茂木健一郎 クオリア日記 http://www.qualiadiary.com 2003.11.1.    2回延期されたゼミがやっとできた。  それで、恩蔵絢子がscrub jayという 鳥におけるエピソード記憶の論文を紹介 しているときに、  ホワイトボードに蜂の絵を描いて、  蜂が何かを学習するときには、  「私が」ということがそこには 入っている、  とかなんとかいうようなことを 言った。  それを聞いていて、私は、なんだか天啓の ようにひらめいたことがあった。  普通、蜂には、「私が」という意識は ないと思われている。  確かにないのだろうが、 別の見方をすれば、「他者が」とか、 「環境が」というような意識もない。  ということは、蜂が認識することは、 まずはdefaultで、「私が」感じている ことである。  人間の幼児の場合、だいたい4歳くらいまでに、 「自分は自分である」という自己意識と、 「他者の心はこうである」という心の理論が、 鏡に映したように同時に発達していくと いわれているが、  「私」も「他者」も分離していない 無明の境地においては、実はすべてが defaultで「私」に起こっているのであり、  「他者」が世界にあらわれて、はじめて 「私」もあらわれるのであろう。  朝日カルチャーセンターでは、 ベルグソンらの指摘する、  「人間は時間を空間化してしか把握できない」 という問題と、逆に、   「空間を並列的にとらえていても、 それを言語のような意識の逐次的な処理に 載せようとすると、時間化するしかない」 という問題を論じた。  きのうは、ゼミ前にも ブレインストーミングのようなものがあって、 朝10時から夜8時すぎまで、 ずっとぴぴたん(喋りつづける状態)だった。  たいへんのどがつかれた。  うれしい息抜きは、品川駅から研究所に むかうとちゅうのユニセフの日本本部に寄って、 「街にカラーを!」  キャンペーンのTシャツを買ったことだろうか。 青いTシャツを買った。  三輪明宏さんが、「なんでみんな判を押した ように黒服や灰色服なのか、あれはミリタリーの 制服のようだ。もっと色をつかえ!」 と言っているけれども、私もさいきんふと 思って、  黒いジャケットの中に、わざと若草色の Tシャツを来たりするのが好きになってきた。  冬だからって、黒や灰色ばかり着ることは ない。  冬だからこそ、春っぽいイロを着る、 ということを今年のテーマにしたいと思うが、  しかしそんなにイロイロ持っているわけでは ないので、  毎日そうできるか、保証のかぎりではない。  例外のない規則はない。  例外があることこそ、生命のあかしである。  禁酒だ! と言っているひとが ときどきお酒を飲んだり、  オレはダイエットだ! と言っているひとが、 おもいきりカツ丼を食べたりするとうれしい。   2003.11.2.  ICCでのアーカイヴのシンポジウムは、 称日本の運命を考えた時に、 私がもっとも懸念するのは、  政治的にナイーヴであることの危険である。    もちろん、政治などというものは、 なるべく 表面に出てこない方がいいわけだけども、  過去の歴史を見て、 政治的なミスマネッジメントが、いかに 深刻な影響を個々人の生活に与えるものか ということを素直に直視すれば、  コイズミやカンやイシハラが言っている ことの一つ一つが、  もっとシリアスな含意を持って心に 響いてくるだろう。  紫禁城自体が、元に征服されて、蒙古人が 築いた首都を引き継いでいるわけで、  それと、万里の長城の意味を組み合わせて 考えてみれば、 あるいは、今、モンゴルが国際政治的には 取るに足らない存在に落ち込んでいること などを考えてみれば、  政治(以前は政治と言えば軍事のこと であったが、今では経済のことであろう) というものの持っている恐るべき ダイナミズムに、心をふるわせないものは いるだろうか。  私が中国がこれからおそらく日本を 凌駕することになるだろうと感じる理由も、 彼らが政治的な成熟、インテリジェンスを 見せ始めたからである。  もともと中国の人々はアジアのユダヤ人の ようなもので、  資本主義との相性が良かったわけであるが、  中華人民共和国が本格的に資本主義化し、 イデオロギーよりは、実際的で戦略的な 政治的判断を始めた今、  近いうちに、実質的な存在感と、 未来への期待感において  日本を凌駕することは火を見るよりも 明らかである。  一方、日本の現状を見れば、政治的に ナイーヴであることをよしとする雰囲気が、 社会全体にはびこっている。  これは文化的伝統のようなもので、 仕方がないが、  たとえば文学一つをとって見ても、 政治的にナイーヴである作品だけが マーケットの中で、あるいはクリティカルな 世界で評価され、  政治的に、世界全体を引き受けた作品は 見あたらない。  引きこもりとか、異常心理とか、 恋愛がどうのこうのとか、そういう ことばかり書いていてどうするんだよ。  一方で、政治ドラマといえば、 司馬遼太郎史観があるだけで、  三四郎の広田先生の  「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。 日本より頭の中のほうが広いでしょう。とらわれ ちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓 の引き倒しになるばかりだ。」 のような成熟した認識を見せる文学作品が 欠落している。  政治の専門家たる政治家たちはどうか。  高速道路とか、そんなことはどうでも いいから(部分問題として、誰かに任せて おけばいいから)、もっと日本の置かれた 現状を、政治的な戦略性を持って見て くれよ、と私は凍り付く紫禁城の石畳の 上から叫びたかった。 2003.11.27.  もう空港に向かう車に乗らなくては とパッキングしている時、  何の気なしにパチンと中央唐ゥけていった。  早稲田の相澤洋二さん、三輪敬之さん 東工大の三宅美博さんなどおなじみの 顔が。  私はドーパミンとセーフ・ベースの 話をする。  その後、郡司ペギオ幸夫がしゃべって、 しばらく郡司研の話が続いた。  私も、クオリアという問題設定をして たいへん苦労している。   郡司も、同一性の起源とか、 計算の枠組みとか、  そういう問題設定をして 苦労しているのはわかる。  そこで、郡司のやり方は、計算論の 基礎となるカテゴリー論などの文脈で、 ある種のレベルの混同をして、ラッセルの パラドックスのような矛盾を内包する フォーマリズムをつくることだ。  問題は、そのあと、それをふつうの力学系に マップして、  シミュレーションして、ふつうの力学系の ふるまいとして結論をもってくるところで、  いつもそこであれれ? と思ってしまう。  私がクオリアについてマッハの原理や 相互作用同時性を持ち出すとき、  それは今のところ「クオリアに対応する 神経活動」(neural correlate of qualia) のパラダイムを出ていないことは 自分で重々知っている。  世界の誰も、neural correlate of qualia の外にどうでたらいいかわからないで いるし、  オレもそうだなと思う。   そこのところの困難と正面衝突しないと、 本当のブレイクスルーはない。  壁の向こう側があるのかどうか、 誰にもわからない。  郡司のばあいも、あそこで ふつうの力学系のダイナミックスにマップして、 そこから出るさまざまなふるまいをみて 何かを言っても、おそらくダメなんじゃ ないかと思う。  似たようなことは、相澤さんも質疑で言って いたし、  その後発表した郡司グループの学生たち との議論の中でも出てきた。  自己欺瞞に陥らないことが肝要である。  しかし、真実を見つめ続けるのもしんどい。  そんなことをいろいろ考えていたら、 この一週間の疲れがどっと出てきて、 私にしてはとても珍しいことだけども、 懇親会に出る気力が失せてきてしまった。  それでも、「疲れているので 帰ります」というのがなんとなく申し訳 なくて、  代々木上原にむかう途中で、 ゆっくり歩いて、相澤さんとかの 集団からはぐれて一人になり、 代々木上原前の本屋に入って 矢作俊彦の「ららら科学の子」 と小林秀雄の「考えるヒント」 を買った。  どうしようかな、と考えながら 駅に向かうと、エスカレーターで 「茂木さん!」と声をかけられ、  振り返ったら三宅美博さんだった。  郡司も、後ろからリュックを背負って もわーっと歩いてきていた。  三宅さんや郡司と飲んだら楽しいな、 やっぱり行こうかな、  と思ったが、 どうもカラダの疲れは本物であり、 多くの人々と楽しく談笑することが できそうもない。  真っ先にプラットフォームに上り、  えいっ、と小田急線の向かい側に止まっていた 発車直前の千代田線に乗ってしまって、  一人墓場に向かう象のごとく、 地下のトンネルの中に少しづつ運ばれて いった。  家に帰り、コンビニで買ったトンカツ 弁当を食べ、  ばたんと寝たらすぐに暗闇で、 今朝目覚めるまでの時間の流れは、トンと知らぬ。  人の意識は一日一回死ぬ。 2003.12.23.  語感が一番好きな英語のひとつが、 「クリスマス・スペシャル」 である。  この時期、イギリスでは、コメディ番組の クリスマス・スペシャルが放映される。  一年ももう少しで終わりだという感慨と、 フェスティヴァル・タイム! だという リラックス感の中、自分の好きなコメディの ちょっと浮かれた特別ヴァージョンを見る 感覚は、たまらないものがある。  普段は脳科学、認知科学の論文を 猛スピードで読み、かものはし関根が目を 回すことで知られているわれわれの  The Brain Clubも、年に一回の「クリスマス・ スペシャル」を開催した。  昨年は、かものはし関根が「手品ビデオ」 で投票によるグランプリを獲得したが、 今年はかものはしの二連覇なるのか、 それとも新たな覇者が誕生するか、大いに 興味がもたれるところであった。    今年のテーマは「現代美術」だった。  いつも論文を読んでいるソニーコンピュータ サイエンス研究所のラウンド・テーブルに 集った勇者たちの顔に、緊張感がみなぎった。  あみだくじで順番が決まった。  まずは、張さんの「中国4000年の味、 餃子」と、「孫悟空のアニメ」の合わせ技。  張さん餃子をもぐもぐ食べながら、 他の勇者が続いた。  小俣圭の「おでこで棒がぽんぽんはねる」 ビデオ。  須藤珠水の「恥ずかしいビデオを見せるビデオ」  柳川透の「夏の思い出のビデオ」  田谷文彦の「ヨーロッパの光の風景の写真」  特別参加、東京電気大学の柴研究室による 「ノイズ音楽」  恩蔵絢子の「パフォーマンス」  田辺史子の「足がつったところの絵」 などが覇権を争った。  私が、「E=MC2じゃなくって、Q= の右辺は・・・うっ」の コメディ・スケッチをやった後で、  関根がディフェンディング・チャンピオンとして、 「ボクのともだちとのぞきからくり」 で横綱相撲。  一同の緊張が高まる中、  投票用紙が配られ、 無記名投票の結果、須藤珠水が見事優勝。  これも恒例となった、「北米神経科学会の時に 買った賞品」が審査委員長代行の小俣圭から 授与された。  今年の賞品は、手のひらの上に地球が浮かぶ、 クリスタルガラスのレーザー立体彫刻で あった。  須藤珠水が「これで地球は私のものよ」 と思ったかどうかは知らない。  わが心の赤提灯、五反田の「あさり」での 忘年会の後、  歌広場でカラオケをやっていたら、 芸大のP植田が乱入した。  一応油絵科のエクスパートとして、 田辺史子の作品に対して論評を加えていたような、 愛をささやこうとして失敗していたような、 カラオケの時に他のヒトが何をやっているのか よく判らぬ。  最後に、来年こそはリベンジ!を誓った かものはし関根による、  一本締めで、今年のBrain Clubは 幕を閉じた。  スペシャルもあれば、静かな 業務の日々もある。  静かな業務の日々の光を増すためにこそ、 スペシャルの一瞬のまばゆい光がある。 2003.12.23.  たまたま片山恭一の「世界の中心で 愛を叫ぶ」が転がっていたので、  30分くらいで読んだ。  別に急いで読んだわけではなくて、  散文の密度がそれくらいがちょうど 良かったのである。  片山さんの他の作品は読んだことは ないけれど、  この作品は、まるで、高校生が 習作として書いたもののようで、  それを40をこえた作家が芸と してやっているのなら大したものだし、  地がそうならば、何もいうことはない。  私にとっては、中身がすかすかで 泣きも笑いもできないと思われる作品を、  「泣きながら一気に読みました」 と感動してしまう人がいることは、  それはそれぞれの人の自由だから、 別にかまわない。  ただ、同時に並列して読んでいるカフカの 「審判」と、矢作俊彦の「ららら科学の子」 と比べて、あまりにスカスカの内容に、  最近の日本ではこんな本が売れるのか、 と  世界の中心で脱力したことは 告白しておかなければならない。  先ほど、片山氏が高校生のふりを して書けるなら大した芸だ、 と書いたのはもちろん皮肉で、  本音をいえば、バカにするな、 人間の見える世界を少しでも広げようと 苦闘して、批評家にはほめられても、 本そのものはせいぜい1万部、 売れても5万部どまりの 小説家を傍目に、  メタファーもプロットも何千回、 何万回も使われてきたような  すかすかの常套小説で 百何十万部も売るなよ、  と私は  世界の中心で不条理を叫びたい。  しかし、資本主義の世界では、 マスセールスこそが正義。  私も、出版社の経営者だったら、 密度が濃くても1万部しか売れない作家よりも、 スカスカでも100万部売れる作家の 方がうれしいかもしれない。  いずれにせよ、知的な意味では 30分読みながらたべたおせんべい 5枚ほどの関心も引かれない本で、  こうして日記に記しても特に 腹も立たず、  一刻も早く忘れてより重要な仕事に かかろうと思ふ。  そういえば、文學界新年号の 山田詠美の『間食』はいい小説でした。 2003.12.24.  先日、NHK出版の大場旦(オオバタン)さんに お会いしたときに、  オオバタンが「いやあ、今年の最大の収穫は 森達也さんにお会いしたことでした。 茂木さん、『A』と『A2』ご覧になりました? まだ見ていないんだったら、今度DVD お送りしますから見てください。」 と言って、  その後送って下さった。  昨日、『A』を見た。  素晴らしかった。  誰が見てもベストシーンは、 あの、公安の人が自分で信者を倒して おいて、そのあともっともらしく  「いててて」と自分の膝をかかえて 倒れ込む「演技」をするところで、 それを見ながら別の公安の人が 「何時何分、ただいま、倒されました。 公務執行妨害ですね。」 とどこかに電話する。  まるで、仕込んだコメディ・スケッチの ようだけども、   全てカメラがとらえた事実なのだ。  親しい人との間でさえ、ミスコミュニケーション は生じる。  上のシーンは、つまりは公安の人と 信者の人との間のミスコミュニケーションで、 片方は国家権力を背景にしているという 圧倒的な非対称性はあるけれども、  似たようなことは社会のあらゆる局面で 起こっているだろう。  イギリスのコメディ、 特にThe Officeを中心としたモダンなコメディの 多くは、ドキュメンタリータッチで ミスコミュニケーションの問題を扱っている。  当然、社会的に深刻な問題も扱わざるを 得なくなるのだけども、  それを、一見ドキュメンタリーを装って 撮る、しかし、不正を告発したりといった スタンスで撮るのではなく、ずれ自体を 笑う姿勢で撮る、モキュメンタリー (mockumentary)という文法で撮る、 というのが昨今のやり方である。  人は、不正に憤ると、案外視野が狭くなって ものが見えなくなる。  笑うことによって、人は一瞬無防備になり、 そのときに社会についての既成概念の枠が 外れて、かえって真実が見えてくる。  およそそんなことをイギリスのモダン・コメディ はやっていて、  私は、なんで日本では同じことができないん だろう、と思っていた。  森達也さんのやられていることの 先には、いろんな可能性が広がっている。  久しぶりにわくわくした。 2003.12.24.  ところで、現実がある状態にあるとき、 なぜ、別の理想的な状態にはないのだろう と嘆くのではなく、  そのずれた状態にあるということ 自体をいったんは受け入れ、笑いの 回路にもっていく、  というのが、モダン・コメディの 手法である。  『世界の中心で・・・』のような 作品を、大の大人がよろこんで読む、 日本の社会は、要するにみな ガキである、あるいはガキであるふりを している社会である。  しかし、そこで、  なぜ大人になれないんだ、と憤ると かえって真実が見えなくなる。  いったんは、日本はみんなガキなんだね、 とその状態を受け入れたうえで、  そのことから生じているさまざまな 状況をリアルに見る、ということが 尊いことである。  民放のお笑い番組が、イギリスの モダン・コメディのように社会の深刻な ミスコミュニケーションにつっこむこと なく、「笑う犬の生活」が典型だけど、 ガキがよろこぶような、あるいは、ガキの ふりをしている大人が喜ぶような 児戯の笑いに終始していることも、 それを「なんでもっとちゃんとできないんだ」と 嘆くのではなく、いったんはその 状況を真正面から受け入れ、 そこに生じているずれを見つめるべきなのだろう。  「泣きながら最後まで読みました」 というような歯の浮いた惹句を 帯に載せたトホホな本がベストセラーになったり、 「奥さん、このドリルをやると 脳のここが活性化しますよ!」 というような「みのもんたの科学」 (別名、「前頭葉産業」)の本が が売れても、  誰も「おいおい、お前ら、 そんな本を読んで大丈夫か? 恋愛とか、知性とかが、本当に そんなもんだと思っているのか? Hello! Hello! Any body home? (と言いながらアタマをこんこん 叩く)」 と正面から突っ込まないのは、  要するに日本人全体がガキとして ふるまうことをよしとしている 状況と関係している。  そして、歴史的に見れば、 このようなガキ状況は、  先の大戦で日本が負け、 占領下でアメリカ側に 憲法草案を提示されて、 「15分以内に受け入れるかどうか 決めろ」(加藤典洋『敗戦後論』に その記述あり)と要求され、  今度の自衛隊派遣だって、 要するにそうするしかなかった、 というような日本のここ五十余年の政治 状況と無関係ではないだろう。  だからと言って、政治的に どうこうしろ、と一足飛びにいくと、 視野が狭くなって間違える。  イデオロギーのワナにはまる。  その前に、日本人が今置かれている 状況を、  そのずれを、  そのミスコミュニケーションを、 リアルに見つめて、受け入れる ことからはじめなくてはならない。    そんな価値のある仕事は、 今の民放の番組の先には転がっていないけれども、 (だって「ぼくはしにましぇーん」 とか、ガキの、ガキによる、ガキの ためのガキ番組しかないからね)  森達也さんの仕事の先には 転がっているように思う。  みんな、ガキのふりをするのは やめて、  ちゃんと大人として生きましょうね。 2003.12.25.  小学生5年の頃、 私の家から自転車で20分くらい飛ばした ところに、林があり、そのとなりに 沼があり、  そこに、シラサギが沢山営巣している のを見つけた。  夕暮れになると、何十羽という 鳥影がはるかかなたの空遠く、という くらい遠い空からやってきて、  小さな点が次第にはばたきが見え、 姿がはっきりと見えて、  やがて  次々と木々に降りたっていった。  林の中をあるくと、白いふんと羽毛が 散乱していて、  そこを抜けると沼に出て、 ほとりの大きな木に腰掛ける ことができた。  木に腰掛けて、巣に帰ってくる シラサギたちを見るのが好きだった。  いつまでも、あきずにシラサギたちを 見ていた。  ある時、友人といっしょにシラサギたちを 見ていると、バーンと音がして、 鳥たちがいっせいに飛び立った。  どうしたのだろう、と思うまでもなく、 次の音がした。  誰かが、猟銃を撃っているのだ。    私と友人はアタマに来て、 銃を撃っている人たちを確認すると、 林の反対側に回り、  石を拾って、  猟師たちがいると思われる あたりに次々と投げた。  怒らせたらアブナイ、とは思ったけれども、 まさか撃っては来ないだろう、とも思った。  私たちの石が命中するわけもなく、 ただ、むなしくパラパラと林に 石が落ちる音がした。  しばらく投げていると、  私たちとちょうど同じ年頃の 子供たちがやってきて、  「お父さんたちに何をするんだ」 と抗議した。  それで、猟銃を撃っていたのは、 近くの農家の人たちだということが わかった。  シラサギたちに銃を撃つのはひどい、 とは依然として思ってはいたけれども その子供たちの言葉で、私と友人は 戦意がなくなってしまって、  黙って自転車に乗り、猛スピードで 逃げた。  そんなことがあって、そのシラサギの いる林からなんとなく足が遠のいてしまって、  次にしばらくぶりにいった時には、 沼は埋め立てられ、  家が建ち始めていた。  シラサギたちが営巣していた 林に、  白い点は一つもなかった。  本当の敵は、猟師たちではなくて、 経済成長だったのだ。  私の自宅のベランダからは、 近くの公園の森が見える。  2、3日前、夕暮れ時に、 カラスが「かあ、かあ」と次々と戻ってくる 黒いシルエットが見えるのに気がついた。  その光景の中に自分を浸している時に、  私が11歳の頃の出来事を 突然思い出して、  そのことを今書いている。 2003.12.26  夕方から、2件ミーティング。  まずは、白山の柏書房で、編集の 五十嵐さんと、歌田さん(週刊アスキー 『仮想報道』連載)と。  来春からはじまる某企画について。  白山上のこのあたりは、私の 青春が埋まっているところ。  打ち合わせ後、柏書房の近くの居酒屋で 懇談。  なんだか、ずいぶん気炎を上げていたような 気がする。  ゴジラでもないのに。  五十嵐さん、歌田さん、 おさわがせしました。  その後、西麻布で、 七音社の松浦雅也さん、小川さん、 S社の石井さん、  それに作家の島田雅彦さん、 ご同行の川柳詠みのおねえさん、  池上高志と喋る。  島田さんとは、以前の「レコレコ」 (メタローグ社)の対談以来で、  相変わらずの色気トークが しみじみおもしろかった。  松浦さんは、来年ドーンと 大計画を立てているらしく、  当然私も参画するぞ、 と気合いを入れてすごんでみせた。  なんだか知らないうちに、 時間は午前4時を過ぎていた。  帰りのタクシーの中で これを書いている。    帰り際、島田さんに、 「美しい魂」 と 「エトロフの恋」 をいただいた。  池上高志と、 いつものように、  See you bye.  今度会うのは来年だろうか。  たまには朝まで喋るのも 良い。  明日は明日で大変だけど、 まあそうしょっちゅうあることじゃない。  松浦さんの気合いが、 歳末の夜にキモチ良かった。 2003.12.27.  研究所のオープンスペースで  田谷文彦と論文を仕上げていて、 なんだか夜なべしごとをしている ような気分になった。  かものはし関根や、ぽっくん柳川 も指の錯覚の測定装置を作るのにいそがしく、  恩蔵は心理実験のデータ整理を して、  それぞれが忙しい歳末を迎えていた。  田谷論文がやっと終わり、 あとの3人に声をかけて、  五反田の「遠野物語」 でビール一杯乾杯。  いつもはそんなに人がいない店なのに、 昨日ばかりは歳末感が充満。    仕事納め人たちが、思い思いに 杯を傾けていて、  なかなか料理の注文が来ない。    結局、ビール一杯飲んだだけで 店を出る。  私はそのまま中目黒へ。  安斎ローランのプライベートキッチン、 「コトコト」にて、コメディ・クラブ・キングの 脚本家集団「難問会」の会合が開かれた のだ。    桑原茂一さんがマフィア・ボス席に 座り、   ぐるりと楕円のテーブルに集いし勇者 たちは、  みな私は初対面だったけれども、 徐々に、それぞれのキャラが判ってきて、  大きく咲いたよ話の華。  私のとなりは、放送作家の山名宏和さん、 そのとなりが役者の大堀こういちさん、  桑原さんを挟んで、  ライターの吉村栄一さん、  四コママンガやコント台本を書く沼田健さん、  CMディレクターの藤本祥和さん、  そして、クラブキングの佐藤剛毅さん であった。  借りていたDVDを返そうと思っていたのに、 肝心の安斎ローランは来ていなかった。  吉本栄一さんが書かれた「これ、なんですか?  スネークマンショー」(新潮社)という本を いただく。  桑原さんは、ライヴのコメディーショーを やりたい、  と本気で思っているらしく、 うまくそっちの方に話が流れていけば いいなあ、  と思う。  社会の中にはいろいろな人がいて、 それぞれ背負っている背景が異なるから、 完全なコミュニケーションなど、  決して成り立たない。  コミュニケーションが成り立つ、 という前提にぐいぐい押していくと、 それはファッショになる。  たとえば道路公団の人たちと 民営化委員会の人たちとのコミュニケーション でもいいし、  医療過誤における医者と患者側の間の やりとりでもいい。  ともすればどちらかの側に正義があるという スタンスで語られがちな対立的構造を、  わきから観察して、  そこに生じているずれの 知覚を、笑いによって無防備になった 魂の奥底にもぐり込ませる、 という文法がコメディであると 私は思っている。  で、くりかえしになるが、 イギリスのコメディはその点非常に 進化していて、  一方の日本は、相変わらず「アブナイ問題」 には突っ込まない、ぬるま湯ガキ コメディーに終止している。  特に、マスメディアの自己規制が ひどい。  BBCの場合、「BBCの番組の 中で商品宣伝をしてはいけない」 というコード自体を笑って、  番組の中で商品宣伝をしてしまう コメディーを流してしまったりする。    もちろん、イギリス名物、 王室ネタのジョークも満載である。  そんなこと、NHKで考えられる だろうか。  桑原さんが、「コメディ・クラブ・ キングも、Inter FMだから 流せるんだよ。アメリカ側が 圧力かけてつくったFM局だから。 そのFM局で、アメリカの悪口を 流しまくっているんだから、おもしろい」 と言っていたのが印象的ではあった。  まあ、私は国民性というものは 変えられるものだと思っている。  クラブキングの佐藤さんと 途中まで一緒に帰る。  「桑原さんは、絶滅危惧種、 希少動物ですよ。政府は、クワハラ モイチを保護せよ〜」 と気勢を上げる渋谷駅のホームで、  私は、今日はずいぶん寒くなってきたな、 と思った。  今朝になってドアを空けたら、  やっぱり世界は白くなっていた。  世界は突然白くなるし、 国民性なんていうものも突然変わる。  マスメディアも、変わるときは 変わるだろう。 2003.12.28.  矢作俊彦さんの 「ららら科学の子」 を読了。  学生運動をしていた男が、 文化大革命の様子を見るために 中国に渡り、  そのまま農村に住み着いていたが、 30年ぶりに帰国する物語である。  個々のモティーフについての 感想はいろいろあれど、  もっとも抽象的な中心としての 「安定感」が心に残った。  主人公が、亡き両親、妹、 中国に残してきた妻、  30年ぶりに見て、すっかり 変貌してしまった日本 を見るときの語りの視点(ナラティヴ)が、 まるでドイツのアウトバーンを 180キロで飛ばす  メルセデスのように、 がっちりと安定しているのだ。  だからといって、叙情性とか、  破綻のきざしとか、  傾倒とか、  熱狂とか、  そのようなものがないというわけではない。  むしろ、物語は、後半部にかけて、 さらさらと幅広の川の石の間を 流れていた水が  一カ所にあつまって、  波濤となる気配を見せる。  その水力学が、安定した 大地の上で行われる、  というのが、  「ららら科学の子」で 私が注目した特質だった。  私はハードボイルド小説は それほど多くのものを読んでいる わけではないが、  このような安定したナラティヴの 持つ  魅力は なんとなく判る。    『文學界』の大川繁樹さんに、 矢作さんのところに原稿の催促に いったのだけども、  本人があまりにカッコいいので ぽーっとなって  用意していた強い言葉が でなくなって  どうでもよくなってしまった という話を聞いたことがある。  人文が一致しているんだろう。 2003.12.29.  ずっと、なんで日本には まともな批評がないんだろう、  と不思議に思っていた。  アメリカの映画は商業主義に 走っているが、  そのアメリカでさえ、 映画批評はきちんとある。  たとえば、ラスト・サムライは、 「Dances with Swords」とか、 「Star Vehicle」(スター=トム・クルーズを 売り出すための車体) とかいう言葉で酷評されているらしい。  一方、日本の映画評といえば、「おい、 お前は宣伝文句を書くコピーライターかよ」 というくらい、  大甘のなんの情報量もない (つまり、良い映画でも悪い映画でも どっちでもほめるから、評論を読んで、 その映画がいいかどうかを判断する 材料が増えるかどうかという意味での シャノン情報量が0である)  批評以前のものしかない。  なんでだろ〜 なんでだろ〜 と以前から思っていたが、  今朝なんとなく腑に落ちた。    個々の人は別として、 この国の人は、文化というのものは、 金儲けやエンターティンメントの 素材を提供すればいいんであって、 その質はどうでもいいと おもっているんじゃないか。 この国には、政治評論には酷評系の 文化がきちんとある。   コイズミ首相にしろ、  カンナオトにしろ、 批判されるときはちゃんと批判されている。  一応、政治はどうでもいいことである とは思っていないらしい。  ところが、小説、音楽、映画などの芸術 が、  同じくらい本気になって批評する 対象だとはどうやら思っていないらしい。  そうか、だから、昔から、 私がムキになって映画とか 小説とかを読んだ正直な感想を だーっと言っていると、  「私たち、そんなに性格わるくないし〜」 みたいな感じで、やや引き気味に見る 人たちがいるわけだ。  池上高志と私が、ときどき ヨーロッパとかアメリカに逃亡したい という話をするのは、  要するに日本の文化風土では、 池上とかオレとかが、  単に性格の悪い人になってしまう、 ということにほとほと嫌気が さしているということもある。  私が、数日前のような感じで 「世界の中心で、愛をさけぶ」 みたいな作品を酷評すると、 「この人なんだか、性格悪いみたい」 としか思わないやつって、本当に 世の中にいるんだよね。  ツカレル。  命をやりとりする、  幕末の志士のようなキモチで、 本気で文学がやりてえ〜   と言った夏目漱石の顰みに習わなくても いいから、  もう少し日本にも批評というものの カルチャーが根付くべきなんじゃないか?  芸大の学生たちとバトルした 今年であるが、  杉原にしても、蓮沼にしても、 P植田にしても、  あいつらは少なくとも 芸術というものを本気で考えていた。    批評を、宣伝の一種としか考えて いない文化芸者のヒトタチと、 そういう批評しか 掲載してこなかったマスメディアのヒトタチは、 一つ反省してもらいたいものである。  っていうか、自分からはじめるしか ないよね。 2003.12.30.  もちろん、批判するよりも 自分で何かをつくる方が、 むずかしいし、楽しい。  小林秀雄が、講演の中で、 ある時期から批判はやめた、 なぜなら、自分の愛するものを評する ことは創造につながるけど、  批判は創造につながらないから、 と言っている。  ここ3年くらいの懸案のあるものを いよいよ終わらせようと思って、  この3日くらい、酒も飲まずに 取り組んでいるけど、  なかなか終わらない。  酒を飲まずに、というのは、 ときどき私が気まぐれにやることで、  ふだんはいろんな人と 「乾杯!」とやってビールをうぐうぐ やるのがとても好きだけど、  ある時期になると、さっと酒を 飲まなくなってしまう。   そうすることで、気分を変える。  酒断ちとともに、ランニングも 本格化、  だーっと林の中を抜けて走っている。  こちらも、気分が変わる。  イギリスのコメディ、The Officeの クリスマス・スペシャル(12月25日、 26日放送)は、  GuardianとかTimesの批評によると、 たいへん素晴らしいものだったらしい。 http://observer.guardian.co.uk/review/story/0,6903,1113046,00.html  DVDが出るまで一年はかかるだろう。 あー見たかったなあ、クリスマス・ スペシャル。  昨日日本の新聞に批評がない、 と書いたら、掲示板に書いて 下さった方や、メールを下さった方が いらした。  ありがとうございます。  それで、あらためて書くけど、 今の日本の新聞には、  本当に批評らしい批評がないんだと思う。  正確に言うと、 仲間内の趣味のような批評(文芸欄のことね) はあるけど、  全てのaudienceに平等にとどくような 批評がない。  どうも、日本の場合、「オタク化」 というか「ゾーン化」が行きすぎてしまって、 「万人に普遍的な価値」というものを 信じられなくなっているのだと思う。  したり顔に、 エンターティンメントと シリアスな小説のマーケットは違う、 などと言う人が時々いるけれども、  私は、「オタク化」「ゾーン化」は、 今日の日本に特有の現象であって、  やはり、ものをつくる人は、 普遍的な価値を信じてつくらざるを 得ないのではないかと思う。  批評もまたしかり。  仲間内にしか届かないような批評ではなく、 万人に届く批評はあるのだと思う。 というか、そのように信じて批評を書くんじゃ なかったら、  最初から書かなくてもいいと思う。  万人に届けるためには、シニカルになるんじゃ なくて、本気にならなくてはならない。  シニカルがにがりとして入っている のはいいけども、  その人の存在自体がシニカルだと、 痛々しいことにしかならない。  それにしても、Ricky GervaisのThe Officeは 本当にすばらしいコメディであった。  今回のクリスマス・スペシャルで終わって しまうらしいが、  どんな人も楽しめて、 設定が現代の日常で、 しかもシェークスピア以来の演劇の偉大な 伝統にもつながっているような、  そんなコメディをつくることは できるのだ。  世の中にはすばらしいものがある、 ということを知るためにも、  ぜひ、  アマゾンのUKのサイト  に行って、 The Officeのseries 1とseries 2を買われることを オススメします。  (PALだけども、 たいていのPCならば見ることができます。 また、英語の苦手な方も、字幕を出すことは できるから、なんとかなるでしょう)  インスピレーションというものは、 いいものからは来るけれども、  悪いものからは来ない。  悪いものを見ても、  いいものからインスピレーションを受ける 妨げにはならないが、  いいものを見ないと世の中にそんなものが あると知らないことになる。  これは、恐ろしい。  教育というものは、世の中に良いものが あることを知らせることに尽きていると 思う。  その意味では、いろいろ批判はあるだろうけど、 斎藤孝さんの仕事も、一定の役割を 果たしているのだろう。 http://www.amazon.co.uk 2003.12.31.  脳の神経細胞のつながりは、 毎日の体験で少しづつ変わっていく。  そのほとんどは、自分の意識では コントロールできない、  ということを、 『スルメを見てイカがわかるか!』の第五章 で書いた。  神経細胞のつながりが定着するためには、 一連のタンパク合成過程が 必要であるが、  その遺伝子の発現が、だいたい二週間 くらいが目安で起こることが知られている。  まだ詳細がわからない段階で、 おおまかな話に過ぎないけど、  要するに、人間、変わるためには、 2週間くらい必要だ、  ということだ。  そう考えると、なんとなく、2週間くらいを 単位として、  「私」という存在の内実は、 少しづつ、少しづつ変化してきたような 気がする。  変わること、 豹変することにこそ、  私はかけてみたい。  今年を振り返ってみれば、 私という存在を変えていった  さまざまな要因、  体験がある程度把握できる。  来年は、その単なる延長としてではなく、 おそらく新たな潮目の流入、  古きモチーフの再来など、 いろいろなものの合流が もたらす  乱入の中で、 もまれて、  豹変したい。    やらなくてはいけないことは いくつか判っている。  やりたいこともいくつか 判っている。  だが、現在の私には認識さえ できず、  にも関わらず切実に やりたい、やらなくてはならない とそのことについて パッショネットになるような ことが、  体験と無意識の総体から 浮かび上がってくるような、  そんな2004年でありたいと 思う。  人間は、実は、生きている間に、 何回も死んで生まれ変わっているのだ。