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「日常が底光りする理由」

茂木健一郎

文學界 2004年1月号所収

(c) 茂木健一郎 2003

 最初に見た小津の映画は、「東京物語」だった。私はその頃大学院の学生で、講師のアルバイトをしていた塾の近くのレンタルビデオ屋で、正月休みに他の映画と一緒に借り出した。

 当時、私は、ヨーロッパ映画ばかりを見ていた。西洋かぶれの青年だった。日本の映画に、ヴィスコンティやタルコフスキーに相当する人がいるとは、思ってはいなかった。もちろん、「東京物語」が傑作であるということは聞いていた。だからこそ、レンタルビデオ屋で目に止まったのだろう。しかし、「惑星ソラリス」や、「イノセント」に匹敵するような体験が、「東京物語」という作品の中に潜んでいるとも期待してはいなかった。 

 実際、最初に見た時の印象は、何だか良くわからないものに出会ったという感じだけだった。自分が何を見たのか、良くわからなかった。ただ、見終わった後に、何かわだかまりのようなものが残っていた。

 それで、3月末くらいになって、もう一度借り出して見てみた。それで、潜伏していた毒が心の中に回り始めた。智恵熱が出た。しばらくは、東京物語のことしか考えられなくなった。居ても立ってもいられなくなって、私は、2回目にビデオを見た一週間後、新幹線に乗って尾道にでかけた。尾道の細い路地をさまよいながら、映画の中に出てきた風景を探し求めた。

 当時の尾道には、「東京物語」の中で、老母が亡くなった直後の朝の場面に現れる船着き場がまだ残っていた。私は桟橋に立ち、朝の海辺の風景が現れた瞬間、観客に「ああ、危篤だったお母さんは亡くなってしまったんだ」と悟らせる、あの映画史上に残る一連のシークエンスのことを思い出していた、笠智衆が、原節子に「ああ、きれいな夜明けだったあ。ああ、今日も暑うなるぞ。」と語りかける、海を見下ろす高台の場所を探して歩き回った。映画の最後で、香川京子が演じる先生が原節子が乗った蒸気機関車を見送る小学校のある場所を求めて、千光寺公園の下の迷路のような道をさまよった。

 何が、あの時私を衝き動かしていたのか、今でも十分には言語化できてはない。後にも先にも、映画を見て、あれほど居ても立ってもいられないような気持ちになったことはない。東京物語という作品と出会ったこと、小津安二郎という映画監督に出会ったことは、間違いなく私の人生における一大転機だった。

 私の有限の人生において、東京物語との出会いがいかに大きなことであったか、そのことを、今でも、感謝の念を持って思い出す。もし、小津がいなかったら、「東京物語」や、「晩春」、「麦秋」、「秋刀魚の味」といった作品群がなかったら、私にとって、世界は全く違った風景として見えていただろう。黒澤明のケレンも、溝口健二の様式美も、川島雄三のエスプリも、私にとっては、その後をついて行こうとは思うようなものではなかった。ただ、小津安二郎だけが、それまで私が積み上げたヨーロッパ映画、ヨーロッパ芸術の体験に匹敵する、そしてそれを超えるかもしれない何かを私に提示しているように思われた。

 自分の生まれた国を愛したくないと思う人間などいない。小津に出会うまで、私はきっと不幸な人間だったのだろう。私は、不覚にも、日本にそれほど大した文化があるとは思っていなかったのである。日本は、文化的後進国だと、本当に思っていた。私の個人的な体験というだけでなく、私の属していたコミュニティの中の一つの傾向だったのではないかと思う。ひょっとしたら、敗戦の精神的後遺症が1962年生まれの私の世代にまで影響を及ぼしていたのかもしれない。

 長谷川等伯の松林図に沈潜し、伊勢神宮の内宮の、あたかもそこに今まで宇宙になかった元素が誕生しているかのような佇まいに心を引かれ、本居宣長から樋口一葉、小林秀雄に至るもののあはれの系譜に共鳴する時間を積み重ねた今となっては、どうしてあのような世界観を持っていたのか思い出せないほど、青年期の私は日本の文化を低く見ていた。小津の作品との出会いは、私にとって、「日本への回帰」の重大なターニングポイントだったのである。

 二十代半ばの「東京物語」との出会い以来、私は、小津の作品がなぜ私の心をここまで惹きつけるのか、折りに触れ考えてきた。映画について考える時間の半分以上を、小津の作品について考えてきたと言っても過言ではない。

 

 もちろん、小津との出会い方は、人それぞれだろう。私の見る小津が、他の人にとっての小津とどのような関係にあるのか、必ずしも明らかではない。それでも、私が、右のようなきわめて個人的なことをあえて書き留めておきたいと思ったのは、小津映画を繰り返し繰り返し見る中で強まってきた、人間にとって、全ての普遍的なものは、有限の人生の中の個別性に現れるという思いと関係している。普遍性は個別性を通してしか表れないということが、繰り返し確認されるべき、重大なことであると信じるに至ったのである。

 私にとっての小津安二郎という普遍は、私の人生の個別性と切り離して考えることができない。私はそう考える。よけいなお世話かもしれないが、どんな人にとっても、小津安二郎の普遍は、それぞれの人生の個別性の中に顕れるのではないか。私はそうも考える。人生の個別性の数だけ、異なる小津安二郎という普遍があるという意味ではない。確かに、抽象的な意味での小津安二郎の普遍を考えることはできるし、様々な体験が収束していく先に見えてくるものはあるように感じられるけれども、そのような抽象的な普遍も、必ず、個々の人生の具体的なエピソードにおいて感じられるということは、決して忘れてはいけないことのようにも思われる。

 「東京物語」を見て、熱病になって尾道に出掛け、映画の面影を探して歩き回り、細い路地でおばあさんの曲がった背中を見て、千光寺公園に登ったら桜が咲いていたという、私の人生のきわめて個別的な思い出から切り離して、私にとっての小津という普遍はあり得ないように思う。あの体験が、私のプライベートであるとともに、どこか、「東京物語」という作品の万人にとって開かれた抽象的なパブリックにもつながっているはずだと、私は信じたい気持ちでいる。

 

 人間にとっての普遍的なことがらは、それぞれの人生の個別性において顕れるということを、小津ほど徹底的に貫いた映画作家はおそらくいないのではないか。小津安二郎本人が、そのことを言語化していたか、自覚していたかは判らない。しばしば、芸術の天才とは無意識の天才である。本人が意識していたかどうかは判らないが、生、死、出会い、別れといった人間にとって普遍的な意味を持つ事象を、日常と切り離した観念的存在として描くのではなく、日々繰り返すごくありふれた営みの描写の中に描くことに、小津安二郎ほど洗練された手腕を見せた作家はかっていなかったのではないかと思う。

 小津の作法は、戦争のように、人間にとって非常の事象が描かれる時にもっとも先鋭的な深みを示す。小津は、戦争を主要なテーマにした作家ではないが、戦争がその作品にモティーフとして現れることはあった。小津映画において、戦争が穏やかな珊瑚礁の海に遠くからかすかに聞こえる外洋の波の音のように姿を現すとき、どのような表現ジャンルにおいてもかって見られたことのない形で、普遍と個別の交錯の形式が示されているようにさえ思われる。

 戦争は人類の歴史における重大事だから、何らかの普遍的な原理を標榜してそれを議論したいという欲望は誰にでもある。一方で、戦争という事象の本質は、それを体験する一人一人の人間にとっては、必ず些細とも思われるような具体的なエピソードの中に現れるのではないかとも思う。

 太平洋戦争勃発の翌年に封切られた「ハワイ・マレー沖海戦」は、円谷英二が真珠湾攻撃の特撮シーンを担当したことで知られる。この映画で、私にとって特に印象的だったのは、攻撃の前夜、駆逐艦の中で、士官たちがアメリカの戦艦のシルエットを見て、その名前を当てる訓練を行うシーンだった。教官がシルエットを見せ、士官たちが「オクラホマ!」、「ミズーリ!」などと答える。当たっていれば「轟沈!」と教官が言って士官たちが笑う。外れれば、「お前の嫁さんの顔くらい覚えておけよ」と冷やかす。戦争というものを、抽象的な存在としてとらえているのでは思い着くことさえできないようなそのシーンに、私は当時の日本人にとっての対米戦争体験のリアリティを感じた。

 戦争はマクロな事象であるが、それに巻き込まれる人間にとっては、それぞれの有限な人生の個別性と絡んで感じられる、ミクロでプライベートな事象でもあることも確かである。もちろん、ミクロでプライベートな体験そのものが、戦争であると言うのではない。ミクロでプライベートな体験を積み重ねていった時に、ぼんやりと姿が見えてくる巨大な化け物を、私たちは戦争と呼んでいるはずである。最初から、確固とした抽象的存在として、戦争があるのではない。だとすれば、戦争を描くには、ミクロでプライベートな体験の切実さに寄り添う以上の方法はないとも言えるはずだ。

 「秋刀魚の味」で、笠智衆扮する「艦長さん」が、加藤大介が演ずる昔の部下と交わす会話は、私にとっては、どのような観念的、イデオロギー的な議論よりも説得力を持つ戦争論であり、大河ドラマ的な演出を超えた、リアルな戦争描写であるように思われる。 

 

「けど艦長、これでもし日本が勝ってたら、どうなってますかね。」

「さあ、ねえ。」

「勝ってたら艦長、今頃あなたも私もニューヨークだよ、ニューヨーク。パチンコ屋じゃありませんよ。ホントのニューヨーク。アメリカの。」

「そうかね。・・・けど、負けてよかったじゃないか。」

「そうですかねえ。うーん。そうかもしれねえな。バカなやろうが、いばらくなっただけでもね。艦長、あんたのことじゃありませんよ。あんたは別だ。」

 

 笠智衆が、「さあ、ねえ」と言いながら浮かべる微笑みに接すると、私はいつも居ても立ってもいられないような気持ちの動きを感じる。先の大戦の是非に関するどのような観念的な議論にも勝る、生の実感がその表情に込められているように感じる。

 小津映画においては、俳優の顔の表情が、しばしばイコンとして忘れがたい印象を残す。杉村春子のような例外的な存在を除いては、俳優たちの自発的演技というよりは、小津が意図していたことのはずである。小津が、俳優の顔の表情筋の細かい動きまで指示して演出していたことは、よく知られた事実だ。

 笠智衆の顔の表情には、戦争を体験した海軍の艦長さんの実感というものは、確かにそんなものだったのではないかというリアリティがある。顔の表情一つの中に、どんなに実証的な戦記物にも勝るとも劣らない戦争体験というものの切実さが表現され得ているのである。

 加藤大介とのかけあいのシーンは、ラスト近く、娘の結婚式を終えた笠智衆が一人でバーに現れるシーンへの伏線となる。岸田今日子が演ずるマダムが、礼服姿を見て「今日はどちらのお帰り? お葬式ですか?」と尋ねると、笠智衆が、「うん、そんなもんだよ。」と応える。この「うん、そんなもんだよ。」が、すなわち映画のテーマである秋刀魚のほろ苦い味の簡潔な表現となっている。

 マダムが、気を利かせて、軍艦マーチをかけると、それを聞いて、笠智衆の横に並んで座っていた男の一人客2名が即興で応酬し合う。

 

 「大本営発表」

 「帝国海軍は、今暁5時30分、南鳥島東方海上において」

 「負けました」

 「そうです、負けました」

 

 二人の、おそらく初見の自己紹介も交わしていない男たちが、それだけのことを言い、あとはにっこり笑って黙ってウィスキーを飲む。

 この場面は、日常の中で出会う出来事としては出来すぎているようでもあり、どこかに、そのように成熟したふるまいをする大人が確かにいるような気もする。いずれにせよ、この場面が、映画の芸術表現としてきわめて洗練された、忘れがたいものである事は間違いない。

 小津は、日常のとりとめもない光景の中のさりげない会話の中に、万感の思い、深い洞察を示すことができた。小津の世代では、そのような立ち居振る舞いは大人の身だしなみだったのかもしれないが、戦争や平和、社会正義といった問題を、イデオロギーに基づいて論ずる嵐のような時代が過ぎ去った直後に大学に入った私には、戦争のような重大事の本質を小津の映画の登場人物のようにさらりと突くことのできる先達たちは、身の回りに探そうと思っても見あたらなかった。小林秀雄のように、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみせるがいいぢやないか」と嘯く大人も見あたらなかった。

 秋刀魚の味が公開されたのは、昭和37年。私が生まれた年である。考えて見れば、戦争が終わってから、17年しか経っていない。昭和が終わり、平成になってから今までの時間の流れとさほど変わらない時間が流れ、その頃に撮影された小津の映画というフィクションの中で、バーのカウンターであのような会話を交わす男たちがいる。

 戦争の悲惨さ、死んでいくものの無念さについて、多くの言葉を費やして饒舌に語ることも時には必要であろう。そのような映画が沢山制作されていることも知っている。小津の映画は、そのような映画ではない。だからこそ、まだ戦争の記憶が生々しい頃、「晩春」や「麦秋」を撮影した小津安二郎は、時代遅れだとか、のんびりしているとか揶揄されたのだろう。当時の社会的緊張の中、そのような威勢の良い小津批判を行った若い世代の気持ちも判らないわけではない。しかし、今となってみれば、社会的な事象を正面から扱おうとした映画よりも、「浮き世離れ」して「のんびり」した小津の作品群の方が、よほど当時の日本人にとっての戦争の記憶の持つ生々しさをリアルに表現しているように思われる。

 イデオロギーは、生の実感、生の具体から浮遊することで、道を誤らせるのである。

 

 そもそも、人類にとって、真理とは何か、善とは何か、美とは何かということを、それぞれの人生の個別性、具体性を離れた抽象的な形で議論することに、どれほどの意味があるのだろう。

 素朴に考えれば、個人の生活の具体性に埋没した議論よりも、抽象的な観念と論理に基づいて構築される議論の方が、高尚で普遍的なもののように思われることも事実だ。実際、哲学、思想というものは、個々の人生の具体性を離れた、抽象性、普遍性を獲得してこそ、初めて意味を持つと多くの人が暗黙のうちに前提にして来たのではないかと思う。私自身も、かっては、そのような形で思想を展開し、記すことに価値があると信じていた時期があった。

 しかし、思想というものは、そもそも、個人のきわめて具体的な生の実感と切り離せるものではないのではないか。

 私には、ニーチェが「悲劇の誕生」の中で展開する「個別化された世界」、あるいは、「アポロ的」と「ディオニソス的」というような抽象概念の持つ力に、強く惹かれていた時期があった。これらの概念が、なぜ、私にとって切実でありえたのかと言えば、何のことはない、きわめて個別的で具体的な日常生活の中のエピソードに結びついていたからこそであると、今となっては思われる。

 あの頃の私にとって、「個別化された世界」とは、つまり、自分が思いを寄せる人となかなか心が通じ合わないという恋愛生活上のディレンマのことに他ならなかった。当時のガールフレンドに、私は、人間の置かれている状況の根本的な問題は、それぞれの人々が「個別化された世界」に閉じこめられていることだ、と言ったことがある。いつどこでそんなことを言ったかも覚えている。研究室の飲み会の買い出しをしようと、東大の弥生門から、根津の交差点に降りる坂道を下っている時だった。その時、私のガールフレンドは「わかるけど、世界というものは、そういうものなんだから、仕方がないんじゃないの」と私の幼さをたしなめるように言った。

 あの時、私が「個別化された世界」という問題を持ち出した事情には、もちろん、人間と人間がなかなか解り合えないという世の習い一般に対する青年らしい慨嘆もあったけれども、一方で、私の幼さに対して成熟と余裕で接するように感じられた当時のガールフレンドが、なかなか私の心情の中心まで降りてきてくれないことに対する恨みのようなものにも発していた。このような自分の体験を記すことは恥ずかしいことであるが、そのような恥ずかしさを抜きに、私にとっての「個別化された世界」という概念の成り立ちもあり得ない。

 自分の人生の生の実感から離れて抽象へ向かうことを良しとする傾向は、死への衝動(タナトス)の一つの表れなのかもしれない。確かに、人間には、それぞれの具体的な人生のエピソード性を離れて、抽象性、普遍性に向かおうとする思考上の傾向がある。青年期に、大抵の人は、自分の考えていること、表現していることが、自分の人生という個別性から離れた普遍的な意味を持っていることを信じたいという衝動を感じるはずである。

 放っておいても、どうせ人は抽象性に向かう。それならば、むしろ、どのような抽象的、普遍的な概念も、必ずそれぞれの人の人生の個別性において感じられていると肝に銘じることを心がけた方がよい。「アポロ的明晰さ」とか、「ディオニソス的混沌」は、一体、自分の人生の具体的なエピソードの中で、いつのどのような形で出現していたのか、じっくりと考えてみるのが良い。

 そこに現れるものは、「アポロ的」とか「ディオニソス的」といった概念を抽象的なイデアとして考えている時に比べると、みっともなくて恥ずかしくも感じられる、具体と抽象の奇妙な混淆物であるかもしれない。概念の塔に籠もることで、人々は生の現場からの安全圏に自分を囲い込むことができる。しかし、生の現場に自分を投企することなしには、どんな抽象概念も切実さを持ち得ないということを徹底して省察するならば、多くの哲学書、思想書が前提としている生の個別性から遊離した形で立てられる「普遍性」の持ついかがわしさが、逆照射されるはずだ。

 小林秀雄のベルクソン論『感想』の主要部分は、抽象的な形でベルグソンを論じた本体ではなく、冒頭の有名な書き出しにこそあると考えるのは、それほど奇妙なことだろうか。

 

  終戦の翌年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたへた。それに比べると、戦争という大事件は、言はば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思ふ。(中略)母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。(中略)私の家は、扇が谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れてゐた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでゐるのを見た。この邊りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見たこともない様な大振りのもので、見事に光ってゐた。おつかさんは、今は蛍になってゐる、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考へから逃れることが出来なかった。

 

 もし、思想というものは抽象的で形而上学的であるのをもって良しとするという態度を貫くならば、小林のこの書き出しはカットしてしまえば良かったのだろう。しかし、この書き出しのない「感想」に、どれほどの価値があるのか。「感想」の価値は、この書き出しに尽きるのではないか。むろん、小林のベルグソン論本体に価値がないと言っているのではない。小林が、このような書き出しでベルクソンのクリティークを始めている点にこそ、深く味わうべき魅力があるのではないかと私は感じる。

 どのように普遍的なものとして構想されている概念も、個々の人間の猥雑で混沌に満ちた生の具体とどのように交錯するかという問題を離れては、成り立たない。真理や美、善や悪という概念は、そのような普遍が個々人の生の具体とどのように関わって立ち上がってくるのかということを含めて、初めてその成り立ちが完結する。そのように認識する時、普遍哲学的な志向の限界と同時に、個人の生の具体に寄り添って問題を提示する文学の目眩がするほどの可能性が視野に入ってくる。

 概念を個別から切り離して論じるのをよしとするいわゆる哲学書、思想書のスタイルよりも、普遍が一人の人間の生の個別にどのように絡みついて顕れてくるのかを提示できる文学こそが、単に人間の生の実感に寄り添っているというだけではなく、思想そのものの本来の表現方法なのではないか。そのようなことを考えながら、たとえばプラトンの『饗宴』のような作品を読む時、人間はひょっとしたら思想の表現法に関して、二千年の迷妄の中にいるのではないかというように思われてくる。

 

 小津映画の魅力の一つが、その練り上げられた台詞にあることは言うまでもない。小津は、おそらくは文学者でもある。野田高悟と別荘に籠もり、毎日酒を飲み、空いた一升瓶を何十本も並べながら書いた脚本において、間違いなく第一級の文学的センスを示している。小津の研究で知られるドナルド・リーチが、最近、東京物語の台本を英訳した本を出版したことからも傍証されるように、小津の映画の脚本は、世界に通じる文学としての普遍性も備えている。

 文学においては、登場人物のキャラクターや場面の雰囲気は、具体的な視覚的表象とは独立した、志向的表象として提示される。志向的表象としての純粋さこそが、文学という芸術形式においては、何よりも大切なことである。文学作品の映画化は、その作品世界の志向的純粋性の展開という視点から見れば、多くの場合失望すべき結果に終わる。「雪国」の駒子は、川端康成が書いた駒子という志向的表象において完結しているのであって、どんな名優がどんなに素晴らしい演技をしても、もともとの作品の志向的純粋性には届かない。志向的純粋性を維持することだけに関心があるのならば、映画化など最初からしない方が良い。文学作品の映画化は、作品の志向的世界を忠実に再現することなどでは決してあり得ず、原作と関係してはいるが、別の表象世界を提示する結果に終わる運命にある。

 一方、映画という芸術形式においては、志向的意味の世界ではなく、きわめて感覚的な表象の世界において、一つの仮想世界が提示されなければならない。ここに、もっとも普遍的な価値が、きわめて具体的な個別性と絡む、映画に固有の状況が現れる。

 どんなに小津に才能があっても、どんなに、松竹の小津組のスタッフが優秀であったとしても、もし、原節子がいなかったとしたら、笠智衆がいなかったとしたら、「東京物語」の最後の告白シーンが、あの特定の感触を持つことはなかっただろう。原節子が、「麦秋」の中で、買ってきたケーキを包んでいた紐を結びながら、見合いの話が持ち込まれている相手について、「専務さん、とっても良いかただっておっしゃるのよ」とうれしそうに言って、それからぽんと紐を投げる、あのシーンの何とも言えないかわいらしい優美さが表現されることはなかっただろう。

 小津が、俳優の箸の上げ下ろし、台詞の口調、顔の筋肉の動かし方まで一々指導したという史実には、映画という芸術形式の成り立ちに寄り添った本質的な誠実さが現れている。いかにすぐれた脚本があったとしても、原節子のあの顔が、あの表情で、あの声の質で、あの口調であのような感覚的表象をつくり出すことがなければ、小津安二郎の映画作品があの特定の質感を持つこともなかったのである。

 小津という天才が現れたこと自体は、多くの偶然のなせる業である。その出自が偶然の積み重ねであっても、結果として示される天才を、人間は普遍的な価値としてとらえる。一方、その作品を構成するマテリアルとしての俳優も、また偶然のなせる業としてこの世界に出現している。そもそも、原節子のような顔の造形で、声の質で、原節子のような表情を見せ、演技をする女優が現れる確率は、果たしてどれほどのものか。宇宙開闢以来、あの原節子の具体をピンポイントで帯びた女優が現れて、映画に出演する確率は、要するにゼロに限りに近いではないか。

 普遍が、具体に宿った形でしかこの世界に出現しない、ということ自体を、抽象的に考えているうちはまだ良い。その具体というのが、原節子であり、笠智衆であり、彼らの具体と小津の具体が出会うことがなければ、小津の映画という普遍も決して生成されることがなかったのだ、と考えると、あたかも、限りない深みから底光りのようなものが見えてくるような感覚が心の中にわき上がってくる。

 その感覚こそが、小津の作品の持つ文学性の本質なのである。

 

 小津の映画には、時折、見慣れた日常の中に、神々しい、彼岸の何ものかの気配が侵入してくるシーンがある。 「晩春」で、結婚を決意した原節子が演ずる娘と、笠智衆が演ずる父親が記念の京都旅行に出かけ、夜、宿屋で並んで床に就き、その日の感想を話し合う場面がある。再婚したおじさんが、汚らしい、と言っていたのを、原節子が反省する。再婚相手に実際にあってみたら、とてもいい人だったと。笠智衆は、そんなことはいいんだ、と応える。原節子が、

 

 「ねえ、お父さん。私、お父さんのこととてもイヤだったんだけど・・・」

 

と言いかけて、ふと気がつくと、隣の父は、もう寝息を立てている。

 原節子は、まずは父親の方を見て、それから、天井を見る。障子越しに、大きな月影が見え、笹の葉のシルエットが揺れる。月の中央を貫くように、壺が立っている。 

 象徴心理学的な分析をすれば、様々なことが言えそうなこの場面には、何か異様なものの気配が漂っている。その気配は、京都を発つ朝、原節子が笠智衆に、本当は嫁になど行きたくない、お父さんとこうしてずっと一緒に暮らしたい、と迫っていく場面の尋常ならざる気配につながっている。あの一連の場面での原節子がかもし出している雰囲気は、曜変天目茶碗と同じような様々な要素の化学反応の奇跡である。あのような具体は、決して簡単に再現されるものではない。

 もっとも、決して簡単に再現されるものではないのは、曜変天目茶碗や晩春の原節子に限る特別なことではない。本来、私たちが日常の中で出会うことの全ては、容易に再現されることのない一回性のものである。自分の人生という具体に特有の化学反応が生み出した、おそらく宇宙の歴史の中で二度と再現されないものたちである。その一回性を超えて普遍を立てるところに、人間精神に固有の可能性がある。その一方で、私たちは、普遍という罠に思わず知らずのうちにはまって、具体そのものを見失っていくのである。

 原節子であり、笠智衆であるところの特別な具体について考えるまでもない。目が覚めて、眠りに落ちるまで、自分が体験する状況の具体が、寸分違わず再び繰り返されることは決してない。「これは前と同じだ」と考えるのは、単なる便宜の問題である。具体との出会いを、一期一会であるととらえても、そのようにとらえること自体が、具体から普遍への飛躍を含んでいる。

 普遍への飛躍をせずに、ぐっとこらえて、まさに目の前にある具体の生々しさに寄り添うことは、おそらく私たち人間の脳が進化の過程で獲得してきた普遍化への傾向に反する、かなりしんどいことのはずである。しかし、そのしんどい作業がどのようなことを意味するのか、少なくとも想像してみることなしには、小津の作品の持っている本当のポテンシャルも、現象学の哲学を経て、小津映画を経た現代の我々にとっての文学の可能性も見えてこないように思う。

 禅の思想を持ち出すまでもなく、人間が体験する感覚世界の成り立ちからして、神や永遠は、私たちの生の猥雑で混乱した日常を離れては存在し得ない。人間は、往々にして、この地上の生の具体から離れた抽象的な普遍として、神や永遠といったものを仮想したいという衝動に駆られる。そのような衝動は、おそらくはタナトスの一つの変形である。

 小津が、美食や酒を愛したことは偶然ではない。人間にとっての普遍は、タナトスの先にあるのではなく、日々の感覚の具体の中にある。舌に載せたチョコレートが溶けていく時の感覚に、トンカツを食べた後ビールを飲む時の感覚に、永遠が宿っていると考えて、何が不都合なのか。そこに神が宿ってさえいると考えても、不敬だと言えるのか。有限で具体的なものが、そのまま、普遍的で永遠なものと等価であると考えては、道を誤るのか。私たちの生の、ごく些細に思われる具体の中にこそ、もっとも永遠で普遍的なものが宿っているからこそ、小津のような芸術家ができるのではないか。

 無限は、人間という有限の生にとっては、実無限ではなく可能無限としてしか顕れない。どんなに大きい数をとってきても、必ずそれよりも大きな数を与えることができる、というように、無限を得る手続きを与えることはできても、無限という実体そのものを扱うことはできない。人間にとっての無限とは、すなわち、有限の手続きの意味論の中に潜んでいる、可能性としての無限である。

 本来、死すべき人間にとって、普遍は、可能性としての普遍でしかあり得ない。それでも、人間が、実体としての普遍があたかも定立できるように思ってしまうのは、意識そのものの持つ傾向である。人間の意識は、その成り立ちからして普遍という形式に依拠せざるを得ないのであり、現実の世界で遭遇する具体の奔流の中で、その成立の根拠である普遍を探し続けなければならないのである。プラトンが、人間は魂の故郷であるイデアを求める存在であると書いた意味は、おそらくはそのようなことである。

 原節子が家の階段を上り降りしながら、次第に変わっていき、映画の最後には全く別の人間になっている。笠智衆が、老妻が生きていた時とまったく同じ恰好で、同じ場所で、近所の人と挨拶を交わす。ご飯の支度をしたり、服を脱いだり、服を着たり、ビールを注いだり、注がれたりしながら、気がつくと家族のあり方が取り返しのつかない形で変わってしまっている。小津の映画に描かれた日常の生の具体の中に、起こるべきことは全て起こっている。人間の生において特筆大書されるべき、生、死、出会い、別れといった出来事は、すべて、日常に由来し、日常に還って行く。

 日々の生活の些細な具体の積み重ねを離れて、人間にとって普遍も、永遠もないのだと思い定めたとき、それまで退屈に思われていたかもしれない日常が、突然、底光りして感じられてくる。「東京物語」に出会い、小津との出会いをする前の西洋かぶれの私が、日常生活などくだらない、本当の生活は、ここではないどこか他の場所にあると思い詰めていたのも、今から考えればそのことだったかと思い当たる。

 小津安二郎は、私たちの日常が底光りすることの理由をつかみ、表現し得た芸術家であった。今、映画作家としての小津安二郎の輝きが増しつつあるように感じられるとすれば、それは、現代の私たちが、戦争でも革命でも経済発展でもない、ごくありふれた日常に寄り添った精神生活を始めているからかもしれない。マルクスやレーニンは革命を発明した。二十一世紀の私たちは、日常を発明し、再定義しなければならない。そのような努力の向こうに見えてくるのは、具体と普遍の関係についての知見であり、人間性の本質に関する洞察であり、文学の可能性である。