脳科学ニュース

「クオリア・ミステリー」より転載)

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○ 「太陽はどこ?」 (Qualia Mystery #1 1999.1.30)

上半分が明るい楕円形は手前に突き出しているように、下半分が明るい楕円形は向こう側に引っ込んでいるように見えます。これは、私たちが、通常「光源は上にある」という仮定の下にものの形を判断するからです。

Nature Neuroscience, vol 1, n. 3, pag. 183-184. July 1998.に掲載されたJennifer Y. Sun & Pietro PeronaのWhere is the sun?という論文では、右利きの人の場合、光源が真上よりもやや左側にある場合にできる陰影パターンの方が、凹凸をすばやく判断できるという実験結果を示しました。右利きの場合、左側に光源があった方が様々な作業がやりやすいわけですが、このような環境との関係が実際に私たちの視覚に影響を与えることが示されたわけです。

○「自分で自分はくすぐれない」 (Qualia Mystery #2 1999.2.3)

 自分で自分をくすぐることができないのは良く知られた事実です。また、強盗に脅かされている時にくすぐられてもくすぐったくないでしょう。自分がさわっても他人がさわっても皮膚から入力される感覚刺激は同じです。皮膚への刺激が自分の行動によるのかどうかという情報や、相手との関係、自分をとりまく状況など、高度な情報処理を経て「くすぐったい」という感覚が生じているものと思われます。Nature Neuroscience November 1998 Volume 1 Number 7 pp 635- 640に掲載された、Daniel M. Wolpert, Chris D. Frith & Sarah-J. BlakemoreらによるCentral cancellation of self-produced tickle sensationという論文では、 fMRI を用いて、この問題を研究しています。自分で自分をくすぐった場合には、刺激の原因が外部にある場合に比べて、大脳皮質の体性感覚野の活動が低下していることが発見されました。一方、運動制御を司る小脳でも、自分自身に皮膚刺激を生じさせるような運動では、そうでない運動に比べて低いレベルの活動しか見られませんでした。これらの結果から、著者たちは、小脳には運動の結果生じる感覚刺激を予測する機能があり、この情報が大脳皮質の体性感覚野へのシグナルをキャンセルするのに用いられているのではないかと示唆しています。

○「統合されて、しかも多様なのが意識」(Qualia Mystery #3 1999.2.10)

  またもや(?)ノーベル賞学者が意識のモデルを提出しました。アメリカの雑誌Science 282, 1846-1851 (1998)に掲載されたGiulio Tonini & G.M. Edelman のConsciousness and Complexity という論文です。Edelmanは、抗体分子の化学構造の発見に対して1972年度のノーベル生理医学賞を受賞した生物学者です。やはり意識に関するモデルを出し続けているノーベル賞学者としては、DNAの2重らせん構造を発見したFrancis Crickがいます。彼等は、同じSan Diegoという都市に住んでいながら、あまり仲が良くないようです。

 エーデルマンらの意識のモデルの特徴は、脳の中のニューロンの活動が統合(integrated)されて、しかも多様(differentiated)でなければならないとしている点です。そして、統合性も多様性も高い状態で活動するニューロンのグループだけが、意識に寄与するという仮説を提案しています。彼らは、これをdynamic core hypothesisと呼んでいます。最近の神経生理学の研究者の一部に、統合性の基準として、ニューロンが同期して発火することを重視する傾向があった(たとえば、「結び付け問題」を研究しているドイツのWolf Singerなど)ことを思えば、Edelmanらの論文は、「意識はそんなに単純じゃないよ、統合されるだけじゃ駄目なんだよ」という警鐘としてそれなりの価値があると言えるでしょう。

 

注 「結び付け問題」(binding problem) 脳の異なる領域で解析された情報(視覚で言えば、色、形、動きなど)が、どのように統合されて、一つの世界像にまとめあげられているかという問題

 

○「脳を観る」は何を見ているのか? (Qualia Mystery #4 1999.2.18)

 最近の脳研究の重要なトレンドの一つは、PETやfMRIなどの手法を用いた非侵襲計測です。(日経サイエンス社から出版されている「脳を観る」は、手に入れやすい入門書です)。PET(Positron Emission Tomography)は

O、C、Fなどの元素の放射性同位体を含む生体高分子(例えば、脳代謝を反映するフルオロデオキシグルコース)から出る陽電子の対消滅の際に放出されるγ線を用いた計測法です。また、fMRI(functional magnetic resonance imaging)は、ヘモグロビンと酸素の結合状態を反映した静磁場の変化をみています。どちらの手法も脳の代謝レベルを反映していて、ある特定の情報処理を脳が行っている時に、脳のどの部位が特に活性化するかという情報が得られます。つまり、脳の機能局在に関するデータが得られるわけです。

 脳の情報処理を考える際に、本当に欲しい情報は、ニューロンの発火(活動電位)の様子です。問題になるのは、PETやfMRIで得られる代謝(グルコースの消費)の変化が、ニューロンの発火とどのように結びついているのかという点です。

 Science 283, 496-497 (1999)のEnergy on Demandという論文では、Magistrettiらが、ニューロンの活動とグルコースの消費に関する最近の知見をまとめています。それによると、脳全体のグルコース消費量のうち、80%〜90%が、興奮性神経伝達物質であるグルタミン酸を放出するニューロンの活動によるものであり、さらに、このうちかなりの部分がグルタミン酸のリサイクリングに要するエネルギーだとしています。ニューロンとニューロンをつなぐシナプスの間に放出されたグルタミン酸は、レセプターに結合して情報を伝えるとともに、急速にニューロンを取り囲む星状細胞(astrocyte)によって吸収され、グルタミンに変換されます。その後、グルタミンは、星状細胞から放出され、再びニューロン側に吸収され、グルタミン酸に変換され直すのです。このリサイクリングの過程で、生体のエネルギー分子であるATPが消費され、ATPの減少を補うためにグルコースが消費されるというわけです。

 もともと、脳がこのような面倒なリサイクリングを行うのは、シナプスにおける神経伝達物質の放出と吸収を繰り返すことによって情報の時間的分解能を高めるためです。その際に消費されるエネルギーが、fMRIやPETで「脳を観る」際のシグナルになっているようです。

○「衝突までの時間」(Qualia Mystery #5 1999.2.26)

 飛行している鳩の前に、障害物が表れたとしましょう。鳩は、どのようにして障害物に衝突するのを避けるのでしょうか? 問題点の一つは、テクスチャなどの手がかりがない場合、障害物の大きさや、障害物までの距離を確実に知る方法がないことです。例えば、同じ形をした1メートルの大きさの物体が10メートル先にあるの状況と、2メートルの大きさの物体が20メートル先にある状況は、テクスチャなどの手がかりがなければ区別がつきません。

 実は、このような場合でも、「衝突するまでの時間」(time to collision)を検出するという戦略をとると、物体の大きさや距離に関係なく常に計算が可能になります。ただし、一定の速度で障害物に向かって飛行しているものと仮定します。具体的には、物体の中心から端までの視角のタンジェントの自然対数を時間微分したものが、衝突するまでの時間の逆数となります。衝突するまでの時間ならば、どのような状況でも計算できるわけで、実際、鳩を含めた生物種がそのような戦略をとっています。

 少し古くなりますが、Wangらが発表したTime to Collision is signalled by neurons in the nucleus rotundus of pigeons (Nature 356, 236-238 (1992))の論文は、鳩の脳のnucleus rotundusと呼ばれる領域が、「衝突するまでの時間」を計算しており、ほぼ衝突1秒前になると発火するニューロンがあることを報告しました。著者らも書いているように、このような研究は、今回紹介したアフォーダンスの概念を提唱したギブソンの強い影響を受けています。「衝突するまでの時間」は、ギブソン的な意味での環境に埋め込まれた認識の、もっともよく研究された例であると言えます。

 

○ 運動錯視の不思議な性質 (Qualia Mystery #6 1999.3.5)

 

 一定時間ある方向の運動を見ていて、それから別の静止した風景を見ると、今まで見ていた運動方向とは逆に運動の錯視が生じます。例えば、黒い渦巻きが描かれた白い円盤を回してしばらく眺めてから風景を見ると、風景が逆巻きの渦巻き方向にぎゅうとしぼむような錯視が生じます。このような錯視を、運動残効(motion aftereffect)と言います。

 運動の錯視は、不思議な性質を持っています。ある点が運動しているような錯視が生じたとすると、本来その点は動くはずです。ところが、錯視である以上、その点の位置は時間が経過しても同じ場所にあります。本来、速度に時間をかければ変位が生じるはずですが、運動錯視では、速度が有限の値として知覚されても、変位は結局effectiveには0になってしまうと考えられます。

 Nature 397, 610-612に掲載されたNishida & JohnstonのInfluence of motion signals on the perceived position of spatial patternという論文では、運動錯視に伴って、微少な位置のずれが生じていることを報告しました。回転する風車のパターンを見せて、その後静止した風車のパターンを見せたところ、運動残効とともに、風車の羽根の方角が微妙にずれていることが見い出されました。この位置のずれは、錯視される運動の速度から予想される値の8%程度でした。つまり、運動錯視で実際に微少な位置のずれが生じていることが見い出されたわけです。

 細かい技術的な点でいろいろ論議を呼びそうな研究ですが、本質的なポイントは、「動きがあるのに位置が変わらない」という運動錯視の基本線の上で、脳が速度の存在と位置の変化の関係を「矛盾のない」ものにするために、実際に位置が少しずれたものとして認識する、しかしずれの大きさは、視覚像全体を動かしてしまわないほどの小さなものであるという点にあると言えるでしょう。

  (この研究を生じた1999年3月1日付の朝日新聞の夕刊では、『脳が「動きや位置、形、色などの情報を全く別々に処理する」という仮説が間違っていた』と報じましたが、不適切な解説です。この研究において問題にされたのは物体の位置に過ぎず、形や色は全く関係ありません。また、もともと位置や運動の情報は後頭部から頭頂部に至るwhere pathwayと呼ばれる視覚情報処理系で処理されることがわかっており、今回の発見はそれを追認しただけです。むしろ、この研究は、「動いているけど場所は変化しない」という運動錯視の不思議な性質を抽出したところに価値があります)

 

○ 意識の研究の二つの国際グループ(Qualia Mystery #7 1999.3.12)

  今回は、意識を巡る研究が、世界的にどのような状況にあるかご紹介します。目立つ動きを見せているのが、アリゾナの意識研究のグループ(http://www.consciousness.arizona.edu/)と「意識の研究に関する連合」Association for the Scientific Study of Consciousness (略称ASSC)(http://www.phil.vt.edu/ASSC/)です。

 アリゾナのグループは、ペンローズとともに「マイクロチューブルにおける量子力学的過程が意識に関与している」という仮説を出している麻酔学者のStuart Hammerofが中心となり、2年に1回意識研究の国際会議をArizona州Tusconで開いています。次回の会議は、2000年に開かれる予定です。アリゾナのグループには、最近、The Conscious Mindでクオリアこそが意識のハード・プロブレムだと主張して一躍有名になったDavid Chalmersも参加しています。彼らは、ヒッピー・ムーヴメントの雰囲気を受け継いでいるという感じの、ラフで未来志向の活動をしています。今年5月に東京青山の国連大学で開催される意識に関する国際会議(http://www.ias.unu.edu/activities/tokyo99.htm)にも、アリゾナのグループが協力しています。

 一方、ASSCの方は、どちらかと言えば「正統派、主流派」の脳科学者、心理学者が組織している国際的な学術団体です。ノーベル賞学者クリックとともに意識に関する論文をいくつも書いているカリフォルニア工科大学のコッホも重要なメンバーです。こちらも定期的に会議を開いており、今年は6月にCanadaのOntarioで会議があります。

 どちらのグループも、web上で様々なサービスを提供していますので、意識研究に興味のある方は、ぜひそれぞれのwebpageを訪れてみることをおすすめいたします。

○ デジタルの蛾をつつく鳥(Qualia Mystery #8 1999.3.16)

 デジタル処置技術は、視覚心理学をはじめとする脳研究にもニューウェイヴをもたらしています。

 Nature 395, 594-596 (1998)には、Bondが、蛾をデジタル画像化して似たようなテクスチャのバックグラウンドに置き、アオカケス(blue jay)が正しく蛾の位置をつつくと、報酬として虫がもらえるというパラダイムで実験した結果が報告されています。1960年に報告された論文の中で、Tinbergenらは、野外で虫を捕食する鳥は、新しい虫が現れた場合、それがある程度の生息数に達するまで無視し、ある程度多く見られるようになってから食べ始めるという現象を見いだしていました。つまり、ある虫が捕食される確率と、その生息数の間には、正の相関があるということです。ここには、明らかに「統計的判断」を含む鳥の脳の中のかなり高度の情報処理が介在しています。Bondらは、アオカケスがつついたデジタルの蛾は「死んだ」として生息数の数の変化をシミュレートすることにより、野外と同じ現象を再現しています。デジタルの蛾をつついて褒美の虫をもらうアオカケスがどのような気持ちなのかは想像するしかありませんが、このような「デジタル環境」の中での研究は、今後ますます新しい展開を見せていくでしょう。

(Bondらがデジタル化した蛾の画像は、

http://niko.unl.edu/~kamil/moths/vpmoths.htm

に掲載されています。)

○ ミラー・ニューロン(Qualia Mystery #9 1999.4.1)

 猿の運動前野(premotor cortex)のF5と呼ばれる領域で「ミラー・ニューロン」(mirror neurons)と呼ばれるニューロンが発見され、注目を集めています。Gallese V. & Goldman A. (1998) Mirror neurons and the simulation theory of mind-reading. Trends in Cognitive Sciences 2, 493-500はこのテーマの研究動向をレビューしています。ミラー・ニューロンとは、ある行為を自分自身がやった時に発火するだけでなく、他の猿が同じ行為をするのを観察した時にも発火する一群のニューロンです。ミラー・ニューロンの機能はまだわかっていませんが、運動学習(見まね)や、相手の心の状態を読む(mind-reading)に役立っているのではないかという説があります。興味深いことは、同じ領域に、「掴むことができるもの」など、行為の可能性に反応するニューロン、別の言葉で言えば、「アフォーダンス」(affordance)に反応していると思われるニューロンがあることです。ミラー・ニューロンは、感覚と運動がおそらく同じ情報フォーマットを共有している現場として注目されます。

○ ブラインド・サイト(Qualia Mystery #10 1999.4.7)

 私達の網膜で光の信号からニューロンの発火に変換された情報は、視床を通り、後頭部にある第一次視覚野(V1)に伝えられます。V1の二次元の構造は、私たちの視野の空間的広がりとちょうど対応しています。腫瘍の手術などの理由でV1を失った患者は、対応する視野の一部分が全く見えなくなります。視野のある部分が、「全く何もない」真っ暗な領域になるのです。にも関わらず、このような患者は、その何も見えない領域に提示された視覚情報を、「何も見えない」にも関わらず処理し、それに基づいて適切な反応ができる場合があります。このようなパラドキシカルな状況をブラインド・サイト(blindsight)と言います。

 ブラインド・サイトの研究の第一人者、Oxford UniversityのWeiskrantzが、Consciousness Lost and Found (1997、Oxford University Press)という本の中で、ブラインド・サイトの研究をレビューしています。ブラインド・サイトの患者は、例えば、「そこに何も見えない」のに、縞模様が水平か傾いているか、偶然より高い確率で当てることができます。また、「そこに何も見えない」場所にものを提示されると、正確にその場所を指で示すことができます。視野の中で見えない部分が火事になっている家と無事な家を見せた場合、「そこに何も見えない」のに、どちらかと言えば、無事な家の方に住みたいと答えます。理由を聞かれると、患者は「何となく」と答えます。何しろ、「そこに何も見えない」ので、具体的な理由を挙げられないのです。

 では、ブラインド・サイトの患者は、超能力を持っているのでしょうか?そうではなく、第一次視覚野以外のルートを通って伝わる視覚情報に基づいて判断しているのではないかと言われています。ブラインド・サイトで不思議なのは、むしろ、第一次視覚野のニューロンの活動がないと、「そこに何も見えない」状態になることです。患者は、「そこに何も見えない」のに、他のルートを通ってかろうじて伝えられる視覚情報に基づいて「何となく」判断しているわけです。

 ブラインド・サイトは、私たちが意識を伴って外界を見るということ(視覚的アウェアネス)はどういうことかという問題に、貴重なデータを提供しています。

○ 視覚における注意の「スポットライト」(Qualia Mystery #11 1999.4.11)

 古くはヘルムホルツやウィリアム・ジェームズも指摘したように、私たちは、注視点(fixation point)と異なる場所に注意を向けることができます。例えば、視野の中央にある建物を注視している場合でも、その右下にある車のナンバープレートに注意を向けることができます。注視点と、注意の「スポットライト」は必ずしも一致しないわけです。

Brefczynsiki, J.A. & DeYoe, E.A. A physiological correlate of the 'spotlight' of visual attention. Nature Neuroscience 2, 370-374 (1999)

は、この注意のスポットライトの移動に対応する人間の脳の活動レベルの変化をfMRIを用いて観測しました。視野の中に同心円状に広がった、色と縦じま、横縞を組み合わせたいくつかのセグメントを用意し、その時々で視野の中心(すなわち注視点)からの距離が異なるセグメントの色と縞の方向を答えさせました。この時、注視点は視野の中央に固定したままですが、答えさせるセグメントの位置が視野の中心から離れるにつれて、注意のスポットライトも移動すると考えられます。実験の結果、第一次視覚野(V1)とその隣接する領野で、注意のスポットライトの移動に対応すると考えられるニューロンの活動の変化が見られました。V1では、網膜の位相が保存されたマップが存在することが知られており、V1の中のニューロンが高い領域の移動は、注意のスポットライトの移動に対応すると考えられます。

 ただし、注意しなければならないのは、注意のスポットライトは必ずしも視野のある特定の位置に向けられるだけでなく、「もの」や「特徴」を単位として注意が構成される場合もあるということです。今回の実験結果が、提示刺激の特徴によらないどれくらい普遍的な意味をもつのかは、今後の実験を待たなければならないと言えるでしょう。

○ 夜道でスピードを出し過ぎる理由(Qualia Mystery #12 1999.4.23)

 私たちの網膜の上には、cone cell(錐体細胞)、rod cell(棹体細胞)の二種類の細胞があります。このうち、cone cellには、赤、青、緑の波長を吸収する三種類があり、一方、rod cellは、可視光の全波長をくまなく吸収します。明るいところでは、cone cellが機能して色覚が生じるのに対し、暗いところでは、rod cellしか機能しません。暗いところで色が良く見えなくなるのはこのためです(サングラスをかけても、光量が減るので色が良く見えなくなります)。

 動きの知覚において、cone cellとrod cellの機能が同じなのかどうかは、従来あまりよく分かっていませんでした。このことは、cone cellとrod cellを分けて動きの刺激を与えることが難しいことも原因となっていました。ドイツ、マックスプランク研究所のGegenfurtnerらは、Nature 398, 475-476 (1999)で、遺伝的に緑のcone cellを欠く被験者を用いた巧みな実験を報告しています。その結果、暗闇で働くrod cellのみに動きの刺激を与えた場合、cone cellが機能している場合の75%程度の速さにしか感じられないことがわかりました。

 夜道を車で走る場合、ヘッドライトに照らされた部分はcone cellを通して知覚されるのに対して、その周囲の暗い部分はrod cellを通して知覚されます。上の実験結果が示唆するように、rod cellを通して知覚される動きが遅く感じられることが、走行スピードが過小評価され、スピードを出し過ぎる結果になる原因の一つかもしれません。

○フェロモンのカクテルは割合が大切 (Qualia Mystery #13 1999.4.28)

 フェロモンと臭いは、どちらも「嗅覚」系で情報処理されますが、その処理のされ方は、最初の入り口からして違うようです。

 Belluscio et al. A map of pheromone receptor activation in the mammalian brain. Cell 97, 209-220 (1999)は、マウスのフェロモンのレセプター・ニューロンのアクソンの投射先を調べています。

 一般の臭いは、MOEと呼ばれる部位から嗅球(olfactory bulb)への投射を通して処理されるのに対して、フェロモンは、VNOと呼ばれる部位から、副嗅球(accessory olfactory bulb)への投射を通して処理されます。つまり、臭いとフェロモンの入り口は違うわけです。

 一般の臭い物質をまず最初に受け取るMOEでは、1つのニューロンは、約1000ある臭いレセプターの遺伝子のうち、1つしか発現しません。従って、どのニューロンが活動しているかをモニタすれば、どの臭い物質が来たかわかるわけです。さらに、ある特定の臭いレセプターが発現しているニューロンは、嗅球の特定の二つの糸球体(glomeruli)に投射します。従って、嗅球までは、「これはこの臭いレセプターからの情報だ」という特異性が保たれているわけです。

 では、フェロモンの情報処理はどうなのでしょうか?

 今回、BelluscioたちはVNOの、VN2とVN12という二つのフェロモン・レセプターの遺伝子を発現しているニューロンの副嗅球への投射先を調べました。その結果、それぞれ10ー30の糸球体に投射していることがわかりました。このことから、逆に、副嗅球の一つの糸球体は、複数のフェロモンのレセプターからの投射を受けていることが推定されます。つまり、フェロモンの情報は、副嗅球の段階で、すでに「カクテル」として扱われていることになります。

 昆虫などの生物では、フェロモンの異なる成分の相対的な割合が、ある特定の行動を引き起こすために重要であることが知られています。ある特定の物質群が存在するだけでなく、それらの存在比が精密に決まったある特定の値になっていなければならないのです。今回の実験が明らかにしたフェロモンの情報処理メカニズムの一般の臭い情報との違いは、「カクテルの割合が重要」というフェロモンの特質と関係があるのかもしれません。

 人間を含むほ乳類で、フェロモンがどのような役割を果たしているかはあまりわかっていません。最近では、「フェロモン入り」の化粧品なども売り出されていますが、「成分の割合」に気を付けないと、期待した効果があがらないということになるのかもしれません。

○「メタキャット」プロジェクト (Qualia Mystery #14 1999.5.06)

Douglas R Hofstadterと言えば、「ゲーデル、エッシャー、バッハ」で衝撃的なデビューを果たした人工知能研究者です。現在、彼はIndiana Universityで研究を続けています。

彼の研究グループでは、アナロジーを見い出す人工知能プログラムCopycatのprojectを行っていましたが、それを発展させたmetacatというprojectを現在進行中のようです。Metacat projectは、Copycatに自己反省の機能を付け加えることによって、例えばアナロジーの間のアナロジーを見い出すというような、高度の言語機能を持たせようとする試みのようです。

Metacat projectのwebsiteは、

http://ftp.cs.indiana.edu/research/dughof/metacat.html

ですが、ここにはあまり情報が掲載されていないようです。

Metacatについての論文は、

http://www.cs.swarthmore.edu/~marshall/home.html

にいくつかarchiveされています。

○ HSP90と形態進化 (Qualia Mystery #15 1999.5.12)

 今、分子生物学で、HSP90というタンパク質が注目されています。HSPは、Heat Shock Proteinの略で、生体が生理的温度より5℃〜10℃高い温度(Heat Shock)にさらされた時に合成が誘導される一群のたんぱく質です。HSP90という名前は、分子量が90kのHeat Shock Proteinであることを示します。

 HSPは、(熱などによる)変性たんぱく質の再生を補助するなど、細胞内のたんぱく質のメンテナンスにおいて中心的な役割を果たしていると言われています。

 Rutherford, S.L. & Lindquist, S. Hsp90 as a capacitor for morphological evolution. Nature 396, 336-342 (1998)は、HSP90が「形態進化」における「進化しやすさ」(evolvablity)を媒介しているという説を提出しています。HSP90は、そのターゲットが、細胞内の信号伝達にかかわるたんぱく質である点がユニークです。HSP90は、このような動作を通して、温度などの環境の変化に応じて、形態形成において機能する複数のタンパク質の働きをコントロールし、結果として形態の変化を引き起こすことが、ショウジョウバエ(Drosophila)を材料に調べられたのです。

 私がHSP90に注目する理由は、それが「形態形成」における一つメタのレベルのコントロールに関わっているからです。目の形成を司るeyelessは、特定の形態を発言させる遺伝子ですが、HSP90は、そのような個々の遺伝子群の産物の上に機能する、メタなタンパク質として形態形成に関与し、一般に生体の「進化しやすさ」(evolvablity)に関与している可能性があるのです。

 「進化しやすさ」(evolvablity)は、細胞生理から形態形成、脳の情報処理、さらには意識に至るまでの様々なスケールの生命現象におけるキーワードです。この一連のスケールの一番上には、人間の創造性が、現時点ではコンピュータには決してまねのできない「進化しやすさ」(evolvablity)の表れとしてあります。脳においても、HSP90のようなたんぱく質とはまた違った形で、環境からの入力に応じて神経回路網の「形態」を変化させる一つメタなレベルの因子があるのかもしれません。

○ プラスティック化された身体 (Qualia Mystery #16 1999.5.25)

 ウィーンでは、ドイツ、HeidelbergにあるInstitution for Plastinationの主宰者、Dr. Gunther von Hagenの「死体の世界」(Koerperwelten)展が行われていました。「第三の男」で有名な大観覧車のあるPraterの近くのメッセが会場でした。

http://www.koerperwelten.com

 ここに展示されている人間の死体は、Plastinationという、生体の水、脂質を樹脂で置き換える手法で、非常にリアルに保存する方法を用いています。いろいろな「演出」も施されていて、死体が自分の皮をコートのように持っていたり、あるいは、マグリットの絵のように、一部分が空間的にずれ、拡大したりなど、一種の「死体芸術」のようなこともされています。つまり、医学教育の補助材料としての死体保存を、一歩踏み出した「あぶない世界」に入っているわけです。 このようなやり方には、賛否両論があるでしょう。しかし、実際に、人間の身体の細部をつぶさに見る機会を持つことは、非常に大きな教育効果があります。特に、脳も、肝臓や心臓といった他の臓器と同様、細胞の集合体=生き物に過ぎない、むしろ、そこに脳の本質があるということが実感できるように思います。

○ ミラー・テスト (Qualia Mystery <Outdoor Scientist #1> 1999.6.12)

 顔の見えない部分(鼻の頭や、目の上など)に塗料を塗って鏡の前に立たせた時、鏡の前のイメージが自分であると気がついて、塗料の部分を撫でてみるかどうか調べるのが、ミラー・テストです。最近私が参加した会議で、State University of New York at AlbanyのGordon Gallup Jr.が、興味深いReviewをしていました。

まず、現在までミラー・テストに合格するという確実な証拠があるのは、人間、チンパンジー、オランウータンの3種だけだとのこと。様々な生物種の研究者が、自分のやっている動物は高等だと思いたいので「合格した」という報告をするのだが、再現性がないのだそうです。ゴリラが合格しない理由として、crocodile infected water thoeryという説があって、ゴリラが水飲み場にしている川や池にはワニがいっぱいいて、もし水面に写ったイメージが自分だと判って調べたりしていると、そのようなゴリラは食べられてしまうので、淘汰されたということ。冗談はともかく、ミラー・テストは、Theory of Mindや、自己のイメージ、さらには社会的な行動に関連して非常に注目されています。

○ 右目と左目のジグソーパズル (Qualia Mystery <Outdoor Scientist #2> 1999.6.28)

 右目から入った像と、左目から入った像が、まるでジグソーパズルのように互い違いに組み合わされて、心の中に見える像になる。このような奇妙な現象が、実際に起こるのです。

右目と左目から視野の同じ位置に異なる像を提示した場合、「両眼視野闘争」(binocular rivalry)という現象が生じます。例えば、左目からは縦縞を、右目からは横縞を提示した場合、視野のある位置には縦縞が、別の位置には横縞が見え、この見えのパターンが刻一刻と変化します。

 Kovacsらは、When the Brain Changes its mind:Interocular grouping during binocular rivalry. Proc. Natl. Acad. Sci. 93, 15508-15511 (1996)で、猿の顔とジャングルのイメージをジグソーパズルのようにばらばらにして互い違いに右目と左目に提示した場合、「全体が猿」に見えたり、「全体がジャングル」に見えたりすることを報告しました。つまり、右目からの像が見える領域と、左目からの像が見える領域が、視野の中でジグソーパズルのようにばらばらに互い違いになるわけです。このようなことが起こるためには、脳の中の形や色を解析している高次の視覚野からの情報が、右目と左目のどちらの情報を優先させるかをコントロールしていなければなりません。

脳は、すでに出来上がった像を受動的に見るのではなく、ばらばらのイメージから、一つの統一されたイメージを能動的に作りだしているのです。(私と金沢工業大学の田森佳秀は、この「右目と左目のジグソーパズル」の非常に面白い例を最近見い出し、現在研究を進めています。)

○ 多種類の食物は肥満のもと? (Qualia Mystery <Rave #1> 1999.7.13)

 「1日30品目の食物をとるようにしなさい」と言われるなど、偏りのない、バランスのとれた食事は、健康を維持するために不可欠な習慣です。

 しかし、様々な食材が身の回りに溢れていることが、現代人の代表的な悩みの根本原因になっているかもしれません。

 Oxford UniversityのEdmond Rollsらの研究によると、ある食物を前にして人間を含めた動物が「満腹」(satiety)を感じる際には、その食物の色、形、香り、食感(texture)が影響しており、以前に食べた食物と「同じ感覚的性質」を持っている食物を前にすると、より「満腹」だと感じるようです。つまり、「同じものを食べると飽きる」ということなのです。タンパク質、糖質、脂質などの栄養素の類似性よりも、感覚的性質の類似性の方が満腹感に強い影響を与えることが見い出されています。

 逆に、次々と目先の変わった食物が提示されると、満腹感をなかなか感じずに食べ続けてしまうことになります。

 今日、コンビニの店頭を見ても、私たちがいかに多くの種類の食物を容易に手に入れることができるかわかります。「肥満」に悩む人が多いのは、食物の量だけでなく、種類も充実している現代社会の宿命なのかもしれません。

(参考文献 The Brain and Emotion. by Edmond Rolls. Oxford University Press (1999),

ISBN 0-19-852464-1)

○ 逆転眼鏡を通して見える世界 (Qualia Mytery <Rave> # 2 1999.7.16)

 プリズムを使って、視野の左右、上下、及びその両方等を逆転させる眼鏡があります。1896年にStrattonが自らにこの「逆転眼鏡」をかけて、何が起こるかを報告して以来、人間の視覚のメカニズムや脳の可塑性を研究する方法として綿々と研究が行われてきました。

 吉村浩一著 「3つの逆さめがね」(ナカニシヤ出版、1997年)は、著者自身が自ら逆転眼鏡をかけた研究結果を報告しています。 報告は多岐にわたり、その詳細を御紹介することはできませんが、「逆転眼鏡」をかけ続け、脳がそれに慣れてくると、次のような奇妙な内的感覚が生じます。 

 (左右逆転眼鏡をかけて)客観的右方向へ頭を向ける。そうすると、右手の映像が見えてくる。その時、右手像は視野の左端から入ってくる。このことに違和感はない。その状態で目を閉じても、右手像のイメージはそのまま視野の「左」位置にある。(前掲書より) 

 逆転眼鏡においては、逆転した視野を基準としての視覚イメージが新たな基準となり、それに合わせて自分の身体のイメージや、周囲の空間のイメージが修正されていくようです。ですから、左右逆転眼鏡の場合、目を閉じると、右手が(客観的には右側にあるのに)左側にあるようにイメージされるわけです。

 逆転眼鏡の実験は、人間の空間イメージ、身体イメージのメカニズムについて様々な情報を与えてくれます。また、逆転眼鏡をかけた人が、数日ほどで次第にその新しい視覚体験に慣れて言ってしまうことは、私たちの脳の高い可塑性を表しています。一体、逆転眼鏡をかけた世界がどのようなものなのか、体験してみたいところですが、この実験は、(特に逆転眼鏡をかけた直後、脳の回路が「つなぎ変わる」過程で)かなり強い吐き気を伴うということで、一般の人が気軽にやることはお勧めできません(笑)。

○ 動くニューロン、退けるタンパク質 (Qualia Mystery <Rave> #3 1999.7.27)

  人間のような多細胞生物の中の細胞を考える時、私たちは細胞というものがそもそも「移動する」能力をもっていることを忘れがちです。しかし、発生の過程において、細胞の移動は重要な意味をもっています。脳でも、ニューロンの移動が発生の過程において本質的な意味を持ちます。

 マウスの神経発生においては、前脳室下領域から嗅球へとニューロンが移動します。この際、ニューロンは途中にある他の領域に間違って侵入することを避けなければなりません。

 Wu, W. et al. Nature 400, 331-336 (1999)は、Slitと呼ばれるたんぱく質が、ニューロンが移動中に不適切な領域に侵入することを妨げていることを見い出しました。Slitは、膜上にあるRoundabout (Robo)と呼ばれる受容体との相互作用により、「ニューロンの侵入の阻止」を実現していると考えられています。

 あるものをA地点からB地点に移動させる際には、A地点に「誘導する力」と同時に、途中の経路で「脇道にそれることを阻止する力」が必要です。例えば、球がお椀の端から底に落ちる際には、重力が「誘導する力」、お椀の表面の反発力が「脇道にそれることを阻止する力」となっています。今回、Wuらは、Slitタンパク質の勾配が「脇道にそれることを阻止する力」となっていることを見い出したわけです。イメージとしては、化学反応の世界で、力学的世界の境界、拘束条件、さらには摩擦といった性質が再現されているということになるのかもしれません。

○「前頭前野における報酬情報の役割」(Qualia Mystery <Outdoor Scientist> #3 1999.8.4 )

  私たちは、「情報処理」というものを、価値判断から中立的な、ロジカルなものとしてイメージする傾向があります。例えば、「1+1=2」という計算は、あらゆる価値判断から自由に行われます。「1」が好きか嫌いかということで、計算の結果が左右されることはないわけです。

このような、価値中立的な情報処理のイメージは、脳の情報処理を解析する上でも、主導的な役割を果たしてきました。例えば、視覚情報を処理する第一次視覚野や下側頭野のニューロンの活動は、視覚情報の性質にだけ依存し、その情報の「価値」によっては影響を受けないと考えられています。下側頭野で「バナナ」に反応するニューロンが、猿が空腹の時にはより強く活動するというような事実は知られていません。脳のうち、後頭部からほぼ半分の領域は、視覚情報を、その価値とは無関係に、「中立的」に解析する領野であると考えられているのです。

 しかし、感覚、行為の連合が行われる前頭野になると、事情が変わることが予想されます。感覚と行為の連合を、生体にとって生存に有利な形で行うためには、偏桃核(Amygdala)などから来る価値の情報を反映した形で活動するニューロンが必要です。実際、前頭野のOrbitofrontal cortexという領野では、好きか嫌いか、空腹か満腹かといった価値情報を反映したニューロンの活動が見つかっています。

 このような状況を考えると、前頭野における、価値反映型のニューロンの活動と、後頭野における価値中立型のニューロンの活動を、何らかの形で媒介するニューロンが存在するのではないかと予想されます。

 M.L.Platt & P.W. Glimcher Neural Ccorrelates of decision variables in parietal cortex. Nature 400, 233-238では、後頭野と前頭野の中間に位置する頭頂野のLIP(Lateral Intraparietal cortex)という領域で見い出された、価値中立型と価値反映型の情報処理の中間に位置するニューロンが報告されています。この実験では、猿が一点を注視した状態で、視野の左側と右側に一つづつ、計2つの点を提示し、猿が眼球運動をしてそれらの点に注視点を移動すると、ジュースの報酬が与えられました。実験を約100試行からなるブロックに区切り、それぞれのブロックの中で、左か右かどちらかの点に注視点を移動した時により大量のジュースが得られるようにしました。猿は、最初の数回の試行で、どちらに注視点を動かせば大きな報酬が得られるか学習してしまいます。この実験で、Plattらは、左右それぞれのターゲット点に対して受容野を持つLIPのニューロンが、そのターゲット点の報酬が大きいときにより強く活動することを見い出したのです。

 LIPのニューロンは、複数の視覚領域から投射を受け、眼球運動をコントロールする運動制御の領野に投射しています。また、視野のうち、一部の領域(受容野)に提示された刺激に対してのみ活動するという性質をもっています。このように、LIPは、視覚情報を、眼球運動に反映させる際の重要なステップを担っていると考えられますが、今回、この情報処理の過程で、視覚刺激に結び付けられている報酬の大小、すなわち、その視覚刺激の価値がニューロンの活動に反映されることが見い出されたわけです。 

 この実験に見られたような、価値中立的な情報処理と価値反映的な情報処理の結びつきは、今後の脳科学の大きなトピックになっていくと予想されます。

○「心の理論」(Qualia Mystery <Outdoor Scientist> #3 1999.8.19 )

 心の理論(Theory of Mind)とは、他人の心の状態を推測する能力を指します。Baron-Cohenらによる有名な実験の中では、幼児の前で、次のような劇が行われます。

<劇>

 女の子が、人形で遊んでいたが、そのうち、その人形をテーブルの上の帽子の下に隠して部屋の外にいってしまった。その後、母親が部屋に入ってきて、帽子の下の人形をおもちゃ箱の中に移して、ふたをした。母親が部屋から出ていったあとで、女の子が部屋に戻ってきた。女の子は、また、人形で遊ぼうとする。

 ここまで劇を見せた後に、幼児に、「女の子は人形を探そうとして、どこを見ますか?」と尋ねます。もちろん、正解は、「帽子の下」です。しかし、「心の理論」ができていない幼児は、「おもちゃ箱の中を探す」と答えてしまします。劇を見ていた幼児にとっては、「今、人形はおもちゃ箱の中にある」という情報があるので、それを前提に考えてしまうわけです。「心の理論」が成立しないと、「女の子の心の中には、「今、人形はおもちゃ箱の中にある」という情報は存在しないのだ」という推論が働かないわけです。

 いわゆる「自閉症」の子供たちの中に、「心の理論」がうまく成立しない子供が高い確率で見られることから、「心の理論」は、自己と他者の関係の認識を含めた、人間の認知過程における本質的なモードとして注目されています。

○「脳のファイバーを追い掛ける」 (Qualia Mystery #17 1999.9.14) 

 人間の脳を理解するためには、その解剖学のデータが不可欠です。とりわけ、脳のどの領域とどの領域が、アクソンのファイバーで結合しているかを調べることは、とても重要です。ところが、従来のアクソンのトラッキングの方法では、組織が生きている時にトレーサーを注入する必要があったため、人間の脳には適用できませんでした。このことから、クリックとジョーンズがNatureに寄せた論文で嘆いたように(Crick, F. & Jones, E. (1993) Nature (London) 361, 109-110)、人間の脳の解剖学がなかなか進まず、脳科学における大きな障害になっていました。

 Thomas E. Conturoらが最近発表した論文 Proceedings of the National Academy of Sciences 96, 10422-10427 (1999)では、アクソンの内部で、アクソンの長軸方向に水分子が移動しやすいことを利用し、MRI(磁気共鳴コンピュータ断層撮影)を用いて、生きている人間の脳の内部のアクソンの追跡に、初めて成功しました。

 解像度の点など、この手法がどの程度人間の脳解剖学を進歩させるかはまだ未知数ですが、注目すべき動きの一つと言えるでしょう。

○「欠けた部分を補う」 (Qualia Mystery #18 1999.10.9) 

 黒いバーの中央が灰色の四角形によって隠されている時、私たちは、四角形の背後に、黒いバーが連続して存在し、それが四角形によって隠蔽されている(occluded)と知覚します。この時、実際には隠されている部分のバーは見えずに(その部分のクオリアは感じられずに)、「バーは四角形の後側で連続している」という抽象的な知覚が存在するだけです。このような知覚を、アモーダル(amodal)な知覚と言います。

 ところで、この時、もし、自分の位置から見て、四角形のある場所が、バーよりも「手前」側にあると感じられたら、その奥行き知覚は、「バーが四角形によって隠蔽されている」という知覚と一致します。しかし、四角形のある場所が、バーよりも「もっと奥側」にあると感じられるとしたら、この奥行き知覚は、「バーが四角形によって隠蔽されている」という知覚と矛盾します。したがって、奥行き知覚が、「バーは四角形の後側で連続してい」というアモーダルな知覚に影響をあたえるはずです。

 Sugita, Y. Grouping of image fragments in primary visual cortex. Nature 401, 269-272 (1999)は、視差(disparity)を用いて奥行き知覚を制御することにより、猿の第一次視覚野でアモーダルな知覚に関与すると思われるニューロンが、上の議論から予想されるような活動の変化を見せることを見い出しました。すなわち、四角形がバーよりも「手前」にある時には活発に活動するが、四角形がバーよりも「奥」にある時にはあまり活動しないニューロンを見い出したのです。このニューロンは、「バーは四角形の後側で連続している」というアモーダルな知覚を支える神経機構の一部であると考えられます。

 この研究は、基本的な情報処理を行なっているだけだとされてきた第一次視覚野が、実は高次な情報処理を行なっていることを示す例として注目されました。このような高度な情報処理は、第一次視覚野内のニューロンの結合とともに、高次視覚野からの逆投射によっても支えられていると考えられます。

◆ Classics: 両眼視野闘争における微妙な問題 ◆ 1999.10.29.

(今回から、時々、Classicな論文をもう一度読みなおすという企画を「脳科学ニュース Classics」としてお届けします。)

 両眼視野闘争とは、右目、左目から入った情報のうち、どちらか一方だけが、私たちの意識にのぼるという現象です。

 例えば、液晶シャッターを使って、視野の同じ位置に、右目からは縦じま、左目からは横縞を見せると、心の中では、ある場所では縦じまが、ある場所では横縞が見え、その見えの空間的パターンが時間とともにぐにゃぐにゃかわります。

 Logothetis, N.K. Schall, J.D. Neural Correlats of Subjective Visual

Percepiton. Science 245, 761-763 (1989)は、上に動く縞と、下に動く縞の刺激を右、左の眼からそれぞれ入れ、その時猿の脳の運動視の中枢であるMT野のニューロンがどのような活動をするかを調べました。MT野のニューロンは、通常、ある特定の方向の動きに対してよく反応します。ところが、この実験では、動きの方向だけでなく、その動きの方向が両眼視野闘争において「心に見える」側にあるのか、「心に見えない」側にあるのかが活動に反映されるニューロンも見つかりました。

さらに細かく見ていくと、これらのニューロンの活動は、非常に興味深い性質をもっていることがわかります。例えば、右目と左目から同じ方向の動きの刺激を入れたときにはあまり活動しないで、、両眼視野闘争で、いったん競争がおこって、その結果好みの方向が勝った時にはじめて活発に活動するニューロンもあります。これらのニューロンは、両眼視野闘争がおこっているかどうか、「知っている」ようなのです。

 

◆ 劇的に変わる脳の常識 ◆ 1999.11.14

 ベルリンの壁が崩壊してから、10年が経った。あの時、私たちは、世界が1日で変わりうることを学んだ。

 脳科学でも、最近、従来の固定観念を覆すような発見が相次いでいる。

 成人の脳では、もはや新しいニューロンはできないと思われていた。しかし、まず、長期記憶の形成に欠かせない海馬で、成人でもニューロンが新しくできていることが発見された。続いて、これは猿だが、ニューロンが新しく形成され、しかも脳の中をターゲットの大脳皮質の領域まで移動していることがわかった。ヒトでも、同じような現象が起きている可能性が高い。一番最近では、大脳皮質で、ニューロンとニューロンが直接電気的に結ばれて、機能的に重要な役割を果たしているケースがあることが分かった。これらの知見は、全て、脳科学者が長年持っていた固定観念、すなわち「成人ではニューロンは新しくできない」、「中枢神経系には化学的シナプスしかない」を覆すものであった。

 科学における固定観念というベルリンの壁は、一つの実験で簡単に崩壊する。こうして、私たちは、少しづつ真理に近付いていく。

 

参考文献

ヒトの海馬で新しいニューロン

Eriksson PS, Perfilieva E, Bjork-Eriksson T, Alborn AM, Nordborg C,

Peterson DA, Gage FH. Neurogenesis in the adult human hippocampus.

Nat Med 1998 Nov;4(11):1313-7

大脳皮質で新しいニューロン

Elizabeth Gould, * Alison J. Reeves, Michael S. A. Graziano, Charles G. Gross

Neurogenesis in the Neocortex of Adult Primates Science 286: 548-552,

1999.

大脳皮質に電気的シナプス

MARIO GALARRETA AND SHAUL HESTRIN

A network of fast-spiking cells in the neocortex connected by

electrical synapses

Nature 402, 72 - 75 (1999)