茂木健一郎 クオリア日記 http://www.qualiadiary.com 2004.3.1.  1月は行く、  2月は逃げる、  3月は去る、 と時々母が言っていた。  至極平凡な日曜日を送り(すなわち、仕事して、 散歩して、また仕事して、昼寝して、また仕事して)  平々凡々たる日々が、 人生を織るマテリアルであることを知る。  ここのところ、職人のようにとにかく目の前の 仕事を次々とこなしつつあるが、  その一方で、青春のSturm und Drangの 日々もなつかしく。  あの頃、「今すぐ全てを!」 とくだをまいていたのは、  結局のところ、何もしていなかったからだなあ。    有限よりも、0の方が、無限に近い。  肉体は決して流通しない、 と私はかって養老孟司さんにふっかけた。  『スルメを見てイカがわかるか!』 に収められているけども、  要するに、養老孟司という記号は有名人だから 勝手に流通して行くが、  お風呂の中でじっと自分の手を見ている 養老孟司という肉体は、そのような 形では流通できないだろうと。  意識は、目の前のコップを志向できる、 というところから頭蓋骨の外に出て、  やがて、何十億光年先の銀河から、 世界のどこにもいない一角獣まで、  志向性の広がりは無限となるが、  肉体はどこも志向しようがなく、 「今、ここ」にとどまっている。  肉体が「今、ここ」にあるどうしょうも なさにじっくりと付き合うしかない。  肉体は、0でも無限でもなく、 有限である。  自分の肉体が、「今、ここ」に しかあり得ないことのどうしょうもなさは、 どんなに文明が発達しても、  古来変わっていない。  昨今のようにさまざまなメディアの発達した 時代において、  上の肉体のどうしょうもなさを自覚して、 それに寄り添っていきることと、  メディアの中で仮想踊りをして生きることの 間の落差は大きい。  もっとも、仮想踊りをしている人も、 病気にでもなれば、はっと我と我が身を 振り返るのだろう。 2004.3.1  2週間前くらいから、 googleのやっている「お友達サイト」 orkutの招待状 ***があなたは友人だと言っている。***はあなたの友人か? YesかNoか? というのが来るようになって、 それが全てその筋の人たち(メディア系、アート系、アカデミック系) である。 こっちからは面倒なので招待状を出していないんだけど、 徐々に友達が増えてきた。 それで、この前のゼミの時に田谷がとなりでいろいろ調べていて、 判明した驚愕の事実は、なんとorkutは誰かが招待しないと 登録できないのだそうだ。 西海岸のあるコミュニティから始まって、要するにそのコミュニティ と単連結な人たちしかorkutにはいないのだそうだ。 さらに、orkutへの招待メールがオークションで11ドルで売られていたり、 orkutbュちゃいけないんだけど、 今日書かないと意味がないので記すのである。 (こっちはエイプリルフールではありません) 2004.4.2.  この日記には、 どちらかと言えば「みやび」なことばかり 書いているけれども、  実際には日々はいろんなことが あって、ミーティングが一日に 5件も6件もある時もある。  ただ、そのようなことを書いても つまらないだろう、と思うから書かない だけである。  一切その内容、存在について書けない ミーティングもある。  それで、昨日は、口外無用の ミーティングも含めて、かなり 多くの方々と会った日だった。  人間の脳は本当に面白くて、人と 会ってコミュニケーションしていると、 あっという間にそういうモードになっていく。  数日間、閉じこもって、ホムンクルスの メタ認知についてうんうんうなって考えて いたのと全くちがったモードになる。  この、脳が違ったモードになるというのは 本当に楽しいことだなあ、と思う。  小学校の時など、夏休み遊びほうけてしまって、 一日中ぼんやりなどしていて、  それで、その「ぼんやりモード」 から、新学期がはじまってまた定時に いって朝礼日直国語算数理科社会給食掃除 というモードにもどれるだろうか、と 心配になっても、  朝ひんやりとした空気の中 家のドアを一歩出たとたんに、  しゃん、とそういうモードになれる。  あのような体験を繰り返して、 そうか、人は違ったモードにすーっと入って いけるんだなあ、ということを学習していった ように思う。  そのような学習をしてしまって、 どんな脳の状態になっていても、 どうせこの状態は長くは続かないんだ、 ということに気が付いてしまうのも 楽ではあるが、  小学校の時、ぼけてしまって、 しまった、このまま一生ぼけたままで、 オレは悲惨なことになるんじゃないかと 焦っていた心の状態も、 あれはあれで真摯でいいものだったなあ と思う。  閉じこもってうんうん考えている モードも、  人に会ってぱーっと発散して コミュニケーションしているモードも、 どちらも好きである。  どちらもあってこその人生である。 2004.4.3.  『ケータイを持った猿』で話題の 京大霊長類研の正高信男さんから、 新著『天才はなぜ生まれるか』(ちくま新書) を送っていただいた。(4月7日発売) http://www.chikumashobo.co.jp/shinkan.html  アインシュタインは学習障害だったからこそ あのような天才になった、などという 面白い内容なのだけども、  ぱらぱらと見ていたら、 その中にとーんでもないことが書いてある。 ・・・・・  職場外に目をやっても、研究者のなかには 多動傾向が多いという印象が強い。 たとえば、先にあげた(シドニー)での 会議のあとで、私を含め四名が夕食を共にしたの だが、これは多動人間の集まりだった。  別に実名を挙げても叱られないと思うから 記してみると、ソニー・コミュニケーション・ ラボラトリーの茂木健一郎氏と、東大の開一夫氏、 それと茂木氏の友人でシドニー大学のアラン・ シュナイダー氏であった。 ・・・・・  あの〜、そんな研究所ないんですが、 私のいるのは、「ソニーコンピュータサイエンス 研究所」なんですけど、 というのはいいとして、続いて、  待ち合わせて、何人かそろっても、誰かが すぐふらふらどこかに行ってしまうので、 なかなか食事にいけないで困った、 と正高さんは書く。  本人たちはいいとして、回りの人はさぞや 困るだろう、と書く。  うーむ。  ちなみに、ディズニーも多動だそうです、 って、彼のアニメーションそのままじゃん。  私めは4月7日から15日までアメリカに 行くわけですが、  その前は、マジで多動にでもならなければ とても仕事が終わりそうにもない。  多動人間には、多動人間の悲しみがある。  早く人間になりた〜い!(多動人間の 魂のさけび) 2004.4.4.  珍しく、起こったことを淡々と書こうと思う。  土曜ではあるが、お仕事である。  朝10時、丸の内ビルディングのカンファレンス ルームへ。  (財)社会経済生産性本部主催で、  一橋大学の野中郁次郎さんがオーガナイザーの 「日本型独創経営を考える会」 で話をさせていただくために出かけたのである。  野中さんと言えば、御著書の「知識創造企業」 が日本ではもちろんアメリカでも高く評価されて いて、  お噂はかねがね聞いていたので、お会いするのが とても楽しみだった。  1時間しゃべり、1時間質疑応答ということで、 いつもより少なめの40枚くらいのパワポを 容易していたのだけども、  なぜか、20枚くらいで1時間が経過し、 前頭葉の統合機能を喋っていたところで 1時間30分となり、残りはあとの お楽しみ〜となってしまった。残念。  参加者は日本を代表する企業の管理職の 方々で、質問もご自身の体験に基づかれた するどーいものが多く、  たいへん面白かった。    昼食をとりながら、と下のイタリアンに移った のだけれども、  野中先生というのはなかなか洒脱な方で、 「クオリアなんだからワインがないという法は ないだろう」 と、シャンパンと白、赤ワインが堂々登場、 野中さんや、同じ一橋の大薗さんなど、並み居る 出席者はクオリアな議論を続けたのであった。  野中先生は、春風のような柔らかい方で、 となりの大薗さんも春風を受けてとても 楽しそうであった。  そこから歩いてすぐの東京ステーションホテルで、 河村隆夫さんとお会いする。 http://www5a.biglobe.ne.jp/~nazoden/  河村さんは、静岡県金谷市の旧家の当主で、 「兜仏」の研究で知られる。  私はクオリアの会でお知り合いになったのだけども、  最近河村さんが自伝的御著書をお出しになるこ とになり、  その序文のようなものを書かせていただいたので、 その件について一つコーヒーでも飲みながら お話しましょう、ということになったのである。  河村さんの娘さんが東京の大学に入学 されるというので、その記念すべき日でもあった。  河村さんはかの地の名士なので、 なんとか総代とか、世話役とか、いろいろ やらされて大変のようであった。  そういうことを書いてみたら面白いんじゃ ないですか、と言ったら、  いや、そうしたら、地元の人たちとの 関係が壊れますから、  表現者というのは、そういう人間関係を 壊してまで表現するものなのでしょうが、 私はそこまではやる気がない、  と言われたのだった。    「赤目四十八滝心中未遂」 の車谷長吉さんは、 すべてを書いてしまったわけですけど・・・。  新幹線に乗るべく、自動改札を入っていく 河村さんの「もこっ」とした背中を見送りながら、 私は「坊ちゃん」の赤シャツ問題のことを 考えていた。 2004.4.4.  母の実家が小倉だったので、子供の頃、毎年の ように夏に九州にでかけた。  「けんちゃんがいなかったら、山を探せ」 と親戚の人に言われたくらいの蝶キチガイだった。  九州の豊かな自然は、子供の私に深い印象を 残した。  小学校5年生の時、両親が九州大学の 白水隆先生の研究室に連れていってくれた。  白水先生といえば、蝶研究の権威で、神様のような 人だった。  その神様が、蝶の標本を見せてくださった。  白地に美しく黒い斑点の入った、見たことが ない小さな蝶だった。  「最近大分の山の中で見つかった蝶です」 と神様が言った。  後に、それが、ゴイシツバメシジミという 日本で久しぶりに発見された新種の標本だったいう ことがわかった。 http://wwwsoc.nii.ac.jp/entsocj/gall/g-0020.htm  今は遠き少年時代の、宝石のような 思い出である。  白水隆先生のご逝去の報に接し、心から ご冥福をお祈りいたします。 http://www.brh.co.jp/s_library/j_site/scientistweb/no14/ http://www.asahi.com/obituaries/update/0403/004.html 2004.4.5.  新国立劇場でワグナー『ニーベルングの指環」 のフィナーレ、『神々の黄昏』を見る。  バイロイトに行った小林秀雄の感想じゃないけど、 すごいねえ、これは。いいもんだなあ。  ワグナーがいなかったら、オペラというジャンル 自体がいまだに有閑階級の暇つぶしでしか なかったかもしれない。  こんな天才は、まあ、500年に一度くらいしか でないね。言葉を超えている。  これも、小林秀雄が言っていることだけど。  ウォーナーの演出も良かったなあ。  ブリュンヒルデが自ら火の中に飛び込んだ 溶鉱炉を、オレンジの人たちが手をつないで 取り囲んで警備するのも良かったし、  最後に群衆が遠ざかっていって、その上に 水のゆらめきが投影されてそれが次第に 平面的な感じになり、  やがて暗転して、最後の「愛による救済の 動機」とともに、映写室に入った人たちが フィルムをかけて、観客の方に向ける。  あんな美しいシークエンスはないね。  歴史的な名演だったと思う。  このような歴史的名演に対して、 岡田暁生さんの朝日新聞2004年4月1日の 夕刊の批評は、あまりにもひどすぎて、 ウォーナーに対して申し訳ないと思った。  「舞台があれだけ原作をアレンジしているのだから、 いっそ音楽もパロディー風編曲にしてしまった方が 筋が通るのでは?」  だと。  くだらないことを書いているんじゃないよ。  あまりにもひどいんで、朝日の文化欄に 署名入り抗議文を送ろうと思ったけど、  まあいいや。  質の悪いものは放っておいて、  ワグナーの遺志をくんで、いろんなジャンルで 少しでもいいものを作っていくことの方が 大切なことだ。  ワグナーの作品では、登場人物がみな 必死で生きている。  『神々の黄昏』のハーゲンのような悪役でも、 世界を支配する指環への欲望を剥き出しにして、 ぎらぎらに生きている。  ヒトラーも、きっと、あれが彼なりの 必死の生き方なんだろう。  みんなが必死に生きた結果、歴史が動き、 時に悲劇も生じる、というのがこの世の実相であって、  霊(たま)を抜かれちまった日本人は、その ことを直視できないところがある。  「すべてがチープ&ポップなギャグとして、 理屈抜きで笑える。これは、テレビ・ゲームや パソコンに囲まれている現代の聴衆にとって、 『眠くならない<リング>』を演出する、 一つの可能性だ」  また岡田評論からの引用だけど、この、日本人の 偽悪的な評論家連中がなんとかの一つ覚えのように 書く「ワグナーは長い」「眠くなる」という メタファーも、いいかげんやめてほしい。  誰が、必死になって生きている人間たちの ぶつかりあいのドラマを見て、眠くなるって いうんだ?  オレは眠くなったことなど一度もないし、 まともな人間で、眠くなっているやつなど みたことないぜ。  生の根源にかかわるような 奔流に対して、皮肉的なスタンスで 接して、それで何か気の利いたことを言った 気になっているのが、戦後の霊抜かれ日本人 だったんじゃないの?  くだらなすぎるよ。  正確にいうと、もちろん、そういうものを 感じているんだろうけど、そういうものを 感じている自分の生を肯定できないで、皮肉 という安全圏に逃げ込んでいるだけじゃん。 ダメだね。ヨーロッパの批評の文法とそこが違う んだよ。逃げるんじゃねえ。  ワグナーは、憎しみやねたみや ぎらぎらした欲望や劣等感や不安や絶望など、 人間が生きる上での様々な感情の諸相を 描いた上で、最後には、「愛」をテーマの 中核に据えたわけだけど、そのあたりを 含めて、人間の大きさが、皮肉っぽいことを 書いて悦に入っている文化人とはレベルが 違うんだ、ということを私は怒りを 込めて書いておきたい。  ところで、私はこの2年間くらい、 「日常」というものの中に現れる超越的な ものとか、そういうことが大切だ、という 風に思ってきていて、小説とか映画とか 写真とか、そういう様々なジャンルで日常の 大切さを描いた作品の隆盛を好ましく 思っていたけども、最近、「もういいや」 という気分になっていた。  日常、日常って、それって、案外、 最近の無気力日本人が自己肯定している だけなんじゃないか、一つの罠なんじゃ ないか、と思うようになってきた。  そういうわけで、ポスト日常へのとっかかりを 求めていたけど、昨日の『神々の黄昏』の 中にそのヒントがあったように思う。  20年以上もかけて、 素晴らしい作品を残してくれた、 ワグナーさんありがとう。   演出のウォーナーさんありがとう。指揮の 準メルクルさんありがとう。二期会の合唱団の みなさんありがとう。すばらしい歌唱を聴かせて くれた歌手のみなさんありがとう。特にブリュンヒルデ 役のスーザン・ブロックさん、素晴らしかったです。  みなさんのことは、決して忘れません。 2004.4.6.  指環の余韻はまだ残っている。 まあ、あれだけの作品になると当然だ。  一ヶ月は持つよ。  だから、チケットもぜんぜん高いとは思わない。 (Yahoo! Auctionで、もともとの価格の 2倍のプレミアムを払うはめになったけど)  やっぱ思うのは、「生きる」という ことの大切さだね。  養老さんが、最近、「外国人から 見ると、日本人は生きていないように見えるらしいよ」 と書いているけど、  ワグナーを見て、それから客席の日本人を 見ると、  なんだか直感的にはよーく判る。  養老孟司さんが『考える人』の最新号で書いている。  私は七年間、台湾の養鶏場でジャコウネズミを 捕っていた。だから、養鶏場には詳しい。私は 台湾に行きだしてから、鶏を食べなくなった。 ああいう状態で飼われていることを知ると、食べられ ない。目の前を餌と水が流れて、本人というか、 本鳥はまったく動く余地のない金網籠のなかに 閉じこめられている。背後には卵受けがある。  これでは完全に機械である。鳥は機械では ないが、機械と同じ扱いを受けている。生き物を そんなふうに扱って、まともなはずがない。 (中略)経済効率を優先したとき鶏の姿が ああだということは、同じく経済効率を優先した 社会の人間の姿がああだということである。なぜ それに気づかないか。その方が不思議だと いうしかない。  養老さんが「日本人は生きていない」 と書く時の趣旨は上の文に尽きていて、 私は付け加えることはない。  愛するジークフリートの「裏切り」の真の 理由を知り、全てを悟って、自ら火を放ち その中に飛び込み、権力の源泉だった 「指環」をラインの乙女たち=自然に 返すブリュンヒルデのような真摯で激しい 人生を送りたいものである。  あるいは恐れるものを知らず、ハーゲンに 刺されて死に行く時も、自分が死んでいくこと すら認識していないジークフリートのような 無垢な生き方をしたいものである。  敵役であるハーゲンだって、あの権力への 欲望剥き出しのぎりぎりの生き方は、 それはそれで一つの「生きている」だと思う。  私は日本を愛しているが、 現代日本で肯定的に語られ始めている「日常」が、 実は養鶏場の鶏の弛緩した自己満足かもしれない、 という可能性は常にアタマの中に入れておく 必要があるのではないか。  「きょうのできごと」はまだ見ていないけど、 きっとそういう感想を私は持つのかもしれないと 思う。  ソルジェニーツィンの「イワンデニーソビッチの 一日」もまた一日である。「きょうのできごと」 に描かれた日本の学生の一日は、それに 比べてどうなんだよ。  それって、精神の核戦争のあとの廃墟なんじゃ ないか。  日常というのは一種類じゃなくて、物理的に 言えばどんな激しい一日も日常だ。  最近の写真や小説で言われていた「日常」は 平成日本の独特の「日常」であって、 それは一つの罠かもしれないと気が付くきっかけは、 やはりワグナーの芸術の偉大さであった。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4102132015/ref=sr_aps_b_/249-7783085-2939506 2004.4.6. Public Relations  ただ今発売中の「ポピューラーサイエンス」 5月号に、 茂木健一郎  「記憶の編集プロセス」 が掲載されています。写真は、「竹富島の砂浜で 猫とたわむれる郡司ペギオ幸夫」です。 http://www.popsci.jp/ 2004.4.6. イギリス気鋭の演出家キース・ウォーナーはこの最終作の中心的舞台 となる王族ギービヒ家を、クスリに汚染された共同体として描き、秘 密を分かち合いながら、互いへの不信と憎悪をつのらせる人々の妄執 を浮き彫りにした。差別意識むきだしの当主グンターは〈義兄弟の宣 誓〉でも自分の腕を採血のための注射器の針から遠ざけ、もっぱら相 手に誓いの責めを負わせる。妹グートルーネは薬漬けになって洗脳さ れた女スパイだ。第二幕では精神異常をきたした薬品工場の従業員が、 注射を打たれて床をのたうつ男にも気づかず、乱痴気騒ぎを繰り広げ る。ジークフリート暗殺をもくろむハーゲンに扇動され、操作される 群集のおぞましさに背筋が寒くなった。 (中略)ウォーナーは平面上の地図、文字、記号を多用しながら、二 次元/三次元の並列によって意識下の光景と現実の世界に回路を開き、 夢とうつつの境界をぼかしてゆく。パズルが修復され、普段着の人々 が映写室に集まってくる幕切れの情景も、予定調和のような始まりへ の回帰ではあるまい。四部作冒頭の槍を抱えた老人の姿はどこかに消 え、映写機には新たなフィルムが巻きつけられる。映画の上映という 設定で始まったこの舞台がまるごと、長大なクロニクル(年代記)と して一巻のテープに封印されたというわけだ。エッシャーのだまし絵 にも似た螺旋と入れ子の構造によって、意識の変容を促すウォーナー 演出の全貌が、終幕ではじめて立ち現われたのである。 2004.4.7.  東京工業大学のすずかけ台キャンパスで 修論の構想発表会があり、  田辺史子さんが 一番手で出て、記憶の再固定化に関する 研究構想を発表した。  ここのところずっと準備してきて、 本番は発表5分、質疑4分である。  短いようだけども、 多くの先生や学生たちに聞いてもらう、 いわばテレビで言えばプライム・タイムだから、 その9分間のエアタイムのために いろいろ準備する、というのは まっとうかもしれない。  田辺さんはちゃんとりっぱに できました。パチパチパチ。  最後に登場する中村研究室の 梅田くんの「非計算論的物理過程」 の発表をぜひ聞きたいな、と思っていたのだけど、 研究所で会議があったので、  田辺さんのが終わったらすぐに 帰らなければならなかった。残念。  思うに、1989年のペンローズの 「皇帝の新しい心」はすごい認知テロリズム だったなあ、と思う。  問題が解かれたわけじゃないが、 意識の問題についてカマトトぶっている 一般の研究者たち(特にコネクショニストと 呼ばれる人たち)にメガトン爆弾を 投げ込んだ、という意味で、 やっぱりペンローズは偉いやつだったなあ、 と改めて思う。  しかし、クオリアの私も、さすがに 自分の学生には「非計算論的」うんちゃらを やりなさい、とは薦めることはできず。  それをやるというんだから 梅田くんはすごいというか、無謀というか。    今度、研究所に召喚してゆっくり話を 聞きたい。    オレも今年10月になると42だが、 まだまだ枯れていないよ。  超特大の認知爆弾をそのうち爆発させて やるぜ。  ふふふふふ。  それにしてもアメリカに行かなくては。  皆さん、15日まで、しばらくさようなら〜  ラムズフェルトの顔を見ると虫酸が走る、 などということは入国審査で口走らない から大丈夫です。ご心配なく。 2004.4.7.  本日発売の『文學界』2004年5月号に、 茂木健一郎「脳のなかの文学」第二回  「有限の肉体に可能性として宿る無限」 が掲載されています。  一部引用  弟子の内田百けんが大切にしていた自筆の 書を、気に入らない、書き直すから寄こせと 取り返し、目の前でびりびりと破ってしまっ た漱石は、一体何に潔癖であろうとしたのだ ろうか。定着されてしまったものは危険である。 すでに結晶化してしまったものに心を奪われ るのは衰弱の徴候である。可能無限として定 着されるものが、やわらかで頼りない肉体と 向き合う現場にこそ、文学は立ち上がる。だ からこそ、文学者は生きなければならない。 何者でもない自分の肉体の痛々しいほどの個 別性を、その息づきを引き受け続けれなけれ ばならない。  文学の生神に祭り上げられつつも、生身の 個としての逃げようのなさを引き受け続けた からこそ、漱石はその生涯の最後まで創造者 たり得た。「世間のものを言わぬ人の中に、 どんなに偉い人がいるかと思う」と講演の中 で嘆息した小林秀雄も同じことである。  文学を読むということもまた、生身の自分 を引き受ける行為である。普遍は向こうから やってくるのではない。人は自らの有限の肉 体の内から生成されるものしか体験できない。 だからこそ、世界が狭いはずの高校生も、名 作に触れれば心を動かされる。ただ生きてさ えいればいいのである。  目の前の人の背中に向かって、ぎこちなく 置かれた足指の中に、文学の可能無限を支え る全てがある。そこには、狭い世界も広い世 界もない。ただ一回限りの生があるだけであ る。  全文は『文學界』でお読みください。 2004.4.8.  というわけで、Tucsonにやってきた。  Towards a science of consciousness http://consciousness.arizona.edu/ に参加し、発表するためである。  来てすぐに、マイクロチューブルの ハメロフの発表を聞いた。  相変わらずあまり内容は変わっていない。  しかし、会場からの質問を聞いていると、 みんなちゃんとどこに問題点が あるのか判っているようだ。  「そういう物理的な記述を積み重ねて いっても、クオリアなどの問題には 到達しないんじゃないか?」 と誰かが聞いたら、ハメロフは、  「ペンローズなどは、プランク長さ などのスケールにクオリアがある、 というプラトニストだ」などと答えて いたが、そのような答え方がダメだ、 という理由を私はちゃんと掴んでいる と思う。  質疑応答のレベルは高く、このような コミュニティが機能しているというのは うれしいことだ。  いつもなら、Tucsonに来て、砂漠を 見て、サボテンを見てうれしい、などという 脳天気な日記を書くところだけど、 そういう気分にならない。  コイズミさんは、カッコいいことを言って 派遣したんだから、当然こういう事態に なる可能性などは覚悟の上だったのだろうと 思う。  だったら、ちゃんと責任をとってもらいたい。  ロサンジェルス空港でThe Economist誌を 買ったが、アメリカ国内でさえブッシュの政策に ついては大変な論争が起こっている。    コイズミさんの言う「国際貢献」、「同盟国 アメリカへの協力」などというスローガンは、 まるで、小学校の学級委員が読み上げる 生活目標のようにナイーヴだ。  現実は厳しい。  その厳しい現実の火中の栗を拾う、という 決断を自分がしたんだから、  ちゃんと落とし前をつけてほしい。  コイズミさんには同情しないが、巻き込まれる 一般の人々には、心からの同情を寄せざるを得ない。  大儀など、クソクラエである。無事これ名馬なり。 2004.4.9.  みなさん、こんにちは。 私は日本からやってきた認知テロリストです。  それはさておき、まずコマーシャルを。  意識のホールマークはクオリアですが、  ソニーでは、今度、QUALIAという商品群を 立ち上げました。  よろしく。  さて、脳科学を学ぶものは、第一日目に、 脳の中にはホムンクルスはいないということを 教わります。  クリックとコッホの「意識体験に対応する 神経活動=NCC(neural correlates of consciousness)」 という考え方は、一見、ホムンクルスを 排除しているように見えます。  本当にそうでしょうか。  NCCの背後に隠れている暗黙の前提について 考えてみましょう・・・・  というわけで、私の発表は終わった。  スライドを用意しすぎたと思って、前半物凄い 速さで喋ったら、  時間が余ってしまって、最後の3枚の スライドはとてもゆっくりになってしまった。  最後のスライドのタイトルは、「メタ認知的 ホムンクルス・モデル」である。  内容はひ・み・つ。  それより少し前、朝食を終えて会場に行ったら、 見覚えのある長髪早口男が話をはじめていた。  チャーマーズである。  チャーマーズが話し終わったあと、 なんだか女性活動家みたいなひとが質問に立って、  「私たちはここで意識について議論している けど、  大切なことを忘れていないか。  それは、人間のつくった技術的世界が 自然的世界をテイク・オヴァーしようとしている ことで・・・」うにゃららと言った。  チャーマーズの横にいたハメロフが、 「それで、質問は何でしたっけ?」 と聞いて、会場が爆笑の渦になった。    活動家の女の人は、「私たちの国のトップには、 狂人(マッド・マン)がいるし・・・」 とさらに言った。チャーマーズが、  「この会議のトップにも、狂人(マッド・マン)が います」と自分のことを言って、会場が 再び爆笑に包まれた。  その後、ハメロフが、「今のデイヴィッド (チャーマーズ)の話にコメントがある」 といって、  スライドを使って、量子的無意識の話をした。  そうしたら、さっきの活動家の女の人が、 「それで、質問は?」 と切り返して、またみんなが爆笑した。  何はともあれ、丁々発止、おもしろい やりとりであった。  日本は大変なことになっているようだけども、 丁々発止の意見のやりとりができなくなったら おしまいだ。  私が文春問題で恐れていたのはそのことである。  イラクで人質がとられてしまって、 本当にお気の毒なことだけども、  それがきっかけで、日本の 「空気」にも少しは変化の兆しがあるようだ。  一体どうなるのか、遠いアメリカから注視している。  NBCなどは、かなり日本に同情的に 報じている。  こちらに来て、ブッシュ批判がかなり深刻化 していることに驚いた。   コイズミさんにはそういう情報はちゃんと 伝わっているのか。 2004.4.9. Public Relations  4月10日発売の  文藝春秋5月号の特別企画 「名著入門」に 茂木健一郎  宮本武蔵『五輪書』は生命の飛躍 が掲載されています。 http://www.bunshun.co.jp/mag/bungeishunju/index.htm   2004.4.10.  正高信男さんに「多動症」と書かれた私だけど、 デイヴィド・チャーマーズも間違いなく 多動症だ。  きょろきょろうろうろ動き回りながら、 喋りまくり、  その注意の対象が一つ所にとどまる ところがない。    朝ごはんを食べにレストランにいったら、 デイヴィドが例のごとく身振り手振りを しながら早口でテーブルに座った人間に 話しかけていた。  そのうち、こっちにやって来たので ちょっと立ち話した。  来年はデンマークで開催されるので、 そこでデイヴィッドの多動症ぶりを目撃 できるかもしれない。  会議の行われているツーソンは、 ビートルズの『ゲットバック』の一番に なんとかかんとかTucson Arizona・・・ と出てくる。  サボテンの砂漠に囲まれて、 小さな町だけど、  なかなかにヒッピームーヴメントと ロックンロールのスピリットが 町のあちこちにあって、  私はとても好きだ。  レストランやバーが並んでいる4番街 をぶらぶら歩いていたら、  スゲーかっこいいものを見てしまった。  銀色に塗られたスクールバスがとまって いて、その中から、ギンギンのロックンロールが 聞こえてくるのだ。  ちょっと覗くと、中で、ドラムスを打ったり、 ギターを弾いたりする男たちが見え、  前方にヴォーカルが立って、 ノリノリで膝をゆらしている。  おおー! っていうくらいカッコよくって、  バスのドアの横に貼られたA4の紙に 手書きで書かれた文字を見た。  The Silver Bus performing... とある。  さっそく、ホテルに帰ってグーグルで調べた。  CDも出している! http://www.electronicsplaza101.com/electronics/search/res/r2909761.html  日本に帰ったら、ツーソンの記念に一枚買おう。    意識の問題を解いちまったら、チャーマーズ たちと一緒に、Silver Busに乗って、世界中を 講演旅行したいな。  多動症バスが大平原を行く。  おっといけねえ、ツーソンのグルーヴに 感染しちまったぜ。 2004.4.13.  スティーヴンピンカーの話を聞いた。  うまくまとめてはいるけれども、 新しいことを生み出せる人だとは思わない。  MITからハーバードに移って、 ますます「秀才」という感じがしてきた。    バランスの良い知性である。  意識の謎を考える上で、本質的な進歩が もし生まれたら、  その本質をピンカーは理解するだろう。  新しき事象に、「お墨付き」を与える 神官の役割を果たすだろう。  しかし、新しいものを生み出すのは、きっと どこかのドロップアウトかごろつきだろう。  McGinnのcognitive closureの話で 締めて、それについてはいろいろ書きたい こともあるのだけども、  なにせこちらに大量の仕事を持ち込んで いて、日記を書くヒマもない。  会議は終了し、日本から両親が来て、 セドナ、グランドキャニオンと回って、 今日はラスベガスに行き、明日はデス・バレーに 行くという短い休暇に入った。  もう両親も70近いし、二人を案内 するということは何回もないだろうから 心から楽しんでもらいたいと 思っているけれども、  その一方で朝4時に起きて仕事をしたり、 かなりきつい日常。  帰りの飛行機は、機内食を断って 仕事、眠る、仕事になることでしょう。  それではみなさん、お元気で。 2004.4.13.  というわけでラスベガスに来た。  MGMグランド。  ラスベガス・ストリップを歩くと、 ニューヨーク・ニューヨークとか、 パリとか、なんだかアメリカ人の ファンタジーの奔流に幻惑。  といっても、せっぱ詰まった仕事を いろいろかかえているので気が気では ない。  果たして大丈夫なのだろうか。  私の父親と母親は大いに楽しみ、 最後はスロットマシンの前に置いて 自分の部屋に戻ってきて 仕事をはじめた。  ところが、ホンチャンの仕事以外にも いろいろな仕事がメールで日本から 入ってきて、  なかなかホンチャンが進まないのだ。  武運長久ならずか。。。  それに、30ドルばかりすってしまいま した。さあ、仕事。 2004.4.14.  「死の谷」(デス・ヴァレー)から  車を運転して戻って来ながら ラジオを聞いていたら、 ブッシュ大統領が演説していて、 その感じがとてもパテティック(情けない) ものだった。  コメンテーターも言っていたけど、 今彼は圧倒的にデフェンシヴな(自分自身を 擁護しなければならない)状態に置かれて いるようだ。  アメリカの物質的な豊かさを見ていると、 この国の本質は相変わらず変わらないというか、 圧倒的なエネルギーの浪費の上に なりたっているということがわかる。  ブッシュのやっていることも、 結局はエネルギーの浪費か。  スペンド(使え)、スペンド(使え)、 スペンド(使え)。  戦争の本質は、 水が水道からあふれるごとく 銃や戦闘機が浪費できる点にこそあるのではないか。    もっとも恐ろしいのは、私もアメリカに 滞在するたびにそうなるけれども、  物質的豊穣が、よい意味でも悪い意味でも その中にいる人間をスポイルド・チャイルド (甘やかされた子供)にすることだ。  スポイルド・チャイルドが武器を水のごとく 浪費している。  それが案外今回のイラク戦の本質で、 それで人が死ぬところが真に恐ろしい。  しかし、世界というものは、もともと ささいな理由で血が流れ、肉がちぎれる 恐ろしい場所なのだろう。    今午前4時50分。あと少しでホテルを チェックアウトして空港に向かう。  日本に帰っても、当分仕事をひたすら 続けなければならない。  水のごとく仕事があふれて、その 洪水の中におぼれそう である。 2004.4.15.  帰りの飛行機の中は、仕事、寝る、仕事。 酒も飲まず、二回目の食事もことわった。  目を閉じてうとうとしていたら、 池上高志が出てきて、 (彼を知る人間だったらすぐに様子が思い浮かぶと 思うんだけど) 「お前、そんなこと言っているんじゃないよ〜」 「お前な〜」 「あ〜やめて〜」 と叫んだ。  それで、私は思わずびっくりしてしまった。  はっと気が付いたことがあったのだ。  池上高志があのように言っていることって、 当然日本語を母国語にする人にしかわからない んだな、と思って、何だか知らないけど そのことにびっくりした。  まだうまく全てを意識化できないのだけども、 言葉というものが、コミュニケーションの道具 と言われながら、その言葉を理解しない人に 対しては、かえってコミュニケーションを 閉ざしてしまう、ということがここのところ 気になっていて、そのような無意識の傾向が 池上高志になって出てきたんだと思った。  しかも、コトは、日本語がマイナーな言語 であるという特殊事情によるものではなく、 およそ言語というものに不可避的にともなう 必然的なものである。  今まであまり切実にヴィトゲンシュタインの private languageのことを考えたことが なかったんだけど、  はじめて「ああ、このことか」 と思った。  バベルの塔も、このことを言っているんだな、 と思った。  池上高志クン、夢に出て教えてくださって ありがとう。  仕事をする一番の秘訣は、仕事以外の ことをしないことである。 (仕事以外にも楽しいことが沢山あって、 そっちをはじめちゃうとどうしても グルーヴが変わるからね)  日本にかえってきても、仕事以外のことを しないでなんとか数日をやり過ごしたいと 思っている。 2004.4.17.  私も書かせていただいた、文藝春秋五月号の 「名著入門」特集で、白川静さんが「論語」 についての文章を寄せているけれども、 それが素晴らしい。  さすが碩学。言葉に叡智が満ちている。    その中でも、以下の一節に私は 感銘を受けた。  「民はこれに由らしむべし。これを 知らしむべからず」という言葉が出てきます。 しばしば、これを「民衆には何も知らせる べきではなく、ただ従わせるべきだ」 という意味で使っている人がおりますが、 これは間違い。「従わせることはできても、 その政策を理解させることは難しい」という 意味です。(中略)世の中が複雑になれば なるほど、一人一人の国民にすべての 政策を理解させようというのは難しくなって いる。そこで重要なのは、昔も今も信頼関係 なのです。「この人たちにまかせておけば 大丈夫だ」という信頼が、政治の生命である 点は、孔子の時代もいまもなんらかわりはない。  私はよく政治家や役人の悪口を言うけど、 本当は信頼して任せたいに決まっている。  政治や行政のことなどやっているヒマはない。 給料をもらって、full time jobとして やっているんだから、 当然最善をつくしているんだろうと 思いたいが、いかんせん、白川さんも 書かれているように、年金問題をはじめとして、 じぇーんじぇーん信用する気にならない。  なによりもまずいのは、彼らの 判断(ジャッジメント)の能力を信用する気に ならないことだ。  これは、おそらく日本の教育の欠陥である。  この複雑で不確定な世界で、確実な 正解などありはしない。  その中でも、ぎりぎりの判断をして、 自分を投企することでしか人間は生きられない。  役人としゃべっていて、ルールがどうの、 規則がどうのと、こうるさく言ってくるので うんざりすることはあっても、  さすがこの人は判断の能力に長けている と感じることはまずない。  こいつらは、形式的な規則さえ満たされて いれば、実質はいいのか、  こいつらはできそこないの人工知能なのか と思ってしまう。  だからもうすっかりイヤになっているわけで、 そこのところをよ〜くパブリックセクターの 人たちは考えてほしい。   白川さんの名文を、市役所とか区役所とか 霞ヶ関に張っておくといいんじゃないか。 2004.4.17.    そういえば、アメリカに行く前に おそろしいことがあった。  グッピーを飼っていた水槽が、 魚がいなくなっても、水草が生えているので、 そのままにしておいた。  夜、ふと中をのぞきこむと、 蚊がいっぴき内側の壁にとまっている。  うん?  と思ってよくみると、 あちらにもこちらにもとまっている。  私は瞬間的に事態をさとり、 「うぎゃー」と叫んで あわてて水槽を外に出した。  水があるとボウフラがわく。 魚がいるとボウフラがわかないのは、 魚くんが食べてくれるからである。  魚くん=ボウフラの掃除機   魚くんいない=ボウフラわく  この単純なる方程式を私は理解した。  自然を愛する私だが、 さすがに家の中で蚊を飼う気はない。  こんど、メダカを買ってこようと思う。 2004.4.17.  たまには、箇条書きで書いてみるか。  仕事のあと、仮眠をとった。  目覚めてすぐNHKをつけたら、ちょうど7時の ニュースで、解放された渡辺修孝さんが Many Irqi People are dying, that is the problem と言っていた。精悍な顔つきをしていて、 りっぱだなあと思った。  そのまえに、たるんだ顔をした外務省のひとらしい でぶのおっさんがなにやらエラソーに聖職者 協会の人に書簡を渡していて、聖職者 協会の人に「川口外務大臣のメッセージには、 イラクの人たちへの感謝のきもちがこもっていなかった」 と言われていた。  日本には、米軍が駐留していて、核兵器もきっと ある。  小泉首相が国際貢献というとき、それは戦前の 大本営が「転進」と言った時と同じ言葉のごまかしが はいっている。国際貢献というのはアメリカ貢献 であって、そこにはドイツやフランスは入っていない。  アメリカで聞いたラジオで、キャスターが 腰抜けのドイツやろうとフランスやろうと言っていた。  アメリカ政府御用達のフォックステレビは、 正義と悪がはっきりしている、ハリウッド映画 のようである。    ハリウッド映画の世界観は、戦争を行うための インフラの一部である。  今回の日本の行動の本質は、アメリカにいろいろ 首根っこをおさえられているから、おつきあいしなくちゃ 仕方がないということだろう。だったらコイズミは 率直にそういえばいい。その方がリアルだ。  約60年前、われわれの祖先は、鬼畜米英と言っていた。  今、イラクの人たちが、鬼畜米英と言っている。  約60年前、アメリカは、原爆を二発落とし、 市民を大量に殺した。その前に、東京大空襲で、 一晩で市民を大量に殺した。  今、イラクで死ぬのは主に民間人である。 たまにアメリカ兵が死ぬとフォックステレビは 大騒ぎするが、数ははるかにイラクの民間人が多い。  結論:今、日本人は、自分の正体が何なのか、 soul searching(魂の探求)の時間を迎えている。 自分は安全地帯に置いてエラソーなことを言う 外務省の無能な役人と大臣や、ハリウッド映画史観の ジョージブッシュ、本音をいわずに言葉のごまかしを 続けるコイズミのいうことはsoul searchingに おいてあまり役に立たない。渡辺修孝さんの 発言とそのときの表情はきっと役に立つ。 下のサイトもきっと役に立つ。    その上で、やっぱり仕方がない、アメリカに付き合う しかないや、ということならば、そうすればいい。  オレはとりあえず仕事をするわ。  http://www.iraqbodycount.net/ 2004.4.18.  先日の朝日カルチャーセンターの時に、 小津安二郎の『お早う』をつかった。 http://www.shochiku.co.jp/video/dvd/da0267_3.html  日常というものについて考えるための 教材、ということだったんだけど、  久しぶりにみて、やっぱりこの小さな 喜劇作品にも小津のすごみはで出ているんだなあ、 と思った。  最後に、家出をしていた兄弟が家に戻ってくると、 廊下に  『ナショナル・テレビ 14型 高性能遠距離用』 と書かれた大きな段ボール箱が置いてある。  二人があんなに欲しかった、テレビが来たのだ。  この時の躍動感というのは、ほんとうに素晴らしい もので、  何かぱっと画面が明るくなる。  一つのモノが持っている、人間の精神に 対する重大な作用。  それで、小さな弟の方が、あまりにもうれしくて フラフープを回し始めてしまう。  その場面が素晴らしい。  「8時だよ、全員集合」で志村けんの 後ろから敵がやってきて、会場の子供たちが 「志村、後ろ、後ろ!」 と叫ぶ。  それと同じ種類の躍動感が、 テレビがやってきたのがうれしくて思わず フラフープを回してしまう子供に現れている。  あーいう感じを忘れてはダメだよな。  あーいう感じを憶えている限り、  人間、きっと大丈夫だ。  「お早よう」は、1959年の映画である。 2004.4.19.  ちょっといろいろ切羽つまっていて、 仮眠をとったあと、午前0時くらいから ずっと仕事をしている。  そしたら、近くの森のカラスが真っ暗な なかずーっとかあかあ鳴いているので、 あきれてしまった。  お前らもよなべ仕事か。かあかあ鳴いていないで、 まあ寝ろや。  今は外が明るくなってきている。 かあかあも頻繁に、大きくなってきている。  さあさあさらに仕事。  カラスくんたちも、これからいろいろ ゴミあさりとか、ご飯を見つけにいったり するんだろうけど、  ぼくもまだまだ仕事だよ。  かあかあかあ、 2004.4.19.  今週号の「ヨミウリ・ウィークリー」 より、茂木健一郎「脳の中の人生」 の連載が始まります。  第一回は、「記憶の編集力」です。 http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/   2004.4.20.  午前3時過ぎ(さっき) 目が覚めて、なんとなくテレビのスィッチを つけたら、  なんだか一瞬にしてものすごく吸引力の ある演技をしている女優がいたんで、  む?  むむむ? とそのまま最後まで見てしまった。  テレビ欄を見たら、「クレイジー・イン・ アラバマ」というタイトルで、演技して いた女優は、Melanie Griffithという人らしい。  私が見たのはラストの10分くらいだったらしい。  さて、仕事、とコーヒーを入れながら、 私はうぎゃー! と大発見というか一つの自己認識を してしまった。  全然映画とは関係ないんだけど、 私が誰かとか何かの悪口を言うときのパターンに ついてである。  きのう、勝谷誠彦さんの日記のサイトを 久しぶりにみたら、なんだか今回のイラクで 捕虜になった人の悪口が書いてあったのである。  で、私はそういう悪口は書かないなあ、 と思っていたのだけど、  そのことをふとコーヒーを入れながら 思い出していて、なぜなんだろう、 と考えているうちに、ものすごく単純な 法則に気がついたのだ。  「私が悪口を書く相手は、権力をもっている とか、力をもっているとか、そういう対象に限られて いる」  だから、私は、イラクで捕虜になった人たちの 悪口をいう気にならないのだ(もともと 悪いとは思っていないけど)。  そこが、私と勝谷さんの違いかもしれない。  この日記を読んで下さっている方は知っている と思うけど、私が今までに悪口を書いた相手は・・・  地上波テレビ、タレント、小泉首相、役人 ジョージブッシュ、村上隆、ハリウッド映画、 森ビル・・・・ とみんな「強い立場」にいる人たちばかりである。  どうも、私はそういう力の構造に敏感で、 その力を持つ人の中に腐敗や、堕落や、そういった ものの匂いをかぐと、どうも黙っていられない ようなのだ。  だから、私は次のような人たちの悪口は 絶対書いていないはずである。    うんこ座りしてタバコ吸っている高校生、 イラクで捕まっちゃった人、コミケットで 同人誌売っている人、ターミナルで「私の詩集」 を売っている人、ホームレスの人、最近 ふられてしまった人・・・・  こう書くと、なんだかリッパなポリシーの ようにも響くけれど、実はリッパでも何でも ない。ただ単にからだがそう動いてしまうだけと いうか、三つ子の魂というか、なんだか自分でも 情けない。  小学校1年生の時だったか、いばっている 3年生に文句を言って、ものすごい勢いで 罵詈雑言を言ったことがあるんだけど、 あの時からきっと私は変わっていない。  私の悪口の法則は変わっていない。  で、冒頭の「クレイジー・イン・アラバマ」 に戻るけど、地上波テレビもいい映画流す ことがあるし、ハリウッドもいい映画とる こともあるし、映画が終わった後の「月曜映画」の 告知の映像も、ものすごくクリエーター魂の こもったいい映像だった。  だから、あまり「三つ子の魂」で怒って ばかりいると何かを見逃すことがあるよ、 と自分に言ってから、仕事をすることにしよう。 2004.4.21.  ここのところ、こんな変な時間(午前3時過ぎ) に起きているというのが 当たり前の習慣になってしまった。  このまま朝まで仕事である。  まあ、仕事の山も今週いっぱいである。 そのあとはビールぱーっと飲みながら ナイター中継を見て、 がーっと寝てお早うにこにこ太陽さん、 の生活になりたい。(無理か)  いつもはかあかあ鳴いているカラスが 今日は鳴いていない。  自然は不思議である。  と思っていたら、ぴったり午前 3時15分に鳴きだした。  昨日は、産経新聞社にて、理研の脳科学 総合研究センター所長の甘利俊一さんとの 対談の仕事があった(記事は5月下旬か 6月に出るようです)。  甘利さんとのおつきあいは大分長い。  私が理研にいた時代に、半年だけ、甘利 さんのチームに所属したこともある。  囲碁を打ったこともある。 一緒に温泉に入ったこともある。  恩師のお一人である。  お会いするのは随分久しぶりだった。  甘利さんは、神経回路網の数理の国際的な 草分けで、数学的天才である。  飛行機の中でばーっと手書きで論文を書いてしまって、 それを帰国後秘書さんに渡して、  タイプしてもらって投稿する、というような ことをする。  それでいて柔らかい。「いつも頭の中でジャズが 鳴っているような人」という感じである。意識の 問題についても理解が深い。  このような時に困るのは、本当は、甘利さんと 暴走していろいろディープな話をしたいんだけど、 あくまでも一般読者向けの企画なので、  身体がねじまがって斜め45度の方を向く ということである。  やっているうちに、なんとかこつがつかめて きて、「今は暴走機関車」、「今は広報モード」 と使い分けられるような気がした。  いずれにせよ、甘利さんと久しぶりにお話 できて大変うれしかった。  理研の脳センター所長室には、玉川大学の塚田稔先生 の150号の絵があるそうで、今度ぜひ 見に来なさい、とお誘いいただいた。  というわけで、見に行こうと思う。  産経新聞社の方からは、お土産に銀座の 空也の最中をいただいた。  ふふふふふ。  これから、お茶を入れてしまうのだ。  そいでもって、空也の最中を食べてしまうのだ。  どうだ、夜なべ仕事にもいいことがあるであろう。   空也と言えば、  主人はまたやられたと思いながら何も云わずに空也餅を頬張って口をもごもご云わしている。(中略)  「こりゃ面白い」と迷亭も空也餅を頬張る。 (夏目漱石「吾輩は猫である」)  まるで私と塩谷賢(おしら様哲学者)が会話しているようだ。  もちろん、迷亭が塩谷である。異議は受け付けません。 2004.4.22.  というわけで、またもや今(A.M.2:30) 起きてカラスがかあで仕事なのである。  昨日は、必死になって終わらせた仕事が、 実はそんなにいそいでやらなくても良い状況に なっていたという衝撃の結末からはじまり (まあ、でも、テンションが高まっていたし、 一気に終わらせたこと自体はよかった)  午前10時から、ソニーの中にできた QUALIAルームにて、サウンド・アーティストの 渋谷慶一郎さんと対談。 http://www.atak.jp  書ききれないくらい多くのことを触発 されたけど、一つだけ。  渋谷さんは、いわゆるノイズ・ミュージック といわれる系統の音をつくるけど、本人は ノイズ・ミュージックとは言わないことに しているそうだ。  自分のつくっている音楽こそが、本来の 音楽だと。  それで、普通の、リズムやメロディーを もった音楽は、複雑すぎて、人間の脳は それをいい加減にしかつくれない、とスゴイ ことを言っていた。  渋谷さんは、たった一音(コンピュータの 起動音みたいなものね)を、心地よく、もっと 聞きたいと思い、奥深いものにするために、 一日8時間x5日間、そのたった一音づくり に取り組んだりするのだそうだ。  まさに目から鱗の話で、そうか、そういう ことか、と私は強くうなづいた。  一音主義の中に込められる音のクオリアだけで、 すでに無限である。  渋谷さんとは、またどこかでお会いしたいなあ と思う。    渋谷さんと対談している時に、携帯が 5回も着信振動し、しつこい人だな、緊急かな、 と思って後で見てみたら、5回とも違う人 だったので、衝撃を受けた。  うち一回は、研究所から本当に緊急の 電話だった。  その用事を済ませつつ、やがて『風の旅人』 http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/kazenotabibito.htm 編集部の人たちと、保坂和志さんとの飲み会へと 相成った。  保坂さんと会うのは久しぶりで、 ちょうど次号の『文學界』の原稿で、保坂和志、 柴崎友香、小津安二郎、夏目漱石を論じた ところだったので、そのあたりの話をちらちらと ジャブを繰り出しつつ、実は保坂さんは 横浜ベイスターズの話をしたりして、 時間は流れていった。  ぼんやり聞いていて思ったことは、 実は世間の人たちには科学というものの 本当にコアな部分は伝わっていないんだろうなあ、 ということだった。  私が「たかが生物学者」とか、「遺伝子 釣ったくらいで」とか言うときに、なぜ そんなことを言うのか、科学の本当にスゴイ ところはどこなのか、ということは、きちんと 筋道立てて説明しなければならないんだろう。  保坂さんには共鳴するところも多いが、 違う、と感じるところも多い。  保坂さんが、『新潮』に連載している 小説論で、なぜ外国文学ばかりとりあげるのか、 と聞いたら、「だって、外国文学から 見たら、漱石だって『世界の中心で愛を叫ぶ』だって、 みーんな同じに見えるんだもん」と言った。  私が聞いた意味は、翻訳というものを そんなに信用していいのか、という意味だったんだけど、 保坂さんは、あまりそのことは気にならないらしい。  漱石に対する態度が、おそらく、保坂さんと 私の小説に対する差の大きな部分なのだろうと 思う。  それは、きっと、ドラマということに対する 態度でもあると思う。  そこのところを徹底的に一度お話してみたい という気がする。  私が「文學界」の次号で書いたのは、 保坂さんの小説は本当に何も起こらない (横浜ベイスターズのローズが引退するだけ) だが、何も起こらないと言われている小津安二郎 は、実はその一見平穏な日常の中で人生で起こる べきことは全て起こっている、ということ、 それが、保坂さんがおそらく教祖かもしれない 現代日本の「日常派」(柴崎友香もその一人) と、小津、漱石との違いだ、ということあたり だったのだけど、保坂さんは、「カンバセーション・ ピース」の中で、いろいろなことが起こっている と思っているみたいだ。  クオリアも解かなくちゃいけないし、世の中 いろいろ考えるべきことがあって、大変だ。 2004.4.23.  芸大の授業の後に、学生たちと 上野公園の中の「公園」(子供用の遊具などが 置いてあるところ)でビールとワインを飲んだ。  この時間が、一番幸せな時間の一つと 言えるのかもしれない。  布施英利さんもいらっしゃって、 P植田がなにやら人生相談をもちかけていたらしい。  浅田彰がどうのこうのとか、柄谷行人がどうの こうのとか、そんなことを言っていたらしい。  杉原が悩んでいて、みんなで うんこ座りしてその話を聞いていたので、 詳細は知らない。  授業内容だが、私はいきなり「クオリア原理主義」 をばーんと宣言してしまった。  それから、アウェーでの闘いにおいて 欠かせない「よろい」として 持っていった脳科学の論文を参照しつつ、  真の芸術は、脳をうまいかたちで傷つける ものなのではないか、という話をした。  やっぱり、芸大の学生たちは、美という ものについて真剣に悩んでいるから、  こちらが真剣に切り込んでいくとちゃんと レスが帰ってくる。  反応が良い。  今年も楽しみだ。  何しろ、私の年譜を書くとしたら、2003 年は「川俣正さんとのCafe talkで、杉原が 暴れる」と書かれるだろうというくらい、 杉原のいちゃもんはインパクトがあった、というか、 私の脳にぐさりと傷をつけた。  科学は普遍に逃げることができるが、 表現者はそのような逃げ場がない。  だから、特攻隊のように命がけで突っ込んで くる。  渋谷慶一郎さんも言われていたし、 きのう来た先端のなんとか(岩田だったっけ?) も言っていたけど、  実は科学と同じようにある程度メソッドで つくれるアートもあるんだけど、  本当に歴史に残るためには、 やはり自分の個別性から逃れずに、 がーんと行かなければならないのだろう。  で、私は仕事があるので、2時間くらい 談笑したあと、だーっとリュックを持って 逃亡してしまった。  どうやら、あれからアイツラは 根津の車屋に流れたらしい。  実にうらやましい。  早く仕事を終わらせて、根津の車屋に 流れることができる身分になりたいものだと 切なく思う。 2004.4.24.  ソニーに今年入社したあだちさんから、 飲みながらざっくばらんにお話したい、 というメールが来て、 ではでは、と五反田の飲み屋に 04年入社組の方々がシュウケツ。  入社3年目のX氏も不気味な押し出し の強さを漂わせつつ、やってきた。  その中に一人、麦谷クンというのが いて、  その名字を聞いた時に、「むむむ?」 と思ったのだけども、  しばらく飲んだときに、 「もぎさんは東大の開一夫さんは ご存じですか?」と聞いてきた。  やっぱりそうだった。  開研究室に、麦谷さんという、 美人とへそピアスで有名が学生がいて、 私はその姿を目撃したことがない のだけど、ムギタニくんの 名前を聞いて、そのことが 脳裏にうかんでいたのだった。  で、麦谷クンは、麦谷サンの 弟だったのである。  美人のお姉さんがいる弟は得なのか、 損なのか。  どうなんですか、麦谷クン。  麦谷クンにしろ、あだちクンにしろ、 ギュンブルが好きだというキノシタクンに しろ、まあよく喋るというか、 絶対ソニーは、言語表現能力に 長けたやつを採用していると思う。  昼間、共同通信の方が時代のキーワード 『クオリア』ということで取材にいらした のだけども、  その時にもお話したように、 気分とか感情というものは、脳のプライバシーの 障壁をこえて簡単に伝染していってしまうもの であり、だからこそ会社の雰囲気とか、 パーソナリティーのようなものが生まれていくの だろう。  松浦雅也さんも、カツ! を入れる ためにお忙しい中やってきてくださり、 場所を中華料理屋にうつして  ゲームの将来が熱くトークバトル。  しかし、私は、ここのところ連夜続いた 睡眠不足に、おもわずこっくりさんに なってしまったのであった。  X氏と松浦さんのトークバトルの 内容は、二人から漂ってくる熱き気配 で間接的に伝わってきたのである。  これもまた気分の伝幡である。 2004.4.25.  昼下がり、代々木から明治神宮の 森、代々木公園を抜けてNHKに行った。  土曜の朝9時15分、教育チャンネルの  「科学大好き土曜塾」の収録である。 http://www.nhk.or.jp/daisuki/  放送予定日は5月15日(土)である。  一応、台本を読んで言うことを考えて おいたのだけども、リハーサルで、 「塾長」の室山哲也さんがアドリヴで予想の つかないことを言ってくることが わかったので、あきらめて、その場で反応して 思いついたことを言うことにした。  一応秒単位でどのビデオを入れて、 何をやる、ということが決まっていて、 編集なしにそのままオンエアになるわけだけど、 司会の中山エミリさんの仕事ぶりには驚いた。  職人芸の世界である。  リハーサルの時に、10秒くらい「押している」 というのがちゃんとみえていて(デジタルで 残り秒数が提示されているのだけども、私には 当然そんなことは見えてはしない)  コメントをさっと切り上げて合わせようと したりしているのだ。  それと、ビデオを流している間とか、 セットの中で熟生や塾長などとへらへら いろんなことを喋っているのだけども、  ディレクターが「あと10秒です。」 「3、2、1・・・」とやった瞬間に、 ぱっと「中山エミリ顔」になることにも 驚いた。    まあ、慣れもあるのだろうけど、ああいう 勘の良さがないと生き残れない世界でも あるのだろう。    塾生役の3人の子供たちは、みんなプロダクション 所属の「子役」たちで、お目付役のおじさま がついているのだけど、  一番年齢の高い中一の「雪乃」という女の子が、 「緊張する〜」と言ったら、 「君が緊張しているかリラックスしているかどうか、 そんなことは内面の問題だからいいんだ。問題は、 それは、どのように画面の中に出るかだ。画面で 緊張しているように見えなければ、それでオッケー なんだよ」 とおじさまが言っていて、私は思わず「うーむ」 と思ったのであった。  認知科学的におもしろいことが沢山 現場には転がっているなあ、と思いつつ、 ふたたび代々木公園、明治神宮の森を 抜けて、代々木駅に戻った。    代々木駅の近くにある本屋にこの前田谷文彦 と立ち寄った時に、田谷がDAYS JAPAN という雑誌を買っていた。   http://www.daysjapan.net/  この前の飲み会で保坂和志さんがほめていた セバスチャン・サルガドをはじめとして、 魂をキックされるような写真が 沢山載っている。  イラク戦争について、それを推進、容認 する立場の人たちは、なぜかこういう写真を 報道しようとしない。  そんなことでいいのかなあ。  「一枚の写真が国家を動かすこともある」 と表紙にある。本当にそうだなあ、と思う。  まあ、世の中にはいろんな考え方 があると思うけど、  オレが女だったら、「対米協力、テロとの 闘い、テロリスト掃討、自衛隊派遣」とお題目を もっともらしく唱える男とは絶対に付き合いたく ない。  そういうやつは、どこか根本的で感性に 盲目のところがある感性ゾンビだと思うから、 おれが女だったら、そういう感性ゾンビとは つきあいたくない。  問題は、そういう感性ゾンビは世の中に 必ずいて、その人たちとも共生して行かなくては ならない、ということだ。  世の中、むずかしいことが沢山ある。 2004.4.26.  というわけで、今の時刻はA.M. 1:54。  今まで起きている、のではなくて、 今起きて、これから夜なべ仕事なのですじゃ。  なんでこうなるのでしょうか。  とは言っても、なんだかカラスかあかあ を聞きながら朝まで仕事をすることに 慣れてしまった、というか、  それはそれで集中できてうれしい。  それで、朝7時30分くらいには 家を出て、  エールフランスでパリ経由で ボローニャに行きますのじゃ。  ワークショップの仕事で、 5月2日朝帰国。  ということで、エールフランス機内では 爆睡して行くものと思われ。  皆さん、探さないでください。  5月2日まで、メールはおそらく 読めるものと思いますが、  なにぶん、イタリアのこと故、もし 読めなかったらごめんなさい。  それでは皆さん、連休をお楽しみ ください。   2004.4.27  というわけで、ボローニャに来た。 ソニー主催のLearningのworkshop.  いろいろ面白い人たちがくる。    飛行機は隣が竹内薫。  竹内が本(英語)にまとめるのだ。  爆睡、と予告しておいたが、 その通り、約7時間爆睡して、 竹内にあきれられた。  オレは、眠るといったら眠る。  やるときはやるんだ。  ボローニャでさっそく食事。  ポルチーニ茸のリゾット、  ボローニャ風ラザーニャ、  プロスキートなんとかというピザ、 サラダ、  ビール、ワイン、グラッパ。  おいしかった。  それにしても、このホテル、 インターネットの接続が補足、ぷちぷち 切れる。  というわけで、メール等のお返事がおくれても ご容赦。  明日はここから100キロメートル 離れたボローニャ大学の宿舎に移動の予定。  その前に、空港にAllan Snyderを迎えにいく。 2004.4.28.  空港で、Allan Snyderと合流。  アランは、相変わらずトレードマークの帽子を 被っていて、  相変わらず縞のシャツを着ていて、 相変わらず元気だった。  最近New Scientist誌がアランの「サヴァン 症候群のような天才的能力は、普通の人の 脳の中にも眠っている!」という研究の 特集をして、  その号をくれた。  それで、アランと、竹内薫、それに佐々木貴宏さん (ソニーCSL)というメンツで、 黒のベンツに乗りチンタラチンタラ 目的地の大学レジデンスに向かった。  大学レジデンスといっても、Bertinoroという 小さな街の丘の上にあるお城で、  景色がすばらしく、  アランといっしょに食べた昼食も 素晴らしかった。  なぜこういうすばらしいところでやるのか というと、これは、会議をアレンジしている ソニーCSLパリの所長、Luc Steelsの趣味で、  今回もvintage Lucの 場所のセレクションであった。  それにしても、ここにまで仕事が 追いかけてくる。  一体どういうことなんだ!   インターネットがつながるということは 必ずしも良いことではなくて、  完全に日本のコンテクストから脱する ことができない、 ということもまた意味するのである。  私は最近『観光』というメタファーがキライで、 そのことに気付いたのは、しばらく前に フィレンツェにいった時だった。  要するに、『観光客』という立場で どこかの土地に行ったとしても、  自分の心が十分に傷つかないというか、 自分の生がインヴォルヴされないというか、 だから、すばらしい景色を前にしても、  ちらりと見てそれで良しとしてしまうところが ある。  だから、イタリアまで心を込めるべき 仕事が追いかけてくること自体は、 そんなに悪いことではないのだろう。    アランといろいろ話すのはいつもながら とても楽しく、あの明るい狂気に接する だけでもイタリアくんだりまで来て 良かったというものだ。  観光に来たんじゃない。心に刻印を押すために 来たんだ。   2004.4.29.  ボローニャ郊外の小さな街、 Bertinoroでの  ワークショップ。   所眞理雄さんのイントロダクションに続いて、  まずはアラン・シュナイダーが、TMSで 左側頭葉を刺激して、  右半球を「脱抑制」し、普通の人 にサヴァン能力を引き起こす話。  普通の人は、「概念」を通して世界を 見ているんだけど、それをとりはずして 世界をありのままに見ることが 重要である、というアプローチ。  「ありのまま」というのは実は難しい。  ペッペルが意見を述べていたけど、 どんな時にもある種の概念セットを通して 見ているのであって、「ありのまま」 ということはないのではないか。  サヴァン能力(例えば絵画におけるそれ) をきちんと説明しようとすると、  「ありのままに見る」ということの 表象学的解剖、つまりはアウェアネスや エージェンシーの問題と正面衝突 することが避けられないのではないかと思う。  エモリー大学のフィリップ・ ロシャによる、幼児の認知発達の話。    幼児の認知発達においては、 他者との関係性のアウェアネスが決定的な 意味を持つ。  たとえば、よく引用される、鏡の 前に幼児が立って、その額にパッチが ついていて、鏡の中の像を自分だと わかると(18ヶ月くらい)パッチをとる という話も、  その時に置かれている他者との関係性で かわる。  母親が一緒にいて、母親もパッチをつけていると 幼児はむしろよろこんでパッチをとろうと しないし、友達がつけているときも パッチをとろうとしない。  アランは、創造性へのボトルネックは、 「世界を概念を通して見てしまうこと」 だと言い、   フィリップは、「自己意識」を 通して他者に合わせてしまうことが ボトルネックだと言う。  他に、佐々木さんが感情について、 北野宏明さんがシステムズ・バイオロジーの 視点からロバストネス、フラジリティの 概念を引っ張ってきて、認知発達について いくつかのアイデアを。  会議終了後、アラン、正高信男さんを 始め数名で「ワイン・テースティング」へ。  夕食前に、10種類のワインを飲んで、 すっかりへろへろになってしまった。  泡が立つもの立たないもの、甘いもの 甘くないもの、ボディがあるもの、ないもの。  マーケットに「ワイン」として大量に 出回るボリューム・ゾーン以外の、 へんなワインたちに出会った。  甘い赤ワインは、イタリアの子供たちが ご飯を食べるのがイヤだ、といった時、 「じゃあ、これをあげるからその代わり お食べ!」 となだめすかすのに使うのだそうだ。  正高さんと日本語モードで喋るのが やたらと楽しいんだけど、  なんだかいろいろな人と喋らなければ ならないので、その楽しさに浸れない。  今度日本で居酒屋で正高さんとゆっくり 喋りたいなあ。 2004.4.30.  いやあ、笑った。笑った。  ワークショップ二日目は、時間の神経生理学 で知られるエルンスト・ペッペル(ミュンヘン大学)、 幼児の前言語的認知発達の研究で知られる 正高信男(京都大学霊長類研究所、最近 「ケータイを持った猿」を書いて有名)と続いた のだけど、  正高さんが、いきなりチンパンジーの 鳴き真似をしたので部屋の人はみな一瞬 凍り付いて、それから爆笑した。  チンパンジーが何とかカントカという 「笑い声」に似た鳴き方をする時には、 いきなり笑うんじゃなくて、ビルドアップ (準備)の時があって、そのビルドアップから 「本番」の爆発に至る過程を、身振りを 交えてやるその姿に、私は研究者魂を 見た(笑)。  さらなる爆笑は、午後、私、 Luc Steels(ブリュッセル自由大学、 ソニーコンピュータサイエンス研究所パリ所長) と続いた午後のセッションで待っていた。  これはLucの静かなる差し金によるもので、 実にブリリアントであった。    Lucが、いきなり何だかヘタクソな 子供の絵を見せて、  これが何だかワカリマスカといった。   ワカリマセン、ワカリマセンとみんなが 首をひねっていると、Lucが、 じゃじゃーん、これは、バスの絵です。  ほら、この下にある○たくさんが タイヤで、前の方にぐちゃぐちゃとある ヘンな四角が運転手で、上の方に並んでいる たくさんの四角が窓で、ここにいる人は 車掌さんで、チケットください、と手を のばしているでしょう。これはイギリスの 二階建てバスなのです、と説明した。  それにしてもヘッタクソな絵だったんだけど、 Luc は、このヘッタクソな絵の中に、 人間のシンボル化能力が隠れている、とさらりと 言って、それからは「いつものLuc」の 普通のロボットの人工知能の言語獲得の話に 移っていった。  みんなそれを静かに聴いていて、気にならなかった らしいんだけど、私はあることが気になって 気になって、どうしても我慢ができなくなって、 質疑応答の時に思わずアラン・シュナイダーに 聞いてしまった。  アラン、Lucによると、子供のヘッタクソの 絵こそが、人間の能力の本質を表していることに なるらしいけど、そうすると、サヴァンの子供たちの 「そっくりな絵」と、ヘッタクソな絵のどっちが いいのか、判らなくならない? アランのやっている、 TMSを左側頭葉に作用させて、「天才を引き出す」 という研究は、実は天才を引き出すことには ならないんじゃないか?  と聞いたら、  なんと、アランは「あれはジョークだよ、はははは」 と言って逃げたのだった。  そんな。「天才を引き出そう。あなたの脳の 一部をシャットダウンしよう」というイギリスの New Scientistのカバーストーリーは、ジョーク だったと言うのか!   うーむ。なかなかに笑撃の展開で、 アランからあの一言を引き出せただけでも、 ワークショップをやった甲斐があったというものだ。  もともと、アランは、サヴァン症候群の 能力は「創造的」ではないことは認めていて、 別段自分の主張を変えた、というわけでは ないんだけど、   天才とは何か、ということをきちんと 考えようとすると、そこには難しいことが 沢山ある、ということだね。  子供のヘッタクソな絵と、サヴァンのナディアの ダ・ヴィンチのような絵。  どっちが人間の能力の現れか、きちんと考えようと すると、なかなか難しくて、  私はヘッタクソな絵を沢山ノートに描きながら、 みんなの議論を聞いていたのだった。  みなさんも、ヘッタクソな絵を描いてみて、 そこに現れているシンボル化の能力について 考えてみませんか。 2004.4.30. 左から、Allan Snyder、私、Philippe Rochat きたら、桜の鉢植えを買いにいこう。  それとも、桜というものは、 挿し木をすれば増えるのだろうかと、 花盗人は思案する。 2004.3.30.  突然ふっと、現代というものから少し 距離をおいたところの感覚、というのが 立ち上がった。  もちろん、現代に生きているんだから、 現代の限定も恩恵も受けなくっちゃいけないん だけど、  ちょっと距離を置いた方が、 本質が見えるんじゃないかな、 と思ったのだ。  脳で言えば、ミラーニューロンとか、 心の理論とか、  アウェアネスとか、 注意とか、  そんなものを視野に入れつつ、ちょっと はなれて  例えていえば目を細めて 対象を少しぼかして見た方が、 本質が見える、ということがあるんじゃ ないかな、と思った。    あまり細部まで見えてしまう、というのは いいことでもあり囚われることでもあるんじゃないか。  杉本博司さんの建物シリーズのように、 ちょっと対象をぼかした方が 本質が見えてくることがあるかもしれない。 http://www.postmedia.net/999/sugimoto.htm  桜の横をとおりすぎるとき、 私たちはそのぼわーっとした感じを心に 受け止めて、  あんがい手にとってじっくりは見ないものだけど、 ああやって、かえって桜の本質を見つめている のかもしれない。 2004.3.31.  だーっと仕事をしていたら、 携帯が鳴った。  出たら、筑摩書房の増田健史さんであった。  「なんだか忙しそうで。さまざまな気配から、 たいへんだなあ、ということが伝わってきて」 (私:はあはあ、ぜえぜえ、「わかりますか。」  「いやあ、例の、憲法の本が出たんで、 お渡し方々お昼でも、と思ったのですが」 (私:はあはあ、ぜえぜえ)「いいですねえ!」  「でも、お忙しいようでしたら、お送りしますけど」 (私:はあはあ、ぜえぜえ)「あっ、そうして いただいても結構です」  「では、がんばってください」 (私:はあはあ、ぜえぜえ)「ありがとうございました」  何だか知らないけど、ばーっと集中していて、 それで突然人と会話を始めると、はあはあぜえぜえ になるのは何故なのだろう?  昔、ドイツ語というものを勉強して いた時に、  Wenn ich Urlaub habe.... (私が休暇をとったなら) というセンテンスを練習させられたけど、  昨日ちらっと浮かんだ妄想は、 「私が引退したなら」 というセンテンスだった。  英米系の人と喋っていると、retireって よく言うジャン。それが夢みたいな。  これからやらなければならない仕事の山 (やらなければならない仕事だけじゃなくて、 やりたい仕事を含む) を思った時に、  はあはあぜえぜえああ、シンド、 と、その山々の向こうに、引退して日の当たる 縁側で好々爺をしている自分のイメージが 見えたのだった。  ああ、早くクオリアの問題を解いて、 とっとと引退したいよ。  そしたら、ハワイにでも住むか。  ああ、あの茂木っていうやつ、 何だか知らないけど、最近は引退して、 ハワイで波見ているらしいよ。  ぜんぜんサーフィングとかできない らしいけど、  かっこだけはサーファーっぽく 決めているらしいよ、  それで、夜は、ダンシング・ドルフィン というバーで  ソルティ・ドッグ飲んでいるらしいよ、 みたいな。  午後11時頃、もうダメだ、と思って、 小ぶりのグラスに日本酒を入れて、 漱石の「吾輩は猫である」を読み始めた。  天然居士の墓銘のあたりから、  水島寒月が首つりの力学を弁ずるところ あたりまで。  ゲラゲラゲラゲラ。  馬鹿だなあ、迷亭は。  日本酒のほどよい酩酊効果で、 自分が迷亭になったような  つかの間の無重力空間を楽しんだ。 2004.3.31.  文部"ば"科学省の 教科書検定だけど、  別に小学生は教科書だけ読んですごすわけじゃ ないからなあ。  っていうか、あんな薄っぺらい本を持ってきて、 一年間これだけで済ませてね、って言われてもなあ。  小学校の時、国語の教科書をもらってきて、 その日のうちに全部読んでしまうことを 常としていた人っておおいんじゃない?  昆虫は3種までしか載せちゃいけないとか、 全体主義国家真っ青の文部”ば”科学省の 検定も、  よゆうでにこにこ笑ってうっちゃりたいよね。  だって、世界は広いんだし、台形はあるし、 円周率だって、無限桁だし、  文部”ば”科学省の検定にいちいちメクジラ 立てること自体がなんか損な気がする。  かってに勉強しちゃえばいいんでしょ。  というか、日本の小学生に、まあ、学校の勉強は 学校の勉強で、勝手に自分で好きなことを勉強 しちまえばいいんだよ、というスピリットを 植え付ける方がよほど重要な教育問題だと思う。  あと、円周率も、3でも3.14でも何でも いいけど、本当は無限に続くんだ、ということを 教える方が、よほど重要だと思う。    というわけなので、文部”ば”科学省の お役人たちには、ぜひ、桜もたけなわの頃ですから、 まず桜肉を食べていただいて、そのあと鹿肉の ステーキなどを食べていただいて、  来し方行く末をふりかえり、 日本の教育の未来についてマジメに悩んで いただきたいと思います。  その間も、地球は回って、モンシロチョウは 紫外線でオスメスを見分けているわけですから。 2004.4.1.  「文藝春秋」の仕事で、宮本武蔵の 『五輪書』を読んで十数枚のエッセイを 書いた(次号に掲載予定)。  それがきっかけ、というわけではないんだけど、 なんだか武士道というものに興味を持って しまった。  以前から、日本の男が国際的なシーンで かっこよく見えるにはどうすればいいかと 考えていたんだけど、  確かに、「武士」というメタファーで 見ると、日本の男はかっこよく見えそうだ。  だから、というわけではないんだけど、 暫く前から、自宅のベランダで木刀を 振り始めた。  そのとき、仮想の相手がいて、 その相手が打ち込んできたりするところを 想像してみることにした。  武道の本質は、意図を持ち、どのような 行動に出てくるかわからない相手の「心の理論」 を読むところにある。  相手のいないスポーツジムのマシーン・ トレーニングほどつまらないものはない。  相手の意図、出方を必死に読むからこそ、 そこに、単なる身体の鍛錬にとどまらない、 精神の陶冶が実現する。  不思議なことに、架空の相手を想像して、 えぃ、やぁ、とぅーとやっていると、 次第に、その架空の敵の動きが見えるような 気がしてきた。   そればかりではない。  相手の振り下ろす木刀の動きや、 風を切る気配まで感じられるようになってきた。  人間の脳の想像力というのは、大したものである。  あれは数日前の朝だったか、いつものように 架空の敵を相手に木刀を振り回している時に、 びっくりすることが起こった。  相手が、上段の構えからえぃ、と木刀を 振り下ろしてきて、  それを、私が木刀を横にしてやあ、と受けた 時に、  かちん、と確かに木刀と木刀が 当たる音がしたような気がしたのである。  私はびっくりして、その場に立ち止まってしまった。  想像上の相手の動きがありありと見える というのはまだ良い。  相手の想像上の木刀と、私が振る現実の 木刀がぶつかった時に、音がする、というのは いったいどういうことか?  私の脳のミラーニューロンが、聴覚野に トップダウンのコントロールをして、 そこに幻聴を聞かせたのだろうか。    これは、ひょっとしたら、Nature論文の ネタになる、と科学的興味も沸いてきた。  ところが、あの、架空の木刀と、現実の 木刀がぶつかる音が、それ以来一度も 聞こえない。  わざわざ、相手の木刀の動きを、私が それを受けやすいように想像してやってみても、 かちん、という音が二度と聞こえない。  相手の振る木刀の軌道が大切なのだろうかと、 あの時の軌道がどんなものだったか、一生懸命 思い出してそれを再現し、その架空の木刀を 現実の木刀で受けても、  かちん、という音が聞こえない。    あれは、一回性の出来事だったのだろうか。  それにしても、不思議な音だった。手応えは、 全くなかったのである。音だけが、純粋に かちんとしたのである。   一般に、聴覚は、他の感覚のモダリティよりも 幻覚が生じやすいと言われているが、  それにしても、毎回生じる幻覚ではないのだろう。  いくらあの純粋な音をもう一度聞きたいと思っても、 どんな条件がそろわなけれならないのか、 叶いそうもない。  何よりも不思議なことは、木刀に、どうも あの時かちんと音がした時にできたと思われる 痕が、うっすらと残っていることである。  ひょっとしたら他の機会にできたものである 可能性は否定できないが、やはりあの時にできた もののような気もする。  こんなことを書くと、全てはお前の気のせいだと 言われそうなのだけども、やはりとても重要 なことのように思われるので、今日、 2004年4月1日に日記に記すのである。 2004.4.1.  4月1日とは特に本質的な関係のない、 マジメな話2件。  森ビルは、問題の本質がわかっていない。 三和シャッター側に責任を押しつけようとする、 その姿勢がますますブランドイメージを 傷つける。  内部の経緯など、六本木ヒルズに来る人にとって 知ったこっちゃない。   ああ、そうですか、三和シャッターと、 そんなやりとりがあったんですか、 と死んだ子供の親が納得すると思っているのか。  そういうことをごちゃごちゃ弁明する、 会社の体質自体がおかしい、と判断せざるを 得ない。  当分六本木ヒルズのボイコット続行。  草間ヤヨイが見れないが、仕方ない。  週刊文春の二審はまともな 判断が出た。  当然といえば当然だ。  裁判官をなぜ英語でjudgeというか ご存じか。  judgmentをする人だからだ。  人間の判断は、ルール・ベースでは 書ききれないというのは常識。  法律の条文を当てはめる認知プロセスは、 人工知能では書ききれない。  judgmentをするのもされるのも人間だ ということ。  だから、どういうjudgmentが出たとしても、 私は、それを、成文法というきちんとした ルールと、いいかげんな人間の間の関係だとは 思わない。  人間と人間の関係だと見なす。  だから、あのトンデモない 一審のjudgeは、いったいどんな やつなんだ、と個人の資質を問題にすることが 間違っているとは思わない。  こんなことを書いている場合じゃなくて 仕事をしなンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン劔ンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン劔ンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン劔ンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン劔ンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン劔ンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン劔ンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン