茂木健一郎 クオリア日記 http://www.qualiadiary.com 2004.5.1.  ワークショップの最終日の朝、 みんなで感想を言い合った。  私が、最初に、「創造性への道ーへたくそな 絵か、それともサヴァンの絵か?」 と描いたパワーポイントを見せたので、 アラン・シュナイダーが怒って、 いろいろベラベラ喋ったのが面白かった。  怒るといっても、その後一緒に 車でボローニャまで出てきて、  ご飯を食べたのだから、本当に怒ったのでは なくて、  議論をした、というだけのことなのだけど。  アランは、創造性とは、反逆のことである、 と言った。  それで、私も、ケンブリッジにいた時、 デイヴィッド・マッケイとか、統計的 アプローチをとる人たちの研究が死ぬほど つまらなくてどうなるかと思った という話をした。  そしたらアランは、統計的アプローチも 知っているだけは、 知らなければならないんだけどね、 と言った。  確かに、統計的アプローチも知らなければ ならない。  その上で、反逆しなければならない。    フィリップ・ロシャの娘がパルマの ミラーニューロンの研究室に留学していて、 竹内薫、正高信男、佐々木貴宏という メンツで食事をしたあと(「独立通り」の 「ダイアナ」という店だった) 父娘で食事をしているところにいって、 ちょっとハローと言った。  ロシャの娘にしきりに会いたがっていた アランは、すでに機上の人となっていた。  正高さんとじっくり文学の話を したのは初めてだったんだけど、   きちんと押さえるべきところは 押さえていることに非常に驚いた。  教養の幅の広さと深さが、 ナミタイテイではない。  これはちょっとすごいことなのでは ないか、と私は感動してしまった。  こういうヒトには、滅多に会う ものではない。  6月にテナガザルのフィールドワークで インドネシアに行くそうだ。  なんだか面白そうでいいなあ。  というわけで、ワークショップも 終わり、今(午前5時)から3時間後には、 空港に向かう。  その前に、いくつか仕事を 終わらせなければならない。  楽しかった。日本に帰ったら、 またいろいろ反逆しつつがんばって行きたいと 思う。 2004.5.2.  信じられないことに、夕飯を 食べたあと、日本到着あと2時間の時点まで、 7時間一度も意識を取り戻すことなく眠った。  こんなのは初めてである。  となりの竹内薫もあきれていたことだろう。  「疲れていたんじゃないか」 と言われたが、確かにそうかもしれない。  何しろ、ワークショップの主催者というのは 気をつかって、言いたいことも言えず、  なかなかつかれる。  一参加者だったら、ばーんとテーブルを ひっくりかえしたり、お前それ違うだろ〜 と言ったりできるんだけど・・・  前の席に横尾忠則さんが座っていた。  本物もやはり髪の毛|さんは、「人口100人以下の沖縄の 島を巡る」という信じられないような うらやましい企画を某機内誌でやられていて、 終了後、上野公園でいつものように 学生たちとビールを飲みながら、沖縄の話などを いろいろうかがった。  風にふかれて、とてもいい感じだった。  大竹さんの話で面白かったのは、沖縄では、 ユタなどの精高(サーダカ)な人たちの 言ったりやったりすることが、きちんと 活かされる社会的、文化的基盤があるという ことで、  同じ人たちが東京だとおそらく統合失調症 などと診断されて「治療」の対象に なってしまうんのが、 沖縄ではちゃんと位置が与えられる。  ある精神状態が「ノーマル」の スペクトラムに入るか、それとも隔離され、 治療されるべき「アブノーマル」になるか ということは確かに絶対的な真理ではなく、 その時々の社会、文化によって変わる はずのことだ。  人間にはいろいろなキャラクターがあり、 能力がある。  普通は社会を与件として、それに 個人が合わせると思いがちだけども、  逆に、ある変わった性質を持った人間が いた時に、  社会の側がアダプトしてその人を 活かすように考える。  そんなアプローチもあるのだな、と思った。  三島由紀夫の豊饒の海第一巻、「春の雪」 を読了。  なるほど、立派な小説である。文体といい、 テーマといい、構成といい、  そんじょそこらのたわけ小説とは レベルが違う。  清顕と聡子の愛の物語を堪能した。  しかし、同時に、三島という人の曰く言い難い 限界のようなものも感じた。  これは、かなり高レベルのところに 現れている限界で、天才的な小説家 だとは思うが、  三島を、私の聖者列伝の中に入れるには 何かが足りない、という感覚が否めなかった。    どこで読んだのか、もう忘れてしまったが、 三島の文学を、「額縁」であると評した人が いたと思う。  確かに言い得て妙であり、三島の小説は、 「肝心の絵がない」という空虚な感じをどうしても ぬぐいきれないところがある。  もっとも、額縁と言っても、これだけ立派で 豪華な額縁だったらよしとしなければ ならないのかもしれない。  まあ、人は人、自分は自分。精進、精進。 2004.5.29.  メメント・モリ(死を忘れるな) ということを、夕刻の街を歩きながらふと思った。  人間の致死率は100%である。 誰でも、絶対に死ぬ。  死というのは一回しか来ないものだから、 覚えていろ、と言われてもなかなかそのための 心構えは難しいが、死に似たことだったら 実は私たちの日常にいくらでもある。  夕刻、人と会って、さあこれからビールを 飲んで、ワインを飲んで・・・・  という時の独特の楽しさは、つまりは 全てはこれから始まるのであり、この 時間の終わりはまだ当分見えないという ことの中にある。  やがて楽しい語らいの時間も終わりが 近づく・・・となると、始まった時ら出張で、その前にいろいろやらなければ ならないことがあり、  私は例によって脱走。  最近、このように、宴の途中で脱走しなければ ならないことがあまりにも多くて 私は実は大変哀しい。  束芋さんと学生たちは、午後10時くらいまで いろいろ話していたそうである。  私の方は、乾杯前にすばやくビールを飲む技と、 宴の途中で大脱走する技だけがうまくなってきて しまった。 2004.6.25. 関係者のみなさまへ 本日より、7月5日(月)朝まで、 ヨーロッパへの出張で留守にいたします。 メールは基本的に読める予定です。 2004.6.25.  Public Relations  6月26日(土)9:15〜10:00 放送予定の「科学大好き土よう塾」(NHK教育) で、ロボットと脳の違いについて話します。 2004.6.26.  今回の出張には、ジェームズ・ジョイスの 「若い芸術家の肖像」の新潮文庫を持ってきた。 (丸谷才一訳)  なぜジョイスかというと、なんとなく そういう流れなのである。  ここのところ気になっている、ある言語体系を 持つことが、コミュニケーションを促進するようで いて、その言語体系以外の者へのコミュニケーション を閉ざしている問題と、ジョイスが なんとなく関わっているような気がするのである。  フランクフルトを経由して アムステルダムに来た。  昼間は雨が降っていたらしい。 晴れ上がった夕刻の空の雲の向こうから差してくる 光がきれいである。  空港で、まわりの人が何やらよく判らない 言葉を喋っていて、それがオランダ語らしい。  ドイツ語ならばわかるのだけども、 ドイツ語と遠い親戚であるにしても、基本的に 別の言葉である。  英語でもいいし、中国語でもいいけど、 その時々に支配的な言語との関係性で自分の母国語の ローカリティを考えているうちは、まだ悩みが 浅い。  とっとと、その支配的な言語を学んで その中で表現できるようにすればいいだけの ことだからである。    悩みが深くなるのは、世界に何千とある 言語の一つ一つの中に、日本語で言えば「木漏れ日」 に相当するような言葉の宝石があるのだろう、 そこに託された独特のニュアンスがあるのだろう、 と考え始めた時である。  オランダ語の中にも、ぐっと来てキレイで しっとりとしたいろいろなニュアンスがあるに 違いない。    世界の中に、うっすらと内側から光を 放つ様々なやわらかな殻がある。  そんなことを思うと、居ても立っても いられなくなってくる。  ああ、もうダメだな、と思う。  ヴィトゲンシュタインの「私的言語」の 議論の由来する必然性がわかる。  コミュニケーションの問題を突きつめていくと、 そこには何やらおそろしい真実が隠れている 気配がする。  神の視点を持ってしても、全てのコミュニケーショ ンを聞き分けることはできるのだろうか?  まあ、それはさておき、アムステルダムの 街は、高い建物もなく、人々がさざめき笑いながら 自転車に乗っていて、とても心優しく感じられた。 2004.6.27.  フェルメール経由で、アントワープへ。  アムステルダムからアントワープに 移動する途中で、ハーグに立ち寄り、  マウリッツハイス美術館で フェルメールの  『デルフトの眺望』 と  『真珠の耳飾りの少女』 を見た。  レンブラントとかもあったけど、とにかく 吹っ飛ばして、この二点を中心に見た。    意外だったのは、両者とも、タッチが 意外と粗い、ということである。  フェルメールのまわりにある「凡庸な」 (失礼!)絵たちと比較しても、  構成している筆のタッチはむしろ 粗い。    にもかかわらず、絵から受ける印象 自体は、フェルメールの方が精緻な写真を 感じさせる。  どうも、フェルメールは、心理的に 私たちの視覚的イメージを構成している 光の粒を素材として、その絵を描いていたのでは ないかと思われる。  『真珠の耳飾りの少女』の 表情が、愛に満ちているようでいて、 実はおびえているかのようにも見え、 そのエニグマについてずっと考えていた。  学会があるのはアントワープ大学。 アントワープはダイアモンドの取引の 世界的中心である。    フランダースの犬に出てくるルーベンスの 祭壇画もある。  夕飯を食べに出かけたら、 大聖堂の回りの広場に、オレンジ色の服を着た 人たちがたくさん歩いている。  サッカーのヨーロッパ選手権、 オランダ対スェーデンの試合があるらしい。  オレンジはオランダの色で、アントワープは オランダに近い。    バーでワインを飲んでいたら、 前にいたおっちゃんが、  オランダのチャンスでも騒ぐし、スェーデンの チャンスでも騒ぐ。    試合は結局PKでオランダが勝ったが、 おっちゃんがどっちを応援しているのか、 最後まで判らなかった。  ヨーロッパはいろいろな言葉が混じっていて、 顔を見ただけじゃ何語を喋るのかわからないのが 楽しい。  様々なコンテクストが入り交じる環境に置かれて こそ、  人々は普遍を真摯にもとめるようになる。  日本はいい意味でもわるい意味でも 未だ 単一言語のまどろみの中にいるように思われ。   2004.6.27 明日発売の「ヨミウリ・ウィークリー」 (2004年7月11日号)に 連載 茂木健一郎 「脳の中の人生」 第10回 「画家のアトリエ」の秘密 が掲載されています。 http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/ .  フェルメールの「画家のアトリエ」と 「真珠の耳飾りの少女」の秘密を、 視線の一致(アイコンタクト)の視点から 論じています。 2004.6.27.  アントワープ大学の学会会場。  本のセクションで、意識関係の本を 眺めていたら、  デイヴィド・チャーマーズがばたん! と来た。  「あれ、来てたんだ?」  「来てたとは知らなかったよ。」 とちょっと立ち話。  Journal of Consciousness Studiesを 発行しているKeith Sutherland とも立ち話。  「最近は雑誌の購読数はどうですか?」  「そうですね。あなたも知っているように、 一時期、意識に対する関心がわーっと盛り上がって、 ニューエージ・タイプの人たちなどが 入ってきたのですが、  結局、彼らは、論文の内容が難しくて、 さーっと潮が引くようにいなくなった。  今は、専門家たちが地道に議論する メディアとして、フラットな水準を 維持しています。」  Keithの言うように、最近は、 会議に来ても落ち着いた感じがある。  意識を巡る、基本的な概念セット (クオリア、visual awareness、 access consciousness, agency, neural correlate, philosophical zombie、 etc.)はすでに確立していて、  妙な誤解やミスコミュニケーションが ない形で議論ができるようになっている。  「意識の定義は何か?」 などというしばしば無知と無感覚の 鎧として使われる議論は  ムダだし、やらないようになった。  もっとも、意識のhard problemは 未だに解かれる気配はないわけで、  しかし、だからと言ってやることが ないわけではなくて、  やることは一杯あるわけで、 なんだかいい感じである。  ヨーロッパは、哲学的伝統が デカルト、カントに見られるように 科学主義との密接な連関をもって(科学主義と 同じような意味で、世界全体を引き受ける ことを志向して) 発達してきたわけで、  その点が、世界全体を引き受けることなく 気の利いたことを言うことが  哲学だと思っている日本とは 違う。  意識の科学とは、すなわち、今日において 世界のあり方を統合的に引き受けるための 試みなのであって、  一見ファッショナブルに流通している 日本の思想界の言説は、全て、  その点から見れば、世界観自体には 抵触しない部分問題に属するのである。  というようなことをアントワープで思う。 2004.6.28.  修士2年の田辺史子の エピソード記憶のエンコーディングと リトリーヴァルに関する発表も 無事終わる。  田辺さん、学会デビュー、立派に できて良かったですね。  パチパチパチ。  朝早くミュンヘンに向かうので、 ブリュッセルに移動。  グラン・プラスと、小便小僧だけ見て、 あとは仕事。    NHKブックスから出版した『脳内現象』 の売れ行きは好調らしい。  1000号記念で出た6冊の中で トップとのこと。  『心を生みだす脳のシステム』の時の 売れ行きを上回る、とのことである。  こういうことは、自分ではコントロールできない ことなので、あまり一喜一憂しないことに しているけど、  やはり素直にやった! と思う。  ヨーロッパに来るとウレシイのは、 The Independentという新聞が買えることである。 日本語圏だけにいると、  本当にあるやり方(グルーヴ)に偏ってしまうなあ、 と思う。  文化欄の一つ一つの記事が長い。  日本の新聞のように、ほめているのかほめている のか判らない、あいまいで情報量がすくない おざなりの記事とは違う。  そもそも、英字紙で、 一つ一つの記事に署名が付いているのは どういう意味かご存じか?  その重大な意味に気が付いて以来、日本の新聞は 巨大な共産主義のように思えて仕方がない。  日本の新聞の場合、記事を書いているのは 基本的に「自社の記者」である。  だから、名前を書く必要がない。  のっぺりとした「朝日新聞くん」、「読売 新聞くん」が書いている。  一方、こっちの新聞の場合、もちろん スタッフ・ライターもいるけど、 基本的に「誰でも」新聞に記事を送ることが できる。  もちろん、それなりのトレーニングと 信用構築を経て契約するわけだが、  新聞というメディアが、社外に開かれて いるわけである。  というか、この私だって、理論的には The Indepedentに記事を送って掲載される ことができるわけである。  日本の新聞の記事作りが開放市場経済ではなくて、 自社共産主義だと言ったのはそういう意味である。  署名記事をやっているのは毎日だけだが、 その毎日も、果たして社外ライターにどれくらい 記事を書かせているのかどうかは知らない。  こういう暗黙知に属することが、知らず知らずの うちにワレワレを支配し、メンタリティを 変えていく。まさにnon-holonomic constraintである。     2004.6.30.  メールは世界のどこにでも追いかけてくる。  五十嵐茂さんからのメールで、 柏書房「脳の中の小さな神々」 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4760125728/ref=amb_center-8_101389_2/249-4351767-3165903 の売れ行きがアマゾンで好調とのこと。  確かに、先ほどチェックしたら全体で7位に なっている。  アマゾンの売り上げと都心の書店の売り上げは 必ずしも一致しないのだそうだけども、  何はともあれ良かった。  移動日。ミュンヘンに移動。仕事を 済ませた後、  夕刻、National Theaterでの 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 のチケットをゲット。    今年のミュンヘン・オペラ・フェスティヴァル の開幕公演で、全席売り切れだったのだけども、 劇場前をうろうろして、オジサンから 何とか手に入れる。  いい人で、券面よりも安くしてくれた。  ミュンヘンでマイスタージンガーを聴く、 というのは何はともあれ至上の体験である。  ここ、National Theaterで初演されたのが 1868年。  ワグナーが55歳の時である。  天才という概念はロマン派が作ったそうだが、 散文的な現代が登場したと同時に  天才も消えたか。  天才が天才であり得た自体の、 まさに文化の世界遺産。  ミュンヘンの人たちにとって、この作品が いかに大切な存在か、一緒に聴いているとひしひしと 判る。  ウィーンのようにコズモポリタンの洗練が あるわけではない。  等身大の姿勢で、芸術を愛している人たちの 暖かな没入。  ここ、バイエルン国王のルートヴィッヒ2世の 庇護がなかったら、ワグナーはおそらく 野垂れ死んでいたのだろうから、  これは自分たちの作品だと思うのも当然か。  上演自体についてはあまりにも多くのことを 感じたので省略。   素晴らしかった。  演出家に対しては、猛烈なブーイングと ブラボーが拮抗。ブーブラボーの闘い。  ズビン・メータは、相変わらず、この長大な オペラを暗譜で振っていた。  開幕公演ということで、階段には赤絨毯が 敷かれ、VIPたちがテレビカメラの前で インタビューに答えていた。  しかし、マイスタージンガーを作るような 天才は、そういう陽の当たる場所にいるのではなく、  社会から排斥されそうな際から出てくる のである。  ロマン主義のような、その中から天才が輩出 するような世界観のメタファーを創ることが 必要か。  ITには天才はいない。いかに情報という メタファーのガラスの天井を打ち破るか。   クオリアがそれだというのは明白なのだが。