2001.7.2  「ただいま、右手前方に襟裳岬がごらんになれます。」 そのアナウンスが入るしばらく前から、海の中に三角に突きだした 土の塊を見ていた。  北の大地を見下ろしながら、何らかの理由で雲の上に漂い、 地上の世界を鳥瞰することはできながら、絶対に地上には 降りられない、そのような境遇の人が何を考えるか、そんな ことを考えた。  自分の知人たちが住む、なつかしい町並みが見えながら、けして そこには降りられない。そうなった時、人はどうなるか。  羽田を出た後、戸田のボート場が見えたような気がしたので、 そんな連想がわいたのかもしれない。  帯広郊外の芽室、農水省の横山さんの主催で複雑系の研究会を している。  1haの土地と家を月5万で借りているという「和尚庵」で、 ホワイトボードにプロジェクタで映し出して5人の人が「人工生命の 10大問題」についてプレゼンした。  蛾がOHPの上にとまり、拡大されて投射される。  ボードからはみ出した光がポニーのいる牧場の横の森に投影され、 光の道に立つと、自分の影が梢に達した。  虫除けのたいまつを炊き、議論しながら打ち上げ花火を 手に持って水平に火花を飛ばした。  1時頃川北温泉に帰ってきて、ソファで議論を続けている時、 ちょっとしたきっかけで激論になって、  複雑系固有のモラルハザードなどということを言い出してしまった。  だいたいわたしはどのコミュニティにいっても、しばらく立つと そのコミュニティの中心的メソッドに違和感を覚える。  自分が複雑系コミュニティに所属していると思ったことはないけど、 池上さんや郡司さんと話しはじめて3年くらい経つから、 そろそろ同して和せずということになってきたかもしれない。  ポイントは、オープンシステムにおけるunpredictablityは、 古典的なノイズで良いのであって、カオスとして問題を立てる 積極的な理由はどこにあるのかという点にあると思うが、 池上さんはアトラクターの階層構造に鍵があるという。  その点はあまり考え詰めていないので、温泉に入りながら考え ようと思う。    休憩時間に北の大地を走った。墓があって、マーガレットが 墓石の周りに咲き乱れていた。いきついた池にいたアメンボを じっと見つめていたら、おじいさんが出てきた。「和尚庵」 で久保田を飲んでいたら、「馬を見せてくれ」とおじいさんが来た。 これらのできごとはカオスと見ることもできるが、決定論的な オープンシステムと見ることもできる。それをどうするか。 2001.7.3.  どんどん灯が遠ざかっていった。  暗闇に身体が包み込まれ、  空間の中を移動しているというよりは、「今、ここ」から かって、世界のどこか」へ移動しているような気分になってきた。  昼間は、農水省の芽室試験場でワークショップをやり、 山菜料理の店で夕食をとった。  そして、再び横山さんの「和尚庵」にいって夜のセッションをやった。 プレゼンテーションも終わり、みんなで酒を飲んでいるところを そっと抜け出した。  池上さんがOHPでプレゼンしているところを窓の外から 見ていた時から、  以前に半年間箱庭をやった時に現れた「山の上で人々が楽しんでいる のを見ている猿」のモティーフが現れた。  あの時、私は下山さんに「この猿は、自分は人々の輪の中に入ろうとは 思わないけども、それを深い山の中から見つめていることには 喜びを感じている」と確かいったような気がする。  下山さんは今は東大の教育学部にいて、当時は学生相談所にいて、 「茂木君、半年箱庭をやってみないか」と声をかけてくださったのだ。  暗闇の中で、馬が近づいてくるのを見ていると、まるで腰から下 しかない巨人がむっくりと起きあがってくるように感じられる。  電灯の消えることのない都会では決して立ち上がらない志向的クオリア の群れが生まれ、  一体人間の体験というものは、文明が発展するとともに広がったのか、 それとも縮んだのかと考える。  部屋でキーボードをたたいていると、池上さんがノックして、 「おーい、茂木さんいたぞ。道の途中で倒れているんじゃないかと 思って、ゆっくり車を走らせてきたんだ」と言った。    道は、小麦畑やじゃがいも畑の中を2、3回曲がって、ホテルと 和尚庵の間を結んでいた。  あの道と暗闇の中で出会えたことが、今回の研究会の最大の収穫 だったのかもしれない。 2001.7.5.  朝7時過ぎの地下鉄に乗った。  京大の基礎物理学研究所に、研究会のプロポーザルの説明に行く 仕事。  私の近くに、制服の女子高生と、ピンクの私服の若い女がいた。  女子高生は、ぴらりぴらりと本をめくって眺めながら、私服と 喋っている。  私服「別れるというはっきりとしたきっかけがあればいいんだけど、 何となく続いちゃって。お互いに倦怠期だとわかってはいるんだけど。」  制服「そういうのあるよね。」  私服「メイルとか来ちゃたりして。他に好きな人ができれば別なん だけど。ホッシーって、仕事もしていないし、止めた方がいいよって ○○子は言うんだけど。」  制服「ほら、あの子は?」  私服「わからない。」  制服「ぶっちゃけた話、どっちが好きなの?」  私服「・・・ホッシー。」  制服「そう来ると思っていたよ・・・・」  制服が持っている本をよく見ると、国語の教科書だった。  ちょうど、中島敦の「山月記」のページになっている。  ホッシーと山月記の組み合わせに密かに感動しながら、地下鉄を 降り、新幹線へと向かう。    京都には、やがて来る祇園祭りの気配が満ちていた。  基礎物理学研究所には何回か来たことがあるが、ここにいる 人たちとゆっくり喋るのははじめてだった。  池上さん、郡司さん、谷さん、多賀さんと提案している「認知 科学の方法論」の研究会の説明をする。    考えてみると、純粋に物理系の人たちと喋るのは、本当に久しぶり のような気がする。  何だか自分がタイムトリップして昔に戻っているような、奇妙な 感慨を覚えた。  昨日の夜だったか、道で通り過ぎた男がライターの火を付けた 瞬間、炎がぱっと浮かび上がって、それがとても巨大な 物理現象のように思え、「ああ、人間のスケールとはこのような ものなのだ」という印象が残った。  「ホッシー」が住まう世界も、ライターと同じくらい巨大な スケールの世界。  2年前、ウィーンでVon Hagenのプラスティネーションされた 人間の肉体を見て、 その直後にウィーンフィルを聞いた時、ヴァイオリンを弾いている 人間が巨大な現象に思えた、あの体験以来、時折、人間のスケールが 巨岩、巨山のそれのように思われる。 2001.7.6.  芽室から帰ってきて、田森と品川の近くのカフェで研究の打ち合わせ をして、  上野の池之端にあるJSTに浅田さん、入来さん、多賀さんと 打ち合わせのために集まった今週の火曜日のこと、  少し気になることがあった。  会合が終わって、ハスを見を見ようと、不忍池側にわたって 歩き始めた時、池のほとりの鉄柵にふらふらとやってきた男が いた。  男は、片手を鉄柵に載せて、半身の格好で私の方を見た。  何となくいやな気がしたのだが、そのまま歩いて通り過ぎると、 男はふっと歩き始めて私の後ろからふらふらと来る。  偶然だとは思ったが、少し警戒して、背中の後側がちりちりと 熱くなった。  人通りもあるし、アベックもベンチに座っていて、危ないことは ないのだが、あまり気持ちのいいものではない。  私は、あまり変な人に絡まれることがない方である。どこにでかけて 行っても、 今まで危険な体験をしたことは一度もない。ただ、微妙な「ニアミス」 は時々あって、今回も「ニアミス」なのだろう、そう思った。  ハスの葉の生命力を感じながら、上野駅 側に抜けようとした。  歩いているうちに、何かがおかしいと思い始めた。不忍池は、本郷 キャンパスに近いこともあって、学生の時から何回も通っている。 夜遅くも、しばしばぶらぶらと散歩に来たが、どうも雰囲気が違う。 いわゆる「浮浪者」のような人がとても多く、皆どこか所在なさげ に歩いているのだ。  広小路を渡り、アメ横方面に抜けると、違和感がますます増した。 背広姿のサラリーマンの間を、ぞうきん色の服を着た男たちが 歩いている。その数が、とても多いように思われた。  それで、ははあと思った。  日本は10年の不況である。マイナス成長、デフレーションで大変 だと思うが、私の周囲には、好況にうかれているやつはいないものの、 それほど困っているやつもいない。しかし、そのような社会経済情勢は、 実は弱い立場にある人たちに多大な影響を与える。弱者にしわ寄せが 来ている。  景気の善し悪しの影響を肌で感じるのはこの人たちなのだな、 そう思った時、日本の社会という有機体の背骨が、ぎりぎりと 曲げ力を受け、微少なヒビが入り始めている、その音が聞こえた ような気がしてはっとした。  最近、ある種のconfortableな状況は、実は搾取の上に成り立っている、 それが隠蔽されているからcomfortableでいられるのだ、そのような モティーフが時々浮かんでは消えるのだが、上野の夜に見た光景は、 そのようなメタファーと微妙に共鳴して私の心の奥に入り込んでいった。 2001.7.7.  どうも芽室の複雑系の研究会では短い間にいろいろなことがあったので、  こうして思い出しながら書いている。  初日の夜、芽室駅前の「写楽」という飲み屋で歓談していた。  何かがきっかけとなって、中国の人権問題が話題になった。    私は、何日か前にHerald Tribuneに出ていた、 中国の農村に住む女の人がたどった運命のことを話した。 夫の死後、 女手一つで子供を育てていた。いろんな仕事をして何とか生計を 立てていたのだけど、そのうちに近くの鉱山で使う爆薬を製造、販売 し始めた。ある時、男がやってきて、大量の爆薬を 買っていった。大量と言っても、鉱山で使う量としては、特に多い というわけではなかった。  その男が、たまたま、アパートを爆破して100人以上の死者を 出したテロリストだった。そのニュースを聞いて、女性は村の近くの 畑に逃げ込んだ。そこで二晩過ごして、家に戻ってきたところを、 中国の公安に逮捕された。  一日か二日の裁判で死刑判決が降りて、すぐに処刑された。苦労して 子供を育てて来たその女性は、たまたま爆薬を売った相手が犯罪者だった、 それだけの理由で死刑になった。  Herald Tribuneのインタビューに対して、女性の子供は、「お母さんの ことはもう忘れたい」と答えた。  こんな話は、どんな刑法理論を持ってきても正当化できない、こんな ことをやっている政府は狂った政府だ、日本は、お前らのやり方は 間違っているとはっきり言うべきだ、私は大抵の話題については 柳に風だけども、こういう問題については非常に憤りを感じるので、 生ビールをぐいぐい飲みながら、そのように言った。  すると、秋から中国で農業を研究するHさんが、いや、そんなことよりも、 10億の人間がどうやって生きていくか、そのことの方が問題なんですよ、 飢餓で何百万人が死ぬかもしれないという時に、一人や二人が死刑に なったからといって、それは本質的ではないでしょうなどと言ったので 私はすっかりキレてしまった。  春や秋になると「犯罪撲滅キャンペーン」と称して、普段は逮捕さえ されない経済犯罪者を大量に逮捕して死刑にする、そんな国のやり方を 認めちゃだめだ。それは、10億人の人たちがどのようにして生きていくか が重要な問題であることは認める、しかし、その問題とこの問題は 別だろう。どんな合理的な理由で、たまたま爆薬を売った相手が 犯罪者だった、しかもそのことについて何の認識もなかった、 そんな女性を死刑に出来るというのか。極めて恣意的で、狂っている としかいいようがない、これを狂っていると言わないで、何を 狂っているというのか・・・・  後で、池上さんから、茂木さん珍しく怒っていたねと言われた。  現地に行かないと判らないこともある。8月の末には北京に学会 で行く予定なので、かの国がどのような国なのか、実感として とらえてきたいと思う。  もちろん、10億の隣人たちと仲良くしたいことは当たり前のことだが、 政府のやり方が明らかに間違っている時に、それに対する 違和感を伝えることも当たり前のことだろう。政治というのは 非常に面倒なことがあることは確かだが、譲れないプリンシプルという ものがあることも確かだ。    2001.7.8  貝の名前は、思ったのと違っていた。  4月下旬に買ってきて、ヤマトヌマエビやグッピー、コリドラス、 ネオンテトラを混泳させていた10リットル水槽には、2ヶ月の間に いろいろ面白いことが起こった。金魚藻を横に浮かせていたら、垂直に 根が降りてきた。グッピーが稚魚を生んで、パーティションの中で 育ち始めた。  そして、どこから来たのか、いつのまにか小型のタニシのような 貝が現れて増え始めた。  最初は2、3個だと思っていたら、いつの間にか数十はあるようにな っている。  ガラス面の苔を食べてくれるのはいいのだが、いくら何でも増えすぎ ではないか、そう思えてきた。  水草やガラスの裏側に、寒天質で包まれた卵がぽこぽこと産み付けられ ている。  水槽がタニシで一杯になる光景が浮かんで、「水槽 タニシ 天敵」で 検索した。  タニシだと思っていたのは、実はサカマキ貝だということが判った。 右巻きがモノアラ貝で、左巻きがサカマキ(逆巻)貝。  どうやら、南米産の淡水フグが天敵らしい。  「ぱくぱくと見ていて気持ちがいいくらい食べる」と書いてある。  2週間ほど前に、フィルターを買いに行ったとき、熱帯魚店の 水槽に浮かんでいた2センチほどのフグの姿が浮かんだ。  いろいろ調べて見ると、このフグ、なかなか凶暴らしい。  一日入れておいただけで、グッピーの尾ひれがぼろぼろになったと も書いてある。  また、目が弱いコリドラスはやられやすいとも書いてある。  一方では、水草が生え、魚が群泳する複雑度の高い水槽では、 「気が散って」大丈夫だとも書いてある。  混泳が確立した水槽に導入した場合には大丈夫なことが多いとも 書いてある。  自分の水槽の様子を思い浮かべ、  しばし思案した結果、買いにいくことにした。  3000円。ビニル袋に入った姿をよく見ると、確かに鋭い口を している。かみつくのは貝だけにしてくれよと思いながら、 ビニル袋の中身を水面にゆっくりと押し出した。  頼りないトコロテンのような感触がする。   ひとまず落ち着いたと思うと、奇妙な行動を 始めた。ガラス面に顔を向けたまま、口をこすりつけるように 上下してガラスの向こうに行くかのように泳いでいる。延々 とそうしている。10分くらい 見て、2時間後、5時間後に来てみると、全く同じ行動をしている。 そちらの方に蛍光灯があるので、フグは走光性だったか、それに しても行動パターンが単純すぎる、頭がおかしくなったのかしらんと 少し心配になった。夕方になり、蛍光灯を消すと今度は外光の差す 窓側のガラスに顔をこすり付けるように泳ぎ始めたので、ますます 偏執狂の走光性ではないかと思い始めた。  夕食前、薄暗くなった部屋にそっと言って見ると、光に向かって 走ることはひとまず止めたのか、水草の間をゆらりゆらりと 漂っていた。今のところ、他の魚にちょっかいを出してはいないよう である。もっとも、サカマキ貝を食べた形跡もない。  明日の朝、窓からの光の中で、フグはどんな表情を見せてくれるのだろう。  2001.7.9  先日ヨーロッパに出張した時、飛行機の中で「Vier Gewinnt」 (横7縦6のマトリックスに自分の色のチップを互い違いに落として いって、最初に4つ並んだ方が勝ち)をやって以来、この手の パズルに対する興味が再燃してしまった。  何日か前、インターネットからMacSokobanをダウンロードして、 週末、断続的に17stageまで解いた。  ゲームボーイにある倉庫番は単純であまり面白くないけども、 もともとUnix用にあった50stageを移植したこのversionは、かなり 面白い。特にstage 13を超える当たりから、なかなか手応えが あって、複数の工夫を同時にしなくては解けないところが とてもしびれる。  解があることが(バグがない限り)保証されているパズルを 解くのは精神衛生上良い。  クオリアのパズルは、解があるかどうか判らない。  宇宙にはバグがあるかもしれない。  それでも、解くのを止めることはできない。 2001.7.10.  地下鉄の中、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」 を読み始めて、あれ、これはまるで安部公房ではないかと驚いていると、 前の席に座っているカップルが目に入った。  女はキャミソールを着て、銀色のペンダントをしている。男は紫の ちりちりとしてシャツを着て、席に垂直方向よりも女に向かって30度 くらい傾いて座っている。  女は、男の顔と30センチくらいのところに自分の顔を向けて、 「何よ、それ。チョーむかつくう。」 「チョーむかつくう。」 「チョーむかつくう。」 「チョーむかつくう。」 と5秒おきくらいに言っている。  しばらく村上公房を読んで、顔を上げると、男が薄紫色のあぶら取り紙 を持ち、鼻のあたりをぱたぱたしている。  男の顔の30センチくらい前には、小さな鏡がある。  キャミソールの女が、支えているのだ。  男があぶら取り紙を使い終わると、今度は女が鏡を使って、自分の 髪型をチェックし始めた。  栗色に染まったポニーテイル。  新宿駅に着くと、満腹で和んだミーアキャットくらいゆっくりと 男が先になって降りていった。  「世界の終わりと・・・」は、現実と夢の世界が交互に出てくるけれ ども、私にとっても小説と現実の世界が交互に出てきて、その運動が 心地よかった。 2001.7.10.  新幹線とグローバリズム  小倉に母の実家があった関係で、子供の頃から新幹線には良く乗った。 山陽新幹線が開通する前は、大阪からは寝台で行ったのだろうが、 良く覚えていない。  あの頃、車窓の風景を見るのがとても楽しみで、東京駅を出て、 これくらい経つと富士山が見えて、やがて裾野の製紙工場群が 見えてくる、そんな時間の流れの感覚がはっきりと内在化されて いたように思う。  乳脂肪分が8%のアイスクリームは高級で、車内でそれを 買ってもらうのが楽しみだった。確か、当時でも250円くらいしたように 思う。大阪までの風景の連続体の中で、アイスクリームが一つのアクセント をつくっていた。  年に10回近く京阪神に行くが、今は車窓から外を熱心に見るというこ とがほとんどなくなってしまった。特に、静岡から名古屋までのあたりが、 曖昧なイメージの中に模糊としていて、一体どんな町並みがあるのか、 どんな人たちが住んでいるのか、どんな自然があるのか、イメージが つかめない。駅を降り、丹念に歩けばきっとそこには心をとらえて 離さない空間の設いがあるのだろうと思うが、私との間に 時速300キロメートルのスピードが立ちはだかって、触れることが できない。  いわゆる「グローバリズム」の功罪のうち、罪の本質は、 私にとってはここにあるように思う。  新幹線には子供の時から乗っているのだから、私の心が 変質してしまったのか。  ITのFast Laneで人生を行き急いでいるうちに、いつの間にか 生活の中の小さな、しかしそれに人生を託することもできる魅力的な ものたちが枯れていく。  大阪や京都に日帰りできるようになったのは「功」の方だが、 プロセスのある側面がすっかり枯れてしまった。私の人生の中で、 旅のスタイルがどのように変わってきたかを振り返ると、 流通性のオブセッションに駆られる世界が恐ろしいもののように 感じられないでもない。 2001.7.12  最終ののぞみで大阪に着いた。  電車の中で、明日からの授業の準備をしようと思ったが、気が付いた 時には名古屋で、それからうとうとしていたら京都を通り過ぎていた。  照明が消えかけ、人通りもまばらになった新大阪駅はなぜか見知らぬ 場所のようで、御堂筋線への道筋も心許なく、人の所在で発生する 空間知覚は、必ずあるな、そう思った。  その12時間前は、東工大のすずかけ台キャンパスで大学院の 口頭試問をしていた。終わった後、研究室のゼミを速攻ですませて、 それで東京駅で中華を食べてのぞみに乗った。  御堂筋線への自動改札を通り過ぎたとき、ふと、stream of consciousness (意識の流れ)という手法は、平安時代にもあり得たろうなと思った。 いつ、人々が、自分の意識の中に現れては消える表象たちにメタな言葉を 与えたのか、案外、平安時代にもそれはあったのではないか。  枕草子などを読んでいると、疑いの余地はないように思う。  ただ、あの頃は、絶対的な条件として、文字を書く紙が貴重だという ことがあった。それで、表現をそぎ落としていったのではないか、 現代の饒舌は、テクストを記すメディアの無尽蔵によって条件付けられて いるのではないか、そんなことを思う。    千里中央行きも最終だった。暗いターミナルの中、何度も行っている はずの阪急ホテルの方向を見失った。電話して、ダイエーと阪急の 間の道を歩いた。前を若者が3人歩いていて、後ろから単車のにいちゃんが 3人追い抜いていった。チェクインして、コーラを買った。メイルを チェックして、何本か送った。エアコンディショナーのスイッチを 入れた。イチローをやっていないかと、リモコンを押した。  そんな私の意識の流れも、あと30分もすればとぎれているだろう。  夜のホテルの部屋に、エアコンとPowerbookのファンの音だけが 響いていて、その中に私の指がキーボードをタイプする音が混ざり込んで 行く。 2001.7.13  あの時、私は、7歳だった。  日本中が、高度成長の熱気にあふれていた。  大阪万博に、私は結局行かなかった。  京阪神に良く来るようになってから、  阪大の山田丘キャンパスから千里中央に戻るモノレールから、 時々万博記念公園の「太陽の塔」を見ていた。  あそこに男が立てこもったのかと思った。  昨日、工学部での授業が早めに終わったので、ぎりぎり間に合うかなと、  途中下車してみた。  空に黒い雲が広がり、風が吹いて、今にも来そうだったが、 高速道路の上の橋を渡り、ゲートをくぐった。  縄文というか、23世紀というか、何と言ったらいいか 判らないオブジェクトが次第に大きくなっていく。  何年か前、新聞にこんなエピソードが紹介されていた。  あるパーティーでスピーチを頼まれて、  「このグラスの中身を飲み干したら死んでしまうと思え。乾杯」  と言ったそうである。  それで、私は岡本太郎という男がとても好きになった。  太陽の塔の顔は、金色のディスクになっている。  原初の無垢な光のようなそこに焦点があって、その下に、何とも 巨大なコンクリートの塊がなまめかしく立ち上がっている。  金色のディスクを70度くらいに見上げた時、はっと思った。  あの質感は、伊勢神宮の内宮の屋根の上の「黄金のポッキー」の 質感と似ている!  背中に回ると、暗い太陽の絵がそこにある。  それもとても気に入って、デジカメで何枚も写真をとった。  背中側の斜面を下って、ステージのようなところに出た。  木が何本か並んでいて、そこから続く草の斜面に、  蝶トンボが舞っていた。  黒い羽を蝶のようにひらひらさせて飛ぶので、蝶トンボという。  私がこの昆虫を見るのは、これが正確に3回目である。  1回目は、小学校の時、育った埼玉の神社で、鎮守の森の上を 舞っているのを見た時。  2回目は、大学院を出た直後、学会の帰りに滋賀のある町を訪ねた時、 小山の頂上に舞っているのを見たとき。  そして3回目が太陽の塔の裏。  なぜか、このトンボが出現する時は、私の人生の中でも特に印象的な ことと重なっている。  神社の森の脇にあった沼は、地下水が下がって次第に干上がっていった。 最初に蝶トンボに出会ったのは、私が少年時代を 幸せに過ごした、故郷の自然の最後の輝きの時期だった。  2度目に出会ったのは、自分の足元にある小山の土塊の実在感、その、 地球との連続の実在感を鮮明に直覚した時だった。あの時、クオリアの 問題にはまだ気が付いていなかった。  そして、今回。  次第に、自分も周りの人間もいろいろ忙しくなってしまって、 気が付かないうちに何かが固まっていく。  そんな時、  「このグラスの中身を飲み干したら死んでしまうと思え。乾杯」 の男が創ったオブジェを見た。  伊勢神宮の黄金のポッキーと太陽の塔の黄金のディスクは私に 何かを象徴していて、それを忘れずにいたいと思う。 2001.7.14  授業を終えて、浅田研究室に寄り、吉川さん、荻野さん、それに 郡司研の本城さんと一緒に車で出かけた。  「静かな、テーブル間隔の広い所」と言ったら、 神戸屋レストランに連れて行かれた。  パンが売りだということだったが、スパイシーカレーを頼んでしまった ので、私と荻野さんにはつかなかった。  阪急の山田駅まで送ってもらい、そこから2回くらい乗り換えて 六甲駅に着いた。  神戸大までの坂は、下ったことは何回かあるけれども、登るのは 初めてである。  郡司さんは、いつものようにアロハシャツを来ていた。イタリアの ラベルだった。  OBの堀井さんが来ていて、日立の研究所で作ったアニメーション・ システムのビデオを見せている間、私は汗でぬれたTシャツを昨日買った 「太陽の塔」Tシャツに着替えた。  typeとtokenの話(物理はtypeは扱うけど、tokenは扱えない)、 Qualiaと内観を区別する話、集合論の話をする。  郡司さんは調子が悪いと池上さんから聞いていたが、とても元気で、 何かを見渡せている気がする、これとこれとこれを結ぶ方向が見えている 気がするとしきりに言って、何回も立ち上がって煙草を吸いに行った。  私は本当に考え始めると失語症になる。  茂木さん、眠らないでくださいと何回か言われたが、 酒を飲んでぼんやりと グラスを見つめている時と同じで、脳は最高に覚醒している。  「でも、結局、郡司さんの話は直観主義論理学のようなことに封じ 込められてしまうのではないのか?」  「数学的にきちんと定式化しようと思ったらそうでしょうね。でも、 そういう道筋から逃れようということ。」  「郡司さんのモデルを語っているメタ言語の立場はどうなるのか?」  「しかし、そのことを気にすると、何もできないという立場に陥って しまう。」  「じゃあ、その中間を行こうというのか。」  「そうだ。」  「そもそも、個物とか全体とかについて、あるいは集合の内包とか 外延という概念について、本当に新しい視点を導入しようとしたら、 シニフィアンとシニフィエの関係について、それを見る側の脳の中で 全く違うプロセスが立ち上がらなくてはならないのではないか。」  「それはそうだ。」  「そもそも、内包というのは、言語の志向性の特殊例に過ぎないだろう。」  「志向性一般については、どうすることもできない。」  「これは、変わった集合論とか、変わった数論に行くかもしれないけど、 その上に例えば微分、積分を構築したらどうなるのか?」  「それはまだ判らない。」  「このような議論から、tokenとしての<私>の存在が導かれるとは 思わないんだけど。」  「いや、とりあえず、こうすることで、様々なくだらない話と違う話が 立ち上がると思う。  生きると死ぬとの間を峻別するような議論はつまらない。生きると いうことは、死ぬことを失敗し続けるということだ・・・」  郡司研の人たちと、坂を下りて、電車に乗って、三宮に出た。  しばらく歩いて、「100年プレミアムレストラン」とかいう、 教会を改装したような、とても照明の暗い店の3Fに入った。  こんなに暗いのは、ダブリンのパブ以来だ。  「いやあ、茂木さん、いきますか。」  ビールを一杯飲むと、突然郡司さんのゲバルトが立ち上がった。  それからはいつものようになったが、池上さんが言っていたことと符合 するように、時折苦悩の表情を見せる。  「いやあ、オレは生きすぎたと思う。ぎりぎりのところに来ていますよ。」  「決めた。大学はやめる。お前ら、修士とったら後は面倒みないからな。」  「オレはそんなに長生きはしないんじゃないかなあ。」  やるかな、と思ったら、やはりそうなって、  郡司は、二軒目の店でパンツ一つになって、たまたま 遭遇した神戸大の教授に抱きついてキスをした。  それで皆は帰って、二人で水族館をモティーフにしたバーに行った。  二人ともかなり酔っぱらっていた。  「いやあ、友人と言えるのは茂木さんだけですよ。オレが死んだら、 後は頼みますよ・・・」  郡司さんはそのうちこっくりと眠り始め、しばらくして突然がばっと ポケットから5千円札を出して立ち上がった。  サンルートスプラ神戸に歩いて行く間に、羽尻に電話して、郡司に 死ぬなと言えと言った。コンビニに寄って、「ガキデカ」のコミックを 2冊買った。  「これあげるから、死なないで読めよ。」  「ガキデカ、好きですよ。中学校の時、初めて読んだコミックがガキデカ だったなあ。」  朝、目覚めると、羽尻からの着信があった。郡司の自宅に電話して、 東京に拉致してこいという。  ガキデカがあるから大丈夫だとは思ったが、一応電話した。  娘さんが出たので、困って、「郡司幸夫さんお願いします」と言って しまった。  娘となごんでいたよと羽尻に電話して、タクシーで新神戸に向かった。  6号車の停車位置のあたりからホームの下をのぞくと、清流があって、 魚が泳いでいるのが見えた。  六甲の山の緑の上を、ロープウェーが登っていく。  新幹線の駅のこんなに近くに自然がある、というのではなく、 自然の中に駅が出来たのだろう。  今、この瞬間を包んで永遠に保存しておきたい、  そう思って景色に意識を同化させているうちに列車が来た。 2001.7.15  ソファでうとうとしていて、気がつくとテレビ画面で 「ワンピース」というアニメをやっていた。  しばらく前に、新聞か何かで「今流行っている」と書いてあったのを 読んだ気がしたので、そのまま見ていた。  悪人が、手からろうそくをひゅるひゅる出して、ヒーローたちを ウェディング・ケーキに載せている。  巨人が倒れて目玉がぎょろぎょろしている。  なるほど、これはかなり奇妙なアニメだなと思ったが、 本質的なところで好きになれなかった。  perverseなもの(何と訳すのか、ねじ曲がった、倒錯したとでも いうのか)に、私はあまり共感ができない。何かポジティヴなものに 駆り立てられるのではなくて、小さなねじ曲がったものを拡大して ドラマにするという手法は、それに引きつけられる人も含めて、好きに なれない。ここは恐らく私の存在のmission statementの核心で、 小学校の頃から、perverseなものに引かれる人とは、ソリが 合わなかったように思う。  車を運転しながら 中で久しぶりに小林秀雄の「現代思想について」のテープを聞いた。 こちらは世界の核心問題を相変わらずずばりと衝いていて、ストレートで、 熱い。思わず、「がんばるかあ」とつぶやいて、はっとした。  何をがんばるのか? クオリア問題の解決へ向けての努力以外に ないだろう。  郡司と会って来たばかりということもあるのかもしれないが、 あまりperverseなものにつき合う気持ちにならない。  小林秀雄の後に漱石の「坊ちゃん」の朗読テープを聞いて、 やはり村上春樹は漱石に比べると遙かに甘いと思う。  今朝、朝日にイギリスで村上春樹が評価され始めているという記事。 私が村上を読み始めたのも、ロンドンで大プロモーションを見て びっくりしたからだ。    しかし、彼の作品には、あまりにも甘いところがある。  特に女性関係の描かれ方の安易さは致命的だ。  その脇の甘さは、彼の気楽なエッセイによく現れている。  夏目の「ガラス戸の中」との質感の差はあまりにも大きい。  それでも、村上春樹は、perversityそのものの村上龍に比べれば、 遙かに良質のものを持っている。 2001.7.17.  一週間前に水槽の中に入れた淡水フグの効果は、てきめんに現れた。  ある朝、のぞいてみると、底にごろごろ貝殻が落ちている。  さかまき貝は、フグの攻撃にあって、急速に個体数が減少したらしい。  貝殻がそのように落ちてみると、彼らが果たしていたかもしれない 役割がしのばれてくる。  水槽の中に、エサを投入し続けた場合、いったい、物質循環として、 それらの栄養分は最終的にどこに行くのか(特に炭水化物以外の成分) とおもっていたのだが、貝殻の中に窒素やリンなどの成分が固定化されて、 もはや生物的な活性がない状態に陥っていくのだとしたら、いわばエサが 石に変わるプロセスとして、バランスがとれるはずだ。  そうでないと、水槽の中がどんどん富栄養化してしまう。  それでも、フグの攻撃を逃れている場所がある。  例えば、ウィローモスの生えた流木の上の、深さ1センチくらいの 浅瀬。グッピーはここを楽しそうに泳いでいくが、 フグはどうやら苦手らしく、このエリアに いるサカマキ貝は、いかにもうまそうな ぷりぷりと良く太った成熟した個体まで 生き残っている。 その近くに、寒天につつまれたサカマキ貝の卵も見いだされる。  稚貝の姿もある。この、ウィローモスの上の30平方センチメートル ほどの空間がサカマキ貝たちの「サンクチュアリ」になっていて、無事に 世代交代が行われているようだ。    もっとも、稚貝たちは、フグの目に入らないのか、 至るところでうまく立ち回っている。金魚藻の葉の上を這っていたり、 水面に逆さまに張り付いていたり、ガラスの裏をゆっくりと移動していた りする。この貝たちも、ある程度太ったら、うまくニッチェに隠れない 限り、フグに食べられてしまうだろう。    うまく生態バランスがとれて、サカマキ貝が異常繁殖せず、ちゃんと ガラスの裏の苔を食べてくれればいいのだが、10リットル水槽の中 でさえ、そこに絡む因子と方程式は複雑だということが5分も観察して いればわかる。  本当は、フグを入れた後の個体数の変化をグラフにしたら 面白いのだろうが、10リットル水槽でさえ、すでに水中ジャングルの 状態なので、どこに何が隠れているのか、有機的に機能しているシステム をばらばらにしないことには、カウンティングはままならない。  空間の中で、世界のルールが判らぬまま動き回り、たまたま出会った 相手との相互作用によって、そのlife historyが変容してしまう。  水槽の中 の生き物を見ていると、そこから立ち上がったメタファーが自分自身に 跳ね返ってくる。水槽を維持することの魅力の一つはここにある。 2001.7.19. 博士論文の中間審査のため、すずかけ台にいった。 入り口のところで、ビラを渡された。 歩きながらちらりと見ると、「家庭教師募集」。 院生が一生懸命作ったプレゼンテーションを見ていると、 この世界にある根本的な非対称の構造に考えが及ぶ。 一つは一回性と繰返しの出会い。 プレゼンをする側にとっては1回だが、聞く側にとっては 繰返し。 もう一つは、注ぎ込む努力の非対称。 聞く側ももちろん一生懸命聞くが、 論文を準備すぐ側の努力にくらべると、もちろん大したことはない。 もっとも、聞く側も、別の局面で、非対称の暴力にさらされている。 時々、缶やビンのことが気になる。 ビックルが好きなので良く飲む。 飲み終わると、ビンをゴミ箱に捨てる。 リサイクル率が何%なのか知らないが、 ビンを作り上げるのに注ぎ込んだエネルギーと、 それを無意識に扱う私の非対称の構造が気になる。 マルクス的な意味での搾取がどうのこうのと言う人は あまりいなくなったようだが、 どうも、搾取の構造というのは、この世界の成り立ち方、 すなわち、どんなにエネルギーを注いだ作品でも、 結局はモノとして流通し、流通しはじめた瞬間に 強烈な「平準化」の圧力にさらされる、 そこにbuilt-inされているように思う。 この例に限らず、「悪」や「病理」と言われることの多くは、 少し考えてみると 実はこの世界のあり方の根本様式自体に関わっていることがわかる。 精神の平衡を崩す人の何%かは、この世界の根本的な成り立ちの 矛盾に悩んだ人たちなのかなと思う。 仏陀も危なかったのだろう。 午後は、駒場で佐々木正人さんの授業を「茂木研」の学生と 一緒に聞いて、 その後駒場の駅を越えたところにあるカフェで議論する。 途中から池上さんが来て、「認知言語学会」のシンポジウムの企画を 話していたのだと言う。 映画の話を少しした。 2001.7.20.  朝のご飯は、卵をかけて食べて、  コーヒーを飲んでリラックスしている時に、  ふと新聞紙が目に入って、  目に近づけて、紙を見てみた。  普段は、新聞紙を、情報を載せるメディアとしてしか見ていない。  しかし、「モノ」としてマジマジと見てみると、  繊維のパターンが宇宙全体の多様性のように思えてきて、  そして気がつくとサイドと上下で切断面が違っている。  瀬戸内寂聴が笑っているが、  その顔は黒い点の集まりで出来ていて、  その黒い点は繊維の積み重なりの上に乗っかっている。    スケールの暴力ということを時々考える。  エノラ・ゲイの乗員にとっては、ボタン一つの動作が、  広島上空に広がるキノコ雲になる。  人間の身体もまた、モノとして世界の中で流通する。  そのどうしょうもなさの一つの現れとして、スケールの 暴力がある。  繊維の積み重なりのパターンの詳細がとても大切な、そんな 視点があるとすれば、  私が日々新聞を持ち歩き、活字を流し読みして、無造作に テーブルの上に投げる、それは、スケールの暴力そのものである。  因果性は、あらゆるスケールを差別せずに、パラレルに進めるが、 我々の認識は、ある特有のスケールの中で起こる現象である。  そんなことを考えながら、コーヒーを飲み、  水を黒い液体にした色素の拡散とブラウン運動を考える。  宇宙のごく一部の中にも、当然のことながら、全体と同じくらいの 多様性がある。  そんなことを思うとき、夏目の則天去私は自然の原理になる。 2001.7.21  早く出発するつもりだったのだが、9時過ぎになってしまった。  よく判っていなくて、関越をいけば良いと思っていたのだが、 中央だった。  何となく好きな高速道路と苦手な高速道路があって、どちらかと いうと中央より関越の方が好きだ。家からのアクセスが楽だという こともあるのだけども、中央の方が渋滞が激しいというイメージも ある。  しかし、この日は、中央も関越も同じことだった。ラジオから流れる、 中央50キロ、関越55キロとかいった数字にうんざりしながら、 まずは小林秀雄の「信ずることと考えること」を聴き、次に円生の 「居残り佐平次」と「百川」を聴き、ポップミュージック全集や 尾崎豊を聴いた。    パーキングエリアも大混雑で、駐車場からあふれて路肩に列をなして 駐車して、ハザードランプをつけたまま人々がトイレに走っていった。 大型バスと普通車が並ぶその光景を見ているうちに、ああ、これは まるで災害か何かで人々が一斉に避難する、そんな非常時の光景 みたいだなと思った。  限られた資源を求めて、人々が殺到している。その時、車という 鉄の塊が、じゃまになり始める。  そのヴィジョンを得たことで、少しは渋滞のメリットも。  諏訪インターで降りて、ビーナスラインに入ると、次第に清澄な 雰囲気になっていく。  猥雑な鉄とプラスティックの塊に過ぎない文明の気配が次第に消えていく。  車山の麓にあるホテルに着いて、ドアを開けると、ひんやりとした 空気がすーっと皮膚を包んだ。  ホテルの前のカシワの木の梢を、恐らくムモンアカシジミ だと思うが、橙色のゼフィルスが舞っている。  足元の草むらに目を移した時、小さな草の垂直に立った穂に、 茶色いバッタが止まっているのが見えた。  なぜ逃げないのだろう、不思議に思った。  触るのが憚られる。手を近づけると、ぱっと逃げる、あの生気に満ちた 感じがなく、それが何か異様な気がして、穂の下を指で握ってそっと 近づけ、その様子を見た。  バッタは死んでいた。穂を、まるでそれが片時も離れることのできない 自分の分身であるかのように、ありったけの力で抱きしめているかのように、 足を穂にしっかりとからみつけたまま、頭を上にして、ちょうど穂の 垂直と並んだ垂直のオブジェになって、バッタは死んでいた。  腹がない。穂に止まっているところを、鳥に腹だけ食べられて そのまま死んでしまったのか。    ところが、周囲の草を見ると、また同じ格好のバッタが見つかった。 こちらは腹がある。しかし、ぶらぶらとしていて、今にも落ちそうだ。  穂を引き寄せたきっかけで腹がぽとりと落ちて、さっき見つけた バッタと全く同じ格好になった。  穂にしっかりとしがみついて、そのまま死んでいる。  このバッタたちは、死に場所を穂に求めているのか?  こうやって、穂にしっかりと捕まったまま、死んでいくのか?  それとも、草にこうやってしがみついて休んでいたとき、たまたま 死が訪れたのか?  すでに乾燥がはじまり、穂と一体化し始めたその姿は、自然の営みの 片隅にひっそりと現れた、異様なスタイルとして私の心に刻み込まれた。 2001.7.22.  車山高原には、10年くらい前に、ツツジが咲く頃に来たことがある。 車山の裏の、蝶々深山にかけてのスロープがとても印象的で、 それ以来、「原罪から解放された無垢な自然」のイメージとして ずっと大切にしてきた。  朝9時にホテルを出て、車山肩に行ってみると、駐車場から車が あふれており、無垢な自然に出会うどころか、人の波、波、波。 駐車は、不可能。コロボックル・ヒュッテからぶらぶら 歩いていくというプランは中止。  かろうじて停めたドライブインの駐車場から登る遊歩道は、 途中で黄色いロープで行き止まりで、行きも帰りも怒りのせいかとても 凡庸に見える腹立たしい人たちの顔、顔、顔。  新宿駅前を歩いているようで、  なんだかすっかりイヤになってしまった。  ホテルの人の信じられない天然ボケぶり(誰も八島湿原に行くから そこで待ち合わせるように伝えてくださいなどと言っていないぞ) にも振り回されて、久しぶりに、精神のバランスを崩しそうになった。  旅に出た時、自分のイメージ通りに事が運ばず、小さなトラブルが 積み重なって行くと、次第にバランスが崩れてくる。当たり散らすという よりは、自分の精神の内部が腐食してきて、ぱっくりとザクロ色に 腫れ上がったような状態になる。  鹿児島から屋久島に行こうとして「トッピー」が満席だった時も そうだったし(大体、予約しなくては乗れない船なんて!)、 オックスフォードでレンタカーを金属の杭にぶつけてバンパーを 大破した時もそうだった(駐車場のあんな見にくいところに金属の 杭を立てるな!)。  せっかく、自然の無垢さに再会しようと思った旅行で、人間の (自分を含めた)愚かさ加減に出会ってうんざりして、精神の クリスタルが曇りかけた正午前、どうなることかと思ったが、 幸いうまく方向転換できて(いつも、 ちょっとした工夫が大切なのだ!)、人で溢れる車山 方面を避けて、下り下り、渓流にたどり着き、ミドリシジミが 乱舞するのを見て、次第に精神の透明感を取り戻していった。 「トッピー」の時は種子島に方向転換して、ウミガメが卵を 産む美しい海岸に出会ったし、浜辺でたき火が出来たし、 オックスフォードの時も、Three Oaksという印象的なパブに 出会うことができた。そう、小さな工夫、小さな方向転換 が大切なのだ。  もう空いただろう、もう一度言ってみようと車山のロープウェー に行ってみると、人々の列はすっかり短くなっていた。5分も 待たずに車山の頂上に向かい、頂上から、蝶々深山の方角を 眺めた時、10年前の記憶がさっとよみがえってきて、その 瞬間、全ての濁りは消えていった。  頂上から、岩だらけの急勾配を下って行くと、そこに、ニッコウキスゲ が咲き乱れる初夏の高原が現れ、私の四方を包み、光の粒子としか 表現しようがないものが、私の皮膚の外と内を優しくマッサージ しはじめた。  午後4時過ぎとは思えないほど力強い陽光の下で、私が蝶々深山 に向かって歩き出すと、風やヒバリや虫たちの気配が歩行とともに 移動する夜空の月のようにいつまでも私の周りを包み続ける。  蝶々深山のあの優美な姿が目の前に。 その頂上にはたった0.8kmしかないの だけども、蝶々深山の麓の高原の広がりは、永遠を空間化 したかのような荘厳な雰囲気に満ちている。  その緩やかな勾配を、私は確信に満ちて歩いていった。  蝶々深山の頂上から見た高原の風景は、言葉で表現したく ないほど素晴らしかった。  10分くらいの短い時間だったけども、私は満ち足りて そこに座り込んでいた。  そして、唐突に、世間とつき合うのなんてくそ食らえ、これからは エッセンシャルな問題だけを考えて生きるぞと思った。  白樺湖の方に向かって降りて行く途中、今はホテルや 商業施設が建ち並ぶあの湖も、昔は蝶々深山の周りのように 清澄な雰囲気の聖地だったのだろう、そう思うと、子供の 時に、自分が昆虫採集をした森がブルドーザーで次々と 破壊されていった時に 感じた以来の人間、文明というものに対する強い呪詛の 念がこみ上げてきて、恐らくこの感情は午前中の人混みに よって用意されたのだろう、そう思った。  人間なんて消えてしまっても、自然は全く困らないぞ。  私にとって、自己否定の形式は結局ここにしかないかな、 しかし、矛盾している、まあいいや と思いながら、ホテルのベランダでビールを飲みつつ 車山の姿を眺めた。 2001.7.24.  東工大のM1の学生が3人来て、「特別実験」をした。  まず、私と、田谷くん、光藤くんがintroductionのlectureをして、 その後両眼視野闘争と注視点検出の実験を経験してもらった。  終了後、「あさり」のいつもの畳部屋で飲む。  となりに座った仁村くんの足を見ると、昔のヨーロッパの木靴 のような変な形の靴下を履いている。  白地に、色の線が入っていて、くるぶしの下までしかない。  「なんだ、この靴下は?!」 と聞くと、仁村くんと来た佐久間君が 「僕も同じ靴下履いていますよ。」 と言う。  こんな奇妙なの、生まれて初めて見たと言ったら、仁村君が、  「ユニクロで3足1セットで売っていますよ。安いから、みんな 履いていますよ。」 と言う。  帰って来てHPで調べて見ると、ユニセックスで、ジャズライン ショートソックスというのだそうだ。 http://www.uniqlo.com/L4/getitem.asp?hdnItemMngCD=u20005  「おれはもうダメだ、世の中の動きについていっていない。終わりだ。」 と言ったら、学生が笑った。  駅から歩いて帰る途中、携帯がポケットの中でぶるぶる震えた。 とると、郡司さんだ。  「いやあ、今、塩谷さんが来ているんですよ。こっから5分くらいの バーで飲んでいる。この前行った、水族館バーの隣のバー。茂木さん、 日記にオレが死ぬとか何とか書いたでしょう。東大の学生が、院受ける とか言って連絡してきて、頼むから、修士を出るまでは死なないでくれと かなんとか言うから、何でそんなこと言うんだって聞いたら、茂木さんの 日記読んだって。いやあ、もうダメですよ。夜は30分おきに 起きちゃうし。 あっ、もう金がないや。それじゃあ。」  とそれなりに元気な声で言った。  なんだか、靴を脱いで両手にもってふらふらと歩いていきたい 気分になった。 2001.7.25.  はっと気がつくと、もう高度が下がりはじめていた。  前のシートの背に、「おやすみでしたので・・・」 のシールが貼ってある。  東工大の学生の特別実験二日目を終えて、羽田発の博多行き最終 に乗った。離陸の記憶はすでになく、泥のように眠った。  飛行機の中で読もうと思っていた「アリはなぜ、ちゃんと働くのか?」 は座席のポケットに突っ込まれたままだった。  地下鉄で2駅で博多駅に着き、今日の宿泊先「北九州プリンスホテル」 があるはずの黒崎駅を路線図で探す。  うわー、随分あるなあ、時間がかかるだろうなあと思いながら、 うまく入らない千円札を販売機に押し込んだ。  もう、10時30分を回っている。  幸い、黒崎に停まる特急があって、Powerbookのキーボード をたたいているうちに滑るように着いた。  荷物をまとめ、プラットフォームに降りた瞬間、赤い提灯が 目に入った。  「黒崎祇園山笠」と書かれている。  フォームを包む闇や、行き交う人々の表情を見ているうちに、懐かしさの 感情がわき上がってきた。それが清涼剤のようになって、私はほっと ため息をついた。  母は小倉出身で、私は子供の頃から良く北九州の親戚の 家に来ていた。小一の夏休み、 1ヶ月ほど一人で滞在していたこともあった。ご飯に冷たい麦茶を かけて食べるのに驚いたり、アイスクリームを「クリーム」と言うのが 奇妙に思えたり。  そんなことを思い出しながら改札を出ると、何だか町並みが随分 やさしく見える。  私の中の熱い部分は、案外九州男児の熱さとつながっているのかも しれないなと思いながら、初めて見る町並みを歩いた。 2001.7.26.  安川電機の創業者の旧宅が、今、「西日本工業倶楽部」になっている。  そこで、北九州市が主催しているBridge The Gapという会議が 開かれていて、  池上さんに誘われて来た。  重要文化財に指定されている敷地。  クマゼミが音のカーテンを作っていて、 枝に止まっているその様子を密かに見上げると、激しく腹が上下して 震えている。  前文部大臣の有馬さんが来て、開口一番、  「私は、論文を百数十編、総引用数は一万数千、そのくらいの科学者 です。」 と自己紹介した。  そして、「科学と文化をつなぐ ことなど容易にできるはずがない。出来ると言う人を、私は信用しない。 大抵偽物だ。」と言った。  会場から起こるとまどいに満ちた笑い。  文化とは俳句のことか。  有馬さんの演説が終わって、次のスピーカーに行こうとした時、 谷さんが立ち上がった。  「次に行く前に、ぜひ質問しておきたい。あなたは、文化と科学を 結ぶことはできないと言った。結ぼうとしている人はfakeだといったが、 Francisco Varelaのように、非常に真剣に、gapをつなごうとしていた 人もいる。彼は、fakeではないでしょう。」  谷さんは、「彼はfakeではないでしょう。」と3回くらい繰り返して、 有馬さんは、  「しかし、慎重に正しいかどうか見なければならない。」と言って次の 話題に移った。  後で、池上さんと一緒に谷さんは偉かったと肩をたたいた。  夕方、池上さんと二人でセッションをした。  Yogiのtrainingがどうのこうのとか、Spiritualityの問題がどうのこうの とか、ちょっと制御できない感じになった。  夕食の時には、escapeしたくなったが、かろうじて踏みとどまって、 Luc Steels、Marleen、池上さん、もう一人アメリカから来た数理生物学の おばさんと一緒に寿司屋に行った。その後もescapeしたくなったが、 池上さんに誘われて、CCAという美術学校のアトリエに行った。ここは 案外楽しくて、午前1時くらいまで学生と飲んだ。  Escapeしたくなったのは、金をかけて外国人を呼んで、その講義を 拝聴するというスタイルに我慢がならないということもあったのだが、 九州というセッティングが少しsentimentalな回路に私を引き込んでいった のかもしれない。朝のsessionで頭に来て立ち上がっていろいろ言ったの が日本人の最初の発言。その後も、私と池上さんと谷さんしか発言しない。 一般参加者は相変わらずだまって同時通訳のイヤフォンで聞いている だけ。  こんなことでいいのかよ〜と唸りながら八幡の暗闇を歩いていった。 2001.7.28.  Bridge the Gapの最終日、Marina Abramovicの  Performanceが素晴らしかった。  会議のメンバーのプロファイルをあまり真面目に読んでいなかった ので、何だか知らないが、情熱的なラテン系のおばさんという印象 しかなかった。  それが、セッションで見せたPerformanceがとてつもなく素晴らしかった。  話しながら流して見せた彼女の歴代の作品。  裸体のMarinaが、裸体の男とドア枠の内側に向かい合って立ち、その 間を人々が次々と通り抜けていく。観客の男たちは、かならずMarinaの 方に身体を微妙に傾けながらすり抜けていく。  ナポリの美術館に、Marinaが横たわっている。横のテーブルの 上には、様々な道具が置いてある。ブラシ、ペンキ、ハサミ、針、 ピストル、ピストルの弾、ナイフ、斧。観客が何をしても、全責任は Marinaがとる、そう宣言している。マリアの、あるいは娼婦のイメージを 重ねて、人々がMarinaに服を着せ、服を脱がせ、顔に字を書き、 横たわらせ、立たせる。  衝立を前にして、Marinaと男が全裸で走ってきて、衝突する。 衝突が繰り返され、その度に異なる反発が起こり、異なる崩壊が 起こる。男と女の肉体が、非弾性衝突をする。  黒い服を着てたたずむMarinaが、むき出しになった下腹部にダビデ の星を書いていく。細いラインが描かれたと思ったが、そのうちに そのラインが太くなっていくので、おやっと思う。その太くなった 線が崩れ、ペンで線を描いていたと思っていたのは、実は刃物で 皮膚の表面を傷つけていたのだということがわかる・・・  これらのPerformanceが、完成度の高い映像で記録される。  学生を3人呼んでくれと言う。  energy fieldを作るといいながら、学生に目隠しをし、 目の上にマグネットで細長い円錐を付ける。  そして、自らは3人の学生の中央の  椅子に座り、長い黒髪をほどいて、リズミックに左右に 激しくブラッシングしながら、 大きな声で朗々と語る。 Art is beautiful. Artist must be beautiful. Science is beautiful. Scientists must be beautiful. Mathematics is beautiful. Mathematicians must be beautiful..... その短いperformanceが終わると、期せずして割れるような 拍手が起こった。    質疑応答になり、Marinaは、彼女の作品の政治性を否定する。 彼女の父親は将軍であり、母は劇場の支配人であり、そのことが、 彼女に、政治的なもの全てに対するアレルギー体質を持たせたと。  しかし、彼女は、部屋を他のパネリストがしなかった形で 支配していた。それは、全て政治的だとも言えた。  私は、キアロスタミの映画のある特徴と彼女のperformanceの 関係について聞いた。  休憩時間に若い学生に聞いたら、Marina Abramovicは 身体を使ったArtにおいてカリスマ的、神様のような人だと言っていた。  そんな人と、私は何も知らずにバスの中で気楽に  Are you attached?  Yes, for the last four years. It is nice to have somebody for the peace of your mind. といった会話を交わしていたのだった。  そういえば、池上さんとのセッションの時に私に対して しつこくspiritualityについて聞いていたのがMarinaだった。    数学者のChaitinは、セッション終了後、Marinaの所にいって、 昔の騎士のように、両手をとってキスの雨を降らせていた。   Bridge the Gapはいろいろあったのだけども、Marinaのperformanceを 見られただけでも、良かったと思う。  ネガティヴなノイズは、ポジティヴな光によって意味を失う という良い例である。 2001.7.29.  海浜幕張の駅前を歩いていたら、ポケットが震えた。  池上さんだった。  しばらく、その場に立って、Marinaのperformanceの話をした。 池上さんは、駒場での細胞生物学の会議のため、一日早く帰らなければ ならなかったのだ。  「それは残念だったな。会議のハイライトだったかもしれないね。 Shapiroの話がくだらなかったから、お前の話は秋葉原で売っているデジタル カメラと同じだと言ったら、激怒していたよ・・・」  「そろそろ行かなくては。会議があるから。」  海外職業訓練協力センターで開かれた、ソニー教育財団の中央研修会 で話した。  ソニー教育賞の受賞校(小中学校)の先生が全国から80名くらい 来ていて、その前で脳の話をした。  学校の先生といろいろ話すのは非常に久しぶりで、なぜだか判らないが、 ナフタレンのにおいをかいでいる気がした。  帰りは、財団の専務理事の渡辺さんの車に同乗させていただいて、 渡辺さんの27年間の海外生活のことや(いやあ、ぼくのソニー生活の 3分の2は海外でしたよ。今、子供たち二人はイギリスで暮らしています)、 Sense of Wonderが大切だと言う出井さんはやはり得難い人だという 話をした。  渋谷で渡辺さんが降りて、運転手さんに練馬の自宅まで運んで いただく間、池上さんとBridge the Gapのpartyで「暴れた」時の ことを思い出していた。  きっかけは、学生を会場に連れていって、 partyに入れてもらえなかった(ここはseniorな人だけが入れるところ ということで) ことだったのだけども、池上さんは赤鬼のようになって怒るし (学生でも誰でも差別しない、それだけが大切なことだ)、 私は私で「外国人を呼んで意見を拝聴する、北九州でこの会議を やる意味はどこにあるのか?)などと主催の中村さんや三宅さんに 文句を言った。結局、腹を割って話し合って、理解がより 深まって良かったということになったのだけども、後で 池上さんと「またやってしまった」と反省してしまった。  去年の新井での  養老シンポジウムで、テレビで見る人たちの入った「鳥かご」 に郡司さんと乱入して「お前らの言っていることはくだらない」 と発言して大工道具の名前が付いた作曲家の娘に「生意気だ」 と言われた時もそうだけども、どうも私は不自然で理不尽な 権威構造に対して強く反発するようだ。  もっと大人にならなくてはと思いつつ、怒りを爆発させることには 不思議な浄化作用があって、またそのような状況があれば 爆発するかもしれないな、と思う。    いつの間にか眠っていて、自宅の近くで目が覚めたら、 私の座席のガラスの上が、風がほんの少し通るだけ 開けられていた。  プロの気配りというのはスゴイものだと感じ入る。 2001.7.30.  中国自動車道の犯人は、捕まえたら 全員去勢してしまえと思う。  私が一番嫌いな人間は、卑劣な人間である。 弱い者を寄ってたかって殴る、そんなやつらは本当に 徹底的にやっつけて立ち直れないようにしてしまえばいいと思う。  とはいうものの、冷静になって考えてみると、私は死刑に反対だし、 残虐な刑罰にも反対である。  しかし、揺れ動くことは揺れ動く。  死刑制度にどんな態度をとるにせよ、揺れ動くことは大切だと思う。 揺れ動くということは、見解が変わる可能性があるということであり、 それが生きていることの本質である。  腹が立つ様々な事件について考えていた時、 ふと、理性的に考えれば死刑には反対せざるを得ないけれども、 それでも死刑制度を支持する人がいる背景には、どうやら微妙な問題が 絡んでいるようだ、そんな直感が働いた。  つまり、心の奥底で、この世界のあり方について、「諦め」があるか どうかという問題である。  死刑に反対する人の心の奥底には、どこかで、この世界の不完全さに 対する諦念があるように思う。少なくとも私はそうである。たとえ、自分に とって大切な人の命が卑劣な野郎に奪われたとしても、そのような事件 自体を、世界の根本的な不完全さ(キリスト教的に言えば、原罪に より楽園を追われた人間の不完全さ)の現れとして、諦めてしまう、 そのような態度があると思う。  それに対して、死刑を通してのジャスティスを求める人の心の底には、 愛する人を奪った世界の不完全さを受け入れられない、こんなはずでは なかった、なんということだ、どうにかしてほしい、こんなことではいけ ない、そのような、ある意味では徹底した態度があるように思う。  本当は、卑劣な犯罪を犯したやつは、その場で神の下した稲妻に 打たれて死んでしまえば良い。しかし、どうやら世の中はそのようには なっていないらしい。そのような世界の不完全さに対して、どのような 態度をとるか、実はこのことが、様々な局面での分水嶺になっている ように思う。  私が「笑い」に興味を持っているのも、世界の不完全さに対してどのような 態度をとるかということに大いに関連している。  「笑い」は、世界の不完全さに対する人間の精一杯の抵抗であるように 思う。 2001.7.31.  「チーズはどこに行った」と「バターはどこに消えた」が たまたまテーブルの上にあったので、パラパラと30分くらいで 両方読んでしまった。  「バター」は、ニセの外国人が書いたという設定の「チーズ」 のパロディーで、ここまで構成やストーリーが似ていると、 確信犯だとしか思えない。  それはそうとして、「チーズ」である。  正直言って、ここまで平板で、スカスカの内容だとは思わなかった。 ひどいだろうと思っていたが、ここまでひどいとは思わなかった。  現代の(日本)社会を覆っている、この知的脱力感は何なのだろう。 何も、全員がField Theoryやフーコーを読めとは言わない。 しかし、こんなスカスカの本(ヒネリも何もないし、こんなの読んで その通りだと思う人はかなりオメデタイ)をベストセラーだとか 言って褒め囃すのはどういうことか。  知性に対するrespect を、全員が持てと言うつもりはない。  しかし、だらだらと時速2キロで歩くその肉体を、もし緊張感を 持って鍛えればあなたは時速100キロで走れるかもしれない、 さらには飛べるかもしれないと何故思わないのか。  時速2キロでダラダラ歩いている人たちが、お互いに顔を見合わせて にやにや笑っている、「チーズ」はそんな本だ。  見上げれば、知性の限りを尽くして大空を飛んでいる人たちも いるのに、そんなことを思いつきもしない。  今のコイズミ現象も、ある種の反知性主義だと私は思っている。 「痛みを伴う改革」などと言っているが、一体何を言っているのか、 こんな未定義用語で「痛み」に耐えられるかどうかなどと真剣に 議論しているのは、まさに「チーズ」並みの話である。  もっと具体的に、特殊法人への助成を何割減らすとか、そういう 技術的な話をしないで、時速2キロで歩いている人たちが自分たちの 曇った目と摩耗した神経でダラダラと気分の話をしている。  いろんなところで話をしていて、一番頭に来るのが、「お話が 難しくて良く判らなかったですけど・・・」と言われることである。 判らないのは当たり前だろう。私だって、自分の専門外のことを話された ら、全て判るわけではない。しかし、このように言う人の多くは、 コズルイ顔をしている。「お前の話は難しい」というのを、一種の 押しつけとして私に投げかけている。一種のファッショである。どうも、 この国には、反知性主義を、「お話が難しい」という一見ナイーヴな スタンスをとりつつ押しつける、悪しき伝統があるように思う。  私は、今、かなり頭に来ている。このままでは、日本は、皆が 「チーズ」のようなクズ本を読みながら、時速2キロでだらだら 歩いて沈んでいってしまうだろう。  前にも書いたかもしれないが、Lottery is a taxation on ignorance. (宝くじは、無知への課税である)という洒落た言い方を読んだこと がある。アメリカ人がお気楽に書いたクズ本を訳して、それを皆が 買い、お気楽著者に高いcommission を払うのも、まさにtaxation on ignoranceだ。  と朝からぷりぷり怒っていたら、少し涼しく感じるように思う。 暑いとき怒ると涼しくなるのかな? 2001.8.1.  CSLで、Luc Steelsと来ているjournalistのMarleen Wynantsと1時間 くらい喋る。  MDの電池がなくなったので中断したが、その時喋ったことが一番 面白かったように思う。  いったんInterviewを終えて、Einsteinの脳について知っていることを しゃべり始めたら、Marleenが、また取り始めてもいいかと聞いた。  MarleenとLucは明日フランスに帰るが、彼らも参加した 先週の北九州のBridge the Gapの会議で、こんな議論があった。  科学と軍事の結びつきについて議論していたら、Chaitinが突然 立ち上がって烈火のごとく怒り出して、私はそのような見解には 全く反対する。科学は、軍事との結びつきを主な駆動力として進んできた のではない。科学は、一人一人の、とても情熱的で理想主義的な人間に よって進められてきたのだ・・・・・  Chaitinが顔を真っ赤にしてそれだけのことを言って座ると、後ろの 方から、「反対に反対する!」という声があがった。私は、どちらかと 言うとChaitinの言うことに賛成だったので、「反対の反対」に反対 しようと口を開きかけたが、誰かが別の、もっと面白いことを言い出したので そっちを聞き始めた。  「科学が軍事に協力してきたというのならば、芸術が軍事に 協力してきた側面の方がはるかに大きいのではないか、ナチスの例を見ても そうだろう!」    「パール・ハーバー」のような映画を芸術と言っていいかどうかには かなりの疑問が残るとして、とにかく、この手の映画が軍事(ミリタリー) にとって都合のいいものであることは事実である。「娯楽作品」という イノセントな装いの背後に、戦争の美化という隠れたモティーフがある。 私は、何も、観念的なことを言っているのではない。非常に具体的に、 この手の映画は、実際に戦争に巻き込まれた人たちのリアリティ、実感 を伝えていないだろう、その脱落のことを問題にしているのである。  自分がこれからかなりの確率で死ぬかもしれない、 そんな戦いに臨む時に、人間の精神や肉体がどんな状態になるか、 少し想像してみれば、「パール・ハーバー」にはそんなリアリティの かけらもないことはすぐにわかるだろう。予告編で、黒人兵が突っ込んで くる零戦に機銃掃射を浴びせる。映画の撮影だから、自分が死ぬことは ない、気楽なものだ。しかし、実際の戦争は、人が死ぬ。自分の 肉体が砕け散る。「パール・ハーバー」のような映画は、そのような 戦争のリアリティを隠蔽することによって、結果として人々に戦争 についての幻想を抱かせる。戦争というのは、ディズニーの娯楽映画 のようなものなのではないかと思わせる。そういう人たちが、戦争を 実際にやってみて、ひどい目に会う。    ハリウッドがジャンク映画をいくら作っても、それは表現の自由だが、 「パール・ハーバー」のような題材を娯楽作品にする態度は、この上なく 品性下劣だと思う。暇つぶしやデートのネタに見に行く人たちは、 軽い共犯者である。日本では、もう200万人みたそうだ。これも、 「無知への課税」(taxation on ignorance)か。 2001.8.2.  朝、涼しそうなのでジョギングをしていると、道端の草の上で ヤマトシジミが交尾をしている。  お互いに頭を反対方向に向けて、尾の方で接合している。    通り過ぎて10メートルくらい走った時、ああいう状態で驚かせると、 パタパタと飛ぶんだよなと、そのイメージが浮かんだところで ふと疑問に思った。  お互いに逆方向に飛ぶベクトルが発生する中、どうやってうまく接合 しながら飛ぶのだろうか?  トンボの場合、オスかメスかのどちらかが尾をくるりと曲げて、 「非対称」なペアが出来ていたような記憶がある。蝶の場合、対称な 接合パターンをとりながら、どのように飛ぶのだろうか?  接合したとたんに、飛行を特徴づけるパラメータが劇的に変化するわけ で、そのような場合にうまく切り替わるように、蝶の中枢神経系は 出来ているのだろうか?  久しぶりに理研にいった。大河内ホールでGerald Edelmanの話を 聞いた。終了後、理研の外人ばかり質問しているので、例によって 「こんなことではイカン、なんで日本人はこんなにおとなしいんだ、 これじゃあ、まるで植民地状態ではないか」と手を挙げた。  なんだか、私がいた頃に比べて、理研の人たちはよく言えば紳士的、 悪く言えば野性味のない人が増えてきているような気がする。  山口陽子さんの研究室に行って、北林と喋っていたら、山口さん本人 が来て、一緒にいった田谷くんや東工大のM1も交えて激論になった。 というよりも、激論は主に私と北林の間で行われた。  北林は郡司研出身で、実験のパラメータ設定にも、実験者の主観性が 入るのであり、それが重要だと言う。  私は、それはtrivialな問題ではないかと言った。むしろ、そのような 主観性を消す方向に来たのが科学だろうと。  例えば、カメが坂を上る時に、70%の確率で穴に落ちる。この 70%を設定するのが、人間の主観性だというのだが、私には、むしろ それは客観的なパラメータの問題に過ぎないように思えた。  郡司研ー北林ラインの思考にnontrivialな方向性があるとすれば、 私はそれは言語の問題を置いてないだろうと言ったのだが、北林は なかなか納得しなかった。  「茂木さんは、砂の中に、金の粒が入っているとまだ信じている。 私は、金の粒はないか、あるいは、あったとしても見つけることが できない、あるいは、見つけたと思ったら、それは単にそのような 色の照明が当たっていただけだった、そんなことに過ぎないのではな いか。」  私は、北林のような諦念の観点には当分行きそうもないが、 もしそういうことがあったとすれば、それは、言語の問題を突き詰めて 考えた時だと思う。言語の問題を、感覚的クオリアや志向的クオリアに 現象論的に分解して、その物理的過程との絡み合いを見るというのが 私の今の戦略である。主観性の問題を、安易に実験の問題に 持ち込むべきではないと思う。  6時過ぎから、理研の喫茶室でビールを飲んだ。今は昔。「フリー 物理学者」として最近よくメディアに出ている井口さんと、田森と、 3人で良くこの喫茶室でランチを食べていた頃のことを思い出した。 軽い酔いの中、家まで歩いて帰る。途中、農家が矩形に並んでいて、 とても懐かしい感じがするところを通った。暗くてよく判らなかったが、 大泉一丁目と書いてあったような気がする。 2001.8.3.  帰宅客もピークを超えた車内。  右隣の、白いシャツにネクタイ、きちんと髪を油で固めて銀縁の眼鏡を かけた細面の男、おそらく三十代半ばか。  その人が読んでいる雑誌がちらちらと気になってしかたがない。 1ページ全面に、ずらっと、「コンプレッサー」の機種写真が載っている。 型番名と、その機能の説明。  熱帯魚を飼っていることもあって、ははあ、これは、熱帯魚の水槽の コンプレッサーのカタログなのかな、と思った。  ところが、次のページに行くと、どうも様子がおかしい。なんだか、 小さなドラムが回転するとか、ノズルがどうとか、そんなことが書いてある。  私は、改めて男をちらちらと見た。  男がさらにページをめくると、そこには、エアブラシ、塗装の準備 などと称して、窓際のカーテンの下になにやら紙を敷いて、壁に紙を 立てかける、そんな写真が載っていた。  それで、ああ、この人は工務店か何かにつとめていて、それで資格 か何かをとるので勉強しているのかな、そう思った。  その割には、男の出で立ちが何だかそぐわず、しかしその違和感に奇妙な 好感を持って、私は何となく視野の右側に注意を集めていた。  真相は、その後すぐにわかった。  男がぺらぺらとページをめくっていると、突然、ロボットの模型の 写真が現れた。ガンダムのようなロボットが、色鮮やかに塗られ、ポーズを とっている。腕などのパーツの拡大写真が、黒を背景に芸術作品の ように並べられている。  エアブラシ、塗装、ロボット・アーム。  何だか、男の白いシャツから有機溶剤の臭いがしてくるような気がして、 私は思わず足を組み直した。  男が少し身体をそらして、それで、「Hobby Japan」という雑誌名が 見えた。  ホームページに9月号の告知があった。 「すべて見せます。エアブラシ大百科2001」 とある。 http://www.hobbyj.co.jp/  3年ほど前だったか、北九州の「スペースワールド」で仮面ライダーの 等身大のフィギュアが間接照明の丸い台の上に置かれていて、 サブカルチャーの模型が突然プラトニックなオブジェに変容する瞬間 を体験したことがある。  プラスティックで作った彫像が、大理石のそれよりもむしろ形而上 的なものを感じさせる場合もある。  「Hobby Japan」と、ルーブル美術館のカタログは何が違うのか。 思いこみをいろいろ除去して初めて見えてくるものが ある。 2001.8.4  今日から、12日まで、SwedenのSkovdeで行われる会議、 Consciousness and its place in Natureに行く。  Consciousness関係の会議には良くいくけども、少なくとも 「問題が難しい」ということについて、認識を共有できる仲間たちと 会うのは素晴らしい。この問題に関してだけは、安易な解決法を 見つけた、見つけつつあると勘違いしている人たちとは あまり関わりたくない。  先日、家から駅まで歩いている途中、アインシュタインの 素晴らしい所は、「同時であるということはどういうことか?」 という、根本の問題について、私たちが暗黙のうちに前提にしている ことを問い直し、「同時性」を定義しなおすことによって、相対性 理論という、一見直感に反するような世界モデルを導いたところに あるということを改めて思った。「同時であるということはどういうこと か?」から出発して、E=mc2を導く過程には、何度考えても 感動を覚える。相対論に比べて、量子論の方は、「なぜだか判らないが、 世の中はそうなってしまっている」というように、ある法則性が 不条理なまま人間に押しつけられてしまっているところがある。 演算子が非可換になる(ab - ba が0にならない)ことが自然の 根本に関わるということは、ぞくぞくするほど素晴らしい。 しかし、「同時であるということはどういうこと か?」から出発した相対性理論に比べれば、やはり、自然哲学の問題 として不満足なところがある。恐らく、量子論については、私たちは まだその究極の姿を知らないのだろう。  意識の問題について、恐らく解けないだろうという人が多い。 私は、「同時であるということはどういうことか?」に相当する、 私たち人間が暗黙の内に前提にしてしまっていることを問い直す ことによって、意識における「E=mc2」に相当する何かが 見いだされる可能性があると信じている。  脳を含む客観的世界があること、その世界の物質過程の一部に、 意識がやどること、私たちの主観性があり、その中で様々なクオリアが 感じられること、私たちが言語で世界を記述していること、その 世界の記述自体が、脳の中の物質過程にsuperveneするものであること。 ・・・・私たちが世界を見る時に現れる、これらの認知セットの どこかに、「同時であるということはどういうことか?」に相当する、 問い直されるべき暗黙の前提が潜んでいるように思えてならない。 それが何かが判った時、おそらく意識における「E=mc2」 に相当する何かへの道筋が見えてくると思う。  実は、このようなエッセンシャルな問題を考える時には、会議に 出たり旅行をしたりといったことはあまり本質的ではない。 世の中には、それほど、本質的な問題を考えている人はいないからである。 このような問題を考える上では、実は孤立こそが重要である。 Skovdeの湖のほとりで一人でいるときが、今回の会議の真に重要な 時間である。 2001.8.5  Swedenに来た。  空港に降りる直前、大森林が見えた。  タクシーに乗った。  運転手が、  「トウキョウ、ヨコハマ、ナゴヤ・・・・・」 と言った。  降りる時になって、10年前に自分が日本に行った時の訪問地を 羅列していたのだと判った。  Stockholmは、10時くらいまで明るく、 check inしてtouch and goで旧市街の Gamla Stanに出かけた。8時ちょっと前だった。  First Hotel Amaratenは、Nobel賞の受賞晩餐会が行われる市庁舎 (Radhuset)の隣にあって、部屋の窓から、その優美な建物が見えた。    Stockholmに来るのは初めてだが、水の気配が強い。  東京も昔はこうだったんだと言うと、田森が、ああそうなんだ と言う。  Gamla Stanで一番細い路地と言われているTrozigsgraendを 「あああああ」と騒いでいるSweden人の後を追って抜けた後、 Sweden料理のZum Franziskanerに入った。    明日、会議が行われるSkoevdeに移動する。 できるだけ、essentialな時間を過ごしたいと思う。 2001.8.6  ホテルの隣にあると思っていた「市庁舎」は偽物だった。 たまたま手元にあったガイドブック(青い紙で、海外に行くと、これを 持って歩いている人をしばしば見かける、「地球の・・・」とかいう やつ)に、「市庁舎」(Radhuset)と書いてあったので、それで だまされてしまったのだ。どうみても、入り口はないし、写真は 違うし、おかしいなと思っていたら、田森が、「市庁舎って、この Stadthusetの方じゃないの?」と言った。見ると、海沿いにStadthuset というのがある。「こっちだ!」 というので、歩いて行くと、Radhusetよりは遙かに立派な尖塔が見え て来た。  観光バスが止まり、写真の円柱もある。  芝生が広がり、前に海が広がっている。  ここで、カクテルパーティーをやったら、素晴らしいだろうなと 思った。  田森が、これでツキを落としてしまった、としきりにぼやいている。 競馬場に来ると、馬券が当たらなくなるのだと言う。  パドックに行って、馬を良く見た方が当たるんじゃないか というと、これは「バクチ」なのだから、そういう理屈の問題では なくて、確率の問題なのだという。  Guided Tourが出たばかりで、ノーベル賞ディナーが行われる 「青の広間」は見ることができなかった。  それでも、外をぐるぐる回るだけでも、満足した。 田森に、  「これでツキを完全に落とさなくて済んだね。」 と言った。  日本を出る前に、何人かの友人には言ったのだけども、どうも最近の ノーベル賞受賞者はバカばかりだ、本当に知的勇気のある人は受賞して いないじゃないか、そうbaseでは思っているけど、まあ、practicalな 意味で、「ノーベル賞でもいいか」、という反省をするという 意味で田森と一緒にStockholmを見てくるという企画だったのだが、 現地を見ても、 どうも思い出すのはアインシュタインやボーアなどの初期の人たち ばかりで、最近の受賞者には、全くハートを動かされない、という 状況は変わらない。田森は、数年前に「コーラスラインのオーディション に受かりたい、というような気持ちだ」と言っていたけど、今でも 変わっていないのだろうか。池上さんなどは最初からノーベル賞 など相手にしていないようだが、彼も、くれるといったらもらうだろう。  昼食の時に、田森が、人生で一番欲しいものはノーベル賞ではないと 言い出した。私は、すぐに「金もいらなきゃ女もいらぬ・・・」という のを思い出したが、悪いと思ったのでその先は言わなかった。  その10分後くらいに、会話がそっちの方向にいったので、「背 だろう」といったら、「お前何でわかるんだよ。」とあわてた。 「背なんかより、ノーベル賞の方がいいだろう」と言ったら、 「背が高いのが全ての基本だ。」と反論した。  どうやら、田森は、背の高いノーベル賞受賞者になりたいらしい。  珍道中はこれくらいにして、Stockholm中央駅からX2000に乗り、 Skovdeに着く。First Hotels Billigehusにチェックインしてロビーで ふらふらしていたら、Gustav Bernroiderがふらふらと歩いて来た。 ふらふらとふらふらがぶつかって、すぐにbarに向かい、2時間 くらい談笑した。  明日から会議が始まる。どうせ意識の問題でessentialなprogressを 見せている人は(恐らく)いないのであって、ノーベル賞レベルの 知的活動とは全く違った方向の、深い泥の中でもがく、 しかも崖っぷちの勝負が要求されると思うのだが、 まあそれはそれとして、話を聞き、話をし、酒を飲み、何かを 感じられればそれで良い。 2001.8.7.  Susan BlakemoreとSussan Greenfield、二人のSusanの話を聞いた。  Blakemoreの方は、memeの話。最近memeに興味が増していたのだが、 話を聞いて、Susan Blakemore(もともとはRichard Dawkinsだが) のmemeは、あまりにもgeneとのanalogyにとらわれていて、かえって 不自由になっている印象。replicateされるunitがあって、それが 淘汰圧にさらされると進化が起こる、memeとgeneに共通にそれが あるというのは全くその通りだと思うのだが、あまりにもgeneとの analogyにとらわれすぎると、昨日のBlakemoreがそうだったように、 例えばimitationの意義を強調しすぎるということになってしまう。 実際には、文化的遺伝子(あるいは文化的なスタイル)の伝搬に おいて、explicitなimitationが関与する割合は低いと思う。  途中、お互いに相手のimitationをするという「課題」があって、 前に座っていたArizona大学のJim Laukesが、振り向いて、"I would like to imitate your hair"と言った。  確かに、寝癖で、いつもより爆発が激しかった。  Greenfieldの方は、英語の勉強だと思って聞いた。London在住の インテリの攻撃的な女性の機関銃のように早い英語にさらされていると 快感に満たされる。田森は、終わった後、「私とGreenfieldは関係が ないということが判った」と言っていたが、確かに、物事を 表層でとらえて、さくさくとこなしていく、そういう器用さが 彼女の特徴だと思うが、しかしこれは全般にアングロサクソン系の 科学に言えることで、それが偉大な成功の理由でもあり、いちがいには 悪いとは言えないと思う。Greenfieldの専門である生化学においては、 彼女のようなflatな態度はむしろefficientだと思うのだが、いかんせん 意識の問題は、我々が普段前提にしている様々なことを問い直す ところから始まるわけで、確かにGreenfieldのような人には 問題を解くのは無理なことも事実だ。まあ、人には、それぞれ 役割がある。  量子力学のセッションは終わっていた。 途中、田森の隣に暴走族座りして、  「こいつバカかよ。」 とささやいた。  マイクロチューブルの話は、完全なヨタ話だと思うが、 総本山のつるつる頭ハメロフ総帥がなかなかGive upしないので、 また、意識のモデルとして、唯一あーでもないこーでもないと 言える段階に来ているので(もともとある量子力学使って マイクロチューブルの物性を議論しているのだから当たり前だが)、 人々が話題にし続ける。  しかし、会場からの議論は非常に健全で、 マイクロチューブルにおける量子計算が意識に関与しているという ヨタ話が葬りさられない理由は、まともなalternativeを提供できない ところに理由がある、そう思って反省。  夜は、Gustav、阪南大の野村さん、通総研の村田さん、田森、 それに田谷くんとワインを飲みながら談笑。何だかつかれたな と思って、11時過ぎにふっと消えた。 2001.8.8.  お昼の休みに、近くの湖を目指して歩いていった。  針葉樹林の中に、簡素に切り開かれた土の道があり、 時々横に細く道が分かれている。  とにかく一番太い道を歩いていけばいいのだろうと、 木々の向こうに青い水の塊をイメージしながら進んでいった。  青いかけらが見え、次第に大きくなり、 水辺のテーブルが見えた。  周囲2キロメートルほどの小さな湖。  対岸に、小さな小屋が見え、釣りをしている人たちがいる。  岩の上に座ってしばらくぼんやり湖水を眺めていると、 VancouverのStanley Parkの中にある小さな湖が思い出された。    北の森、あるいは湖の夏の独特の雰囲気は、何に由来するのだろう、 そんなことをぼんやり考えていた。  短い夏を十分に利用しようと、花が咲き、ハナバチが飛んでいるのだが、 空気がまるで温帯の晩秋のように冷たい。  生命の最盛期の姿が冷たい空気につつまれている、この状況が まるでぶるぶる震える透明な寒天に包まれた色とりどりのフルーツの ようなconnotationをもたらすのだろうか。  田森が、群の表現について延々と喋るのに生返事しながら、 湖水の水の表面の微妙なクオリアの変化を見つめていた。  午後のセッションで、自分の話はすませた。  話始めたとたんに、あ、これはマズイと思ったが、舌が べらべら勝手に動いてしまって、記録的なスピードで 喋ってしまった。  後で、Suzan Greenfieldに対抗していたのかと言われた。  sensory qualiaとintentional qualiaの区別はessentialなのか という質問が聴衆から出て、田森にも、あの質問はオレが 思っているのと同じだと言われたのだが、  夕食の席で一緒になった大阪大学の哲学の中山さんには、 Ned Bockが似たことを言っていると言われた。  あまり哲学の論文は読まないで勝手に造語しているので、 そういうことを言われるとどきりとする。  早めに眠りについた。街道沿いの日本料理屋の二階が船着き場に なっている夢を見た。 2001.8.9.  夕食の時、田森が突然、「そうだ」 と言った。  「こういうのはどうだろう。・・・・・・・」 それは、学会からの帰りのルートについての、あまりにも画期的な アイデアだった。  「それは素晴らしい! ぜひそうしよう!」 私はそう言って、おもむろに立ち上がった。  Receptionに行って、piece of paperとペンをくれと頼んだ。 その場で、5cm四方の紙に、ペンで書き付けた。    Y. Tamori  Nobel Prize for  Travel Arrangement  2001  笑っていたので、田森に渡す前にばれてしまったらしい。  どんなイタズラを考えついたのか、ある程度予期していた のだろうが、田森は紙をひと目見ると、  「なんだ、こいつ。」 と言って、紙をくしゃくしゃに丸めて私に投げつけた。  それから、  「こいつ、本気でおれにノーベル賞を取らせないつもりなんだ。 本当にジンクス気にしているのに。」 と言った。  すると、谷さんが、  「私なんて、考えたこともないですよ。一生、関係ないと思っている から。」 と言った。  田森が  「ほらね。」 と言った。  私は、椅子の下に丸まっていた紙を拾って、テーブルの上に広げた。 それから、  「あー、そうそう、忘れていた。賞金の10スェーデンクローネを 忘れていた。」 と言って、田森に紙と10クローネを渡そうとした。  硬貨の中で、10クローネが渋い黄金色で、誰かの横顔が彫ってあり、 一番気分が出る。1クローネと5クローネは銀色で、あまり気分が出ない。  田森は、  「うるせーな。そんなの要らないよ。」 と投げやりに言った。  テーブル全体が笑った。  その2時間前、Bela Hallenという会場から歩いてくる途中、 田森に、  「赤いクオリアがどのような具体的な神経回路から生まれるかの モデルを実験で検証するためには、神経回路網の詳細な 構造が判らなければならない。これは、当分かないそうもない。 今、focusすべきなのは、実は、そもそもなぜqualiaが生まれるのか、 その(拡張された)因果的必然性の本質を明らかにすることなんじゃ ないかな。なぜなら、qualiaが生まれることの必然性は、empirical questionではないから。これは、何らかの保存側、ないしは 必然性に基づいているんだろうから、実験の進展を待たなくても、 その本質は今明らかにできるかもしれない。」 と言った。  こう書いていて、英語で言ったのか日本語で言ったのか、記憶が 定かではない。  雨が降っていて、Bella Hallenからホテルへの坂道は、草むらの中に 寝転がった時のようなにおいがしていた。 2001.8.10.  朝、湖まで走った。  早朝の湖は、昼と全く違う表情を見せている。  あれほど沢山飛んでいた赤いまっすぐな尾をした トンボも見られず、岸の近くを泳いでいた鴨たちの 姿もいない。  釣りをするためか、所々に中心に向かう木の台が突きだして いて、  この湖のほとりに小屋を持つならどこがいいだろうと、 走りを止めて水の上に歩いていった。  対岸の、救命道具の白と赤の輪がかすかに目に染みる。  杉の森の中の切り株の間を走ると、足元の土がぽくぽくと 柔らなクッションになって私の重さを受け止めてくれた。  朝食の時、またノーベル賞談義になった。  田森「だから、オレは、ジンクスはあると思っているの。ラッキー だったらいいなと思っているの。」  谷さん「だけど、ジンクスではとれないでしょう。」  田森「・・・・・・」  谷さん「でも、今までノーベル賞学者に会っても、自分の分野 じゃないから良く判らなくて、やっぱりエライ人なのかなと思って いたんだけど、先週エーデルマンの話を聞いたら、自分の分野だから、 ああ、大したことないなということが良く判って。確かに優秀だけど、 10人に一人はいるかなという程度の優秀さですよね。エーデル マンがとれるんだから、本当に宝くじのようなものなのかもしれない。」  田森「そうでしょう、だから、ジンクスが大切なんだよ。」  私「宝くじは、お金を出さなくてはならないけど、ノーベル賞は、 ある一定の労働時間を注ぎ込む、それが、クジへの参加資格なのかも しれない。」  谷さん「アインシュタインとかは別として、実験的に何かを発見した という場合には、大抵の場合同じ頃同じことを考えているヒトが沢山 いて、たまたま誰かが一番先に見つけた、というんだから宝くじのような ものでしょう。」  私「ある程度チャンスは平等ということ?」  谷さん「エーデルマンがとれるんだから、平等ですよ・・・」  そろそろ飽きてきたので、田森をからかうのもやめようと思う。  久しぶりに日本の新聞を買ったら、相変わらず靖国神社がどうの こうのと書いてある。  人々は認知バイアスにとらわれる存在で、ノーベル賞も靖国神社も 同じこと。  曇りのない目でこの世界のあり方のリアリティを見つめると、大抵の 人為的な装置はその意味を失う。  こうやって日記を書いている間にも、時間はどうしょうもなく進行 してしまっていて、そのリアリティの前では、ノーベル賞も靖国神社も 力がない。 2001.8.11.  Sweden語は、ドイツ語ならある程度判る私にも 類推がつかないことが多い。  Swedenは、案外英語が表記としては浸透していないところで、 Independentなどの英字新聞も手に入れるのが難しい。  中央駅で、田森がビールを買うのを待っていて、行き交うヒトの 様子を見ているうちに、ふと思ったことがある。  本屋に行けば、Sweden語の本が並んでいる。この国にどれくらいの 人がいるのか知らないが、マーケットとしては、それほど大きくないだ ろう。それでも、Sweden語で本を書き、新聞を出す。おそらく、 歴史と文化の長い連関の中で、Sweden語でしか表現できないこと、 英語では指し示せないことがあるはずだ。日本語の「木漏れ日」に 相当するようなものが、Sweden語でもあるのだろう。  言葉は、コミュニティのためにある。そのコミュニティが いかに小さなものであったとしても、そのコミュニティの内部の 人にとっては、その言語で表現するということは、切実な ことなのだ。  日本語で本を出し、新聞を出す。英語による暴力的な globalismの圧力にさらされている今の世界で、日本語の位置について 様々な議論がある。しかし、Sweden 語にくらべれば、日本語の 方がまだしもmarketが広い。同じローマ字表記で、地理的にも 近いので誤解しやすいけど、Sweden語が、英語との類推で は全く理解できないことは、日本語の置かれた状況とそんなに 変わることがない。それでも、全て英語にすれば良いという ことにはならない。マイナーな言語で表現し続けることには、 それぞれのコミュニティにとっての切実な事情がある。  国際会議などで、英語が母国語の人たちには、ある種の共通した 傲慢さがある。本人が自覚していなくても、たどたどしい 英語で喋る人に対しての優位さの構造に影響される。それで 有利なこともあるし、かえって失うものもあるのだろう。  どこか芯のところで中央駅を行き交う人たちと連帯した ような気がした。  田森が、Carlsbergを6本持って帰ってきた。    田森の部屋で飲んでいたら、いつの間にか椅子の上で眠っていた。 あっと思って「もう外には行かないのか?」と聞いたら、 ベッドの上に横たわっていた田森が、「今日はいかないかもしれない。 お前、もう部屋に帰って寝ろよ。」と言った。  それから、時々田森がベッドの 上から「お前、もう部屋に帰って寝ろよ。」と言うのを、 私もうとうとしながら聞いた。  5回目くらいに、私はやっと半分残ったCarlsbergを手に 部屋に戻った。 2001.8.12.  帰ってきた。  朝日新聞とHerald Tribuneが10センチメートルくらいの高さに 積まれている。  BBCのcomedy番組Yes, Ministerで、「内政大臣」Jim Hacker が、 国民からの膨大な手紙を前に途方にくれているシーンがある。 秘書官のBernardが、「In boxからout boxにばんと山を積み直せば、 後は私たちが適当に返事を書いておきます。」 と言う。  Jimは、「You mean....」といって、とまどう。いくら何でも、 国民からの手紙を無視するなんて・・・・。しかし、仕事に追われた Jimは、結局、In boxから堆く積まれた手紙を持ち上げると、Out boxの 方にバン!と置き直す。これで読んだことになるのだ。  新聞もバンと置き直すと読んだことになるのならいいのだけども。  朝9時30分に成田について、12時に家に着いて、 寿司とカップラーメンを食べ、  ソファの上でうとうとしながら、イチローが9回裏二死満塁から同点 のタイムリーを打つのを見ていた。  しばらく眠って、さっと起きてインターネットにつなぐと、 asahi.comに「イチロー、土壇場で同点打」などと書いてある。 そのようにまとめられてしまうと、私がテレビで見ていたSeifeco field の興奮は伝わってこない。  どうも、うまく何かをまとめる言葉こそ、リアリティを隠蔽するもの だという気がしてならない。  Skovdeの湖を走っていた時、ふと、内田百けんの「阿房列車」のような 名文は、かえって危ないところがあるんじゃないかなということを 思った。  失語症こそ、信頼できる、そのように思えることがある。  失語症に陥る時、ヒトは、何かリアルなものと真摯に向かい合っている。 そのように思う。 2001.8.13.  飛行機に乗っている時からくしゃみが止まらず、 身体がだるくて、何もやる気にならない。  昨日の夜は、空気の湿気が肌にまとわりつくのがとても不快で、 時間をやり過ごすのに困った。  朝、だるさに任せて本棚を見ていたら「罪と罰」が目に入ったので、 CSLに来ながら読み返した。  ほぼ10年ぶりの再読か。  細部は忘れているはずなのに、構造がほとんど正確に頭に残っている ことに驚く。  ドストエフスキーの小説には、何か異様な密度の濃い継続という ようなものが感じられて、  だるさに参っている頭には、ちょうど良い刺激になるように思う。 ある意味では、ビタミン剤よりも、「罪と罰」を読んだ方がいいかも しれない。  ニューロンが、他の刺激ではあり得ないやり方で活動して、 ある種の「つながり」ができる。  ロシア語の原文にあるある種のニュアンスは、私には永遠に アクセスできない領域として残るのだろう。  遠く離れた恒星の周りを公転する惑星の極にできるオーロラの ように。    時には、自分が決してアクセスできないものに思いを馳せるのも いいものだ。  少しビールを自粛しよう。 2001.8.14.  「罪と罰」、読了。  集中して小説を読むということを長い間しなかったので、 途中、脳のある特定の部分が疲労したという感覚をはっきりと もった。  しかし、それをガマンして読み続けていくと、やがて脳が再び 軽く回転しはじめる、そんな感覚を体験して、ああこれは 前に何回もあったなと悟った。  この種の感覚の名指しは、「ああ、そうだった」と必ず 後から起こるのであって、予感されることは殆どない。  予感されるほど頻繁に体験され、定着することなく、 恐らく名前のないまま消えていくであろう感覚たち。  「罪と罰」については今更何もいうことがないが、それにしても 現代とはどのような時代なのだろうと考える。  最近、あるメイリングリストで、その知性を個人的に尊敬している 人が「村上龍は立派な小説を書く」と発言していて、非常に驚いた。  ドストエフスキーにはあって、村上龍にはない。  こんなことは、自明なことのように思えるのだけど、どうも現代は そのような峻別をする時代ではないのだろうか。  昨日、CSLの人たちと久しぶりに五反田の「さくら水産」に行って 飲んでいたとき、私は自分が非常に厭世的な気分になっていることに 気が付いて驚いた。  ある意味では、Swedenにいっている時の 田森との「ノーベル賞遊び」は、私にとっての世界観に ある種の秩序、ヒエラルキーを取り戻そうという心理的必要から 生まれたように思われる。  もし、少年の時のように「ノーベル賞をとることが 人生のとりあえずの目的である」と思えたら、どんなにか楽だろうか。  大抵のことが、本当にどうでもいいことのように思われる。  アインシュタインに代表される「偉大な学者」というものに対する アコガレが強かった少年時代から、今例えば目の前にWiles(Fermatの 最終定理を解決したヒト)が現れても何も感じないだろうというように なってしまった今まで、私の中で何が変わってしまったのだろうか。  どうも、世界観に関する本質的問題が、クオリアと言語問題、 およびその周辺の難問題(時間の流れ、非可逆性、「私」の存在etc.) に収斂してしまって、そのような「本質的問題群」に抵触しないことは、 どうでもいいことになっているようなのである。  ノーベル賞学者の多くは、conventionalな世界観の上にdetailを積み重ね ているだけだから、「ドウデモイイヒトタチ」。  数学的才能にはそれよりは敬意を払うが、しかし、Fermatの最終定理 のような数論の問題は、いわば「小さな箱庭」の問題に思えて、 クオリアや言語といった我々の存在、世界の存在の根底にどのように 関わるのか、よく判らない。だから、そのような箱庭の中で微笑んでいる Wilesのようなヒトにもカリスマ性を感じない。  一方、もし、今、アインシュタインが生きていたら、ぜひ話したいと 思うだろう。  彼のような、それまでの世界観において暗黙のうちに前提とされて いた「メタな枠組み」を壊す、壊そうとするヒトにだけ、私は今 カリスマ性を感じ、共感を覚える。  しかし、世の中の多くのヒト、多くの仕事はもちろんそんなことと 関係がない。  これは、とても困った状況である。    私は、生存の本質的な問題への感覚の鋭敏さにおいて、ドストエフスキー を愛する。本質問題への知性と感性の根本的な欠如において、村上龍を 嫌う。しかし、こんなことを書いていると、本当に浮世離れしているような 気がしてくる。現代は、まさに村上龍なのではないか。村上龍の ようにしか、生きられないのではないか。  こんな浮き世離れしたことを考えていて、大丈夫なのか?  ラスコリーニコフのような他人に迷惑を かける反社会性として現れないにせよ、私は、私の世界観( ないしはそれへのアプローチ)と自分の生き方の間に整合性をつける 必要に迫られている。  村上龍をバカだとけなすのは簡単だが、じゃあ自分はどう落とし前を つけるのかと考えると、これは簡単ではない。    要するに、クオリア問題を解いてしまえばいいのだが、そんな ことがすぐに可能とも思えない。  Swedenの学会以来連日飲み続けていたビールを今日は飲まなかった。   2001.8.15  今話題になっている神社には、一度だけいったことがある。  参道に企業の広告があったりして、案外俗っぽい気がした。  伊勢神宮については、私は、100%の確信を持って素晴らしい ところだと言うことができる。  何よりも、東日本における「神社」の概念からは全く類推できない ような、また、近現代における「日本的とはこのようなものである」 という観念では全く測れないような、始源的な感覚があそこには ある。    前回(2000年11月8日)伊勢神宮にいった時、帰りのタクシーの 中で運転手にあそこはなになにのみことが祭られていて何の神様 でうんにゃらかんにゃらと言われた時に、私が体験してきた 非常に純粋なものが世俗にまみれるようで、とてもいやな気がした。 九段の神社を含め、私たちが「神社」として目にする場所の多くは、 この「タクシーの運ちゃん」の世界であるように思う。  伊勢神宮には、それ以前の、「23世紀的」とでもいうべき 不思議な質感があって、案外、あの時代には、「日本」という観念 もあまり強固ではなくて、むしろ朝鮮半島を含めた大陸、あるいは 太平洋との結びつきの中に様式化されたのではないか。  日本問題というのはとても難しくて、私の場合、左でも 右でもない、「リアル」 な感覚を大切にしたいと思っている。  例えば、本居宣長が古事記伝を書いた業績、これは誰がなんと いっても文化勲章100個分くらいの価値はあると思う。日本書記は きちんとした「漢文」で書かれている。一方、古事記は、判読が 困難な万葉仮名で書かれている。宣長は、古事記を、 中国からの伝来文字を使って、何とか日本独自の思想を書き表そうと した先人たちの必死の努力の跡としてとらえた。  さらに、「もののあはれ」という概念をうち立てて、日本の精神風土 の中に脈々と流れるある種の傾向を明確化した。  もちろん、宣長の言ったことは一つのフィクションなのかもしれない。 しかし、それは掛け値なしに美しいフィクションであって、しかも、 ある種のリアリティがある。  源氏を読んだり、奈良や京都を歩いている時に「確かにそうだ」 と思えるような迫真性がある。  そのような、日本という 仮想の本質を抽出した宣長はやはり天才だった。  宣長と九段の神社を結び付ける必要はどこにもない。  私の中では、宣長の「リアル」と九段の神社は結びつかない。  むしろ、戦争で、これからかなり高い確率で死ぬだろうという 時に飛行機に乗ってでかける兵士、  夜眠りにつく時、今日もまた空襲がくるのだろうかという不安に おびえる一市民、  そんな「リアル」と宣長の「リアル」が結びつく。  話題の教科書の問題点は、先の大戦について、上のようなリアル さを引き受けていないいい気なおやじたちによって書かれている ことなのではないか。  考えてみろよ。いきなりとなりの国から侵略してきて、その国の 言葉を35年間強制された人たちがどのような思いを抱くか。 そのことをリアルに感じ取れば、そんなにお気楽なことは言えない はずだ。  そういうお気楽野郎のたわごとと、宣長や伊勢神宮のような 日本文化の粋とは切り離すべきであって、この切り離しを 担保するのが「リアル」ということだと私は思っている。  こういう視点での日本の近現代史の見直しは、誰かがやらなければ ならないことだと思う。 2001.8.16.  田森が褒めていたし、  史上最速で観客を集めているというので、  「千と千尋」をワーナーマイカルまで見にいった。  しかし、夜の回はすでに満席で、仕方がないので 車で街をさまよい歩いた。  コンセプトとして「懐かしい」場所に行きたかったのだが、 そんなものがあるはずもなく、結局家の近くの大衆割烹に行くことに なり、断ビールの誓いは一日で崩れた。  水槽の中には、魚たちが泳いでいて、ウナギのような長い魚が、 その身体を窮屈そうに曲げていた。  一つ、カワハギのようなやつで、 水中で逆さまになってしまったのもいて、  あれも料理するのだろうかと、客の話を聞きながらにこにこしている 板前さんの表情をうかがった。  昨日は、どうも、近代化された、機能的な場所に行きたくなかったらしい。 夕刻、必死になって論文を書いてpdf fileにして送ったが、 そのようなfunctionalityに生きながらも、心がどこかで「千と千尋」 のような世界を求めていた。  以前、学会で福岡県の飯塚市に行った時、とても気持ちのいい定食屋が あって、そこに通ってビールを頼んで、テレビから流れる巨人戦をちら ちらと見ながら大皿に並べられた料理を食べるのが、本当に至福の 時間だった。 確か角にある木造の家で、おばさん3人〜4人で切り回していたように 思う。客もステテコとか気取らない格好で、かなりの人が顔見知りらしく、 その中に旅行者である私が一人入っても、とくに居心地が悪いという 感覚はなかった。あのような空間を、私は今どこかで求めているところが ある。  そのことと、「罪と罰」に続いて「失われた時を求めて」を読み始めた のは関係しているのかもしれない。マドレーヌのエピソードを「脳と クオリア」などの中で何回か引用しているけど、実は私はこの小説を 読んだことがない。10ページくらい読んで、はて、stream of consciousnessの手法は、この作品で発明されたのかしらんと思った。  どうもぎりぎり詰めて考える気にならない、ぬるま湯に漂っている ような状態だけども、秋の気配が濃くなるにつれて、少しづつ私の 気分も変わっていくだろう。それを「私の気分」と名付け、指し示した 時には、もう変化は終わっている。 2001.8.17.  リベンジで、「千と千尋の神隠し」を見に行った。  正直言って、非常に驚いた。  千尋が「神隠し」にあってから、両親のもとに戻るまでは ほとんど完璧な気がした。  唯一の欠点かと思われたのは、「現実ー虚構ー現実」という サンドウィッチ構造がストーリーとして陳腐ということだったが、 そんなことは些細なことのように思えるくらい、虚構の部分が 良かった。  この映画に関する限り、「現実ー*ー現実」という部分は 単なる包み紙に過ぎなくて、捨ててしまってもいいような気がする。  車が木立の中を走って行くところや、白龍が紙の鳥に追われて油湯 の建物を昇っていくところ、水面を走る電車など、映像的にとても 感心したところが沢山あって、そのような細部の積み重ねがこの 作品の良さを支えているのだろう。  神様たちが浸かりに来るという油湯の世界があまりにも魅力的なので、 また、油湯の中の怪物たちの存在感があまりにも強いので、 千尋の両親は、むしろ豚のままの方が良かったのではないかと思う くらいである。「現実ー虚構」のままで終わってしまっても良かった のではないかと思う。千尋は、「千」としてあの世界に 暮らし続けても良かったのではないかと思うのだが、 それでは観客を大量に動員する映画としては ラジカル過ぎるだろうか。  予告編でやっていたHarry Potterが死ぬほど退屈そうで、 なるほど、この種のファンタジーがつまらないのは、いかにも出そうな 場面がその通り出るからだなと思った。「地下にゴブリンがいる!」 とか叫んで次の画面でゴブリンが出てくるところとか、 ハリーが帚に乗って飛ぶところとか、「こんなの前にも見たことが あるよ」というのの連続であった。ハリウッド的なファンタジー映画 のどうしょうもなさは瀕死状態と言って良いと思う。「千と千尋」 の中に出てきたようなちょっと想像もつかないような画面を構想して 具体化するのに使う頭のエネルギーの何十分の一しか、ハリウッド的な 映画は使っていないのではないか。  金は何倍も使っているのかもしれないが。  The Lord of the Ringsなどに比べると、Harry Potterは (第一作目しか読んでいないけど)とても小市民的な世界で、 悪意も小市民的で、「千と千尋」のような訳のわからなさはない。 もっとも、このような一種のfunctionalismこそアングロ=サクソン 的なやり方が成功した理由だということは良く判っているのだけど。 (Lord of the Ringsはむしろケルト的なのだと思う。)  私自身は、アングロ=サクソン的な合理主義でぐいぐい押していく やり方とそこからこぼれ落ちる余剰の間で分裂しているように 思うが、少なくとも前者からは芸術はでないことは、ハリウッド 映画の無惨なゴミの山を見れば判るだろう。  宮崎駿さんには文化勲章をあげるべきなのではないか。  2001.8.18.  久しぶりに、長距離のrunningに行った。  光が丘公園を抜け、川越街道を越えて赤塚に抜け、 水車公園というところまで行く。  街道の路面の右折の待機ラインを見た時、あっと 思った。  しかし、信号が青になったのでそのまま駆け抜けていった。  あっと思ったのは、靖国問題についてのある種の本質が見えたから である。  2−3年前、私は案外自由主義史観はいいのではないかと思っていた。  シンガポールから日本よりも、イギリスの方が遠い。  そもそもなぜそこにイギリス軍がいたのか?  なぜハワイはアメリカの一部になっているのか?  ウェールズのもともとの言語は、英語とは全く類推がきかない。  なぜ、彼らは今英語を喋っているのか?  なぜ、中南米の文化は滅びたのか?  要するに、ヨーロッパの列強がやったことは帝国主義そのものであって、 今こそ口をぬぐって紳士面しているが、もともとは盗人たちであって、 日本の近現代史も地球規模の歴史の文脈の中で とらえなければならない、そう思っていた。  だが、  そのうちに、自由主義史観を主張するおやじたちの下品さにすっかり 嫌気がさしてきた。パリのオペラ座で見た漫画家Kは傲慢なブタ顔を して、若いとりまきを引き連れていた。ドイツ文学者Nやいまや倫理学者?  Nから漂ってくる腐臭もいやであった。 何よりも、彼らが、未来の日本のあり方(すなわちアジアの中で 何とか共生していかなくてはならないこと)について、何のヴィジョン も持たず、ただぶつぶつと無責任なアジテーションをしている、 その世界観の決定的な欠陥が次第に明らかになって、自由主義史観との 短いフラーテーションは終わった。  それでも、何かもやもやとしたものが残っていたのだが、 川越街道をわたるとき、はっと、自由主義主観と その周りの動きがなぜダメなのか、その本質が はっきりと判ったのである。  つまり、「他者」が見えていないということである。  原節子が出ているというので、「ハワイ・マレー沖海戦」という 映画を見たことがある。真珠湾の翌年に円谷英二が撮影し、当時の 世界最高水準の特撮技術が使われた。この映画の中で 描かれている海軍兵学校で学ぶエリートたちの 精神世界があって、「おそれ多くも」と言ったところで 姿勢を正し、「大元帥陛下の・・・・」と続ける。天皇の御製が 学校の講堂に大書きされている。「お前も、大きくなったら、 お国のために奉仕するのだな。ただし、このようなことは、 真剣に考えなくてはならないぞ。」と兄が弟にいう。 端正で、神聖な雰囲気が漂ってくる。その中にいる人にとっては、 「美しい世界」があったことが判る。真珠湾攻撃の前夜、戦艦の 中でアメリカ艦のシルエット当てが行われ、パイロットが間違えると、 教官が、「バカやろう、自分の嫁さんくらい覚えておけ」と怒鳴り、 皆が笑う。このような場面には ある種のリアリティがあったし、戦後、このような リアリティが伝えられてこなかったことも確かだろう。 最初に「この映画は 戦争中に作成されたもので、当時の台詞、映像をそのまま上映 しますから、ご理解ください」というお断りをしなければ、この 種の映画が上映できないような状況だったことも確かである。  だから、その延長線上で、戦争で死んだ人たちの魂が感じて いたあるリアリティからすると、靖国神社に参拝することは それほど突飛ではない、そのように主張する人の心情は 理解できないわけではない。  それでも、なぜそのような立場が決定的にダメなのかが 判ったのである。  他者が見えていないことなのである。  川越街道をわたろうとしていた時、問題の本質が、 「他者、すなわち、侵略された朝鮮半島 や中国の人たちが見えていないこと」だと判った瞬間、日本人が 未だに持っているある種の幼児性の本質が見えてしまったような 気がする。  聖戦と信じて死んでいった人もいるのだから、天皇は日本の 伝統の中心なのだから、という話は 判らないわけではないが、それはあくまでもこの「日本」( 国家概念自体がフィクションであるわけだが)の事情、日本の 都合である。そのような議論の中には、隣人たちの心情に対する 真摯な視線が全く欠落している。  ちょうど、幼児が、「ぼくはこんな世界観を持っているんだ、 だから、それに基づいて何をしても、何を感じても、それは ぼくの勝手でしょう。」とダダをこねているようなものだ。  自分の住んでいるところにいきなり他国の軍隊が入ってきて、 やれ名前を変えろ、宮城に向かって参拝しろ、この言葉を 学べと強制されたら、どんな気持ちがするか。  粗野な兵士たちに、自分の愛する人たちが殺されたら、どのような トラウマを持つか。  「ハワイ・マレー沖海戦」で描かれた美しい世界の裏側は、 そのような醜い世界である。  そのような醜い世界を体験してしまった、他者の立場に対する 共感。これを避けて通って、自分たちのロジックを振り回すのは、 まさに幼児性そのものである。  内政干渉といきり立つのも、実は他者と真摯に対面したくない という、幼児性の現れなのではないか。  何となくそれで、私にとって、この問題は本質がつかめたような 気がする。そもそも、神道自体が、自分と独立した主観性を持った 他者に対する真摯な視点を欠いた宗教である。キリスト今日では、 同情(compassion)というのが大切なモティーフになっている。 ワグナーは楽劇「パルジファル」で同情を通してキリスト教の ある種の本質を描いて見せた。他者の痛みを、自分のものとして 引き受けること。それが十字架の本質であり、神道からは全く 欠けている視点である。  神道のある種の傾向は、他者に対する幼児性として表れてしまうの ではないか。  そんなことを考えながら走っていたら、随分汗をかいて しまって、40分くらい走った時、もう走れないということが わかった。  こまったと思ってポケットを探ったら、奇跡的に、ぐしゃぐしゃに 折り畳まれた千円札が出てきた。  しめた、と思って、一番最初に目についた販売機に札を押し込んだ。 さて、とアクエリアスのボタンを押そうとすると、点灯していない。 あれれ、と思って、右を見ると、「札使用中止」の赤いマークがついている。 さっきは受け入れたのだから、釣り銭切れのはずがないと思って、 返却ボタンを押しても、うんともすんとも言わない。    スタックしてしまった。  それで、  アクエリアスを飲み、回復したら光が丘公園を走り抜けて、家の近くで ビールを買ってふらふら帰るというゴールデンプランはおじゃんになって しまった。  腹を立てる気力もなく、公園の水を飲んでごまかしながら、家まで 歩いて、さらに考えた。 2001.8.19.  土曜日は朝日カルチャーセンターで「笑う脳」 の第一回。  川柳つくしさんがゲストで、落語における笑いの 本質について語り合った。  東京発最終ののぞみで京都へ。  高の原からタクシーでけいはんなプラザホテルに ついたのは0時30分で、守衛さんのところを 抜けなくてはならなかった。  今日は朝からsocio intelligenesisの会議。  午後は奈良先端の橋本さんが言語の話をする。9月から Edinburghに行くということで、ウラヤマシイ。  もう午後のセッションが始まるので、いかなくては。 2001.8.20.  Sociontelligenesisというのは、造語で、 8年くらい前から阪大の浅田さんとか、現和歌山大の石黒さん(Robovieを 作っている人)、通総研の中島さん、現東大の國吉さんなどのロボット、 人工知能研究者がけいはんなに集まって研究会をしている。 私は2年前から。  橋本敬さんは自分の研究とともに言語の最近の研究についての reviewもして、活発に議論が。  Luc SteelsがやっているようなNaming gameが果たして本当に namingと言えるのか、「右」、「左」などはどのようにnamingすれば いいのかといったことを議論。  Edinburghに行く準備をするというので、橋本さんが早めに 帰って5時30分に終了。部屋にいたら、けいはんなの田川さんが 電話をしてきて夕食を早めに食べましょうと言った。  夕食でビールとワインを飲み、さらに缶ビールを飲みながら 東大の中村研究室の岡田さんの話を聞く。  N次元の時系列データの多項式近似の話。  この研究会はミモフタモナイところで、いきなりなぜ多項式 でやるんだ、radial base functionじゃダメなのかとか、前提自体を 疑う議論が。  私は、楕円はおかしくて、トーラスではないのかと。  ATRの銅谷さんがフォローしている。  最近睡眠不足だったせいか、途中、意識がなくなった。  目が覚めて、複数のアトラクターの間の遷移の話をしていたので、 発言すると、岡田さんが、「ぜんぜん聞いていなかったのですね!」と。  スマン、寝ていましたと言うと、  となりから、ATRの柴田さんが、  「見ていましたよ。茂木さん、集中して寝ていましたねえ」と。  昼間から、柴田さんが、カラオケ、カラオケと言っていたのだけども、 宴会部長の中島さんが「眠りたい」と言って、それで私も 何となく眠り足らない気分に。部屋に帰ってきてテレビをつけたら、 K1グランプリで男たちがキックボクシングのようなことをやって いたので、まねしてトランクス一つになってシャドウボクシングをしたり、 足を上げたりした。  鏡に映って、テレビの中のチャンピオンのベルギー人ほど足が 上がらないのでがっかりする。  その後、NHKで狂言をしていたので、それを見た。  嫁さんを釣る話。  先日の朝日カルチャーセンターの時に、誰かが能の緊張の後に 狂言を見るととても可笑しいと言って、私はどうも狂言を見て 心から可笑しいと感じたことがなかったので、そうですかというと、 複数の聴衆が、いや、狂言はおかしいという。  嫁を釣る話は、滑稽だとは思ったが、いま一つ私の「笑い」の ストライクゾーンからは外れていた。  能や人形浄瑠璃、歌舞伎については、私なりにそれぞれのジャンルの 最上のものについての「絶対基準」があるのだが、狂言については、 どうも今までぴんときたことがない。  古典芸能だから尊敬するということは私の場合なくて、どこかで ピンと来ない限り、愛好する気にはならない。  もっとも、これは狂言の問題ではなく、私の問題なのだろう。  芥川賞を読もうと思って文藝春秋を買ったが、読む記事がないので とても驚いた。  私がズレているのか、文藝春秋がズレているのか。  今日も朝から会議。そろそろお腹が空いてきた。 2001.8.21.  台風が思ったより遅いので、 会議が終わった後、高の原から近鉄奈良線を南下した。  奈良まで行くつもりで切符を買ったが、ふと西大寺で 降りてさらに南下したくなり、そういえば前から一度行ってみたい と思っていたのだと、平端で乗り換えた。  平端から天理への線路は曲がりながら山に向かい、なるほど、 なかなかの趣向だなと思い、電車に揺られながら、子供の頃の ことを思い出していた。  母方の親戚(おそらく母の叔父さんあたりだと思う)が九州の 唐津で天理教の教会をやっていて、本殿で遊んだことがある。その あたりから、毎月「陽気」という雑誌が送られてきていて、 それをトイレで読んだりしていたから(病気が治ったとか、 人生がうまくいったという体験談が集められていたような気がする) 何となく天理教には宗教というよりも「九州の人がやっている 社会活動」として親しみがあって、その本部があるところがどういう ところか、一度見てみたいと思ったのかもしれない。  だいたい、市の名前を宗教の名前にするとはどういうことなのか、 そのリアリティを感じて見たかった。  駅から天理本通りというのがあり、普通の商店街だったが、次第に 宗教具や教典を売る店が出てきて、たこ焼きの露店が見えたなと思ったら、 そこが本殿前だった。  靴を脱いで上がろうとしたら、後ろからおじさんが追い抜いていったので、 その後をついていった。  至るところに水色の服の若い人が立ってじっと本殿の様子を見ていて、 挙動を値踏みされているようで、ナイーヴな私は緊張する。  本殿は広大な広間になっていて、中央に四角い場所があり(後で調べて、 これが「おぢば」らしいとわかった)、その四角に神官のような格好を した人が座って、ちょうど風車のような方向を向いていた。  そのうちなんにゃらなんにゃらという祝詞のようなものが聞こえてきて、 聞いた瞬間、ああ、これは子供の頃聞いたことのあるメロディーだと 判った。  30年以上前なのに覚えていたのは、メロディーが印象的だったから だろう。  悪しきをはろうてたーすけたまえー・・・・ と言っているような気がする。  それに会わせて、前のおじさんが両手をリズミカルに動かしてなにやら やっているが、まねをすることもできず、私はただ正座してあたりの 様子をうかがっていた。  皆、手を動かしたり、お辞儀をしたり、しきたりに合わせて何かを している。  私は、そう思って巨大な柱の陰に座ったので、水色のおにいさんからは 姿が見えないはずだ。  と思って、右手前方を見ると、「おぢば」の近くの神官がこちらを じっと見つめているように思えたので、 どきっとして、そっと立ち上がった。  本殿も巨大だが、その向こうにどうやら回廊が続いているらしい。 少し躊躇した後、そっと目立たないようにリュックのしょいかたを工夫して さらに奥に進んでいった。  家族連れなどが案外気楽に行き来しているように見える。  回廊の至るところに、四つ這いになって、白い布でからぶきをしている 人たちがいる。両手と両膝に布を当て、ゆっくりと進みながら何か 唱えている。  回廊を回りきると、黒字に白く「天理教」と染め抜いた法被を 着た若い女が二人、柱に寄りかかって喋っているのが見えた。  通りすぎるとき、  「どこかにいいひといないかしら、って言ったんだけど、そしたら ○○さんが」  と話しているのが聞こえた。  回廊は、さらに、庭を囲んで一周している。 白い布でさんざんからぶきされたのか、つやつやと光っている、ゆっくりと 波打っていて、あがったり、さがったりする。床も壁も柱も天井も照り光る 木で出来ていて、そこを裸足で歩くと足を木が暖かく押し返し、ああ、 これはいいものだなと思った。  その回廊の上がり下がりの坂道で滑って遊んでいる親子連れがいる。 子供が歓声を上げる後ろを、法被姿の男5人くらいが追っていたが、 何も言いはしなかった。  私がこんなに緊張しているのも、activeな新しい宗教の聖地に、 信者でもないのに入り込んでいるからだ。  建物自体は、そんじょそこらの仏教寺院よりもまだしもいいかも しれない。  仏教も、今はすっかり安定化、世俗化してしまったが、 仏陀が革命を起こした頃は、やはりこのような、水に入れた金属ナトリウム のようなひたむきな反応があったのだろうか。  そんなことを意識の表層では思いながら、しかし意識の深層では 自分がいる「千と千尋」の油湯のような建物の感触を楽しみながら、 私は回廊を一周して、本殿脇に戻った。  途中、セキュリティがやたらと厳しいと感じられる拝殿があったが、 後から調べるとどうやらそこが「教祖殿」だったらしい。  靴を履こうとすると、ちょうど法被を着た若い男二人が簀の子を 掃除していて、私の靴を入れた「1番」の下駄箱の前は土間が むき出しになっていた。  私が裸足で靴をとると、気がついて「あ、スミマセン」と言ったので、 私はなるべくリズムを合わせて「いえ、こちらこそスミマセン」 と言った。  それから、天理本通りを戻って、目に付いた店に入ってうなぎ丼を 食べた。  トイレを借りたら、こっちですと主人が奥の細い通路を先導して、 右側の小部屋の障子をぴたっとしめた。  一瞬、4畳半に子供が二人、おもちゃを沢山散らかして遊んでいるのが 見えた。  テーブルに戻って背を傾けた瞬間、ああ、つかれたなと思った。  あの、  ひたひたと包み込むような濃密な空気の中で、酸欠状態になってい たのかもしれない。  あの濃密さは、伝統的な日本の社会構造そのものかもしれない。  そう思いながら、うなぎを2,3口入れると、少しづつ身体が正常に 戻っていった。 短縮version  会議が終わった後、高の原から近鉄奈良線を南下した。  奈良まで行くつもりで切符を買ったが、ふと西大寺で 降りてさらに南下したくなり、そういえば前から一度行ってみたい と思っていたのだと、平端で乗り換えた。 子供の頃のことを思い出していた。  母方の親戚(おそらく母の叔父さんあたりだと思う)が九州の 唐津で天理教の教会をやっていて、本殿で遊んだことがある。それで 親しみがあって、その本部があるところがどういう ところか、一度見てみたいと思ったのかもしれない。  靴を脱いで上がろうとしたら、後ろからおじさんが追い抜いていったので、 その後をついていった。  至るところに水色の服の若い人が立って、 挙動を値踏みされているようで、ナイーヴな私は緊張する。  本殿は広大な広間になっていて、中央に四角い場所があり(後で調べて、 これが「おぢば」らしいとわかった)、四隅に神官のような格好を した人が座って、風車の方向を向いていた。  なんにゃらなんにゃらという祝詞のようなものが聞こえてきて、 瞬間、ああ、これは子供の頃聞いたことのあるメロディーだと 判った。  悪しきをはろうてたーすけたまえー・・・・  それに合わせて、前のおじさんが両手をリズミカルに動かしてなにやら やる。  巨大な柱の陰に座ったので、水色のおにいさんからは 姿が見えないはずだ。  「おぢば」の近くの神官がこちらをじっと見つめているように思えたので、 どきっとして、そっと立ち上がった。 少し躊躇した後、さらに奥に進んでいった。  回廊の至るところに、四つ這いになって、白い布でからぶきをしている 人たちがいる。両手と両膝に布を当て、ゆっくりと進みながら何か 唱えている。  回廊を回りきると、黒字に白く「天理教」と染め抜いた法被を 着た若い女が二人、柱に寄りかかって喋っているのが見えた。  「どこかにいいひといないかしら、って言ったんだけど、そしたら ○○さんが」  と話しているのが聞こえた。  回廊は、庭を囲んで一周している。  つやつやと光っている。ゆっくりと 波打っていて、あがったり、さがったりする。裸足で歩くと足を木が暖かく押し返す。  上がり下がりの坂道で滑って遊んでいる親子連れがいる。 子供が歓声を上げる後ろを、法被姿の男5人くらいゆっくりと追う。  仏教も、今はすっかり安定化、世俗化してしまったが、 仏陀が革命を起こした頃は、やはりこのような、水に入れた金属ナトリウム のようなひたむきな反応があったのだろうか。  「千と千尋」の油湯のような建物の感触。  セキュリティがやたらと厳しいと感じられる拝殿は、「教祖殿」だったらしい。  本殿脇に戻り、  靴を履こうとすると、ちょうど法被を着た若い男二人が簀の子を 掃除していて、私が裸足で靴をとると、気がついて「あ、スミマセン」と言った。 私はなるべくリズムを合わせて「いえ、こちらこそスミマセン」 と言った。  天理本通りを戻って、目に付いた店に入ってうなぎ丼を 食べた。  トイレを借りたら、こっちですと主人が奥の細い通路を先導して、 右側の小部屋の障子をぴたっとしめた。  一瞬、4畳半に子供が二人、おもちゃを沢山散らかして遊んでいるのが 見えた。  テーブルに戻って背を傾けた瞬間、ああ、つかれたなと思った。   ひたひたと包み込むような濃密な空気の中で、酸欠状態になってい たのかもしれない。  あの濃密さは、伝統的な日本の社会構造そのものかもしれない。  そう思いながら、うなぎを2,3口入れると、少しづつ身体が正常に 戻っていった。 2001.8.22.  新宿駅を降りて、センタービルのあたりを歩いていたら、 ズボンのポケットが震えた。  表示された番号が、親しみがあるのだけども思い出せない。  もしもしと言うと、あーあーと声が聞こえども、判別できず。 2、3秒経ってから、やっと池上さんだと判った。  池上研の合宿には来ないのか、蓼科の先端脳の研究会には 行かないのかとの催促。  合宿は去年行かなかったので今年は行こうと思っているけど、 まだいつ行くか決めていないと返事。  先端脳は、行くとしたら23日日帰りかななどと。  しばらく立ち話をする。  住友センタービルの44階の朝日カルチャーに上がると、長澤さんがいた。 「プロジェクタを取りに来ました」と言うと、私の黒いバッグを 出してくださって、その上に「茂木先生お預かりもの」 と書いてある。  短く挨拶をして帰ろうとすると、長澤さんが一緒に歩いてきて、 「そうそう、次回の講座のパンフレットが出来ました」と、 ラックから10枚くらい取ってくださった。  B1に降りて、「ベーブレードあります」の張り紙に反応した 主婦と主人の会話を10秒くらいぼんやり聞いて、それから喫茶 コーナーに行き、煙草の吸い殻が散乱したテーブルの上でメイルを チェックする。  チェックし終わって、ふらふらと歩いていると、都営新宿線 の「都庁前」駅の看板が。今まで、朝日カルチャーに来る時には わざわざ新宿駅から歩いて来ていたのだが、ビルの真下に駅が あるとは思わなかった。プロジェクタを持って プラットフォームに立った時に初めて傘を忘れてきたことに気がついた。  さっきの喫茶コーナーで、床の上に置いたままに違いない。  改札を通ってしまったし、諦めた。  と、こうして日常をそのまま書き記すと、殆どの時間の流れが、 それほどの意味もない、小さな出来事で占められていることが判る。 意味がある出来事があったとしても、それは、意味のない出来事の 合間に、ぽつぽつとあるだけである。それをつぎはぎすると、日記が 出来て、ストーリーができる。  バロウズのカットアップをおもしろがる類の人に、私は殆ど同情 しないが、しかし人生というのは本来カットアップで、人はその断片を 懸命につないで意味を、ストーリーを見いだしているのだ、そのようには 思う。  現実のストーリーの進行は、文学作品ほど親切ではない。小説は きちんと起承転結がついて終わるが、人生の終わりは突然、意味もなく 来る。  いつか死ななければならないこと(mortality)と、宇宙が無意味である こと(absurdity)。この二つのことを、人間は堪え忍ばなければ ならない。私がクオリアのことを考えるのも、それ以外にmortalityと absurdityに対する抗議の仕方がないからである。 2001.8.23.  シャワーを浴びている時、ふと、小学校の頃の短距離走の ことが思い出された。  60メートル走にしても、100メートル走にしても、ピストルが パンと鳴ってスタートし、手足を懸命に動かしているあの時間、自分の 身体が思うように動かず、思い描いていたように物事が進行しないで、 あっという間に終わってしまう。  能動的でいながら、実は時間に流されてしまっているような、奇妙な 無力感。  レースが終わることは、無力感から解放されることでもある。  人生ってあんなものかもなと思えた。  1年を早回しすると、その間に頭や身体をぐるぐると動かしている わけだが、常に全力で動かしているわけではないものの、能動的 なつもりでいて実は時間がどうしょうもなく進行していて、気がつくと それほどうまく行っているわけではない、そんなことがあるように 思う。  どうも、随意運動の能動性にはパラドックスがあるように思う。 能動的といっても、様々な拘束条件で、実は流されているという側面が ある。  こんなことを考えるのも、そろそろ夏が終わりに近づいているからか?  考える、文章を書くといった行為にも、能動的なようでいて、100 メートル走と同様に無力な側面がある。  文章を書きつづって行く過程で、発話行為は、ああすれば、こうすれば という工夫をかいくぐって、とにかく進行していってしまう。  30分、1時間他人の前で喋らされる度に、いったんスタートした とたん、殆ど無意識のプロセスが支配する領域だなと思うことが多い。 意識的に、能動的にコントロールできる部分は非常に少ない。  ピアノの鍵盤を弾くという行為が、無意識のプロセスのコントロール の鍛錬を要求することは誰でも納得するだろうが、  実は、人間の行為の多くが、ピアノを弾くようなものだと思う。  そう思っていないとすると、どこかに何か間違った思いこみがある はずである。 2001.8.24.  家でとる新聞は、結局、朝日新聞とHerald Tribuneに落ち着いた。  読み比べていると、どうも、HTに移るときに、奇妙な感じがする。  単に日本語から英語というのではなく、全く違った世界に移るような 気がする。  日本は島国だということは良く言われることだが、今となっては、 日本語という言語が孤立していることの方が大きいのではないか?  イギリスも島国だが、幸か不幸か、英語はglobal languageで、 インターネットを見れば、アメリカの人や、オーストラリアの人や、 その他もろもろの人が書いたものを読むことができる。  それで、文化の感覚も自然にglobalになる。  一方、日本語は、インターネットがglobalといいつつ、実は殆ど 日本列島の中に閉じている。  日本語でinternetを使っている限り、実は4つの島の中でやりとり しているようなものである。  8月18日の日記で、靖国問題の本質は、他者が見えていないことだ と書いたら、在日韓国人の知り合いから、茂木でもやっとそのことが わかったのか、わからないよりいいけど、寂しく思うとメイルをもらった。  私は、この問題については、ある種の核をつかんだように思うので、 これから態度がぶれることはあまりないと思うのだが、考えてみると 天皇や靖国を論じる時の日本人の言説のほとんどは、日本語の中に 閉じており、閉じているからこそ通用するものである気がする。  恋愛をしている時に、自分の感情だけをべらべらとまくし立てる、 困った人のようなものである。 他の国に住み、違った歴史や言葉を持つ人たちからすれば、そんなことは 知るかよ、つきあいきれないよということになる。    自分は日本人だ、それで何が悪いと開き直るようなことは、私は これからあまりしたくないなと思っている。何よりも、知的にあまり 刺激的ではないからである。自分は、ひょっとしたら朝鮮半島の 北で生まれていたかもしれない、フランスの田舎で育ったかもしれない、 アフリカの草原を駆け抜けていたかもしれない、そのような体験の どれもが、同じ権利を持って「人間の体験」と言えるのであって、 自分の体験は、その中で相対的なものに過ぎない。この認識に よってその人の行動が担保されていることが、大切なことなのだと思う。  もちろん、一方では、伊勢神宮の内宮の屋根の上の金色のポッキーや、 人形浄瑠璃の「夏祭浪速鑑」の「長屋裏場」の最後の御輿から降りちぎれ そうに舞う人形、大三島の国宝の刀剣の数々など、日本と緩くくくられる 領域内で生まれてきた素晴らしいものに対する知識、感覚も私は持っている。 しかし、それだって、私がたまたま「日本」という領域で育ってきたから そのことを知っているのであって、世界という文脈の中で見たら、 他にも素晴らしいものはいろいろあるということは、容易に想像できる。  西部とか西尾は一応知識人なのだから、自分の言説を一つ英語に翻訳 して、それが今のglobalな文化状況の中で、いかに奇妙に聞こえる か、それを実体験してもらうといいかもしれない。  Cambridgeの日本人communityのmailing listにsubscribeしている。 そこに時々勘違い日本人大学教授の、もったいぶってエラそうな、しかし どこかピントが外れた投稿が流れてきて、一種の風物詩となっているが、 西部や西尾の言説を英語に直すと、恐らく同じように見えるはずである。  もちろん、このような問題はあまり本質的なことではないのであって、 もっと本質的な、positiveなことにみんなエネルギーを使うべきだと 思う。  日本がperverseな方向に行かないように、時々このようなことを書くのも 1億分の1の助けになるかもしれない。 2001.8.25.  秋田県で開催中の「ワールドゲームズ」に、「机清掃選手権」というのが あったら、出場したかった。  徳間書店の溝口さんが、今度雑誌「Best Gear」の編集部に移られて、 「達人のデスクトップ」というテーマで私の机を撮りたいとメイルを 下さったのが一週間前。  「現状はひどく乱雑なので、片付けます。」  「Mac userなのですが、やはりVaioを置いておかないとマズイですか?」 という二つのメイルの2番目だけに返事が来た。  「やはり、Vaioでないとダメです。」  机周りを計画的に片付けるつもりが、溝口さんたちの到着1時間半前 に、机の上には高さ30センチくらいの書類の「地層」が出来ていて、 その他にもクリップやポストイットなどが散乱して、「達人の デスクトップ」というよりは「狂人のデスクトップ」の状態。 午後4時に、わっと片付け始め、自分でもびっくりするほど早く 手足を動かして、クリップはここ、ポストイットはここ、ペンはここ、 紙くずはゴミ箱へ、無料CDーROMは捨てちゃえ、ゴミは濡れティッシュで ぬぐえ、書類はとりあえず本棚へ・・・とロジスティックスを実施して いった。  一通り済むと、今度は「VAIO user」を偽装する番。  二階のinteraction labに出かけていって、綾塚さんに「ちょっと、 最新のVAIO notebookを2台くらい貸してくれませんか」と頼み、 机の上に、VAIO2台、red & blackのnotebook見開きの状態で 置いて、何とか形をつけた。  その他に、小道具として、マリモや、「茂木の木」(学生時代から 持っている、福田繁雄の木のオブジェ)、アンモナイトの化石、 Natureなどを置く。  はあはあ言っていると、午後5時30分に溝口さんと、矢沢さん、 それにカメラマンの方がわっせわっせとやってきた。  机をひと目見た後に、微妙な沈黙があったような気がするのだが、 気のせいだろうか。    それにしても、机のあちらこちらから、ペンは20本、ホッチキス3 台、ポストイット20柵くらいが回収されたのには自分でもあきれた。 どれも、「どこだどこだ」といつも探し回っていたアイテムである。 整理しておけば、こんなにも余っていたのに、と反省する。  無事撮影は終わって、大平と一緒に「あさり」にいった。  会津若松の「しぼり」という限定の酒があるというので、それを 飲み、大いに語り、食い、そして家路へ。  代々木駅で地下鉄を待ちながらプラットフォームの壁際に 座ってメイルをチェックした。 2001.8.27.  土曜日に池上さんと下北沢に劇を見に行って、飲み過ぎたのが たたったのか、  日曜の夕方走り始めたら何だかお腹のあたりが重くて、そのままふらふら 歩いてしまった。  帰ってきて、久しぶりに風呂に入ろうと思い、その上入浴剤まで入れて (北海道登別の湯)、開高健の「珠玉」を持って浸かった。  半身浴というのも流行っているようだが、あまり長い本だとのぼせて しまう。「珠玉」は短編集で、こんな時にはちょうど良い。  「掌のなかの海」だけを再読。美しい小品である。文房清玩という 言葉はこれを読んで覚えた。今年の春に台湾に行った時に、故宮博物館で 珍玩の数々を見て、ああこれかと思ったものだ。  開高健が、ベトナムなどの戦場を10年近く歩いて、自分のいた 小隊が殆ど全滅するようなことも経験して、ある時、奥さんと娘の 前で、「もうやめた、戦場に行くのはやめた」と言う。その瞬間、 長い間ガマンしていたものから解放されたように、二人が本当に 明るく笑った、そんなことを書いている作品がある。  その後、釣りを始めるわけなのだけども、彼が何から解放されなければ ならなかったかを考えると、私には痛々しく感じられると 言ったら、「私にとってはオーパ!などの作品は、何も考えずに 楽しめるもので、そんなことを言わないでほしい」と言われたことが ある。  私が小説家に求めるのはある種の真摯さと世界把握の確かさで、 開高は確かにどちらもクリアしている。 2001.8.28.  今年もつくばマラソンにするかどうかは判らないが、  そろそろトレーニングを始めなければと、朝の光が丘公園を。  木立を走っているところで、抜けた日溜まりに3つの小さな 飛行物体が一列に並んでホバリングしているのが見えた。  自然界に、2体問題は多くあっても、3体問題は珍しい。  また、直線を見るのもあまりない。  何だろうと思って近づいていくと、アオスジアゲハだった。  これは滅多に見られないことだと、足を止めた。  その瞬間、  Tシャツの背中のあたりがべっとりとしていることに気がついた。  風に当たるとそれなりにさわやかで、  その風の上をアオスジアゲハが舞う。  どうやら、一番上のがメスらしい。その下にオスが2頭いる。  メスに近い真ん中のポジションを占めているオスの方がやや 身体が大きく、下のオスは華奢である。  一番上のメスは、少し右の尾羽が欠損している。  時折、大きなオスが小さなオスをふーっと追いかけて、しばらく 二頭でもつれ合い、小さな方が5メートルくらい離れると、大きな オスはメスの所に戻ってくる。それを見て小さなオスも戻ってきて、 また3連になる。時折、小さなオスがメスのそばの2番目のポジションを とることに成功して、すると大きなオスがパニックを起こしたように 猛烈に小さなオスともつれ合って、その上で、メスは悠然と ホバリングしている。  これは滅多に見られないbahaviourだな、どれくらい時間がかかっても 最後まで観察しよう、そう思った瞬間、観察し始めてから 30秒くらい経っていた ろうか、小さなオスが、すーっと離れて、近くの木の太陽に照らされた 葉々の峰を飛び始めた。    残された大きなオスは、メスの下10センチくらいのところで ホバリングしていたが、意外なことに、小さなオスが去って5秒後 くらいに、さっと去って、私の右手の木の葉々の階段の上を 躍動し始めた。  二頭のオスの「離れる」という決断は突然で、「過去はきっぱり忘れた」 というように飛び方を全く変えて去っていった。  それまでの執着ぶりが、嘘のようだった。  一頭残されたメスは、ふらふらと梢の方に飛んでいった。  右側の尾羽の傷が、やたらと目立った。  CSLで東工大の研究室のゼミがあり、終了後の飲み会でこの話を したら、小俣圭君が、「それ、ひょっとしたら二頭のメスと一頭の オスだったんじゃないですか?」と言うので、なるほどと思った。  私も小俣君も、人間に例えた解釈をどこかでしていたわけである。  今日から池上研の合宿に参加するために、伊豆の花月荘に行く。 城ヶ崎海岸駅の近くらしいが、よくわからない。  密かに海岸を歩きながら、クオリアの問題を集中して考えたいと 思っている。 2001.8.29.  「花月荘」に着いたのが5時過ぎで、部屋に荷物を置くとすぐに 黒のトランクスに着替えた。  Ludwig Wittegenstein versionのQualia T-shirtを着て、走り出した。  城ヶ崎海岸に来るのは、恐らく十数年ぶりだと思う。あの時は冬だった。 今は晩夏。「吊り橋まで2.5 km」という標識を見ながら、なだらかな カーブを駆け下りる。  こんなに降りたら、帰りは苦労しそうだなと思い始めた頃、 広い駐車場に出た。  吊り橋はまだどれくらい先なのだろう、と立ち止まって考え ていると、向こうからリュックを背負って走ってくる青年がいる。  「吊り橋はあとどれくらいですか?」 という言葉を飲み込んで、走り始める。  「がんばって。吊り橋まで後0.7 km」とペンキで汚く書かれた看板が あった。  灯台があり、その横に吊り橋はあった。  確か、十数年前にも、寒風が吹く中、この橋を渡った記憶がある。 舌のように海水がざーっと入り込んで、一番奥で爆発する。 どんな勢いでぶつかると、あんなに水が白く濁るのか、 入浴剤をかき混ぜたような、乳白色をしている。  岩の壁に水がザーッとぶつかって白い波頭が砕けるのが、まるで スローモーションのように見える。  そういえば、さっきコーラを開けている人がいたなと思い、 吊り橋を戻ると、「いのちの電話」の看板があった。  アクエリアスを買って、しばらく岩と海と波頭を眺めていた。 ああ、「今」をつかむしかないのだなと思った。  宿に戻ると、荷物を置いた部屋で池上さんが真っ赤な顔をして眠って いた。  気配を感じて、目をぱっちりと開けて、「波が高かったよ。 しかし、オレ、今夢を見ていたような気がするなあ。」と言った。  夕食後、池上研の院生が発表するのを、ビールを飲みながら聞く。 トイモデルはいかにしてトイモデルになりしか。  進化や群れや細胞のモデルを聞きながら、走っていって見た城ヶ崎の 白い波頭を思い出していた。 2001.8.30.  午後1時までと、夕食後深夜まで発表があり、 午後は自由時間となる。  カツカレーを食べて、池上さん、佐藤君、谷口さんと城ヶ崎海岸に 行った。  門脇吊橋を渡り、缶コーヒーを飲み、おまんじゅうを食べる。  向かいの岩の柱のそこここに鳥がいるのが見える。  佐藤君に、あの鳥たちもゲームをやっていると思うかと聞くと、 池上研でやっているゲームのモデルは世間のゲーム理論と ちょっとテイストが違いますと言った。  池上さんがそれを受けて、世間でやっている普通のゲーム理論では、 最初に利得マトリックスがあって、それに基づいてstrategyを 立てる。そうではなくって、ゲームをプレイした後に始めて 利得がああだったこうだったと判る。  そんなことを言った。    海沿いの道を海岸公園まで行って、缶ビールを買い、 ふらふらと飲みながら帰った。  夜、学生の発表が何件かあった後、 池上さんとレスラー(Roessler)方式で漫才をやる。 (注:レスラー方式:ドイツの物理学者レスラーの発表の方式で、 OHPにその場で書きながら喋る)。 脳のようなマクロなシステムの安定性の背後にある量子力学の 構造や、variable / invariableの情報表現における意義、その 他を喋っているうちに、ああ、これはqualiaの問題はとてもすぐに は解けないくらいの複雑な問題だなと思えてきて、 その後池上さんと酒を飲みつついろいろ語り合った。