思い出せない記憶 ー三木成夫との出会いー
茂木健一郎 『脳と仮想』(新潮社)より

 思い出せない記憶のことを考え始めたのは、三木成夫がきっかけである。もっとも、三木成夫の著書を読んで、ということではない。
 昔、芸大(東京芸術大学)に三木成夫という生物学の人がいたらしい、ということは薄々知っていた。数年前から、ことあるごとに、「三木成夫という人がね」と周囲の人々が噂するのを聞いていた。解剖学の先生で、生物の形態や進化の問題について、ずいぶんユニークなことを言っていたらしい、ということも理解していた。人間の胎児が、その成長の過程で魚類や両生類や爬虫類などの形態を経る、ということを「生命記憶」という概念を用いて議論していたらしいという知識もあった。
 しかし、今までの人生の中で、三木成夫という人は、なぜか私には縁もゆかりもない人だった。「ミキシゲオ」という名前だけがまるで古代の記号のように私のアタマの中に刻印され、その思想が気にはなってはいたけれども、また、いつかはその著作を手にとってみたいとは思っていたけれども、実際に接することがなかった。私の信頼する人たちが尊敬の念を込めて言及するが、私にはよくわからない記号として、「ミキシゲオ」は宙に浮いていたのである。
 そのようなミキシゲオの塩漬け状態が変わるきっかけになったのが、新潮社の雑誌『考える人』の特集記事であった。布施英利や養老孟司が三木成夫の思い出を語っていた。養老さんによる文章の中に、三木さんが、東大医学部で特別講義をして、終わった後で拍手が起こった、という記述があった。そうか、ミキシゲオは、芸大にいたけども、東大の医学部で特別講義もすることがあった人なんだなあ、と思った。
 読んだ時にはそう思っただけだったのだが、読み終わったしばらく後に道を歩いていて、突然はっとした。
 どうやら、私は、三木成夫の講演を一度だけ聞いたことがあるような気がしはじめたのである。
 あれは、私が大学の学部を出たばかりのことだったように思う。当時のガールフレンドと東京大学の本郷キャンパスを歩いていた私は、偶然、その講演のポスターを見つけたのである。「胎児」に関する講演らしかった。その胎児というイメージが、文字として入ってきたのか、あるいは写真や絵として入ってきたのか今となってははっきりしない。いずれにせよ、私たちは、何となくそのポスターに心を引かれて会場へと向かった。
 東大医学部一号館のその教室の中は、人で一杯だった。私とガールフレンドは、立ち見の人々で立錐の余地もない部屋の一番後ろに立って、その講演を聞いた。人間の胎児の写真を、スライドで次から次へとたくさん見せられたように思う。その中で、その講演者は胎児がその胎内の成長の途中で、「上陸する」というような話をしていたように記憶する。具体的な内容は忘れてしまったが、とにかく、それまでもそれ以降も他では聞いたことのない、異様な迫力と気配に満ちた講演であった。一時間はあっという間に過ぎ、講演が終わると、私も他の人たちと一緒に夢中で拍手をしていた。
 部屋の明かりがついて、私は、ふと、自分の胸のあたりが濡れていることに気がついた。どうしたのだろう、と傍らを見ると、ガールフレンドがぼろぼろ泣いていた。その涙が私の上着の上にこぼれかかって、胸のあたりが濡れていたのだ。
 やがて、暗い教室からさわやかな風が吹く野外へと出た私たちは、歩きながらたった今終わった講演について感想を語り合った。どうして泣いたの、と私が聞くと、ガールフレンドは、「今の講演を聞いていて、何で、人間は戦争なんかするんだろうと思った」というような意味のことを言ったような記憶がある。
 いろいろな状況を総合すると、その講演を聞いたのは、1985年くらいのことのようである。三木成夫の講演を聞いたことがあるという考えは、ここ数年周囲でミキシゲオ、ミキシゲオとその名前を聞いている間、一瞬たりとも私の心をよぎりはしなかった。あの講演をした人が、ミキシゲオその人だということに思いが至らなかったし、そもそも講演を聞いたこと自体を思い出すこともなかった。しかし、『考える人』の三木成夫特集がきっかけとなって、いろいろ考えれば考えるほど、あれは三木成夫だったような気がしてきた。あのような状況であのような話をする人は、三木成夫以外にはあり得ないような気がしてきた。
 どうしても気になって、布施英利さんに確認すると、それはきっと東大の五月祭での講演でしょうと言う。三木成夫は東大で二回講演していて、一回目は布施さんも養老さんもいたが、二回目はいなかった。その二回目の、私たちがいなかった講演に、茂木さんは行かれたのでしょう、と布施さんがいう。
 もしそうだとすれば、三木成夫さんが亡くなったのは、1987年のことだから、私はギリギリ間にあったということになる。

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