茂木健一郎 クオリア日記  http://6519.teacup.com/kenmogi/bbs 2003.5.1~ 2003.6.30 2003.5.1.  昨日爆発した相手のクリスと、おまえはセビリアの街を 歩くことになるだろうと予言した人がいたら、  その人は私の性格をかなりわかっていると思う。  田森佳秀はよくしっているが、むかし筑波で神経回路学会が あったとき、Mさんの理論がくだらないとさんざんこき下ろした 直後、ふりかって「お昼行きませんか」といった相手が Mさんだったので、散々笑われたことがある。  私はセビリアに泊まるし、クリスはセビリア駅から マドリッドまで列車に乗るというから、駅まで一緒にタクシーで 行こうということになって、そのタクシーの中でクリスが運ちゃんに せっかくのフェリア(4月祭)だから列車遅らせて見ていきなよ、 と言われてその気になったので、私はクリスと いっしょにセビリアの街を歩くことになったのである。  クリスの20歳年下のブラジル人のガールフレンドの 話などしているうちに、あんなに激しくやりあったなどという ことは忘れてしまって、  フェリアの会場の手前のバールでビールを2杯飲んで、 イカの唐揚げを食べたりしているうちに、すっかり意気投合して しまった。  それで、ちょうどいいタイミングで、「そういえば 昨日、文化なんていうゴミ(culture rubbish)とか言って いたね」などと当てこすられて、わたしはただハハハと 笑っていたのである。  フェリアというのは、要するに知り合い同士がテントの 中で飲んで騒ぐ、ミュンヘンのオクトーバーフェストにちょっと 似たものだとわかって、そのまま駅の方にUターン。  私はどうしても見たいものがあるからと、  クリスにさよならして、スタジアムへと向かったのだった。    要するに、闘牛を見ようというのである。  チケット売り場にいったら、当然だと思ったが当日券は なくて、それで、ゆっくりしたペースでスタジアムの間を うろうろしていたら、3回目に案の定兄ちゃんが「チケット?」 と声をかけてきた。  値段は仕方がないとして、「どこだ?」と聞くと、 「プレジデンテ!」と言う。  プレジ「とか、温度が低いとか、そのような 時はじっと葉の上で静止して耐えているらしい。  こいつらが、こうやって止まっている時に一体何を考えているのか、 それをあくまでも擬人的に考えてみたいなあと思ったりする。  今月末までに終わらせなければならないことをこの前数え 上げて、  それで私ははっとして、なんだか首をうなだれてしまったの だが、   そのうなだれているところは、きっと、ハタから見ると 葉っぱの上のとまった幼虫みたいに見えるのだろう。  止まっているからといって、中で動きがないわけではなくて、  幼体から成体になったカメムシみたいに、中でせっせせっせ とカラダをつくりかえているかもしれない。  首をうなだれて、あーあ、と思っていて、ぱっと首を 上げると、  その瞬間に世界が変わって見える。。。  人生の悪天候の時は、そういう作戦で行きませんか。 2003.5.27.  なんだか、疲れがピークに達している、 ような気がする。  六本木駅から、六本木ヒルズを超えて、わっせ、わっせ、 と骨董通りの近くの某ビルまで歩き、  ブレインストーミング。  昼食を挟んだ会議だから、みんな弁当とか食べながら やるのかな、と思ったら、  抜きで延々議論。  議論そのものはゲキサイティング。  六本木駅の近くのそば屋さんで、タマゴ入りそば。  日比谷線で上野まで行き、芸大へ森の中を歩く。   養老孟司さんの講義。  終了後、布施英利さんの美術解剖学研究室の 新しく入った解剖台に向かってすわって、  養老さんがぷかぷかとものすごい勢いでタバコを 吸いながら森羅万象を語るのを聞く。    授業で見せる人のよい教育者の一面とはまた違った側面 が出る。  このヒトは、基本的に「危険な」ヒトなのだ。  その危険さは、イデオロギー的なものに対して見せる 徹底した嫌悪感にも現れている。  あるいは、個人の実感を離れて、抽象的な普遍というものに ジャンプしてしまうことに対する拒絶感。  なんとか、世界全体が引き受けられるような議論、 視座がつかめないかということは私なりにいつも 模索しているところであるが、  養老さんの場合、現代の思想の流れが避けて通っている ところで、人間として生きる、ということの全体性を がしっとつかんでいるところがある。 不意打ちされて涙が出てくるのだ、ということが わかった。  朝日カルチャーセンターの後、筑摩書店の増田健史 さんが来て、入校前の原稿直しについて、 打ち合わせ。  なにしろ、2時間喋り続けた後なので、 のどがカラカラ、   はいはい、ご指摘ごもっとも、なおします、 とマジメに伺って、  さあ、生ビール、 とはあはあ言いながらいつもの店に突入した。  その店で、実に久しぶりに私はゲバルトの発作に 襲われた。  さいきんはmild und leiseな私だったのに、 なんだかものすごくアタマに来てしまって、 何だ、この日本の文化状況は?!  一昔前だったら、考えられないようなクズが ゴミを垂れ流しして、それを何も考えない マスがヘラヘラ喜んで受け取っているっじゃねえか、 こんなことでいいのかよ、 と、増田さんとか、ライターと編集をフリーで やっていらっしゃる斉藤哲也さんを前に 火山爆発、今にして思うと、 「トリスタンとイゾルデ」のDVDを見たことと、 久しぶりに高校時代の畏友、和仁陽のことを思い出して、 和仁が高校の時に言っていたこととか (高校の卒業文集のタイトルが「ラテン民族における 名誉概念について」だった男である) あーいう世界を想起し、 それと、今メディアの中で流れている クズ言説(だって、レベル低すぎるぜ。 なんだよ、女が男のどこを見ているって? ワイドショー じゃねえんだ)のあまりのコントラストに愕然とし、 不意打ちされて、  私は本当に久しぶりにアッタマに来て、溶岩流出。  それで、電通の佐々木さんのいつもの「もう一軒行きましょう」 攻撃にうながされて京王プラザのバーに行った訳だけども、 そこでびっくりしたことに、田谷文彦も爆発した!  オレは、田谷は本当にいい弟子だと思っているけども、 ただ一つ不満だったのが、「アウェーに弱い」 というか、自分があまり知らない人のいる場で自分を表現することが できないことがなんとかならないかと思っていたんだけど、 某人物が許せない! という話から、 北朝鮮の話になって、  そこに居たあるヒトが、「ああいう体制は早く崩壊させた 方がいいんじゃないか」などなどとかわかりやすいことを言って くださったので、私がアッタマに来て、  「あなたがもしあの国に生まれてしまって、自分の目の前で 自分の子供が腹を空かせて死にそうになっていたら、 そんなことが言えるんですか? 貨物船に乗って来ている やつらだって、あの国に生まれてしまって、いろいろの経過で ああなって乗って来て居るんだろう、そういうことに対する 想像力もなしに、そんなわかりやすいことを言っていいのか!」 とドンとテーブルを叩いていたら、  本当に驚いた、 田谷が私が黙った後もムキになって、「そもそもあの国が どういう理由でああなったのか、考えなくていいのですか!」 などと声を張り上げてその方に理路整然と反論しはじめ、 私は、ワインをmild und leiseに飲みながら、 田谷もやる時はやるんじゃないか、ふだんからやればいいんだよ、 田谷は怒りが足りないのかもしれないなあ、 と沈思黙考したりしたのであった。     最後は、タクシーが行き過ぎてしまって、 すごく近くに住んでいることが判った斉藤哲也さんと 握手してから、ぷらぷらと夜の街を十六茶を飲みながら 歩いて帰った。 2003.6.21.  明けた朝、 鉢植えたちに水をやろうと ベランダをぐるりと回ったら、 突然、アゲハチョウが足下から飛び立った。  例の、壁にサナギになったやつが 羽化したのだ。  午前9時過ぎ、 まるで、私が来るのを待っていてくれたように、 キレイな立派なアゲハチョウが飛び立って、 風の中に消えていった。  私が大学生になった時、 愛犬のチコが老衰で衰弱してものが食べられなくなって、 2階のベランダの日当たりのいいところに休ませていたけど、 私が家に帰ってきて、ベランダにいってチコを抱いたら、 まるで私を待っていたように、  私の腕の中ではーっと息を吐いて 死んでいったことを思い出した。 2003.6.22.  以前、ウィーンの博物館でGunther von Hagenがつくった プラスティネーションされた人間の身体展を見た後で、  ウィーン国立歌劇場でのウィーン・フィルの 演奏会に行った。  前から2番目で、指揮のズビン・メータが すぐそこに見えた。  人間の身体をまるで生きているかのように保存する ことで賛否両論があるvon Hagenの展示を見た後で、 なんだかおかしなアタマの状態になっていたのか、 突然、ズビン・メータや、ウィーン・フィルの面々が 限りなく巨大な存在に見えた。  腕が動き、目が動く時に動員されている細胞の群が、 ありありと感じられ、  普段は「人間」という単位でひとかたまりにとらえている ものが、実は巨大な山塊であり、その山塊がぶうん、ぶうん と動いているように感じられた。  久しぶりに車を運転していたら、 あの時の感覚がよみがえってきた。  ハンドルを回す時に、自分の腕が、巨大な細胞塊 として、  ぶうんぶうんと動いているように感じられた。  私の脳の中では、一千億の神経細胞がバリバリバリと 活動して、  その結果、さまざまなものが感じられていた。  その一つ一つの細胞は、また、複雑で巨大な分子の塊 であり、  要するに、私の意識は、脳の中の複雑で巨大な分子塊が ぶうん、ばりばり、ぎゅわん、しゅーっと動くことに よって生じている、  巨大な随伴現象である。  バケツに水を20回も汲まなくてはならなかった。 水道から水がバケツに満たされていくようすを 眺めながら、  このようにして、あることが起こることを待つ という時間が、  一般に現代の生活から失われているのだなあ、 と思った。  バケツの中で水が渦を巻いてくるくると 黒く緑に白く照り光っていく様子は、  文明以前の水くみのヒトは毎日毎日見ていた はずであり、  「情報」という形でさまざまなものを隠蔽 している現代人がなかなか気がつきにくいクオリアの 微妙なニュアンスなど、とっくにご承知だったことだろう。    他の人間を、「その人間」という情報としてとらえる ことは生きていく上で確かに必要なことだけども、 時にそのぶうんぶうんと動く巨大な細胞塊の異化作用を 通して感じることがなければ、  この世で生きているということの本当のすごさにも 恐ろしさにも到達することはできない。 2003.6.22.  オンラインDVDレンタルのDISCAS http://www.discas.net で借りたSpike LeeのHe got gameをやっと見終わった。  2枚づつ送られてきて、 返信用封筒に入れて返却すると また送られてくる。  一月に何枚見ても1980円なのだけども、  送られてきて20日目にやっと見終わったから、 効率が悪い。    Spike Leeは、一時期、アメリカの監督で唯一 新作が楽しみなヒトだった。  Do the right thingでノックアウトされて、 Jungle feverとか、Mo better bluesとかも とても好きだったけど、  Malcolm Xで妙にメジャーになってとんがらなく なってしまって、  今回のbasket ballを主題にしたHe got gameも、 今ひとつトンガリがないけど、  映像とせりふのテンポのなんとも言えない音楽性と なめらかでsensualな感じはやはりSpike Lee。   最近映画をほとんど見ていないことに気がついて、 「やばい、これでは、sensitivityのインフラが劣化する!」 と入会したDiscasだけど、  今のところ最小のエネルギーでコマギレ消費できて 満足です。  もう少しタイトル数を増やしてほしいけど。。。 2003.6.23.  夕方、ベランダでふらふらしていたら、 2つめのサナギを発見。  これで、5匹逃亡した終齢幼虫のうち、 2匹の変身ぶりは確認したが、  あとの3匹はとんと行方がわからない。  ところで、物質である脳に、いかにして いきいきとしたクオリアに満ちた<私>の 心が宿るのかを解明することが、  いわゆる「ハードプロブレム」(難しい問題) であるわけだが、  最近、ハードプロブレムは至るところにあることに 気づかされた。  たとえば、私の学生は小俣などいろいろ恋愛問題に 悩んでいるらしいが、  振り向かない相手を振り向かせるのは ハードプロブレムである。 (小俣が片思いをしている、という意味ではない)  大きな企業の経営者だったら、自分が変化させたいと 思っている方向に、組織がなかなか変化していかない ということがハードプロブレムである。  文章を書いている人ならば、思うような 文が自分の手先から出てきてくれないことが ハードプロブレムである。  正解はあるような気がする、ただ、その正解に至る までの道のりが、長く、遠く、けわしい。  そんなことは人生の至るところにあるではないか。  もっとも、学生の恋愛問題は相手のいることだから、 そもそも正解が存在しないかもしれない。  人生でやりがいのあることは、 おそらく、すべてハードプロブレムとして私たちの前に 立ちはだかる。  そんなことを考えているから、 ここのところ、自分の仕事が楽しい、というよりも きびしい、という感じが強くなってきているんだろう、 と思う。  ハードプロブレムというのは、別に形而上学の話 だけでなく、  この地上の世界の、実際的なアチーヴメントへの 道筋の問題でもあるのだ。  そういうことを考えていると、世間のいろんなところで いろんなヒトがハードプロブレムに取り組んでいることが 見えてくるし、  そのような世間のあり方を知らずに、 オキラクに批評ばかりしているヒトへの同情心が ますます薄れて行くのを感じるのである。 2003.6.24.  最近、時間というものがどうにも不思議で仕方がない。  とはいっても、時間の始まりと終わりがあるのかとか、 過去と未来がなぜ非対称なのか (なぜ、コップが割れて粉々になることはあっても、 逆に、粉々のガラスの破片がひゅーっと集まって コップになることがないのか) という類の問題ではない。  どちらかというと、人生における実際的な時間の 作用において、「これくらいかかる」 という単位の問題が気になる。  この前、東京芸術大学の授業の後に、阿部くんと 話していて、  「なぜ、博士論文を書くのに、5年もかけるんだろう?」 という疑問が出た。  私も5年かけたけど、 死ぬ気になって、目覚めている時間はそればっかりやって いたら、  なんだか3ヶ月くらいでもかけるような気がする。  なんで、みんな、3ヶ月で博士論文を取ろうと しないのだろう、  とそんなことが気になった。    本を作るという作業も同じで、 だいたい企画が立ち上がってから1年くらいかけてつくる。  なんで、必死になって、2週間くらいでつくらないのだろう? (もっとも、緊急出版!と称して、それくらいでつくる本も あるけども) と疑問に思うことがある。  ある課題がある時に、その課題だけをやっていれば T1だけの時間でできるのに、その課題以外にも他の課題も やっているから、T2>T1の時間がかかる。  そんなことは社会にいろいろあるような気がして、 小泉カイカクもそうだし、人間関係もそうだし、  いろんなことがそうだ。  その、一見ゆっくり流れている時間に対する 態度というのが、最近気になっているということは、 自分の中で、もっとぱっぱっぱっといろいろな ことをしてしまいたい、という気持ちがあるからなのだろう。  もっとも、脳の中のシナプスの可塑性に伴う ある種の遺伝子過程は2週間くらいかかるようだから、 実は2週間が脳がつなぎ変わる一つの単位になっていて、 だから博士号は5年もかかるのかもしれない。  本を書くのにも、この2週間という単位が マジックのように効いているのかもしれない。  人間関係も、ある人を好きになるか、きらいになるかは 一目惚れとか一発嫌悪とかそういうケースを抜きにして、 2週間くらいでゆったりと潮目のように変わっていくのかも しれない。  そんあことを考えながら、街をぶらぶらして、  代々木の金港堂でなんとなく椎名誠の「もやし」 という本を買って、読みながら帰った。  もやしに対する愛を語りながら、痛風になると困るなあ、 などと書いている、妙な味わいの本。  痛風というのは、風が吹いても痛いから痛風というのだ、 と初めて知った。  あいつ、そんなに痛い病気になったら大変だなあと、 自分の事は棚に上げて、おしら様哲学者、塩谷賢の ことを思いやった。  それにしても、自分が冗談でつくったページながら、 おしら様神社の塩谷の写真をみると、 いつも笑ってしまう。  見るたびに泣いてしまうトリスタンのDVDと 同じくらいすごいことではある。 http://intentionality.hp.infoseek.co.jp/osira.html 2003.6.25.  ちょっとお昼を食べ損なって、 それで、午後に3時間、ぶっ続けに喋る お仕事があったので、  喋っているうちにお腹が空いてへろへろ君になった。  しかし、自分でも不気味だと思うけど、 喋り出すとトランス状態になって、  とまらない。  語り下ろしで原稿にするというお仕事だけど、 考えてみたら、ダイの大人が4人、  会議室の机に向かって座って、 そこでへろへろの私がばーっと何か喋っている という光景は奇妙である。  その前に、出版社のヒトとグランドオープンした QUALIA東京に出かけた。  私の目の前で、松村さんから、一人、QUALIA015 (デジカメ)を買っている人がいた。  おお、売れている、と感動する。  聞くところによると、QUALIA016(130万円のモニタ) も、現金でどーんと買っていった人がいるらしい。  松村さんが、出版社ご一行さまをSACDの方に 連れていっている間に、私は、裏にこそこそっと 入って、  自分のQUALIA015の発注をした。  38万円は高いといえば高いけれども、 人生は気合いである。  やはり、QUALIA製品の第一ラインアップの一つ くらい自分で持っていなければ、説得力がない。  QUALIA015を首からぶら下げてそのあたりを 歩いてみたい。  この黒い小さいデジカメは所眞理雄さんも言っていたけど、 実際に見るととっても良くって、  欲しくなってしまうのだ。  来るのが7月下旬だというので、 それまで一生懸命仕事をしようと思う。  出版社のIさんが、茂木さんはQUALIA製品を全部買うの ですか、と聞いたけど、  さすがにそこまでの財力はない。  しばらく消えていたな、と思ったら、 朝、公園を走った時に、  アカスジキンカメムシが再び見かけられるようになった。 (年2回出現するらしい)  それで、ランニングに行く時に、 ガチャガチャのカプセルを一個握りしめて出かけた。  森を抜けて、ぐるっと回って、 戻ってくる時に、ツバキの木のところでとまって、 ピカピカに光っているアカスジキンカメムシを 一匹見つけて、そっと葉っぱごとカプセルに 切り取って、家までエッサ、エッサと 走って持ち帰り、  ベランダのツバキの鉢植え(高さ1.8m)の ヨサゲな葉の上にそっと置いた。  「アカスジキンカメムシの木」の実験の 始まりである。  実は大変心配で、絶対にすぐに飛んでいって しまうに違いないと思っていたが、  夜帰ってきてすぐ見ると、最初に置いた 葉とは違う葉の上で、  ピコピコと触角を動かしていた。  朝ランニングに行く度に、 ガチャガチャカプセルでアカスジキンカメムシを 連れてきて、  計数匹、ツバキの鉢植えにとまらせて、 うまく卵を産ませる、そして、来年の春くらいに、 幼虫が出てくる、というのが壮大な計画なのだけども、 果たしてうまく行くのか。  究極の妄想は、たとえば、ベランダに一本 エノキを植えておいて、そこでオオムラサキの 幼虫を育てて、そこで毎年放っておいても オオムラサキが羽化するサイクルをつくる、 というようなことだけども (なぜそれが難しいのかは、昆虫の空間生態学の 問題としてすごく興味深い)、  そういうことを考えていると、 何だか胸がわくわくして6歳の頃に帰った ような気がする。 2003.6.25.  午後7時過ぎ、中華料理屋で食事をしていたら、 テレビでやっている番組があまりにも 下品なので、アッタマに来て、 チャーハンと餃子と肉野菜炒めを 食べ終わると、となりのスーパーに入って テレビガイドでどの局か確認した。  テレビ朝日だ。 怪しいスイスペ! (秘)こんな女にダマされた衝撃事件ランキング!!10選 25日(水)今夜7:00〜 6億円もの古美術品をダマし取ったマダムの華麗なる手口とは!?1億円 貢がせた17歳少女の仰天テクニックとは!?男を手玉に取った女たちの 衝撃事件の数々を、さまぁ〜ず&優香が大紹介! というやつである。(上は、テレビ朝日のHPからコピペ)  この日記を1年くらい前から読んでいる方は知っているが、 このような時、私はソッコーで電話することにしている。  ところが、TVガイド誌を数誌見たが、 どこにもテレビ局の電話番号が書いてないので、 仕方がないから、104で聞いて、 視聴者センターに電話した。 何だか、好青年ぽいのが出た。 「私は民放のゴールデンの番組は普段は見ないのですが、 たまたま中華料理屋に入っていたらやっていたので。」 「はあ、そうですか。」 「あの、今、どんな番組を流しているか、把握されていますか」 「はい。」 「こういうのは、本当は、番組編成局長とか、この番組を つくっているプロデゥーサーに言うべきことなんだけど、 あまりにも下品じゃないですか、しかも、なんでゴールデンアワー にこういうの流すのですか。」 「あ、はい」 「テレビ局のヒトタチだって、プライドというものはある わけでしょう。いくら視聴率がとれるのか知らないけど、 こういう番組を流していて、恥ずかしくないのですか。」 「あ、はい」 「夜9時前には、こういう内容のものは流さないとか、 そういう局の内規はないのですか。」 「はあ。」 「本当だったら、郵政省じゃなかった、総務省に電話して、 免許取り上げてしまえ、というくらいあったまきますよ、 ああいうの。」 「はい。私としましては、ここで、テレビ朝日としての見解を 申し上げるわけにはいかないのですが。」 「それは、私も組織というものは判っていますから、とにかく、 編成とかプロデゥーサーの人に、確実に伝えてくださいな。」 「はい、承りました。」 と、紳士的に話して切ったが、 本当に言いたかったのは、 「クズタレつかって、クズ番組流しているんじゃねえよ、 おまえら。恥ずかしくないのか? だいたい、こういう番組 見ているやつらも見ているやつらだよな。よくこういう クズ番組見るよな。そんなマスだったら、いらねえよ。 この国の視聴者のアタマは、いったいどうなっているんだ? それで、テレビ局が、そういう一億総クズ化の先棒を担いで いいのかよ!」 ということでした。  まったく、一日中マジメに仕事をして、たまたま入った 中華料理屋でああいうクズ番組流していて、しかも それを店の人がうれしそうに見ていたりすると 精神的ダメージが大きいよ。かんべんしてほしい。 2003.6.26.  しばらく前に、新幹線に女性の運転士が 登場したという写真が出ていたけど、  それで、子供の頃から、よく小倉の母親の 実家に新幹線でびゅんと行っていた時のことを 思い出した。  覚えている、ということ、時々過去に戻る ということは尊いことだと思う。  あの頃、新幹線には食堂車というものがあって、 そこで、ハンバーグステーキを食べるのが 好きであった。  それと、今では当たり前になってしまったけど、 当時は新幹線の中でしか売っていなかった、  乳脂肪分が高いアイスクリームを買って もらって食べるのが好きだった。  あの、ハンバーグステーキの味も、 アイスクリームの味も、  一生忘れない。  あの頃の新幹線は、完全に異次元のドリームトレインで、 今、関西に出張する時に乗り込んで、発車以前に さっさと仕事を始めるプラクティカルトレーンとは 全く位置づけが違う。    日本は、どうも昨今調子が悪いようだけど、 情報洪水の中で、トキメキというか、何かを信じるというか、 これは価値があるものだ、と信じる心を 失ってしまっては、どんどん摩耗していくだけだと 思う。  あの頃、富士山が見えてくる、というのは一大イベントで、 夢中になって車窓に顔をつけて見ていた。  今では、気がつくと、もう静岡あたりに来ていて、 富士の裾野のあの広大なひろがりを、うわーあと体感 することが少なくなってきてしまった。   こんなことでは、ダメになるなあ、と思う。  新幹線のレストランのハンバーグステーキの味も、 おねえさんが売りに来ていたアイスクリームの味も、 冷静になって考えてみれば、それほど最高品質という わけではもちろんなかったけど、  子供にとっては、そんなことは知らない、この世に 他にそんなものがあるのか、と思うくらいウキウキ することであった。  そういうことが大切なんだと思う。  だって考えてみろ、恋愛する時に、相手が 世間の集団内偏差値でどれくらいに位置しているか、 などと冷静に考えているか。  情報をたくさんもっていて、こざかしく評論する 人よりも、  (もちろん世間を知っているということは最低限の 条件だが)、   端から見ればあまりにも素朴に見えるほど、何かを 信じている人こそ、現代においては尊いし、  その信じることを継続できること、  摩耗せずに貫けることこそがカギなんじゃないかと 思う。 2003.6.27.  竹橋で下りて如水会館をすぎていつものように 一橋大学の入っている建物を目指して ぐんぐん歩いていったら、アレ、なんか変だ、 行き過ぎてしまったような気がする。  ふっと振り返ると、大和久さんがビルの前で 手を振っている。    「茂木さんどこに行ってしまうんだろうと 思いましたよ。」 と言われる。  ほんと、どこに行く気だったのだろうか。  電通の石山さんと一橋大学の阿久津さんと時々やっている 「ブランド研究会」の様子を、大和久さんが 見学に来られたのである。  大和久さんは、今はAERAの編集部にいらっしゃる。  石山さんは夜の飛行機でハワイに向かい、 阿久津さんは1時間後に授業、というあわただしさ。  阿久津さんが授業に行った後、 しばらく、  「なぜ石原慎太郎は人気があるのか?」  「なぜ、リベラルの言説は力を失ったのか?」 のネタで盛り上がる。  電通の大塩さんが、「朝日新聞は、その時代その時代の 一番アタマのいいヒトが読む新聞、というブランドイメージが ある。だとすれば、今の時代に一番アタマのいいヒトというのは どういうヒトなのかということが問題になるのではないか?」 と言って、一同爆笑。  東京芸術大学の授業に、松浦雅也さんがお忍びで 来られた。  顔の話をしたのだけれども、 最後に  布施英利さんと松浦さんが顔談義。  布施さんが、「容貌という静的な顔と、表情という 動的な顔」の関係について、  松浦さんが、「ミュージシャンの場合、歌っている 時の顔の美しさ、というのがモンダイになる」 という点について、さすがのコメント力。  そこから、渋谷まで移動する間に、 松浦さんと、  「創造の根源は怒りである!」 という話でしばらく盛り上がる。  松浦さんが、  「怒りから出発しても、できあがる曲は キュートになったりするんですよね。」 と。  夜7時から、竹内薫、塩谷賢と 久しぶりに毎日新聞の科学環境部の青野さんを 囲んで。  青野さんがしばらく入院していた というので、  その退院祝いをかねた食事会。    その後、東急文化会館でやっている大平さんの 「メガスターII」を見に行った。    なんだかあわただしい一日ではあった。  今日の授業を反省するに、「顔」について私が本当に 言いたかったことはあまり伝わらずに、 みな以外と表層的なところで反応していたように思うけど、 それは、おそらく、私の伝え方が悪かったので、  自己イメージにおける「顔」のきわめて奇妙な位置づけについて、 秋くらいにもう一度整理して考えてみようかなあと 思った。  世界には考えてみるべきことがあまりにもたくさんある。 一人の人間にとって、可能な思考空間の全てを見渡し切ることは 不可能であり、  「顔」について考えるということは、 巨大な思考空間への小さな、しかし本質的なとっかかりの 一つにすぎない。   2003.6.28.  朝10時から、研究所で、「クオリア」に関する ものすごく一般向けの本の  「語り下ろし」の収録。  思うに、私が今までクオリアについて書いた本は、 あまりにむずかしい、と言われることが多くて、 本当に一般向けの本はなかった。  でも、いろんな人に、クオリアをわかりやすく説明 してください、と言われるので、  「この本を読んでください」と渡せるものが ぜひほしかった。  それで、ソッコーフットワークで知られるT書店のIさんに 相談して、  とにかく限りなく一般向けの本をつくることに。  出版は、9月くらいになるのではないか?  9月には、超気合いを入れて書いたちくま新書の 『こころの解剖学ムム脳はどのように<私>を生みだすか』 (仮題)も出版される予定である。  午後からはゼミで、張さんが前頭葉のbranching task (あるタスクをやりつつ、もう一つのタスクをやる。 その際、一つのタスクに関するメモリーを保持する) の論文を紹介。    前頭葉については、いまだに、「これがカギだ」 と思われるような理解が立ち上がらない。  一昔前にワーキングメモリーだと言われていたころにも、 「それだけのはずないだろう」と思っていたし、  コンテクストの切り替え、計算資源の割り振り、 注意の制御、 どんな機能を持ち出して解析しても、「それだけじゃないだろう」 と思うのは、  結局、この部位が、「自我」を支えている箇所だからだろう。  自我というものがとてつもなくやっかいなものである ことは、改めて言うまでもない。  これが前頭葉の機能であると、現象的に列挙されて いるものを寄せ集めたら、そこに自我が生じるのか。  どうもそうは思えないし、自我は、「私が○○を感じる」 という主観性の構造を通してクオリアそのものを支えている から、ますますやっかいだ。  田谷文彦くんと一緒に帰りながら、 「見える」と「見えない」の差についてずーっと 考えていたら、  ガマの油のようにたらーりたらーりと精神の汗が。  これが脳の機能であると、世間で言われていることなど タアイもないことだし、  そのタアイのなさにつきあっていたら、 いつまでたっても意識の謎など解けないことは明白だ。  私は、『脳とクオリア』を書いた時は、 思想のテロリストになろうと覚悟を決めていたけど、  最近、T書店の「クオリア ー感じて動き出す心ー」 (今勝手にここでタイトルをつけてしまった) のような一般向けの本でクオリアについての やわらかい語りを流通させつつ、  思想のテロリスト活動を活発化させるという決意を 固めつつある。  要するに、いわゆる「脳科学」の脳理解なんかに とどまっていたら、脳のことなど永久にわかんねえんだよ。  そんなことは、ちょっとゆっくり立ち止まって 考えてみれば、明白だ。  なんで、細胞が結合しあってネットワークつくって、 そこで膜電位の変化が伝搬していくと、  この、クオリアに満ちた私の心が生まれてしまうというのか?  そういうことが起きてしまうこの世界は、異常で、 ミステリアスで、すばらしい。 2003.6.29.  DISCASに入会したおかげで、この数年見ていなかった 「宿題」の映画を次々に見ているが、  昨日は、昆虫の生態を超絶技巧で撮影した「ミクロコスモス」 を見ることができた。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005FXIN/ref=sr_aps_d_8/250-3419169-1325840  どんな映画でも、自分の中から予想しない反応、感想が 出てきた時におそらくそれは「成功」なのであって、  その意味では、ミクロコスモスは、大成功、 DISCASに入会していろいろ見た中で、初めて、 「この映画を見てよかった」と思えるような体験となった。  とはいっても、ミクロコスモスが何かすばらしいものを 持っていたから、というわけではない。むしろ、ミクロコスモス に欠落していたもので、すばらしい鉱脈に気がついた ということだろうか。   気がついたのは、要するに、科学的視点の持つ詩情という ことである。  科学は、普通は詩とは対極のものと思われがちだが、 科学的体験の最上のものは詩となる。  たとえば、ふつうの人は地上のものが落ちてくるのは 当然のこととと思い、一方天上の天体が 落ちてこないことも当然だと思う。  普通は、地上のものと天上のものは別のカテゴリーに 属していると考えるからだ。  ニュートンが、「なぜリンゴは落ちてくるのに、月は 落ちてこないのか」という疑問を持ったことで、 はじめて、実は月もリンゴと同じように落ち続けているんだ、 という世界の統一的理解が成立した。  これは、この上なく詩的なジャンプである。    「ミクロコスモス」の中でとらえられた昆虫たちの様子は、 コンピュータグラフィックスでつくられたものではなく、  厳しい環境の中で懸命に生きている中でのふるまいだ。  カラダとほとんど同じ巨大な水塊としての雨粒が落ちてきて、 その反動でテントウムシがはじき飛ばされるとき、  「ゴジラ」のような巨大鳥がアリの群れを頭上から襲う時、  まるで蝋燭妖怪のような姿で蚊が水面上で羽化するとき、  その視覚的な驚異は、コンピュータグラフィックスとして 私の前に起きつつあるのではなく、まさに、生と死をかけた 営みとしてこの現実の世界に起きつつあるのだ。  生と死をかけた営みということは、つまり、すべてが 生きるというリクツとしてつじつまが合わなければならない ということであって、  そこには、進化的、生態学的、物理的、空間相互作用的、 スケール的、ゲーム論的、神経生理学的・・・なリクツが 必ず隠れている。  『ミクロコスモス』は、このような視点を出さずに、 純粋なる視覚的驚異として映像を提示していることで、  かえって、詩情の中核を失ってしまっている、 と私は感じた。  『ミクロコスモス』でもっとも有名なシーンの一つに、 毛虫がもこもことお互いの尻の後を追って、最初は 一列の列車みたいに、やがて合流点で混乱が起き、 ループになり、最後はもこもこ動き回る山になって しまうという映像があり、確かに面白いのだが、 いったいこの毛虫くんたちはどんな生きる切実さがあって、 このような奇妙な行動をとっているのか、  その説明が一切ないから、  全ての生き物にとってもっとも切実な詩情であるはずの、 生きるリクツが立ち上がらない。  「ここでイギリスのBBCのDavid Attenboroughの解説 がほしい」 と何回思ったことか。  単に見た目の映像として驚異である、というだけでは、 本当の詩情には到達しない。  そこで、科学が、詩情をコンクジュースのごとく運んでくる 役割を担える、と思えたことが、  『ミクロコスモス』を見たことで得られた最大の成果だった。 『ミクロコスモス』は、BBCの自然番組にはるかに及ばない。  その及ばない理由の中にこそ、科学が、そして私たちが 感じる詩情の世界が持っている可能性の核心がある。 2003.6.30.  やっぱり、ベランダのツバキの鉢木の止まらせていた アカスジキンカメムシはいつの間にかどこかに飛んでいって しまった。  昆虫というのは、長い進化の過程で、 「空間的に移動して、新しい生活ニッチを探求する」 ようにプログラムされているのではないかと思う。  たとえ、客観的にみたら、半径10メートル以内には 自分が止まって心地よく居られる木がその一本しか なかったとしても、  探求の思いやまず、すたこらさっさと移動して いってしまう。    だから、庭に一本木を植えておくと、そこに オオムラサキが毎年発生する、というようなしつらいを することがむずかしい。  量的には、十分なエノキの葉があったとしても、 オオムラサキは、そんなことにおかまいなく ビュンビュン探求の旅に出てしまう。  結果として、ある昆虫の種を支えるには、 ある程度大きな棲息環境の広がりが必要であるという ことになる。  植物に比べて、移動する生物である昆虫は、 空間に対するdemandがきっと大きいのだ。  遺伝子操作か何かで、ずっと同じ場所にとどまるように 行動を変えられないか。  そうしたら、庭の池に毎年ホタルが発生して、 ホタルはそのあたりでいつも飛んでいて、  都会の中に真のミクロコスモスができるように なると思うのだが。    そんな切ない思いを最初に抱いたのは、 岩手などではチョウセンアカシジミというチョウ (希少種)が、農家の庭の一本のトネリコの木に発生 していたりする、という記事をどこかで読んだ時のことだ。  自分が一本のトネリコの木を持っていて、 そこにチョウセンアカシジミが毎年待っている様子を 思わず仮想してしまった。  切実な仮想というのはいろいろあるけれども、 この東京という都会の中に、セグメンテーションとして そのような自然の豊穣が入れ子になっている、 ビルのすぐ横に緑濃い峡谷があり、魚のはねる 池がある。その上を山手線が通る。  そんな状況を実現するためだったら、 人々は案外お金を出すのではないかと思う。    ガソリン車を電気自動車にして、空気が浄化されていき、 生態のミクロコスモスをつくりあげる技術が開発 されていけば、  案外、東京の生物多様性を10倍、100倍にすることは 可能かもしれないのだ。  その(思考)実験をしている、というわけでもないが、 とにかく生き物を身の回りに置いて(しかも彼らが望む ならばいつでも飛んでいける開放空間に置いて) いろいろ考えること自体が大変楽しい。