことは悪

いことではありませんけど。

 

東大の池上さんも以前ここでちらっとおっしゃってましたが,だいたいソーカル

がたとえばラカンをどれだけ読んだというんですか? ちょろちょろっと読んで,

あーこれは違うとか何とか。そういうのはクワインが批判した「還元主義」って

いうんじゃないんですか? 堀茂樹さんの論評で,「長めに引用しているんだか

ら,重箱の隅をつついていることにはならない」という意味のことが書かれてい

ましたが,私の印象では彼が挙げているのは全部部分的かつ表面的な問題です。

(ま,私が言っているのはとりあえずとくにラカンの部分ですけどね。ポストモ

ダンと言ってもいろいろあるので。私自身,いわゆるポストモダンには対抗する

意図をもって研究を進めてます。読みながら,「もっとクリアに言えるやろ」と

つっこみを入れながら。いま「もっとクリアに言う」ための作業をしていますが。

この感覚自体はソーカル支持者の皆さんとそうかわらないと思っています。)

 

それこそ全体論的に,ラカンの全著作とフロイトの全著作を読み,クライン,ウィ

ニコット,ビオンとのポジションの違いを視野に入れて,彼の理論の核心を理解

したうえで,しかも本質的な瑕疵になるような数学的誤解を指摘できたのなら,

この手の批判も認めましょう。というか認めるべきですね。そしてそれが伊藤さ

んにできれば,ソーカル以上に世界的に高く評価されてしかるべきです。むろん

ご興味はないでしょうから,そうする必要はありませんが,そうしないのなら少

なくともその高圧的な物言いはやめるべきです。

 

bartok> それなら、「ソーカルの抜粋したもの」にどういう意味があるのか、どれ

bartok> でもよいから例を挙げて説明していただきたい。

 

やってさしあげたいところですが,だいたいにおいて,抜粋されているところは

書かれているとおりの意味ですよ。それよりも抜粋と抜粋のあいだがどうつなが

っているかという文脈を埋めるのが大変です。抜粋は枝葉で,そっちが本体です

からね。それこそ今度はこちらが「教科書を読め」と言うべきところじゃないで

すか?

 

解釈というのは,やろうと思えばいかようにも可能でしょう。みんながフロイト

批判としてよく言うみたいに。だから問題の箇所は好きなように解釈してくださ

い。解釈がつかないというのはやる気がないだけです。別にいいですけど。やる

気なくても。こういうディスコミュニケーションの状況で,個人の信念の内容に

ついてまでこちらの言い分を押しつけたりはしません。ただし彼らポストモダニ

ストの言説を理解することに興味がないなら,単純に撤退すべきです。

 

bartok> これに対する答えを見て、私は大塚さんの知的誠実度を判断します。

 

こういうことを言うかなあ。たぶん,伊藤さんと私が論争をしても私には勝ち目

はないでしょうね(勝ち負けがあるとして)。私は相手の話を聞いてしまいます

ので。伊藤さんもひょっとすると実は誠実な方かもしれませんが(ほかの議論を

見ているかぎりでは),大塚さんに対する高飛車な挑戦的態度と,そこに表れて

いる揺るぎなさそうな自信から見て,結局やっていることは誠実というにはほど

遠い傲慢だと言わざるをえません。

 

私が伊藤さんに言いたいのは,いまもっておられる自信が100なら,それを80か

90くらいにしておいてほしいということです。ただそれだけです。別に造作もな

いことでしょう。そうすれば理性的な対話の道もありうるということです。いか

がですか。

 

まあ,われわれみたいな人種は,ここでは多勢に無勢ですかねぇ。やっぱ撤退あ

るのみですか。そうではないことを祈ります。

 

 

Masahiro NAKANO / 中野 昌宏

 

Faculty of Economics, Oita University, JAPAN

http://www.ec.oita-u.ac.jp/~nakano/

 

 

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第3回最も印象に残った投稿賞(qualia:2001-3000)

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