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脳とクオリア 序章 補足

クオリアには、感覚的クオリアと、志向的クオリアがある。

 私たちの心が感じることのできる質感には、どうやら大きく分けて2種類存在するようだ。

 一つが、赤い色の感じ、水の冷たい感じ、ヴァイオリンの音の質感のような、「感覚的クオリア」(sensory qualia)である。感覚的クオリアは、それぞれが、ユニークで独立したある種の感じとして、私たちの心の中に感じられる。視覚で言えば、色のクオリアだけでなく、透明感、金属光沢などの質感も、感覚的クオリアの例となる。

 一方、「志向的クオリア」(intentional qualia)は、私たちの心の中にある、「何かに向けられている」感覚のことを指す。

 志向的クオリアの代表的なものは、言葉の意味である。例えば、「ブラジル」という言葉を耳にした時、私たちの心の中には、まず、「ブ」「ラ」「ジ」「ル」という音素を構成する音のクオリアが表象される。それだけならば、単に音の知覚が生じるだけであるが、私達は、同時に、「ブラジル」という音が、「何か」を指し示しているということを感じる。それは、南アメリカ大陸にある国のことかもしれないし、あるいは音楽や映画のタイトルのことかもしれない。そのような「何かを指し示している」という志向的クオリアの性質は、「赤い色の感じ」のような感覚的クオリアの性質とは異なる。

 私達が、通常「視覚」と呼んでいる表象の中にも、志向的な性質を持つクオリアが含まれている。例えば、ある人の顔を見た時に、「ああ、あれは顔だ」と思う時の感覚は、感覚的クオリアとは異なる、志向的クオリアとして考えた方が良いようである。顔を構成する色のクオリアなどに対して、「ああ、あれは顔だ」、あるいは「ああ、あれは、田中さんの顔だ」というような表象は、言語の意味に近い、志向的な(指し示す)性質を持っている。実際、顔を認識するような高次の視覚認識と、言語的処理の間には、連続性があると考えた方が良さそうである。高次の視覚認識は、感覚的クオリアというよりは、志向的クオリアに分類した方が良いように思われる。

 例えば、カニッツアの三角形と呼ばれる錯視図形を考えて見よう(図0-x1)。カニッツアの三角形を構成する感覚クオリアは、「白い背景の中の3つの黒いパックマン」を構成している。一方、私たちは、この3つのパックマンから、あたかもそこに三角形があるような錯覚を感じる。この3角形の近くは、白のクオリアや黒のクオリアにくらべるとやや抽象的な感覚として把握される。これが、ここで言う「志向的クオリア」である。つまり、カニッツアの三角形という錯視図形は、「白い背景の中の3つの黒いパックマン」という感覚的クオリアに、「三角形」という志向的クオリアが張り付けられる過程であると考えることができる。

 一般に、錯視図形においては、感覚的クオリアと、そこに張り付けられる志向的クオリアの間にずれが生じる。一方、実際に白地に黒い三角形がある場合には、感覚的クオリアと志向的クオリアの間にずれが生じていない。錯視の三角形においても、実際に三角形がある場合でも、「三角形」の志向的クオリアが生じていることに変わりはなく、様々な高次の視覚情報処理は、志向的クオリアに基づいて行われる。

 

 

 

図o-x1 カニッツアの三角形における感覚的クオリアと志向的クオリア

 

 後に見るように、感覚的クオリアは後頭部の第一次視覚野を中心とするニューロンの発火のクラスターによって生じ、志向的クオリアは、下側頭葉を中心とするニューロンの発火のクラスターによって生じると考えられる(第8章)。感覚的クオリアと志向的クオリアの相互作用は、私達の視覚認識のプロセスを理解する上で極めて重要な問題となる。感覚的クオリアと志向的クオリアを区別して初めて明確に意識されるような幾つかの問題があるのである。

 私たちの心の中に、感覚的クオリアと志向的クオリアの二つのクオリアが共存していることは、私たちの心の成り立ち、及び、その背後にある脳内機構について、重要な情報を提供してくれる。感覚的クオリアと志向的クオリアは、私たちの脳の前頭葉を中心とする自我のネットワークと、より末端に近い感覚、運動のネットワークの間の非対称性を反映している。私たちの心は、どうやら、感覚的クオリアの集合体としてとらえるだけでは把握しきれない側面を持っているようだ。私たちが心の中で感じる質感が、感覚的クオリアと志向的クオリアの二つに大別されるということは、私たちの心を理解する上で、どうしても無視することのできない重要な性質なのである。

 志向的クオリアは、時に、「志向性」(intentionality)という言葉で呼ばれることがある。私自身も、志向性とクオリアを別の心的表象の要素として議論したことがある(茂木健一郎著「心が脳を感じる時」参照)。一方で、例えば「プレスリーがオーストラリアに公演で来ることを知っている」と「プレスリーがオーストラリアに公演に来ることをうわさで聞いた」では、心的表象の内容が明らかに違うが、このように、少しでも心的表象の質に差があれば、それをクオリアの差として抽出しようという立場もある(Chalmers 1996)。上のプレスリー公演を巡る二つの心的状態の差を明確にするためには、我々の心の志向的性質を問題にせざるを得ない。それを、クオリアとは別カテゴリーの志向性と名付けるか、あるいは志向的クオリアと名付けるかは、言葉の定義の問題である。

 本書では、我々の心の中に少しでも表象の状態に差があるとすれば、それはクオリアの差でなければならないという立場を採用しよう。志向的性質をもった心的表象も、クオリアの一種であるとし、「志向的クオリア」と呼ぶことにする。