茂木健一郎 クオリア日記  http://6519.teacup.com/kenmogi/bbs 2002.11.1~ 2002.12.31 2002.11.1.  11月だ!  今朝の天声人語のドナルド・キーンの話には ジーンと来てしまった。  なぜ、一気に文化勲章をあげなかったのか!  やれよ、文部科学省! 某歴史小説家なんてどうでもいいからさ。    イギリスでもアメリカでもどこでもいいけど、 「勝ち組」だった国に滞在したことがある人、 あるいは、「勝ち組」への上向きのまなざしを持っている国に滞在 したことがある人は、  みんな経験があるが、  まあ日本とか日本人への偏見は根深くある。  ・・・・のちに英国で日本文学を教えるようになったときも 「どうして猿真似の国の文学をやっているのか」とよく尋ねられた という。そうした日本への偏見にキーン氏は反論してきた。・・・・ (今朝の天声人語から)  源氏物語が猿まねかよ! しかし、イギリス人やアメリカ人で 源氏物語を知っている人が10%、読んだことがある人は 1%というところなんではないか。  無知というのはオソロシイ。  英語で源氏が読めないというわけではないぞ!  小林秀雄が、有名な文学者が源氏物語を読んで、いやあ、これはすごい、 世界文学にこんなにすごい作品はない、とすっかり感心していたのだが、 よく聞くとそれが英訳本だったと、志ん生の落語のオチのように 講演で喋っているが、  源氏の英訳本読むと、マジでぐっと来るというか、11世紀に こんなスゴイもん書いていいのかよ、シェークスピアなんてメジャ ねえぜ! という感じになる。  私の持っているArthur Waleyの英訳本には、たとえば こんな箇所がある。  Emperorの寵愛した女が死ぬ所なんだが。  But when they would have laid her in it, he forbad them, saying "there was an oath between us that neither should go alone upon the road that all at last must tread. how can I now let her go from me?"  ここで、折った跡があるので、 半年前に読んくり寝ようというもくろみで、 最初から、中華料理か何かに入ってビールを飲む、と決めていた。  駅の前にイトーヨーカドーがあって、そのすぐ裏の中華に入った。 おばさんが「いらっしゃいませ」と言って、その顔を見た瞬間、 はっとした。  何とも言えない、柔和でおだやかないい顔をしていたのだ。  「NEO東京だ」と言って、最近私は東京が好きだ、仲間もいるし、 仕事の場もある、と思っていたのだが、こういうおばさんの 顔を見た瞬間に、東京にはないものを思い出す。  おだやかな時間の流れ、その中で、生活の全てが済む、人間の イメージで把握できるサイズの都市空間。  そのような場で生活しないと生まれない顔というのがあって、 そのおばさんの顔がそのような顔だったのだ。  いい顔だったなあ、と思いながらホテルに帰り、 チューハイを飲みながらYes, Minister Series 2のDVDを見て ソッコーで眠った。    今朝は6時に起きた。8時間たっぷり眠った。目覚める直前、 夢の中に、「江戸前寿司を愛する会」という名刺を持った 変な人が現れて私と会話を交わした。私は、その人に、 「お寿司が好きなんですね」とマヌケな質問をして、その 自分の質問のマヌケぶりにびっくりして目が覚めた。  今日は最近の運動不足を解消するためのトレーニングのつもりで チンタラ走るつもり。シンガポールでもスクワットだけはマジメに やっていたのだが、それがどれくらい効果があったか。  完走する確率50%というところだが、何よりも問題なのは 実は気温で、予報によると今日は台風も近づいて曇り雨で気温が アガラナイらしい。一応薄いトレーナーを持ってきているので、 ひょっとしたらそれを着て走ることになるかもしれない。  ホントーのチンタラ走りである。  まあ、シイナマコト君の怒濤の地球バカ紀行に比べたら、 「すみません、直前1週間は、出張で忙しくて、町中を発作的に 走るバカトレと、早朝の家の周を肯定して、前向きにアクティヴに見えるハリウッド映画よりも、 「みつばちのささやき」のような、あやうい、無明の地点を経由する 映画の方が、よほど「生きていてよかった」と思える。  ハリウッド映画だったら、アンナという女の子の成長物語の中に、 ミツバチの巣の中をうごめく無数の蜂たちをじっと見つめるシーンを 重要な要素として入れる脚本は「却下」されるだろう。  しかし、アンナが生と死のアヤウイ境界から、最後に「Soy Anna!」 (私がアンナです)と何かに呼びかけ、何かを学ぶという無明から 構造化への過程は、どこか深いところでミツバチの巣と結びついている。  それが何なのか、と敢えて説明する必要もないし、  説明して安心する必要もない。  このような、absurdな淵を一度経由することのないハリウッド映画は、 やはり知的にツマラナイし、生きる糧にもなりやしねえ。  エモリー大学のPhilippe Rochatが来て、  ソニーの食堂のランチから、talk、そしてガクセイたちとの 懇親飲み@あさりまで、ずっとオモシロシャワーを振りかけてくれた。  それで、いろいろ大切なことを思いついたが、  大切なことなので、そのうち大切に表現したいと思う。  ガクセイたちも、今回は英語で堂々と議論してくれた。  ナガシマも、オンゾウも、タヤも、ヤナガワも、セキネも。  うれしかった。  夜は朝日カルチャーセンター「コミュニケーションの脳科学」 の最終回。  終了後、竹内薫もジョインして、打ち上げをした。  筑摩書房の増田さんと、昨日日記に書いた「内田樹問題」 を議論。  「内田さんというのは、なかなかイケている人なんですけどね」  「ああ、そうですか。」  「でも、茂木さんも、大抵、実際に会うと友達になってしまったり するんじゃないですか。」  「そうかもしれませんね。」  「一方で、一貫性を持つということも大切なことなんですけどね。」  「そうですね!」  「茂木さんが、今日の講義でもそうだったけど、ばーっと、 これは言い過ぎかな、というようなことを爆発することがあるでしょ。 茂木さんの書く文章は上品過ぎるということもあるのですよ。 ああいう過剰が少しでも入っていると、そういう本は売れるんですよ!」  「うーむ。芸として『爆発』を取り入れるということですね。」  「爆発だけでも際物になってしまうんですけどね。」  「思うに、表現するというのは、落語家が一生修業であるように、 終わりなき修行の過程なんですねえ・・・」  なんて話をしていたような気がする。  しかし、ブックオフ問題と、図書館問題は、そのままでは放って おけないと多くのヒトタチが思っているらしく、  複数の方々から、「全くその通りだ」「良く言ってくれた」 とメールが来た。  要するにさ、生きる糧にもなりやしねえハリウッド映画みたいな 本を図書館がセッセセッセと大量購入して貸本屋業になって、 一方新刊書を万引きしたやつがブックオフに流れているんだから、  クズ本だけが跋扈して、みつばちのささやきは絶滅寸前に なっているわけだろう。  やっぱ、許すわけにはいかねえな。  ブックオフの社長だけは、会っても友達になることはないだろう。  それにしても、良質の芸術は、ホント、生きる糧になるねえ。 アリガタイ、アリガタイ。 2002.12.15.  Qualia mailing listと、湯川薫FCの合同忘年会を、 六本木の俳優座の下にある「ハブ六本木」でやった。  クオリア・マニフェストのページを作ったのは、1998年11月26日、 qualia@freeml.comを作ったのは1999年3月2日。  どちらも、それを作ろうと思った瞬間、何を考えていたのかどうも よくワカラナイ。  気が付くと、「そうだ、そのようなものを作ろう」という 確信のようなものがあって、カラダが勝手に動いていた、という 感じだった。  いらしていただいた方々は30名くらいか、楽しくしゃべった。  古くからのメンバーのキクチ君が、「随伴現象なんですか、どうですか」 などとしつこく言っていたんで、  私は思わず「ウルセー」と言ってしまったのだが、 (3次会、赤坂アークヒルズのカフェでのことだった) 因果性との関係とか、そういう根本的なことは自分で深いところまで 降りていって無明の領域に踏み込んで考えなければ明らかにならないので あって、  素人的な議論をしても仕方がねえだろう、という感じがある。  これは、mailing listに、シロウトっぽい思いつきのトホホ理論の 投稿が増えてきて、こういうのはいくらあっても役にたたねえ、 と怒りが静かに蓄積していった過程の中で生まれていった確信である。  Qualia Manifesto Phase 2 http://www.qualia-manifesto.com/qualia-manifesto2.html で、クオリア問題の原理的な解明は少数の先駆者が真剣に取り組めば いいことである、それと同じくらい重要な問題として、いかにクオリア という側面に対する感受性をもつべきか、という議論をしたのは、 そのような意味である。  クオリア問題の解明は、基本的に小乗仏教で、いろんなヒトと 交流して楽しく、しかも意味のあるものができるのは、  クオリアに対する感受性を持って、様々なクリエイティヴな活動を していくことだ、その方が「カッコいい」のではないかと思うように なったのである。  池上高志とかは、最初から、小乗仏教だと言っていたんだけどね。  もちろん、原理的な問題の真剣な議論は続けたいと思うけど、 その議論のレベルを、妥協して落とすことはもうやめよう、そんなヒマ オレないし、という感じになったのである。  池上や、郡司や、塩谷たちと議論しているレベル、原理的な 問題について、徹底的に妥協しない議論しないという態度、 あれを貫けなければ、qualia mlの存在価値はないな、と判断している。  一方で、仏像の箔がはがれて行って地が出た状態の 美とは何かとか、絵を描いたり、音楽を作ったり、そういった領域での 議論、交流は、もう少し緩く(というか緩いことがこのような 領域でのクリエイティヴィティの本質だと思う)できるような気がする。  qualians@freeml.comという新しいmlを作ったりして 「クオリアのクリエィティヴ・シフト」を図っているのは、 そのような理由からなのである。  再び何でこんなことをやっているのか、という問題だけど、 2次会、3次会で工作舎の十川治江さんとも話したように、 田中耕一さん本人はいいとして、ノーベル、ノーベルとガキのように 騒ぐ、日本のメディアのフィロソフィーのなさ(ホント、ヨーロッパの インテリのフィロソフィカル・バックグラウンドの深さに比べたら、 もう絶望、ゲロゲロゲローの状態)などに同胞として もうゲロゲロ嫌気を感じていて、  だからと言って自分の住んでいる国だから、見捨てるわけにも いかず、  次の知的なパラダイムシフトの中核に間違いなくなる「クオリア」 について、少しでも多くのヒトと考えてイキテー!、 そうすると、この国が良くなることのために、10000000000 000000分の1くらい貢献できるかもシレネー! という気持ちがあるように思うのである。  ホント、少しは自分でマジメに考えるという態度を醸成しないと、 もうこの国はダメかもしれないと思う今日この頃である。 補足:  クオリアについての理論的な発言について、 私が下で「トホホ」と書いたのは、 自分の理論が絶対的に正しい、価値がある、と押しつけがましく 提出されるケースのことを言っているのであって、  たとえ、どんなにつたない思考でも、真摯に検討され、 そして自己懐疑を持って提出されたものは価値があると 考える。  読んで一番ダメージを受けるのは、自分が正しいことを 露も疑っていない、しかし客観的に見ればオモシロクも ナントモない説をしつこく出してくる人の場合で、 どうも、意識やクオリアといった問題は、 このようなヒトタチを誘発する傾向があるようだ。  そのようなヒトタチをエンカレッジしてしまったかな、 というのが、4年目に入ったqualia mlの反省点である。  自己懐疑することのできるヒトの議論は大歓迎いたします!  自分のスモールワールドの価値を疑わない、という 態度は、どうも、ノーベル田中を巡るバカサワギと 通底しているような気がして、この国に健全な懐疑精神を 宿らせるにはどうしたらいいのだろうと、また憂鬱に なるのである。 補足2  クリエィティヴ系の話は「緩くて」いいということについて 早速モンクが来たけど、  もちろん、芸術作品の創造とか、演奏とかが緩くていいと 言う意味ではない!  趣旨は、要するにクリティークよりも何かを創ることの 方にシフトする流れが重要で、そこには、えいやっと ペンギンの跳躍が必要である、ということでありました。 2002.12.16.  なぜ、この日記にソニー関係のことがあまり出てこないのかと 言えば、  一つには内部的なことはweb読者にどれくらい関心があるか ワカラナイということと、  もう一つは、シークレットなことは書けないということがある。  今日は、一日中ソニー関係のかなり大きなイベントのお仕事である。  私はソニーという組織はスゴイところだと公言しているし、 日本のカルチャーの中では突然変異、可能性の中心だと思っている。  それは、別にヨイショしているわけではなくて、心からそう思う。  自分のいる組織について いろいろグチをこぼすヒトが時々いるが、 何となくそういうのは違うな、と思っていたら、この前イギリス BBCの政治コメディー「イエス・ミニスター」の中で、ジム・ハッカーが、 まさにそのような「倫理」について言っているのを見つけた。  ハッカー大臣が、公聴会で、「なぜ、自分の省の悪いところを言わない のか?」 と聞かれて、  「それえは、loyaltyというものだ。組織の内部で、お互いにどのような 批判をしようとも、外部に対しては、自分の組織が悪く思われることは 敢えて言わない。」 と答える。  もちろん、私がソニーはスゴイというのは、本当にそう思っている からで、ジムハッカーのような意味で言っているのではないけれども、 自分が所属する組織の悪口をパブリックの場で言っている人は、 何だか妙な感じがすることも事実である。  さてさて、日曜は久しぶりにゆっくり過ごした。  竹内薫が、土曜日の忘年会での私の様子を見て、「気を付けないと 取り殺されるぞ!」とメイルして来たが、  親友はスルドイことを言うものである。取り殺されないように、 少しはスローライフの時間がなければならない。  本屋に行って、金子勝さんの「長期停滞」と、姜尚中×森巣 博の 「ナショナリズムの克服」を買う。  予約していた「ゼルダの伝説」と特典ディスクをピックアップ。  それで、八百屋で、ぼーっと「トンガ産パンプキン」というのを 見ていた時、  ふとスローライフのことを思ったのである。  ネットワークで、様々な遠くのヒトタチとつながる、結びつく。 モノ、情報が流通する。  そのようなベクトルがあるのはいいとして、一方で、「今、ここ」 を大切にするベクトルがないと、何か本質的なところでやせ衰えて いってしまう。  トンガのかぼちゃを食べるのではなく、ローカルな食べ物を大切に しよう、マクドナルドのハンバーガーではなく、里芋を食べよう、 というのがスローフードだとすれば、情報論的なスローライフとは、 つまり、ネットを通して外部から入ってくる情報に駆動されるのでは なく、自分にとって切実なこと、大切なことに寄り添って生きる ということである。  そのような時間がないと、やせ衰えていくし、だいたい生きるカイが ない。  もちろん、ネットワークでつながること自体を否定するのではない。  土曜の忘年会の時、いろんなヒトとしゃべって、赤坂アークヒルズに 来たとき、キレイなクリスマス・ツリーがあって、その光の砂糖菓子 のような姿を見ていて、ふと、「ああ、私は今日はこれを見に来たんだな」 と思った。  そのクオリアに出会うために来たんだな と思った。  しかし一方では、いろいろなヒトに出会って、楽しい話をしたからこそ、 その後にこの光の砂糖菓子に出会うということが、コントラストとして 立ち上がるのだな、と思った。  最初から一人で夜道を歩いてきて出会っても、このような感覚には ならなかったろうな、と思った。  グローバライゼーションの時代におけるスローライフとは、 そのようなものなんじゃないかなと思う。  映画「ミツバチのささやき」のアンナじゃないけど、目を閉じて 呼びかければ、いつでも会える。  情報の洪水の中で、時々目を閉じて、自分にとって切実なものに 呼びかける。  そのような風に、生きていきたい。 2002.12.17.  自分がクオリアをやっていながら、今更ながら言うのも妙だが、 クオリアというのは、たとえば味覚で言えば、自分が体験したことが ないクオリアは、全く類推がつかない、  数字なら、1の次の2の次の3は、こんな感じかな、と大体 判るけれども、  クオリアは、とにかく体験しないと、全く類推が付かない。  池上高志と、松浦雅也という二人の「イケメン」に、 ちょっと協力していただいたことがあって、  (松浦さんは、5年ぶりにライブ演奏をしてくださった!) そのお礼に、五反田のヌキテパで食事をした。  松浦さんのアシスタントの小川さんも。  それで、「記念だ!」というので、えいやっと、 出井伸之さんがよく「これがクオリアだ!」と言われている Chateau Latourを飲んでしまった!  Grand Vinを飲むのは、これが2回目である。  しばらく前に、脈絡なく、シャトーラフィットロートシルトを 飲んでしまって、その未体験のクオリアに衝撃を受けたのだが、 今回もなかなか衝撃であった。  実は、テースティングの時は、「ん? 以外と普通じゃん!」 と思ったのだが、  デカンタしてもらって、 先に飲んだ池上サンや松浦サンが「これウメーじゃん!」と言っている。 「そうかあ?」と飲んで見て驚いた。  ふわーっと何かが花開いて、鮮烈な世界が広がった。  よく、グルメのヒトが、いろいろ蘊蓄を書くでしょ。  ああいうのは、「1が2になって3になるんじゃないの?」 などと、不肖私も考えていた時があったのだが、  しかし、本当に、そのような蘊蓄で覆わないと居ても 立ってもいられないようなクオリアの 世界があるんだね。 これは、ナンダナンダと一生懸命考えた。  微妙な甘みがあるんだけど、それは、甘いのとは違う。 甘さの気配があって、それがストロベリーのようなカシスのような 未体験の香りに包まれている。  春の日差しの中に身を置いたように、わくわくと 何かがあらゆる方向に広がっていく兆しというのか、  何かが始まりそうな感覚というのか、  そのようなものが、口蓋から全身に広がって行く・・・・  うーむ、モノを知らないということはオソロシイ、と 私は思った。  この分では、私の知らないクオリアが、どんなに世界には 隠れていることか。  私は、クオリアの求道者になりたいとも思うが、 そんなにカネがねえ!  しかし、池上、松浦両氏もヨロコンデくれてよかった!   今年も、クレッシェンドで終わりを迎えようとしているが、 来年も、どれくらいガンガン仕事をして、どれくらい新しい クオリアに出会えるだろう・・・・    2002.12.18.  五反田にあるCSLから、品川駅の海側にある ソニーのビルに行く用事があって、  ふと思いついて、関根タカヤス君を誘った。    歩く行き帰りに議論して、私がうち合わせしている 間は、本屋かスターバックスで待っててもらおうという、 ヒドイ話である。  なかなかゆっくり議論する時間がないので、それもいいんじゃ ないかと思って誘ったのだが、関根君はTシャツの上に セーターを着て、コートを着て、文句も言わずに一緒に来てくれた!  それで、打ち合わせが伸びて、関根君は1時間以上本屋に いるハメになったのだが、寒い風の吹く中を歩きながら、 なかなか有意義な議論が出来た。  関根が修論でやろうとしているのは、ボディ・イメージの 問題である。  ちょうど視覚のメカニズムの研究が錯視や両眼視野闘争 の研究を通して進んだように、  関根はボディ・イメージにおける錯覚や奇妙な現象を通して メカニズムを探ろう、という方向性である。  「ぼくは、そういうの、錯触って言っているんですよ〜」 と品川プリンスのテニスコートの横あたりで言う。  関根は、新しい日本語をつくるのがうまい。  もともと経済学部なのだ。  そこから、東工大の修士に来た。 Mad Apple 2のvideoで、後ろ向きに歩いている男が 関根である。 http://homepage3.nifty.com/kenmogi/madapple.html  それで、ラボに戻って議論していたら、関根が、なんと 量子力学の基礎の本を持っている。  「お前、こんな本、本当に読んでいるのか?」 と聞いたら、  「田谷さんと議論していて、*********」 ****の部分は、今もっとも重要な研究テーマの一つなので、 省略!    とにかく、関根は、*******から、量子力学に興味を 持ったらしい。  学生には、時々、本当に驚かされる。ゲームの理論を、 ストーリーテラー的に説明していた関根と、昨今の関根はどうも 違う。  東工大の前期の授業で数学とかでヒドイ目にあっているうちに メタモルフォーゼしたのかもしれないが、  このような、人間の脳は変わりうるという劇的な例を見ると、 電車の中で化粧をしている女は前頭葉が壊れているとか、  ゲームをやると前頭葉の活動が低下するとか、 ああいった「決めつけ」の言説はどうでもいい、害だらけだと 思われてくる。  「奥さん、こういうことをやっている時は、脳のここが活性化する んですよ!」  「こういうことをやると、その活性化すべき脳の部位が活力 落ちて、ダメなんですよ!」 というような、私が言う「みのもんたの脳科学」については、 いつか徹底的に粉砕してやろうと思っている。  生成や創造性という視点から脳を見れば、昨今の前頭葉産業の機械論的 な脳観とは全く違った脳観が立ち現れてくる。  これは、ある意味では「人間とは何か?」という問題を巡る、 極めて深刻な闘争なのだから、私も本気にならなくてはならない。  関根が経済出身だからと言って、「こういう思考パターンだ」 と決めつけないのが、私の立場である。  そのうち、脳は劇的に変わる。私の脳だって、毎日少しづつ 変わっている。   そのような、脳の変化の可能性を信じること、そして、その変化が、 現在まだ私たちが把握していない過程を通して起こることに思いを 致すこと。  そのような態度を取らなければ、自分自身も創造的になれない。  昨今の「前頭葉産業」の脳科学は、創造的であることから もっとも遠い。 2002.12.19.  今日は、研究室の"Brain Club Xmas Special"だった。 いつもは、論文を読んだり、データを発表したり、モデルを検討したり しているのだが、  今回は、ビデオとか、ライブの芸とか、何か自分たちが仕込んだ 作品を披露して、その後投票でベストを選ぶという趣向である。  まずナガシマが「超ひも理論」(いかにひもとして生きるか)のビデオ、 関根が「SHYING」というジョークビデオ、光藤が「立身流兵法」 という居合いのデモ、張さんが「中国4000年の餃子の作り方」、 柴さんが「Mad Apple Remix」、ヤナガワが「Swan Lake」、 内山リナが「暗算の天才」、田谷が「カメラへの愛」、私が 「メンタル・マジック」、オンゾウが「狂ったリンゴ」、須藤と 小俣が「ギワクのカナザワ、ジュテーム」と、タイトルを並べても よく判らないかもしれないが、それぞれ爆笑の芸、ビデオを披露した。  どれもこれもバクショウ、感動であった。うーん、甲乙付けがたいなあ とみんなが思っていたが、残酷な「強制選択法」の投票で、 見事「腰毛の関根」が優勝して、賞品として、私がフロリダのUniversal Studiosで買ってきた「オスカー像」を手にした。  なお、全作品は、そのうちDVDに焼いて希望者には配布、 一部の方々には強制プレゼントされる? 予定なので、お楽しみに?  その後は、ツインズよしはし(渋谷)で忘年会。  ラボ外からもいろいろな人が来てくださって(須藤のCDに サインしてくださったヒトとか、アイドルのうちわの認知実験を させられたフランスと日本のハーフのヒトとか)、タイヘン楽しかった。  来てくださった方々、Thank you very much indeed!  出井伸之さんからサイン入りの「非連続の時代」(新潮社)を いただいた。  昨日が発売だったのである。 http://www.shinchosha.co.jp/wadainohon/hirenzoku/index.html  その中で、クオリアのことがいろいろ書かれているのだが、 その一部分を引用する。  ソニーがソニーである証 ー「QUALIA」  クオリアこそ、目で見て、手で触れて喜びを感じるような、心の 琴線に触れる何かを創り出すというソニー・スピリットの原点であり、 グループ全体で追求すべきミッションではないでしょうか。・・・ クオリアはまさしく人が子供の時に最も自然にそして純粋に抱く Sense of WOnderを凝縮したものであり、またそれを呼び起こす ものであると思います。・・・・アリゾナの夕日やヘリコプターから 見た早朝のダボスの冬景色など。・・・クオリアは人に一生 忘れない記憶を残します。そんな感覚、経験、記憶、そして「幸せ感」 を求めて「かたち」にし、人の心に驚きと感動を残していくことこそ、 ソニーの本質ではないでしょうか。・・・・  「QUALIA」は、ソニーがソニーである証なのです。 2002.12.20.  小林秀雄が、本居宣長のところに集まった門弟たちが、 「いやあ、先生、学問というものがこんなに楽しいものだとは 思いませんでした、私たちもいろいろな道楽をして来ましたが、 学問ほど楽しいものはありませんね。女よりもよほどいい」 と言ったとか言わないとか講演の中でしゃべっている。  門弟たちは、裕福な商人などである。  三宮の「贔屓屋」で、インドネシア三宅さんや、 おしら塩谷、郡司ペギオ、狂気の眼相澤、 フィギュア青野、D3山本、京都コネクション1たちと しゃべりながら、まさにこういう時間は楽しいな、と私は 思った。  学問ほど楽しいモノはない! と思った。  ちなみにフィギュア青野と京都コネクション1は郡司研のガクセイ、 D3山本は、三宅美博研のガクセイである。  神戸大学の会議室で、午後2時過ぎから午後10時30分まで、 エンエンと議論した後の居酒屋である。  みんな良く食うし、良くしゃべる。  三宅さんが「ここは遠慮がないからそれがいいんですよね」 と言っていたけれども、本音のトークというのはオモシロイ ものである。  オモシロイから、午前2時まで爛々と目を輝かせて 議論する。  コアな領域に魂が触れて、活性化する。  人々の魂が白熱化して輝くのを、私は目撃した!  最後は、郡司のリュックを掴んで、いつもの「サンルート ソプラ」まで歩いた。  こういうことって、類希なことなんだよな、と私は思う。  自分が生まれて投げ込まれてしまった世界のことが 徐々に判ってくる。  それぞれ自分に切実な問題を探索し、時折その成果を持ち寄る 仲間たちがいる。  これ以上に楽しいことがこの世の中にあるだろうか!  エンタティンメントというよりは、ブリス(bliss)。  魂の白熱電球が輝く瞬間。  オレタチは、本居宣長と眼を輝かせて源氏物語のもののあはれ を語ったヒトタチの系譜につながっている!   とオレは思った。  相澤洋二さんが、「もう日本は終わっているのではないですか」 と、例の愉悦の狂気とでもいうべき眼で言っていた。  うしみつ時のことである。  オレも、ひょっとしたら終わっているのではないかと 思いつつ、しかし、魂の白熱電球が 輝く限り、個人的にはあきらめないでいようと思う! 2002.12.21.  学会が終わって、三宮でみんなで飲んでいる時、 ふと一人になりたくなって、塩谷にカネを渡してトンズラした。  10時過ぎだった。  ヒトが流れている方向に歩いていったら、「神戸ルミナリエ」だった。 震災の年の歳末に始まったというこのイベント。  去年、東京の丸の内で似たようなのを見たが、神戸の方は旧居留地 である。  一人になりたくなった理由について、いろいろ考えながら、 光のアーチの下を歩いて行った。  その具体的な景観については、特に記そうとは思わない。 ただ、10時30分に消灯の時間を人々が待ちかまえていて、 消えた瞬間にわーっとため息が上がって、  そして、光を奪われたアーチたちが暗闇の中に白く浮かび上がって、 思いがけぬほど美しかったというだけである。  ルミナリエのメイン会場の公園の片隅に、ガラスの筒があって、 その中であかあかと炎が燃えていた。  震災の犠牲者たちを悼むモニュメントだった。  そこに、若い男女のカップルがすっと近づいた。  女の方が、手を合わせ、見ている私が動揺するほど長く祈っていた。  郡司が、今やっているようなことを研究し始めたきっかけには、 それなりの個人的な切実さがあって、  そのことはここで記せないけれども、  その切実さと、郡司が流通している回路のズレが、 自分の問題としても重なって来て居たたまれなくなったのが、  あの飲み屋の場を出たくなった主な理由だ、と私は気がついた。  郡司は、隣に座って、肩をこのやろうとか揉んでいたりしたので、 肩を通していたたまれなさの交流があったのかもしれない。  私がクオリアなどという問題を考え始めたきっかけを、私はずっと 「電車のガタンゴトン」という形で整理して来たけれども、  その前に、幼少期の頃から続く、長い長い感情のレベルの葛藤が あって、それが切実さとして潜在して、クオリア問題につながって いったのだな、と今にして思う。   そのことに、ルミナリエの輝きを見ていて気付かされた。  クオリアについて、「こんな問題ですか」とヒトが キラクに言うときに、私は時にひどく傷つく。  それは、クオリア問題が、科学的、論理的な問題であると 同時に、パーソナルな問題でもあるからである。  何だか久しぶりに感傷的な気分になってしまったので、 郡司や塩谷がケイタイに電話して来ていたことは気付いていたが、 私は一人で息を潜めて、  自分の魂の中をいろいろ探索してみた。 2002.12.22.  草津のカラオケで、 飛び跳ねていてカドにまぶたをぶつけた。  血が出たので、トイレにいってティッシュで押さえた。    ボクサーになった。  その後、右手の親指を何かのきっかけで切った。  今朝、田谷くんとご飯を食べている時に、 「怪我すると、ボディイメージが変わるね」と言った。  関根に実験させてみよう、と言った。  羽尻研究室のやつらとあった。  ひとり、ナマイキな(元気のいい)ガクセイがいて、ケンカした。  広島大からブツリのヒトが来た。  中国の1世紀の小説を書きたいというヒトが来た。  おしら様=塩谷が、作用の問題についてしゃべった。  ザ・グレート・エスケープ。 カラオケで、まだザ・ブリリアント・グリーンの「そのスピードで」 が入れ残っていたのは残念だったが、  塩谷と一緒にオカネを置いてトンズラした。  ボストンプラザホテルの塩谷の部屋で、ビールを飲みながら しゃべろうと思って、  一口飲んだら意識がなかった。  目が覚めると、私は床の上にうつぶせに寝ていて、上に ふとんがかけられていた。    横を見ると、巨大な男が、トドのようないびきをかいて眠っていた。  自分の部屋に戻り、横になったらあっという間に朝9時過ぎになって、 田谷君から電話があった。  羽尻に電話したら、これから寝るところだと言った。 朝までしゃべっていたのだと言った。  田谷が、茂木さんたちが消えた後、寂しくなって盛り下がりました、 私も羽尻さんの家に拉致されそうになりました、と言った。  ボストンプラザは、いいホテルだったが、エスプレッソマシーンが なかった。  田谷が、茂木さんの家にはあるのですか、と聞いた。  私は、ない、掃除するのが面倒だから、と答えた。  昨日はあんなに雨が降っていたのに、今朝の草津は晴れている。   2002.12.23.  塩谷賢、田谷文彦と3人で並んで、酒、弁当、イカのつまみ で宴会をしながら「のぞみ」で帰ってきた。  東京駅にて、入不二基義さんの「時間は実在するか」(講談社現代新書) と、橋本治さんの「人はなぜ「美しい」がわかるのか」(ちくま新書) を購入。     池袋で、AirH"のつなぎっぱなし端末を購入して帰ってきた。  しばらく前からPowerbook G4のシステムが不安定になっていたが、 ついに、突如トラックパッドが反応しなくなる事態が発生!  どうも理由が判らない。OS Xで立ち上げても同じ。  ネットで調べて、Power Managerをリセットしたが、 それでもダメだった。  せっかくモバイル生活をエンジョイしようと思ったのに、 マウスを持ち歩くはめになりそうである。  エンエンと修理を試みながら、出井伸之さんの「非連続の時代」 を読了。  ビジネスというのは、オカネのことだと 思いがちだけど、結局人間の幸せとは何か、人間が 求めるものは何か、という哲学観に支えられないと、突き抜けたものに ならない、と改めて確認!    「非連続の時代」が終わっても修理は終わらなかったので、  Robert Wilsonの、Four Colours Suffice (Penguin Books )に移った。  4色問題の歴史とその解決を解説した本である。  いきなり「フフフ」と、ツボを刺激されるところがあって (平面上のマップの問題を球面上のマップに写像するところと、 3次元に拡張したらどうなるかを議論したところ)、  そうか、良い数学の本というのは、こういう「おいしいツボ」 が詰まっているんだな、とナットク。  修理をしている間コンピュータが使えないし、時間が細切れに なるので(いろいろ設定を変えてリスタートしたり、Norton Utilitiesを 走らせたりする)、本を読むのに好都合。ストレスがたまったが、 いい本2冊に出会えて、痛み分けというところ。  ところで、おしら様(=塩谷賢)と新幹線の中で話していて、 コイツの抽象的な話はあまりヒトに判ってもらえないが、  具体的なものに託して語らせるとスゲーことを言う、と再発見。  もう22年のツキアイなのに、未だ再発見がある。  塩谷が、羽尻公一郎はヒロインを気取っているところが 良くない!  と何回も言うので、  ヒロインというのは、ヒーローの間違いではないのか、 と私が聞くと、  いや、ヒロインだ、ヒーローというのは、 自分がやっていることの意味に無自覚なところがあるのだが、  ヒロインは、最初から他人の目を取り入れて、そこでアプリシエイト されるように振る舞う、  羽尻が、ああやってコスプレしたり、研究室にライトサーベルを 飾ったり、ああいう振る舞いは、まさにヒロイン気取りなのだ!  と言う。  私は、羽尻にそれが適応されるかどうかという問題よりも、 ヒーローとヒロインの差についての塩谷の考察に恐るべしと思った。    ワグナーの「神々の黄昏」のジークフリートが 美しく、またオソロシイのは、  ハーゲンに背中を刺されて死に行く時、自分が死ぬということを 自覚していないことに現れている、と前から思っている。  だから、ブリュンヒルデへの愛を何のてらいもなく歌えるのだ。 自分の命がすぐに終わろうとしていることにさえ気付かず。。。。  そのような、ディープなポイントに脈絡なく他人が歩いてくると、 とてもびっくりする。  おしら様、恐るべし。    それで、塩谷が世にウケルためには、お前は絶対 具体的なものに託して語った方がいい、と私は酒を飲みながら おしら様プロデゥースの秘策を練った。  その場で「おしら様と行く仏像とグルメ」の企画、決定。  トラックパッドが直らなくて、とても悲しい。 マウスだと身体性が変わる。  おしら様は、体重が2倍になって、その変貌した身体性を 持ってヒロインの問題を考えているのだな、とシミジミ思う。 2002.12.24.  滋賀県の豊郷町で、  裁判所の仮処分の決定を無視してチョウチョーが 校舎を壊した事件、  ひさびさにアタマ来て、関係部署のメイルアドレスを 調べて、バトウ文を送った。  その後、asahi.comに、「政治家の信頼感15%、占いよりも低く サイテー」という記事を見つける。  占いを信じるヒトが20%いるということをどうみるのか ワカラナイが、政治家<占いというのは、案外我々の実感と 合っているかもしれない。  今になってはメルヘンの世界みたいだけど、 小学校6年の時、家から自転車で15分くらいのところに、白サギが タクサン巣を作っている森があった。  夕方になると、何百羽という鳥が集まってくる。  最初は小さな点で、それがダンダン近づいてきて、 はっきりと鳥の群になる。  やがて、次々と森の木に止まり、 ギャアギャアと鳴き、あたりがすっかり暗くなって 騒ぎが収まるまで、白サギの様子を木の上から観察していた。  ある時、友人と白サギの森にいたら、何人かのオジサンが 猟銃を持って白サギを撃ち始めた。  オレたちはアッタマ来て、森の反対側から、オジサンたちの 方に向かって石を投げ始めた。  子供ながらに、猟銃を持っているヒトに見えるところから 石を投げるのはマズイんじゃないかと思ったのだろう、 私たちは、銃の音のするあたりに向かって、メクラメッポウに 石を投げた。  そしたら、そのオッサンたちはどうも近所の農家のヒトタチだった らしく、オレタチと同じくらいの年の子供たちがわーっとやってきて、 「トウチャンたちに石を投げるな!」「言いつけてやるぞ」 と言った。  ウソのようだが本当の話である。  それで、私と友人は切なくなってしまって、自転車に乗ってだーっと 逃げた。  その事件以来、何となく白サギの森に行きにくくなって、足が 遠ざかっていたが、2年くらい経って行ってみると、森の横に あったはずの沼がすっかり埋め立てられていて、家が建っていた。  夕方になっても、白サギの姿は一羽も見られなかった。  メルヘンは消えてしまったのだ。  要するに、猟銃を撃つオッサンと、沼を埋め立てるやつを 混同するな、ということなのだが、  今回の件でも、本当にワルイやつ(文化財保護などの観点が 全くなく、改築の補助金を出す見識のない文部科学省の役人) は別のところにいるのだろう。  道路公団の件にしても、ヒトビトは別に道路を造ることが ワルイと言っているのではなく、見識なく自分たちの利益だけで 公金をクイモノにするやつらにほとほと嫌気がさしている だけのことである。  パブリックセクターにだって、志の高いやつはもちろんいる。 くさったやつは、1分しゃべればすぐ判る。本当に自分のアタマで 考えていれば、どうするのがいいのか、柔軟にハンダンできるだろう。 本当にワルイやつらは、鉄砲ぶっ放すチョーチョーの裏にいるという ことを忘れないようにしないと、国家予算の半分がシャッキン! というイジョー事態に陥ったこの国のパブリックセクターの クロック数が低いやつらのダメダメ行動を撃つことはできねえ! 2002.12.24.  そういえば、昨日ヘンなものを見たのだった。  夕方、買い物に出て鳥のからあげを買っていたら、 空にキミョウなものが飛んでいた。  飛行船? 風船? 飛行機? ヘリコプタ? といろいろ考えているうちに、それは次第に大きく なってきた。  大きくなると、非対称な形をしているのがワカッタ。 タコのような色で、足が飛び出して、回転している。  ナンダ、ナンダと思っているうちに、どうやら パラシュートらしいとワカッタ。  ヒトがぶら下がっていて、くるくる回りながら 降りて来ている。  ずっと轟音が聞こえていたのは、その上を行く ジェット機のようなものだった。  あのジェット機から飛び降りたヒト?  東京の住宅地の上にパラシュートで降りる?  ゴーという轟音と、銀色のジェットと、ゆっくりと降りて来る タコのようなパラシュートは、背骨が外れたキミョウさのアイコン であった。  タコは、すーっと視野の中を斜めに流れて行って、やがて 見えなくなってしまった。 2002.12.25.  東浩紀さんが斉藤孝さんの「声に出して読みたい日本語」 に始まった日本語ブームについて批判的な文脈で 書いているのを読んで、ふむふむと思いながら  ソニーの羽田テックへの道を 京急のナントカ稲荷の駅から歩いていた。  斉藤孝さんとは、ブームになる直前にお会いして、 人間知恵の輪をやられてしまったので、 あまり批判的なことは書いていない。 (実際に知り合うと人間の方が立ってしまって、 悪く言えなくなるのが私のこまったところ。 私にはカクメイができない!)  実際、そんなにワルイひとだとも、ワルイ本を書いている とも思わないが、  「声に出して読みたい日本語」については、 何が、とは言わないが、スコシの違和感を感じていた。  それって、何なのだろうと、殆ど意識の淵で考えていたら、 突然ワカッタ。  これだ! と思った。  要するに、なんで「日本語」じゃなくちゃいけないんだ、 というところが私の違和感のポイントだったのだ。  「声に出して読みたいドイツ語」でもいいじゃん。  「声に出して読みたい韓国語」でもいいじゃん。  「声に出して読みたいスワヒリ語」でもいいじゃん!  みんなで、外国語の朗誦文化を盛り上げよう、これで行こう、 そっちの方がオモシロイんでないか? ってことで、私はスゴーク納得してしまったのだ。  私は、さっそくゲーテのファウストでも朗誦してみるか!  同じく斉藤さんが言っている、ハラ、コシの文化というやつも、 それが確かにデントー的な日本の身体感覚なんかもしれないが、 別に「みんなでやろう、フラメンコ」でいいじゃん。「みんなで 踊ろう、ケチャックダンス」でいいじゃん。  フラの精神を突き詰めればいいじゃん。  世界のどこにあるもんでも、楽しければ取り入れればいいじゃん! と思ってしまったのである。  私的には、この問題はこれにて一件落着ですな。  要するに、「これが日本の伝統だ」と囲い込むところが アヤシイということは誰でも思っていると思う。  それって、もともと外から来たんじゃないの、みたいな。  それに対して、「だけど、こういうのが日本人の身体感覚には 合っているんデイ!」という反論もあるかもしれない。  例えば、「盆踊りは日本人のデントー的な身体感覚に合っている けど、フラダンスはあってネエー」みたいな議論をしたとするよね。  だったら、その身体感覚のズレこそが重要なんじゃないの、 みたいな議論をしちゃダメなのか?  オレは、そっちの方にかけるね。  そうだ、オレは、「日本のデントー的な」方に行くより、 むしろケチャックダンスをすることにしよう。  そう昨日決めてしまったのだ。  チャチャチャチャってサルみたいにやるあれ、オレの キャラに合っているしね(ホントか?)  ムズカシイ話をしようと思えば、いくらでもできるけど、 まあ、こういう文体でこんな感じで書くのが、「日本のデントー が大切」っていうオジサンたちに対抗するのにはいいんでないか。  その方が、オレたち、21世紀に生きる人間にとっては、 楽しい態度(おしら様だったら賛成してくれると思うけど、 正しい態度よりも、楽しい態度の方がおそらく正しいと思う。 うーん。クレタ島のうそつきみたいな話だ)なんではないか!  行き帰りの地下鉄の中で読んだ「ナショナリズムの克服」 (集英社新書)の中に、こんなのがあってビックリした。  ジェリー・ルービン(Jerry Rubin)というヒトが、 「高度資本制社会の中では、遊んでいることが仕事なのか、 それとも仕事が遊んでいることなのか、その二つしか正気を保つ 道はない」 と書いているんっていうんだよね。 オレは、そっちの方に行っていないから、日本はアメリカに負けている んだと思う。  たとえば、日本のお役所にただよう、あのくらーい気分。 あの中にいると正気を保てない。  生きたオカネの使い方ができない。  だから、財政赤字が税収と同じ国になっちまうわけで!  タノシンデ仕事しないと、まともなハンダンはできない。  だから、日本の公務員に立ち直ってもらうためには、 まず、フラダンスでもやってもらって、楽しむことを楽しむ キャラになってもらうのが一番ええと思うぞ。  ニシベさんとか、ニシオさんとか、コバヤシさんとか、 ああいうヒトタチのナショナリスティックな言説は、楽しく ないから、その時点でペケ、と言い切っていいのだと思う。  何にせよ、抑圧的な文脈はダメだよね。  ヒトは、楽しくないと、正気を失う、というルービンの命題は、 平成ニッポンにおいて極めて正しい!  さて、今日も仕事を楽しむことにしようぜ、みんな、みたいな!   2002.12.26.  打ち合わせで、汐留に初めていった。  電通と日本テレビの両ビルがそびえている。  マスメディアの報道によると、ここはトレンディーなスポットのようで、 確かに何しに来ているのか判らないようなヒトタチがうようよいた。  その中を、私は少し時間より早く着いたので、 地下2階の酒屋に行き、 最近すっかり目覚めてしまった赤ワインのボトルを 眺めて、「これはうまそうだ」 「それにしても高い!」 などとぶつぶつアタマの中でつぶやきながら、 すっかり、何しに来ているのか判らないヒトと化していた。  それなりにヨカッタのであるが、同時に、「ヒトビトは高層ビルに 何を求めているのであるか」ということを思ってしまった。  ふと、原体験としての「霞ヶ関ビル」のことを唐突に思い出して しまったのである。  あれは、私が小学校に上がるかアガラナイか、物心ついた 頃、確か父親に連れられて霞ヶ関ビルを見に行ったことがあって、 ドーンとヒトがいて、その地下で食堂に入った記憶がある。 あの頃は超高層ビルというのが本当に新しくて、 なんだ、これは、と見上げた記憶がある。  その、「建造物を見上げる」という体験が、何か、とてつもなく 新しいクオリアであったように記憶する。  思えば、幸福な時代であった。  インターネットで調べたら、プロジェクトXのサイトが 引っかかってきて、「地上36階、高さ147メートル。 昭和43年に完成した」とある。  やはり、私が5歳とか6歳の時だったらしい。  あの頃の「うわー」感に比べると、もはや、シオドメに来ても、 「うわー」とはならない。  むしろ、新橋駅の内側と外側のコントラストが今後どのように 展開して行くかという問題の方が興味あるかもしれない。  このように、我々はスネた時代に生きている。  インターネットで最初にワイヤレスブロードバンドに つながった時も、それなりに感動したかもしれないけど、 それは、最初に霞ヶ関ビルを見た時の「うわー」とは ちょっと違う。    ちょうど霞ヶ関ビルを見に行った頃に、 テレビで「サンダーバード」をやっていたように思う。  原子力飛行機、密林伐採機、有人太陽探索機。。。。 2060年とかそういう設定だと思うが、  今、そのような「うわー」の未来が来る、実現したいと 思っている人がどれくらいいるか。  道路を造ることだって、本来「うわー」の領域に 入ることであったはずなのに、我々は経済効率ということだけで 議論する、スネた時代にいる。  未来は堕落したのである。  それでも、ヒトビトがシオドメに集うのは、未だ「うわー」 を求める気持ちがあるということであり、  アメリカのアマゾンでSegwayに大量の予約が入っているというのも、 「うわー」を求める心なのであろう。 http://www.segway.com/  私は、むしろ、目の前のガラスのコップ一つに「うわー」となるような 回路を切り開いて行くしかないな、と思っている。  ある意味では、クオリアに目覚めた瞬間は生涯最大の「うわー」 だったし。  身の回りのありふれた風景が全く違って見える、 そのような思考の回路をナントカ開こうと 日夜努力しているのかもしれない。  ヒトは、いつでも「うわー」を求めているのだ!  オレは、「うわー」の水先案内人になりたい! 2002.12.27.  ウンジャマラミーの松浦雅也さんが、アシスタントのOさん、 音エンジニアのNさんとソニーCSLに来た。  某関係のブレスト。  ブレスト終了後、ソニー4号館の食堂にみんなでいった。  ガクセイも入れて、なんと9名のお客さんバッジ。  新記録である。  受付のヒトが笑っていたような気がする。  冗談で、「今度100名お客さん連れてくるか!」と言ったが、 実際にはムリだと思う。  最後、見送ったら、なんとジャガーで来ていた。  佐塚が、目黒まで乗せてもらってラッキーした。  「茂木さん、ありがとうございました。乗り心地、スゲーヨカッタ すよ。」 と後で言っていた。オレにお礼を言わずに、松浦さんに言え!  午後は、修士2年の3人の進行状況発表と、修士1年の3人の 構想発表。  柳川トオルと恩蔵アヤコが、奇しくも「カオス的遍歴」 を使うというので、  オレは二人の話を聞きながら、カオス的遍歴のフォーマリズムに おける「ストカスティク」な項の意味について真剣に考えた。    それで、決定論的カオスには欠けているものを、ストカスティックな 項を使って補う道筋を見つけた! これで行こう! しかし、 柳川は発表までに間に合うのか?  夜は、塩谷賢(おしら様)と贔屓にしている荻窪の「魚徳」の 餅つきに行く。  田谷フミヒコと光藤ユウイチを拉致、長島ヒサユキが荻窪からまっすぐの 所に住んでいることに気が付いて、長島呼び出し。  後から、ちくま書房の増田さんもジョイン。  モチをぺったんぺったんついて、おでん食って、酒のんで、 バカ話して、すげえ楽しかった。  最後は、増田さんと、午前0時から午前2時30分まで、 ガチンコ1x1赤ワインマジトークで締めた。  増田さんは、目が笑っていないからコワイ。    そういえば、光藤ユウイチは、魚徳のマスターに、「お前、工作員 だろう」と言われていた。  光藤ユウイチの「目が笑っていない」のと、増田さんが目が 笑っていないのは、ちょっと意味が違うような気がする。こんど そのニュアンスの違いについて考えてみよう。  今年も暮れていく。思えば、当時まだ厚生省に勤めていた 塩谷賢と数年ぶりに再開したのが「魚徳」であった。  こんどこいつと結婚するんだと、美佐子(ミサエと私は読んでいる) に紹介されたのが、魚徳のカウンターであった。  あれから十余年。  いろんなことがあったなあ。  ヒトは、年末には感傷にふけるものであるならば、 私の今年の感傷の中身は何だろうと、  増田さんと別れたタクシーの中でカンガエタ。 2002.12.28.  本を書くようになって最初に学んだことの一つは、 当然のことなのだけど、タイトルや装丁は出版社と相談して 決めるということである。  著者の「自由」になるのは文章自体だけで、あとは、出版社が その道のプロとして、決めるのである。    それで、この前、ちくま書房の増田さんとしゃべっていた時に、前から ギモンに思っていることをぶつけてみた。  それは、「なぜ、日本の本のタイトルは、説明的になるのか?」 ということである。  私はもうなれてしまったから、そんなものかと思っているが、 例えば、私の書く本の場合、「脳」とか入っていないと ダメだと言われたことが何回もある。  タイトルから、内容が判らないとダメだというのである。  脳の本だと、脳とか心とか意識とかそういうものの順列組み合わせ になってしまい、代わり映えのしないタイトルが並ぶことになる。 「タイトルから内容がワカラナイとだめ!」というのは、 もっともらしく思えて、 何となくナットクできそうでできないのは、英語の本は、 タイトルから内容がワカラナイものがタクサンあるじゃないか! と思うからである。  例えば、ゲルマンの「クオークとジャガー」、ペンローズの 「皇帝の新しい心」、経済書では、「レクサスとオリーヴの木」。。。 こういうタイトルは、日本の出版文化の中では、まず付けない。 「経済ってこんなものだったのか会議」とか、「声に出して よみたいナントカ」  なんだか、くどくどと、説明するようなタイトルをつける。  一体なぜなのか! どん! と増田さんに攻守所を変えて 迫っていたのである。  日本のタイトルの付け方は、英語的なセンスでいうと、ださいというか、かっこわるいというか、そういうイメージである。  ナンデそうなのか、ということを考えているうちに、 案外そのあたりが今の日本人のマインドセットの限界なのかなあ、 と思ってしまったりするのである。  これも、関係ないようで関係あるのだが、日本の人は、 ちょっと何だかその活動が認知カテゴリー化できないようなヒトに、 「本当は何をやっているのですか?」と聞くことが多い。 特に私のようにクオリアというわけのワカラナイ?ことを考えている 人間は、そのようなことを聞かれる機会が多い。  ところが、考えてみると、英語圏では、一見何をやっているのか わからないヒトがいても、「本当は何をやっているのですか?」 とあまり聞かないで放っておくような気がする。  15の時にはじめてカナダにいって、あの頃から、新婚旅行 は1年世界を巡ってきたとか、なんだかよくワカラナイヒトが たくさんいたが、「どうやって暮らしているんですか?」 などとヒトビトは聞かなかったように思う。  思うに、私の回りを見ても、創造的なヒトほど、世間的にみれば 「何をやっているのかワカラナイ」のであって、それを、 「本当は何をやっているのですか?」と国勢調査のように カテゴリーにあてはめて安心するというメンタリティーと、 タイトルが説明的になるメンタリティーには、近いモノがあると 思う。  そうだ、いろんなところで書かされる、 あの「職業」の選択肢、なんであれで世の中の職業が つきるの? あれって、どんな意味があるの? ああいうのから、まずは止めたほうがいいんじゃないか。  むかし別役実が、「地見屋」というすきま「職業」のことを 書いていたけど(駅などで、一日中下を見て、落ちているオカネを 拾うヒトのこと)、社会というエコロジカルシステムの 豊かさは、熱帯雨林のごとくいろんなことをやっているヒトが いることで成り立っているんじゃないのかい?  その中には、余人に想像できないようなミョーなものも 入っているだろうし、そういうのを開拓して行くのが創造的な生き方 なんじゃないの?  日本語という言語の現状の 問題が大きいかもしれない。要するにメタファーなどの 使い方がわかっていないというか、発想の飛躍を大切にしないというか、 みたまんまで判ると安心する精神というか・・・・。  かって、「見立て」とかが得意だった日本人に、 できないわけはないんだから、 説明的なタイトルをダサイと思うような感受性をこれから ワレワレは身につけてですね、この「小役人根性不況」から 脱出しようではありませんか。  みんなで、コヤクニンのひとたちから、 「本当は何をやっているんですか?」と言われまくるような、 キミョウでしかし実は創造的なショクギョーを開拓して行こうでは ないですか! 2002.12.29.  小学校5年の冬の日、こたつに入ってテレビにかじりついた 思い出を追って、「プロジェクトX あさま山荘事件」 を見たが、まとも感受性を持っているヒトには耐えられないような シロモノだった。  はじめて最後まで見たが、こんなにヒドイ番組だとは思わなかった。  「その時、**は思った。子供の頃、トンボを追いかけた野山が 汚されようとしている。許せない!」    マジかよ。突入する警官が、その直前に、そんなこと思うか?  要するに、これはドキュメンタリーではなくて、安っぽいドラマ だね。  これだったら、「電子立国日本の自叙伝」の方が、よほどリアル だったと思う。  プロジュクトXは、せっかくの素材に、キメツケの意味という 安っぽい砂糖をまぶして、もとの味を判らなくしている番組だ!  すっかり気分を害して、私は本棚の前に立って、何かないかなあ、 と探したら、ビートたけしの「たけしくんハイ!」が目にとまった。  ベッドの上に寝転がって読み始めた。久しぶりだったが、 これはホンモノのブンガクだと思う。  お笑い芸人が書いているというので、ワレワレも油断しているところが どこかあるかもしれないけど、こっちは、本当のブンガクである。  言葉というものは、そもそもその成り立ちからして、 これはこれだと意味を決めつけたとしても、かならずそこから こぼれ落ちていくものを含んでいるのであって、  ブンガクというものは、そのこぼれ落ちていくものを含めて、 言葉で世界を提示しなければならない。  ビートたけしが、「おやじは飲んだくれの職人だった」 という時にも、そのナレイティヴの中に、それ以外の名付け得ない 何かが一緒に入っているから、ブンガク足り得ているのであって、 プロジェクトXには、それがないんだよね。  だから、スゲー陳腐な番組になってしまうわけだ。  気を取り直して、集中する時のプロトコルに入る。 アタマの中に白い領域があって、それをぎゅっと詰めて行く。  このような時は、雑木林の中に落ち葉を踏みしめて 入っていって、梢の芽の小豆色が空のうす青色の中に とけ込んでいく様子を見れば、それで立ち直るように 思う。  実際にそうしなくても、今、そのようなことを想像した だけで、モダン・ジャパンに対する嫌悪の情がすっと消えて、 愛するものたちを思い出すことができた。  憎悪は愛によってバランスされなければならない。 2002.12.30.  一日中、「同一性」(=あるものがあるものであること) の問題について、あーでもないこーでもないと 考えていた。  一つには、冗談のようで冗談ではないのだが、「千円札」 の問題というものがある。  私たちが日常生活の中で「千円札」をいかに「千円札」として 認識しているかということを考えると、  実は、ある「真札」の属性があって、それと比較して 「同じだ」と認識しているというのとはチョット違う。  コンビニなどで支払いをするときを考えてみればわかるけれども、 自分の財布の中からとりだして、ちらっと見てさらっと渡す。  店員の方も、ちらっと見てレジにしまう。  この時、何が起きているのか、ということが認知の問題 として大変オモシロイのである。  そこには、千円札の生成、流通、消滅に関する社会的知識が 関与してくる。  しかも、その社会的知識が、explicitなものでなくて、implicitな ものであるという点が大変オモシロイのである。  結局、あるものがあるものであること=自己同一性は、 文脈や関係性に依存しているのだが、その文脈や関係性が implicitなものであり、強いてそれをexplicitにしようとすれば、 その過程は、感情からナニモノかが生まれるような、強烈な 生成作用として現れる。    そんなことを一日中考えていて、最後にジークフリートの 「第三幕」をNHK FMで聞いていたら、なんだか興奮して 眠れなくなったので、  なるべくクダラナイことを考えようと思い、  日本銀行券と子供銀行券のカンケイをカンガエタ。  要するに、突き詰めると、日本銀行券は子供銀行券と 何も変わらないわけだけど、  片方をワレワレが神のごとくあがめたてまつるということについて (何しろ日本銀行券のアルナイで死んでしまうヒトだったいるんだから) いろいろ考えていた。    そうしたら、銀行券だけじゃなくて、軍隊も同じだなあ、と思った。 軍隊というものは大人の玩具のようなものだということを誰かが 言っていたと思うが、  いっそのこと、「軍隊オリンピック」というのを4年に 一回開催して、お互いドンパチやって(もちろん安全な方法で) 競技として楽しむようにしたらどうか?  そうすれば、軍事産業の圧力で(あのー、そろそろ新製品 売りたいんで、今持っている整備は使ってくださいませんかー 例えばイラクあたりで〜)戦争が起こってしまうということも 少しは減るのではないか。  ロボットの格闘技がはやっているようだが、 軍隊のオリンピックというのも、誰かマジメに立ち上げたら、案外 それが軍隊の一番良い使い道になったりして、軍事産業も ブッシュも大満足、企画したヒトはノーベル平和賞をもらったり するんじゃないのか?  これ、半分冗談だけど半分マジです。  日銀券と子供銀行券は同じだなあ、とシミジミ思うような ヒトじゃないと、認知の問題は解けないんだよね。  そんなことを考えていると、郡司ペギオ幸夫のことを 思い出してしまった。  おしら様=塩谷賢は、正月に郡司の実家(in水戸)を襲撃 すると言っていたけど、オレはどうしよう。  いろいろ仕事もたまっているしなあ。 To: voice@mext.go.jp, kouhou@mx.asahi-np.co.jp From: Ken Mogi Subject: いわゆる大学科研費「流用」疑惑について Cc: kenmogi@qualia-manifesto.com To 文部科学省 TO 朝日新聞広報部 今朝の朝日新聞の記事を見てまたかと思いましたが、 いわゆる科研費の「流用疑惑」の一連の報道は、まったく本質をわかっていません。 ことの本質は、文部科学省(旧文部省)の科研費が、費目などの さまざまな制約において、まったく使い勝手の悪い精度になっている ということに尽きます。 調べればわかることだけど、大学院生に「謝金」として名目上 支払ったことにしておいて、それを流用する(私的流用ではなく、 現金でしか買えないものを買ったりする)というのは、私の 知る限りかなり広く行われていた慣行だと認識しています。 そうしないと、研究できないんですよ! 一連の報道は、たまたま「バレた」人を、もぐらたたきのように 叩いているに過ぎない。こんな表面だけをなぞった報道をしていて いいと思っているんですか! 科研費の請求の時に、申請書の上を何色でぬれとか、 決算報告の時は、1円たりとも額が合わないことがないようにしろとか (みんな、大学生協で1円まであわせるためにどうでもいいものを最後に 買うって知っていましたか?)文部科学省の、おどろくべきメンタリティーの 中で、いかに生きた形で研究費を使うかということに苦心していたんです。 形式的違反だけを取り上げて、諸悪の根元である日本の官僚の驚くべき 形式主義、融通の利かなさ、アタマのクロック数の遅さを攻撃しないから、 今日のように国家予算の半分がシャッキンという事態になったのではないですか! 私は今は民間の研究所にいますが、たとえば大学のセミナーなどに行って 交通費をもらうとき、「履歴書」を出せと言われるんですよ。 どういう合理的な理由で、履歴書が必要なんだ? 単に実際にかかった交通費をもらうだけだろ! しかも、それが、中学とか高校とかからの詳細な項目欄がある。 最近は無視しててきとうに書くとそれで透るようになりましたが、 このようなことが冗談じゃなくて至るところにあるのが文部科学省の 実態というものなのです。 こういう悪しき形式主義で、どれくらい貴重なworking hourが失われていると 思っているのか! 私がケンブリッジ大学に2年間留学していたときには、彼らはオカネが 有効に使われることには気をつかっていたけど、悪しき形式主義は ありませんでした。それが彼らの言うところのWhat made Britain great todayという ことなのです。文部科学省のヒトタチは法律論は得意だろうから 本質だけさらりと書きますが、英米法がカモンローを広く認める (つまり、形式化されていないものも実質的なルールとして認める)ことの意味を 一度深く考えた方がよろしい。 最近、私は、日本の官僚の形式主義は、社会にはびこるウィルスのようなものだと 思っています。SPAM mailが増えてみんな困っているのと同じように、 実質的な意味がない形式主義を満足するだけのために(もともとは優秀なヒトタチだと 思うが)官僚とか、官僚とつきあわなければならないヒトタチのアタマのCPUパワーが 落ちて行っているのです。 国費だから、税金だから厳密に執行しなければならないというようなクダラナイことは 言わないでくださいね。それは、情報論的に、人工知能的に、まったくナンセンスな 議論です。実際、「厳密に執行しろウィルス」のマンエンで、日本のこのていたらくは なんなのですか。一度ヴィトゲンシュタインの哲学とパブリックセクターのカンケイを 考えるとよろしい。 なお、このメイルは、一日約300名の方が見にこられる私のweb日記に貼ります。 その中には、マスメディアの方などもいます。あしからず。 http://6519.teacup.com/kenmogi/bbs 2002.12.31. Limited only by your own imagination.  仕事の合間に、久しぶりにBBCのradioのサイトをのぞいてみたら、 大変なことになっている。 いろんな番組が、聞くことができる状態になっていて、とても 毎日聞いても聞ききれない。 http://www.bbc.co.uk/radio/  ためしに、「もっとも難解な(cryptic)クイズ番組」 というのを聞いてみた。  そうそう、この感じ。  知性というものを露わに出すことを忌み嫌う日本のメディアと 全く異なる世界が広がっている。  4人の回答者が、それぞれ知性の限りを尽くして問題に 答える。  その時の「そうですなあ。あれは・・・と関係ありましたか。」 と言ったりするときの感じが、素直に知的で快感である。  こういう、素直に知的な感じが、日本の場合NHK教育の一部 以外になくなってしまったんだよなあ。  しばらくそれを聞いてから、深夜、眠ったら、まるで自分が Missleton Court 5番の、イギリスの下宿のベッドにいるように 思われた。  インターネットの発達で、実はワレワレの達することのできる 情報空間は、実質上無限になっている。  ワレワレは、どうしても、見慣れた範囲、知り慣れた範囲でサーフィン しがちだけど、ちょっと横に反れて見ると、思わぬ世界が広がっている。   Limited by your own imagination.  インターネットに限らず、今や、たいていの分野で、実際に できることよりも世の中に流通しているマスの方が無限と言って いいほど多く、  何をやるか、何に接するか、何と出会うかを制約しているのは、 自分自身の想像力だけだ、という時代になったのだと思う。  今まで、私がネットサーフィンの中でもっとも「うまく反れた」 のは、南極大陸の最高峰、Vinson Massifについての情報を いろいろ読んだ時で、  そこに行くツアー、どこからどうやっていけばいいのか、 実際に登った人の探検記・・・・など、実に多くの鮮烈な 情報に接することができた。  私も、いつかVinson Massifにのぼってみようかなあ。。。  そのような妄想を抱くだけで、どれだけ仮想空間が広がったろう。  Limited by your own imagination.  人間が生涯のうちに実際にできることは、John lennonの Life is what happens to you while you make other plans. という言葉にもあるように、志向できる範囲から見れば限られているが、 限られつつも、志向することにしか、人生の豊かさの根源はないように 思う。  志向する先は、自分の想像力によってしか制限されないということを 忘れずに、2003年は仮想空間を広げていきたい。 の本と言われている!)の企画を持ち込んだ時、 やはり企画を採用してくださった恩人オブマイフレンドでもある。  恩人は恩人なのだが、いつもどうもケンカっぽい話になる。  というのも、どうも、私も口が多く、松尾さんも口が多く、 どちらも遠慮しないから、そういうことになってしまうらしい。  それで、昨日は、ちょっとした認識の差から、エンエンと 議論してしまった。  まあ、今の日本人は、どちらかと言うと大人しい人が多いから、 ちょうどいいかもしれない!  その前に、University of California San DiegoのJoseph Goguenが 来て、Cognitivismの凋落についてのtalkをした。  こういうtalkは、学生にとっていい機会になるからと、積極的に 受け入れているのだが、  私はガクセイたちに不満がある!    というのも、全く議論に参加しないからだ。張さん(ポスドク) はバンバン議論するのに、彼らは、「お前ら、しゃべれよ!」 と言っても、下を向いて黙っている。  Josephは、「英語のせいでしょう」と言ってかばっていた。 確かにそうかな、と思ったけど、  よく考えたら違うような気がする。  突然思い出したのだが、私は22歳の時に日米学生会議というのに 行って、一ヶ月、アメリカをツアーしたのだが、  その時、フォードの本社とか、アムネスティの本部とか、 あと、ワシントンのミスター何とかとかいうaffirmative action (黒人などのマイナリティーが社会進出できるように逆差別的 優遇措置をすること)に反対して議論を巻き起こしていた政治家 との会合とか、そういうミーティングの度に、  ウルセー! というくらいガンガン議論していたのである。  アメリカ人にも、オオー! ケンモギ! ちょっとウルサイね! と言われたくらいだ。  それで、あのころ私の英語がうまかったかと言うと、 そんなことは全くない。  というのも、今思い出したのだが、あの頃は、質問する前に、 一応自分の頭の中で文を組み立ててから発言していた。  もちろん、応酬になると、そんなことをしている暇はないけど、 一発目は文を組み立てていた。  今は、どちらかと言うと、何も考えずに口を開いて、 口からでまかせを言う(それは、お前の性格だ、という人がいるかも しれない)ようになったので、   あらかじめ組み立てなければならなかったあのころは、明らかに 今よりも「英語力」は劣っていたように思う。  だから、彼らに、質問できないはずないのだ!    この問題は、書くのやめようと思っていたが、ノーベル賞をめぐる 日本人のバカ騒ぎの問題にも通じる。  天から権威が降りてくると思っている人達と、「ノーベル賞は 20世紀のもっとも成功したビジネスモデルである」と認識して、 選考などに緊張感を持って当たっているスェーデンのヒトタチ (つまり、相対の世界から絶対の世界へのジャンプを自ら マネッジしているヒトタチ)は、簡単に言えば子供と大人くらい 違う。  要するに、フラジャイルで、チャイルディッシュで、シャイで、 自分で場をつくる能力に欠けているのである。  私は、学生たちに、もっと自分で場を作れるようになれよ! と言いたい。  そのようなはにかむ同胞たちを、私はこよなく愛しつつ、 これからのグローバル社会でそれで生きていけるのか、 心から懸念するのである。  ノーベル賞でバカ騒ぎしている日本のメディアも同じだ。  私は、前から、「日本で賞金10億円の賞をつくって、その選考 でノーベル賞以上の見識を示せば、ノーベル賞の権威なんて 10年で抜ける」と言っている。  そういう気概がないと、チャイルディッシュなこの国は救われない。 2002.12.12.  田園都市線の中で、先日やった「クリニックマガジン」の鼎談の テープ起こし原稿をチェックして、  すずかけ台の前の「サンクス」から、ファックスで送る。  午前10時から、専攻会議。  今日は、修論審査の日程など、重要な情報が出るので、 ガクセイたちに、「茂木さん、今日はマジメに行ってくださいよ!」 と脅かされていたのだ。  12時に会議が終わり、長島くん、柳川くんと、天ぷら屋 に行き、上天丼を食べる。  「そうか、天ぷらというのは、こんなにウマカッタのか!」 と天上を見て嘆息。  エビや魚の淡泊なクオリアに油のこってり感と衣のさくさく感が 混ざって、実は天ぷらというのはすごくウマカッタのだ! と発見したのだ。  6時30分からは、東工大知能システムの忘年会。  中村清彦さんとか、三宅美博さんとか、伊藤宏司さんとかと お話する。  8時30分頃、長島のケイタイから電話があって、 「今前まで来ました!」 と拉致される。  「修士2年の決起集会をやるぞう!」 と言っていたのだ。  長島、柳川、小俣、それに中村研の造士と澤で、 青葉台の「笑笑」で決起集会。  途中、立命館大学に行った羽尻から電話があって、うんちゃらなんちゃら 喋る。  午後10時頃、「じゃあ、オジサンは帰るからね」 と、一足先にトンズラ! という一日でした。  昨日、ガクセイたちよ、もっと発言せよ、決起せよと書いたら、 恩蔵アヤコさんから、「あの時、実はこんなことが言いたかったんだ」 と英語で書いたメイルが来た。  オンゾーさんは英語ができる方だが、その彼女がシャイに感じなければ ならない日本の英語教育とは何か?  オレはここではっきり断言してしまうのだが、決起せよ! 日本の英語教育関係者を、全取っ替えしろ!  あんなクダラネエ教育をやっていたら、もう日本人の英語力は 壊滅状態だぜ。  どうしたら英語ができるようになるか、というのは実は巨大な マーケットのあるメソドロジーだときがついたので、そのうち 本を書いて儲けるか! と思うが、  前から言っているのは、中学で勉強する単語はこれだけ、 高校はこれだけ、とくだらねえスモールワールドを作りやがって、 そのスモールワールドの中で暗記をさせるというあの態度が気にくわねえ。  私は英語の成績ははっきり言って スゲー(super)ヨカッタ。  しかしだよ、その私だって、高校の英語教育には???? だった。  今でも覚えているのは、高校2年の時、英文法の授業で、  ・・・・such as is the case for most foreigners. というような文の「as」の品詞は何か? とセンセイが質問して、 私は、??????となってしまった。  そんなこと、気にしたこともなかったからだ。  そしたら、Nが、嬉々として立ち上がって、「関係代名詞です」 (だったかな、忘れちまったが)と答えた。  私は、あーそうなんですか、と思ったが、 正直言って、そんなことどうでもいいだろうと思った。  東大の文一行って今は弁護士やっている世間で言うところの 「超エリート」の某友人は、英単語を、「日本語発音」で暗記していた。  私が、何でそんな読み方するんだ、と聞くと、「こうすると 覚えやすいのだ!」と彼は断言していた。    もちろん、この某友人は、その後ニューヨークの法律事務所 に行ったりしたから、今では「日本語発音」でやっている ということはないだろうが、なんであんなことをしなければならないのか、 あの時もワカラナイし、今もワカラナイ!  だいたい、いちいち日本語に訳させたり、ああいう態度がきにくわねえ。 英語なんて、だーっと読んで、だーっと喋って、だーっと書けばいいんだよ。  考えてみろ、アタマの中で、英語の場所と日本語の場所はちがうんだろう。 どっちかが活動しれば、どっちかは抑制される。  だったら、英語は英語だけでばーっとやった方がいいに決まっている じゃん。  日本の英語教育は、アクセルふかしながらブレーキ踏んでいるような もんだ。  オレのガクセイたちみたいに、実際に被害を受けているやつらが いるんだから、マジで怒って当然だろう。  みんな、英語で苦労しているヒトタチ、  クダラネエ英語教育の被害者なんだから、決起しろよ!  言語というのは、本来オープンワールドなんだから、 ネイティヴだって、意味を知らない単語なんてある。  たとえば、この日記の最初に出てきた「鼎談」という言葉の意味を、 私は最近まではっきりと知らなかった。  なんとなく、座敷とかで横に肘ついて喋ることかな、とか思っていた。  「ここまでよーん」なんて区切って、その中で単語をカンペキに 覚えるなんていうのがいかにクダラネエ思想か、ということよ。  朝からスゲーアタマくるぜ!  お前ら、今に見てろよ、全取っ替えしてやる! と書きつつ、別に気分も悪くはない歳末ではあった。 2002.12.13.    ここの所、人と会う用事がずらーっと並んでいて、 夜は建築家の黒川雅之さんの「物学研究会」に行って、 クオリアについて1時間30分喋った。  それで、懇親会の時も、さまざまなデザイン関係の方と ずーっとしゃべって、気が付いたら10時になっていた。  クオリアについてしゃべる時、時々不思議に思うのは、 「クオリアというのはどういう概念なのかワカラナイ!」 と言われる方がいるということである。  「あ、これいいなという感じなのですか?」  「この青にはクオリアがないなあ、という言い方はできるのですか?」  「あいつのクオリアは気にくわない、という言い方はできるのですか?」 などなど、思いもしないリアクションが来る。  このような時、私は、心の中で、「そうか、私が1994年2月に 電車の中で『ガタンゴトン』という音の質感自体に注意が行って、 経験する世界はクオリアで構成されているというメタコグニションが 成立する<以前の>感覚を思い出すと、確かに、クオリアとは 何のことなのか、ワカラナイのかもしれないな!」 と感じる。  でも、そんなことを言うと、まるで、あなたはクオリアを認識 する悟りの段階に達していない、と言っているようなので、  そのようなことは一切言わず、必死になっていろいろな言葉を 尽くしてクオリアを説明しようとする。  それでも、判っていただけないことも多い。  私が、絶対メタコグニションの問題だと思うのは、 「クオリア」という言葉こそ使っていなかったが、理化学研究所にいる 時、近藤という男が、「茂木さん、結局、一番不思議なのは、 赤が見えるという、その事実自体ですよね!」 などと昼メシを食っている時に言っていて、  私は、「むむむ?」と首をひねっていた 体験があるからである。  そこになにかあるな、とは思っていたが、 はっきりとつかめてはいなかった。  そういうわけで、  1994年2月まで、マジで「クオリア」という 世界観に開いた穴に気が付いていなかったわけだから、  そういうヒトが世の中にいっぱいいたって、別に大したことはねえ。  でも、「あなたタチにはクオリアのメタコグニションが成立 していません!」 とは、とても言えねえ。  別に、気が付いてしまえば、主観的体験がクオリアから構成 されていることは自明のことなのだが。  いっそのことクオリア・ メタコグニション促進マシンを作ってしまうか。  昨日も、エンエンと「クオリア」とは何かを 説明し続けて、何だか疲れてしまった。  コンビニで弁当を買って帰る時、この疲れは、何かに似ているな、 と思った。  2,3歩あるいて判った。」「動物園の檻の中の動物」の疲れである。  30人くらいのヒトにずっと見られ、懇親会でも数人のヒトに 入れ替わり立ち替わり囲まれ、私はどうも檻の中の 動物のように、ストレスがたまったらしい!  ここの所いろんなヒトに入れ替わり立ち替わり 会っているから、私は動物園の動物ストレスを感じていたんだな! と思った。  しかしである、私が会うヒトの人数など、たかがしれている。  たまたま週刊文春に岡田有希子のグラビアが出ていたが、 いつも多数の人々に見られているアイドルのストレスは スゲーんだろうな、と思って、  私は初めてテレタレにやさしい気持ちになれる気がした。  まったく脈絡がないが、世界で一番大切なのは、やさしさかなと 思ったりするのである。  批判も、さやしさのある批判がいいな、 と思ったりするのは、さすがに疲れてきたか!    年末年始、少しは、雪山の祠状態でこもることにしてえ! お知らせ:12/14:Qualia Communityの忘年会 Anybody can join! http://www.qualia-manifesto.com/party2002.html 2002.12.13 以下の記述は、 茂木健一郎 クオリア日記 http://6519.teacup.com/kenmogi/bbs に書かれたものです。 以下の方々にcc:されています。 cc:茂木健一郎 kenmogi@qualia-manifesto.com cc:内田樹 t-uchida@mail.kobe-c.ac.jp cc:竹内薫 kaoru.takeuchi@nifty.com cc:朝日新聞広報部 kouhou@mx.asahi-np.co.jp そういえば、私は昨日の朝日新聞の朝刊を読んで激怒していたのだった。 文化欄に、神戸女学院の内田樹というヒトが、 「読んでもらえりゃ本望だ」 というタイトルで、こんなことを書いていた。  ブックオフの問題と、図書館の問題で、作家たちが困っている ということを冒頭に紹介して、  「この訴えに私自身はあまり共感することができない。ものを 書く人間のひとりとして確言できることは、私たちが何かを 書いて発表するのは1人でも多くの読者に読んで欲しいからである。 ・・・金銭的なリターンはあるに越したことはないが、なくても別に 構わない・・・あなたが書いた本を全部裁断する代わりに一億円 払うというのと、全国の図書館に無料配布するのとどちらがいいと 問われれば、私は迷わず後者を選ぶ。  いま一瞬でも答をためらった人はおそらく表現者には向いていないと 私は思う。」  私は、この記事を読んで、ふざけるんじゃねえ、テメーと思いましたね。 絶対何か書いてやる、と思っていたら、竹内薫が、日記 http://6706.teacup.com/yukawa/bbs に、 「新聞に、大学教授が、「表現者」は金のことをグダグダ言うな、というようなことを書いていたが、この人、基本的に「マリー・アントワネット入ってる」よな。 「国民は飢えております。今日食べるパンもないのです」 「あら、それならケーキを食べればいいじゃない」 ってノリだからな。 オレは個人的にタダで書いてもいいが、そのかわり、食料費も電気代やガス代もタダにしてくれよ。 それなら文句はない。 売文屋は、文章をお客さんに買ってもらって、それで次回作を準備する。 そのかわり命張ってんだ。 でも、この大学教授は「表現者」なので、タダで表現できると思いこんでいるらしい。 印税が生活費じゃなくて小遣いなんだろうな、きっと。 だから、小遣いがなくなるくらい我慢しろ、と。 うーん、それなら、いっそのこと「教育者」もタダで教えたらどうっすか? 大学から給料なんかもらわないでさ。(公文入ってる) 最近、「マリー・アントワネット入ってます」という人が多くて困る。 師走じゃというのに。」 と書いていて、先を越されてしまった。  なぜ私が許せないと思ったかというと、この人は、 文章を売らなければ生活できないヒトたちの生活のリアリティを 全く考えていないと思ったからだ。  自分を安全圏に置いている。  こんなヒトが、フランス現代思想やっているとは笑わせるぜ。  最後の「思考実験」については、噴飯ものだ。    小林秀雄は、「私は売文屋」だと言っているが、そこには、若い頃から 文章一本で生活して来たヒトのリアリティが現れている。  あの文章を読んで、「ざけんじゃねえ!」と思うことを一瞬でも ためらったやつは、本物じゃないね。  自分を安全圏においているやつに、世界の根本問題について 考えることができるはずがない。 2002.12.14.  どうも、一日のうちにあまりにもいろいろなことが あり過ぎるので、振り返るとよく判らなくなる。  しかし、救われたのは、マーラーの5番と「みつばちのささやき」 のお陰だった。  この二つの作品に一瞬触れたお陰で、私は昨日、しっとりと した感覚の中に生きることができた。  思うに、それぞれの人にとって、「この作品があったからこそ 私は生きていられる」というような作品があるとすれば、 私には、やはりハリウッド映画があったから生きていられた という回路はないように思う。  人生を座っていて何となく血行が ワルイのと、少しリラックスしてゆっlWして考えるべきか?」 というテーマでゲキロンを交わして、  ケンカ別れして帰ってきたこともある。  その女の子は、ヒトビトの生活をどう成り立たせるか ということこそ本質だ、と言ったのだけども、  私は、そんなことは知るか、スバラシイ生態系を 保護するということ自体が第一命題だ! と言って、机を叩くようなケンカをして、 それを主催者の黒田さんがそれを聞いてにやにや していたことを覚えている。  と書きながら、検索してみたら、まだこの組織は アク驛Rンテクストの中で、あるスタンスを9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g9g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