2001.9.1.  「ダライ・ラマ自伝」を読みながらすずかけ台に行く。  (山際素男訳、文春文庫)。    「とくに楽しかった思い出の一つは、母親にくっついて鶏小舎に卵を 取りに行ったことだ。鶏の巣にしゃがんで、コッコッと鶏の鳴き声を 真似する遊びがとても気に入っていた。  三歳でダライ・ラマの「生まれ変わり」として見いだされる前の 記述が面白い。  全体的に、聖人、偉人の伝記というよりは(というか、実際そうなの だが)、非常に率直に自分が観察し、感じ、考えたことを語る、とても 人間臭い人の回顧録という感じであり、ここに彼の政治、宗教的 リーダーとしての資質があるのだろう。  読み始めた理由は資料的必要に迫られてのことだったのだけども、 心から楽しんで読めるのは意外な喜びだ。  入試の口述試験というのは、いつも心が重くなる。とくに、研究室 の配属については、少しの偶然で大きな変化が起こってしまう。 人生というのはこういうものかと思いつつ、個別化された世界を 恨みに思う。  前回の口述で2人、今回の口述で1人。  来年、「茂木研」に来る学生3人が決まった。  晩秋には合宿をやろうかと思う。その前に生物物理学会の年会で 発表させるので、これからデータを追い込んで取らなくてはならない。  今日は朝日カルチャーで「笑う脳」の第2回め。少しchallengingだが、 Fawlty Towersを題材に使ってみよう。 2001.9.2.  自宅の近くに雑木林を残した「憩いの森」があり、朝そこを良く散歩 する。  今朝、入ると暗みの彼方にキラキラと光るもの。  パトカーの警告灯のように点滅している。  それが鋭く意識の中に侵入してきて、  一瞬何かが通り過ぎて、  その後、ゆっくりと、ああそうか、あれは、畑の上に 鳥よけに張られた両面が銀と赤のテープだと判った。  動物も、クオリアを感じることができることはほぼ確実である。  長い進化の過程で、環境の中に繰り返し表れる性質(色、音色、 明るさ、暗さ、甘さ、苦さ、香り・・・・)を、クオリアとして 認識するようになってきた。  その事情は、人間も動物も変わらない。  その意図から離れて、畑の上のテープを見つめているカラスの 脳のニューロン活動に伴って、彼らは確実に「キラキラ」した クオリアを感じているのであり、その未知の質感をおそれつつ、 心の中に甘美な戦慄を感じているに違いない、そのように思う。    世界はクオリアに満ちている。  そう思いながら道路に戻ると、制服を着た人が100メートルくらい 離れた自動販売機の前に立っているのが見えた。  なかなか立ち去らない。ジュースがごろんと転がって、それを取り出した 後も、販売機の前に立って、腰に手をあててごくごくと。  変な人だなと思って、曲がり角の向こうが見える場所まで来ると、 郵便配達のバイクが見えた。  その赤いクオリアを心の中に取り入れていると、腰に手をあてていた 人は歩き始め、バイクにまたがった。  涼しさの上に、陽光が差すとちりちりと微かに暑い気配の皮が感じられ、 配達をしていた人がやむにやまれず販売機の前で腰に手を当てて飲んだ、 その飲料のクオリアが想像され、あの人も生きている、畑の上のキラキラを 見つめているカラスも生きている、皆生きて、世界はクオリアに満ちている、 そんなことを思いつつ光の方へ。 2001.9.3.  お昼にトンコツラーメンを食べていたら、  左手の指の上に黒い小さな虫がとまった。  追い払うと、そいつはぐるぐると半径3センチメートルくらいで 回転し、再び止まった。  追い払うと止まり、追い払うと止まりを数回繰り返して、  その虫は去っていった。    再びトンコツラーメンの方に注意を戻して、スープを一口すすった とたんに、身体を衝撃が突き抜けた。  今の虫は、本当にいたんだろうか?  まるで、手の上にCGで書かれた黒い点のようだった。  止まったときの、皮膚感覚が、感じられるかどうかぎりぎりの しきいにあった。  あの虫は、現実にいた虫なのだろうか、  それとも、私の脳が作り出した、幻覚だったのだろうか。  もちろん、私が感じるもの全ては、ニューロンの活動が生み出した 表象に過ぎない。原理的に現実のものと幻覚を区別することはできない。 通常、クオリアに満ちた表象を現実のものと処理しておけばそれで うまく生きていけるというだけの話である。  しかし、今の虫は何だったのか。現実のものとして処理して良かったのか? その映像が、あまりにも微かで、弱々しいものであり、現実として 扱う確固さのぎりぎりのしきい値にあった。    私が肘を置いている赤いテーブルや、キッチンから立つ湯気や、 箸立てや、メニュウの紙や、ラーメンどんぶりや、そのような「現実」 として扱っていい環境の中に、とても小さな幻覚が入り込んでくる。 そんなことがもしあるとしたら、全てが幻覚で作り出される世界よりも、 かえってどちらなのか判らなくなるだろう。  例えば、このランチセットのご飯の上に載っていた海苔の小さな 断片、白い米の上に小さく乗っている黒い点は、本当にあるのか? それとも、安定した現実の中に密かに入り込んだ幻覚なのか?  私があの時感じた揺らぎの本質がなんなのか、1日経っても つかみ切れていない。あれは、物理主義と心脳 問題といった客観的な問題というよりは、自分が自分の感じる 世界に寄りかかってどのようにして生きていくのか、 一人称の密やかな問題だった。 2001.9.4.  先日研究所の机を取材前にえいやっと片付けて以来、 片付けたり整理したりするのがマイブームになって、 朝30分、身の回りをいろいろ片付けている。  子供の時から、物理空間の中で何かを整頓するということに 殆ど関心がもてなかった。  しかしやってみると、面白いことがある。  ここにあれがあったのか、この本はこの下にあったのかと、 自分から失われたモノたちの場所がupdateされていく。  今まで血が通っていなかった場所が暖かくなり、  新しい連想と連鎖の回路ができあがっていく。  養老さんが「手入れ」ということをしばらく前に話されていて、 ああ、これは「手入れ」なのかなと思う。  部屋の中のモノの配置は、ある意味では自分を取り囲む無意識の ようなものである。  その無意識を手入れすることによって、何かが立ち上がっていく。  手入れを怠ると、無意識は荒れて行く。  部屋の中を歩き回って、あれをこちらへ、これをあちらへとやっている と、外の空間を操作しているというよりは、自分の頭の中を操作 しているような感覚になる。  データグローブを研究に使おうということで、有明に、東工大M1の 長島くんとデモを見に行った。実際に見ないと判らないことがあり、 とても参考に。説明を聞いていると、祝詞のようなものが 微かに聞こえてくる。はて、社長さんが信仰宗教にでも凝っている のかと、少し奇妙で滑稽な感じがした。  デモが終わり、1階のスタディオに降りると、スクリーンや プロジェクタが並ぶ中、神主さんが道路の方向に向かって一礼し、 その後ろに十人くらいが畏まって立っている。  そこを私たちは通り抜けるはずだったのだが、気圧されて、こちら からにしましょうと別の出口に向かった。  「あのスタディオを全面改装しようと思うのでね。地鎮祭ですよ。」  祝詞の出所は判ったが、近未来的なスタディオの中に神主さんが装束 を着て立っている様子は、現代アートのパフォーマンスのようだった。  夜になって、関節が痛くなり、熱が出る。眠りが浅く、一晩中夢以前の 表象がぐるぐる回っていた。 2001.9.5.  行き帰り「道草」を読んでいるが、異様な印象を受ける。  漱石の偉大さは、やはり自分と世界の真相を現代的な意味で「リアル」 に見たところにあると思う。  鴎外は、「高瀬舟」一作品だけを見ても何重ものフィルターを通して 現実を見ており、漱石のような、むき出しのリアルさに対する感受性、 到達力は感じない。  むしろ大衆時代小説の先駆者とみなすべきだろう。  私の鴎外嫌いは高校の時舞姫を読んで以来だ。  「森林太郎として死なんとす」というのもくだらない話で、 勝手にすればいいと思う。  CSLで、東工大の研究室のゼミをやる。  今年のM1と、来年はいる全員で6人が始めてそろった。  ざーっと顔を見渡すと、うーむ大変だなと思う。  柳川君が、まずNature NeuroscienceにのったITの論文を紹介して、 その後M1の3人が研究構想を発表。  再びうーむとうなる。  光藤君との論文も仕上げなくてはいけないので、気が抜けない。  7時にハチ公前で池上さんとArthur, Shukoと待ち合わせた。  Arthurたちは、北九州のCCAに所属している現代アートの 作家である。  研究室の6人とともに中華料理屋に入る。  このように、日本人が殆どで、英語が母国語の人が少ない時、 日本人同士で日本語で喋る方が心地よいが、あえてずっと英語で喋る。  異質なものと対峙する緊張に耐えられなくなったらオシマイである。  Chicagoのundergroundの話をいろいろ教えてもらった。  熱は下がったが、まだ関節が痛い。  いろいろやることが積み上がっていて、athleteになるべき時と思う。 20001.9.6.  ちょうど一年前、筑波マラソンに出ることを決意したのは、 何となく身体がだらだらと落ちて行っている気がして、 「このあたりで一つピークを作らないとダメになる」と 思ったからだった。    このところ、「アクション・ポテンシャル」のような ピークを日常生活の中につくるというメタファーが気に入っている。  人間、どうせ24時間しゃかりきに頭や身体を動かすことなど できない。  だったら、ニューロンのアクション・ポテンシャルのように、 一瞬パーッと上げて、後はだらだら下がっていく。  そのようなピークが、時々あればそれでいい。  そのように考えることは、気持ちが楽になるというだけではなく、 人間と、人間の置かれた状況に関する、リアルな把握でもある。  「道草」を読了した。  どれくらい時系列の事実関係と一致しているのか知らないが、 漱石の内面としてはリアルな記述であるような気がする。  縁を絶ったはずの養父が突然現れて、金をせびる。  自分の生活も楽ではない。  時々精神の異常を来す奥さんとは、本当の意味の交流がない。  子供を含め、人類に対する同情が欠けている自分を哀れむ。  生徒の答案を採点したり、授業の準備をしていたり、何やかんや で時間的余裕もない。  そんな中、  赤い印気(インキ)で汚い半紙をなすくる業は漸く済んだ。新らしい 仕事の始まるまでにはまだ十日の間があった。彼はその十日を利用し ようとした。彼は又洋筆(ペン)を執って原稿紙に向かった。  健康の次第に衰えつつある不快な事実を認めながら、それに注意を 払わなかった彼は、猛烈に働らいた。恰も自分で自分の身体に反抗 でもするように、恰もわが衛生を虐待するように、又己れの病気に 敵討でもしたように、彼は血に飢えた。しかも他(ひと)を屠(ほう) る事が出来ないので巳(やむ)を得ず自分の血を啜って満足した。  予定の枚数を書き了えた時、彼は筆を投げて畳の上に倒れた。  「ああ、ああ」 彼は獣と同じような声を揚げた。  これが、「我が輩は猫である」の第二回目なのだから、このような 「ピーク」はぜひ持ちたいものである。  秋の気配が深まっていく。  今年も筑波マラソンに出て、あの苦しい思いをすべきか、そろそろ 決めなくてはならない。 2001.9.7.  横浜駅西口に来るのは何年ぶりだろうか?  前に来たときは、Jリーグのダービーマッチが終わった直後で、 青い旗を持った人たちが沢山歩いていたような気がする。  地図で覚えたイメージを追い、黒い旅行鞄を肩から下げて、 ふらふらと歩いていった。  日暮れ時。ホテルに入る前に、立ち食いソバでも食べたい、 そんな気分で、私の目は看板から看板へと舐めるように這っていた。  橋があった。手前で、茶髪が二人すーっと私を斜めに追い抜いて いった。  「あの子かわいいじゃん。ナンパしようぜ。」  大股で歩きながら、一人の男がもう一人に言った。  彼らの向かう先には、ルーズソックスの女子高生が一人、 橋に向かって歩いている。    突然、二人組はくるりと向きを変えて、私の方に戻ってきた。  「なんだよ、かわいくないじゃん。」  同じ男が、周囲5メートルくらいに聞こえる声で言った。  そういえば、向きを変える直前、女の子の顔をのぞき込むような 仕草をしたような気がする。  随分下卑た野郎だなと思っているうちに、二人組は視界から 消え、  私と同じように橋に向かって歩いている女の子の表象だけが しばらく心に現れ、やがて、女の子がすーっと向かった先は、 橋の手前のビルの前に座っている女子高生の集団だった。    一人じゃなかったんだ。  何となくほっとしていると、女の子がビルに近づきながら、 後ろを振り返った。  少しうれしそうな、挑発しているような、独特の表情だった。  近づく気配だけを感じたのか、最初の言葉だけを聞いたのか、 それとも、全てを聞いてのほほえみなのか。  橋を渡りながら、横浜のこのあたりに満ちている無節操な 雰囲気は、現代日本のそのものだなと感じる。  ホテルのロビーに、JSTの人たちがいて、名札を受け取る。  日曜まで、阪大の浅田さんが主催しているヒューマノイド・サイエンスの 領域探索研究会。  Introductionとget together partyが終わり、浅田さん、 入来さん、多賀さん、國吉さん、村田さんと夜の街に繰り出す。  女の子が振り返っていた橋のあたりには、小さなプレートを 持った男たちがたくさんいて、  こちらに来ないか、締めにいかがですかなどと言っている。  カラオケに入ろうと、入り口まで来たところで、別のカラオケ 店の人が追いかけてきてどうです、と言う。  入来さんが、振り返らずに、「いいです。」と言った。 2001.9.8.  10階の会場で、朝9時30分から午後6時まで、 様々な人の話を聞く。  ボディイメージに関連した話。  イタリア人が一人、ロンドンに住むイタリア人が一人。  ミラーニューロンを発見したのもイタリア人だが、 何故、ボディイメージ・リサーチはイタリア人が多いのだろうか?  北澤茂さんに始めてお会いし、とても面白い話を聞いた。  やはり、ボディ・イメージの話の中では、ミラーニューロンと 入来さんの道具使用の話が一番キレイだ。  それにしても、本来、これらの研究を含めて、クオリアの問題は ユニバーサルにどこにでも出てくるはずなのだが、表面だけを なぞっている限り、あたかもクオリアなど関係ないようである。  ここに、私が孤立する理由もある。  私も、これらのリサーチをそれ自体として聞き、議論している 時には、クオリアなしの機能主義のパラダイムの中にいる。  何か、E=mc2に相当する最初の一発がない限り、脳科学の 至る所にqualiaが出てくるようにはならないだろう。  険しい山が目の前にある。  夜、面白いことが。  食後、会議に参加している3人の外国人を連れて、横浜駅西口 前の「サンタ・ルチア」というカラオケに行く。  「英語しばりだあ。」なとと叫びながら。  2時間で十分だと思っていたが、3時間やろうと浅田さんが言って、 さすが大きなロボットの研究室はこういう気合いじゃないと引っ張って いけないなと思う。  それから3時間。とても楽しかった。  カナダから来たSteveはI can't help falling in love with youから 入り、途中Over the Rainbowなどにまったりしながら、一貫して coolに決めた。  私のとなりに座ったAngelo とElisabettaのイタリア組は大声を 張り上げてイタリア歌曲(帰れソレントへ、フニクリ、フニクラ) から入り、そのうちAngeloがわけわからなくなってロックをがんがん 歌う。  英語しばりだったはずの日本人はいつの間にか日本語のディープな 歌に行き、3人組が興味深そうに文字や映像を見る。  「上を向いたあるこう」は知らなかったが、Angeloが「This is a nice film」と言った。坂本九と吉永小百合と高橋なんとかが出ていた。  Steveがお前はThe Whoの何とかが好きそうな顔をしていると言ったが、 何のことか判らなかった。  「ギャル声」のエフェクターを通して歌う入来さん。  テニスの練習をしているノリの銅谷さん。  ソファの上に立ち上がり、歌い上げる岡ノ谷さん。  「ぼくはベースを弾いていましたから。」などと言いながら、ジミヘン など渋めの曲を中心に歌う谷さん。  浅田さんは、余裕のマイク裁き。  私は、イタリア人に乗せられて、高校時代以来のカタリカタリを マイクなしで歌ってしまった。  「イタリアにもこういう場所があるべきだ。」  帰途、  橋の上から大きな鯉を見下ろしながら、Elisabettaが叫んだ。  今朝のBBCニュースを見ると、Durbanの国連の人権に関する会議で、 historical slaveryもcrime against humanityとして認定して、 compensationをするべきだという主張が出てきているようである。 何しろ、250年も好き放題やっていたんだから、ヨーロッパ 諸国が補償するのは当たり前だと思うが、反対しているようだ。 ハワイやシンガポールを攻撃したことをヨーロッパやアメリカが 批判するのは筋違いで、なんでお前らそもそもそこにいたんだ、 ヨーロッパからの距離の方が日本からの距離より遠いだろう、 と言いたくなる。  日本の罪はぜんぜん別のところにある。  ヨーロッパに対して自分の罪を認めろと迫るためには、 まず自分の罪を認めるべきだ。  そうじゃないと、自分の感性、論理だけを振り回す もうろくじじいになる。  外人とカラオケを歌うことが重要である。  「新しい教科書をつくる会」のじいさんたちを、韓国、北朝鮮、 中国、フィリピン、シンガポール、インドネシア・・・の人たち と一緒のカラオケの会に招待したいものである。 2001.9.9.  土曜の午後、会議の公式行事は鎌倉へのexcursionだったが、 北九州CCAの三宅さんにいただいた招待券を握りしめて 横浜トリエンナーレに行った。  竹内薫と横浜駅で待ち合わせる。午前中のセッションが長引いて、 そごうの入り口の大時計に走り着いた時には午後1時10分を 回っていた。  みなと未来までどのように行くのか、歩いていけるんじゃないかと 薫が言うので、ビルの方に向かってぶらぶらと歩いていった。    こうやって、薫とゆったりと歩くということは最近滅多にない。 最後がいつだったか、思い出せない。  物理学科に入った時、文Iから入ってきた変なやつがいて、 それが薫だった。  何となく気が合って、いろいろ話した。  お昼頃に学校で会って、「バンビ」でランチを食べて、 映画に行く。そんなことを何回繰り返したか。  年月が経ち、そんな無目的なことをする余裕がお互いに なくなってしまった。    メイン会場を見て、赤煉瓦倉庫に回って、ふらふらと歩いて 目に付いたスウェーデン料理屋に入った。  薫に、一日何枚原稿を書いているのかと聞くと、6枚だという。 一月に一冊は出しているはずだから、そんなはずはないというと、 あれ、10枚くらいかなと頭をかいた。  「何字書いたかと数えられると気になってしょうがないから 判らないようにしているんだ。」  トリエンナーレにmicro joyに関する警句があって、それを気に入って 書き留めていた薫が、自分にはmicro joyがないと言う。  私が、そんなことはないだろう、まあ、お互いいい方だと思わなくては ならないだろうと、まるで小津映画のように。  とりとめのない話をしていると、まるで学生時代。    タクシーで横浜駅で降りて、薫はそのまま鎌倉まで乗って 行くといい、雨の中去っていた横顔は、風格のある大人のそれ で、はて、私はどんな顔をしていたろうと、暗がりのショウウィンドウ を。 2001.9.10.  どうにも考えが詰まったので、  雨の切れ間の中の暗闇を出かけた。  100円玉を2枚と、十円玉を数枚持ってでかけた。  ここに引っ越して来てから3年半。  ぽつりぽつりとあった空き地が減ってきている。  自然の土が、固められたコンクリートや鉄の表面になる。  最近の雨がスコールのようなのはこのようなミクロがマクロに 蓄積することも関係しているのだろう。  暗闇の中、半年前に建ったばかりのアパートのベランダに白い ものが見える。  中に住むヒトの息づかいは聞こえない。  「ピルクル」と「だから」を一つづつ握り、同じ道の逆から見た 風景の中を帰る。  台風が接近しているらしいが、そよ風の吹く街に雨はなく、  虫の声が聞こえてくる。  ああ、気持ちのいい夜だ、このままずっと散歩していようか。 そんな気分の中、先ほどまで考えていた問題を再び考え始めた。  ざーっ。  突然、何の前触れもなく雨粒が落ち始めた。  クレッシェンドで強くなって、歯止めが利かない気配がした。  私は、「ピルクル」と「だから」を握りしめたまま走り始めた。    駐車場の横に植え込みがある。その横に、果樹園がある。  虫の声は、そのあたりから、 走っていく私の耳にも届いてきた。  包み込むように。  雨音の中、その声が少し弱く、ためらいがちになってきたように。  印象。    ドアにたどり着く。  雨の音が強まって、雨のあたらないこの空間にも風の動きが 感じられる。  アルミの缶とガラス瓶の表面には、細かい水滴が着いている。  あの虫たちは、どうやってこの雨をやり過ごすのだろう。  そう思った瞬間、葉の裏から空を見上げ、自分の身体と それほど変わらぬ大きさの水滴が落ちてくるのを感じる、その世界が 仮想的に自分の中に入ってきた。  小さな彼らが体験する世界の中にあふれる質感のスケールの大きさ。 2001.9.11.  酒を飲むのは好きである。  人と会う時に飲む。  先週のように、会議があったりすると、基本的に飲む。  そんなに深酒はしないけれども、ビールやワインを飲む。  ウィスキーやジンなどの強い酒は、あまり好きではない。  親友の田森は、逆で、強い酒じゃないとイヤだと言う。  外国の会議とかで一緒の時、出国の免税店でボトルを買って おくと、帰国までに田森が全部飲んでくれる。  もちろん、私も少し御相伴する。  アルゾナで会議があったりすると、砂漠の真ん中にいって 二人でウィスキーを飲む。  そういう時間は心から楽しい。  基本的に家で飲むことはない。  それで、二日間、何も飲まなかった。  毎回思うが、アルコールを抜くと、身体の毛細血管の中で、 じわじわと森林の朝のように復活してくるものがある。  それが何なのか判らないが、とにかく、アスリートのように 身体を動かそうと思ったら、酒は飲まないに限るということは判る。  しかし、精神的な話はもちろん別である。  うまく酔うと、今まで気が付かなかった細かなクオリアの ニュアンスが自我の中枢に直接訴えかけてくるようになって、  こうなるとしめたもので、私は黙ってグラスを揺らしながら 光や音をじっくりと感じることを繰り返す。  知らない人は、今まで喋っていたのに急に黙るから、眠くなった のかと思うが、実は脳の中はこの上なく活性化している。  大阪大学理学部(豊中)での集中講義や、神戸大でのPoeppelさんの 講演会、それから認知言語学会に出るため、今日の夜から日曜まで 大阪、神戸方面。  集中講義に呼んでくれた時田が、うまい酒を用意して待っていると言う。  時田と会うのは芽室以来だ。  また、世界が美しいクオリアに満ちていることに気が付く 時間が訪れるだろうか? 2001.9.12.  「最初はな、冗談か何かと思っていたんや。コンピュータか何かで。 飛行機がこーぅ来てな。あのビル、高いやろうな。110階か何か やろ。」  「それにしても、洗脳されてしまったのかどうか、恐ろしいこと ですな。あの人やらはどうなったことか。自分らもまったく判らな かって。テレビ見ている人から電話があって、それで初めて。 地震かいなって。」  「ぜんぜん、避難せいとか、そういうの判らんかったって。」  「午前3時までテレビずっと見ていたわ。眠れんかった。」  豊中のホテルに泊まっている。  朝のレストラン。あそこのテーブルでも、ここのテーブルでも、 人々はNYのテロの事ばかり話している。  午後10時半にホテルに着いて、明日からの大阪大学の集中講義の 準備をしようと思い、その前にメイルをチャックしてasahi.comを 見たら、大変なニュースが出ていたのでテレビをつけた。  現実のものとは思えない光景が。  そのまま、午前2時まで見て眠りについた。朝起きると、テレビは まだその続きをやっていた。  崩落の際に犠牲になった消防士だけでも200人。そのような話を 聞くと、心が痛む。  しかし、同時に、これでアメリカのvirginityが終わったのだなとも 思う。  認知バイアスというものがある。  NYの超高層ビルに、飛行機が突っ込む。  映像としても派手だし、人々は騒ぎ立てる。  しかし、同じように悲惨なことは、世界のここかしこで起こってきたし、 今も起こり続けている。    湾岸戦争の時、バグダットの街の上を飛び交う砲火はまるで花火のようで キレイだった。  しかし、その下では今回のNYと同じような阿鼻叫喚のシーンが 展開されていたに違いない。  アメリカ人は、clean warということについて、ベトナム以降も ある種の幻想を抱いていたように思うが、その根本的理由は、自国の領土 が、しかも、自分たちが自国のspiritだと感じるような場所が爆撃された ことがない、そのimmunityによる、私はそのように思ってきた。    東京の芝の増上寺には、かって、国宝級の至宝が数多あった。  大戦中の空襲で、それは全て失われた。  3月10日には、一晩で10万人の命が失われた。  原爆のことはあえて言うまい。  そのような目にあってきた日本のような国は、戦争の実体が いかに悲惨で、救いのないものか、その実感を持っている。  ただ、その悲惨さが、CNNのテレビで生中継されるような、 派手なものではないだけである。    亡くなった方のご冥福を祈る。  この事件を、アメリカ人が戦争の実体について 目を覚ますきっかけにしてくれればいいと思う。  キレイな戦争など、ないのだ。ミサイル防衛構想など、幻想に 過ぎない。  アメリカが、自分の身体はプラスティックのようにimmuneだという 幻想から解放され、自身のvulnerabilityの真相に目覚めたとき、 世界中の人々がかって経験し、今も経験しつつある悲惨に目覚めたとき、 本当に何かが変わるかもしれない。 2001.9.13.  オウム事件や、阪神大震災の時もそうだったが、  世界の見え方というのは一瞬にして変わりうるものだなと思いながら 蛍池から阪大方面に歩く。  豊中キャンパスに来るのは久しぶりである。  ランチタイム、カフェテリアで、カルボナーラを食べる。  学生が座っていて、その前に相席していいですかと小さな声で 言ったつもりだったのだが、黙っている。  見ると、みな、何の断りもなくどんどん座っている。  ロシア人のように見える人が、カレーライスとサラダを持って 座り、ビールの自動販売機でキリンラガーを買ってきてうまそうに 飲み始めた。  私はコーラを飲んだが、紙コップが返却機に入れると粉砕されて 10円戻る仕組みになっている。  後で、ホストの人たちにビールやデポジットの話をしたが、誰も 知らなかった。  確かに、学生たちと目白押しに座って食べるのは、気分的につらくなる のかもしれない。  集中講義は、予想に反して物理学教室の人たちが全てだった。  前に座った菊池という人が、いろいろスルドイ質問を投げかけて くるので、聞いてみると、あの有名な菊池誠さんだということが判る。  髪の毛が長くて、髭をはやしていて、ジーザスみたいな感じである。  授業終了後、居室に戻り、しばらくだべってから、時田さん、阿久津さん、 伊藤さん、菊池さんと石橋の近くの飲み屋に出かけた。  自然に、話題はアメリカのことになる。瀬名秀明さんの小説や、 伊藤さんのイギリス留学時代のことも話題に。    ホテルに帰ってきてバニラアイスクリームを食べていると、 ブッシュが、This is a war between good and evil.などと言っている。 もちろん、自分たちがgoodというつもりなのだろうが、God Bless America. という言葉とともに、強い違和感を感じる。  やはり、全ての生きとし生けるもの(自分の敵を含めて)に対するcompassionを説いた、仏教の方が、よほど世界認識としては深化し、 洗練されている。  叡智の足は遅く、反射的怒りの足は速い。    今日も午後から授業。朝食の後、携帯してきたスキャナーで幾つか 図を取り組みながら、シャドーボクシングをして昨日飲んだ酒を 散らそうとした。 2001.9.14.  石橋の駅でリゲインを買って、飲みながら歩く。  途中でおにぎりを買い、間に合わないと学生の間を歩きながらパックを 開けた。    理学部の手前で、8月28日の日記に書いたのと全く同じ 幾何学的配置で、3頭のアオスジアゲハが飛んでいた。  してみると、このような行動を取るのは、アオスジアゲハにとっては 普通のことなのだろうか?  メンタイコおにぎりを食べながら、もうしばらく見ていたかったが、 じろじろ見られるし開始時間も迫っているし、やめた。  集中講義二日目。  前半は、クオリアの問題の核心について、話した。  相互作用同時性の問題。  物理的にぐにゃぐにゃと広がっている皮質の中のニューロンの活動から、 どのようにして視野の中に並んだクオリアが生まれるのか?  全てのニューロン活動の中で、一部分だけが意識にcontributeする のは、どのような第一原理によるのか?  話しながら、「脳とクオリア」で書いたこれらのfundamentalな 問題は、未だにfundamentalなまま、そして未解決のまま残っている のだよなと思う。  そういうことを思い出すのも集中講義をすることの意味か?  後半は両眼視野闘争の話。  こちらは具体的で、データもあり、ぐんと話しやすい。  ガンマ分布のグラフで、阿久津さんの目がキラリと光り、  スルドイ質問がどんどんと。  時田さんがうまい酒を用意してくれていて、B406号室で 宴会。  田谷くんも来る。  こうやって、大学の居室で酒を飲むのは久しぶりである。  物理学科の雰囲気といい、十年前に帰ったような気分になる。  その後、沖縄料理屋へ。  小川さんは誰か知っている人に似ている、しかし思い出せない と思いながら、ゴーヤや泡盛を口に。  再びアイスクリームを食べながらニュースを見る。  下敷きになった人、突っ込んでいった人、テレビの画面で見た人。 様々な人の感じたリアリティについて考える。  今日は神戸大学に行き、Poeppelの話を聞く。  明日は大阪外語大学で認知言語学会。 2001.9.15.  阪大の集中講義、最終日が終わる。  理学部B406号室で伊藤さんの入れてくださったコーヒーを飲みながら しばらくだべった後、  時田と神戸大学に向かった。  いつも郡司さんの研究室に行ってかえってくるだけなので、 100年記念館がどこにあるのか、よく知らなかったが、  スリット状に空いた吹き抜けから、港が、海が見渡せる。  ここで研究会をやりたいなあと思いながら、2階の会議室に 入っていった。  お目当ての話は終わっていて、話をだらだら聞きながら、 Trends in Cognitive Sciencesの論文を読む。  見ると、となりの時田もノートになにやら計算している。  西田をはじめとする京都学派の戦中の振る舞いについての話になったら、 急に面白くなったので真面目に聞いたが、  その前の話はアホらしくて聞いていられなかった。  日本語の「とき」には熟するというような意味がある。  「時間」というのは明治にTime やZeitの訳語としてつくられた。  そんな話を延々とされても、時間の根本問題にどんな関係があると いうのか?   時間がどんどん流れていってしまう、その「今」に私はいる。 そのどうしょうもなさに正面からぶつかることなしに、くだらん 語源問題を語ることであたかも時間について考えているかのように 勘違いする。  ある種の講壇哲学屋の陥るこの種の態度は私にはガマンができない。  私は、哲学者、ないしは思想家の価値は、その知的勇気によって はかられると思っている。  ヴィットゲンシュタインが偉いのは、我々が暗黙のうちに前提にして いる様々なことを根底から問い直すしんどい作業をしたからだ。  そのような勇気のない人は、文献学者であっても哲学者ではない。  郡司さんがofficial partyを終えて9時頃合流する。  三宮のダイニングバー。  志向性について語り合う。  この人は本気の人である。知的勇気のあるヒトである。  茂木さんに会って以来、口調が移ってしまって困っているといわれて びっくり。  私こそ、郡司さんのしゃべり口に影響されているかもしれないと 思っていたからだ。  ヘルニアが痛いので酒を飲まないという郡司さんの肩をつかんで、 夜の街を歩いていった。  どこまでも歩いて行きたかったが、身体の調子が悪いというので タクシーを拾って、私はホテルで降りた。  今日は大阪外語大学で認知言語学会。池上高志さんらと。 2001.9.16.  認知言語学会が行われる大阪外語大学は、阪急の北千里から 車で10分くらい走ったところにあった。  景色が郊外のそれになって、道の周囲に水田や、壁にスティールの 広告板をつけた民家が見えてきて、  そういえば大阪の周囲でこのような風景を見るのは初めてだなと 思った。  どこか、九州を思い出せるところがある。  大阪に住んでいたら、車に乗って、このような風景をどこまでも どこまでも日本海に向かって北上する。  そんな生活もあったのだろうと夢想しているうちに着いた。  メインシンポジウムがあまりにもヒドイものだった。  じいさんたちが、自分の専門でもないダーウィニズムや心の 理論について繰り言を言っている。  せめて、専門の言語についてキラリと光ることを言ってくれれば いいのに。  後で聞くと、若い学生や研究者はみなヒドイと思っているとのこと。  どうやら、それをexplicitには言えない権力構造ないしはコンテクストが あるらしい。  主催者の中に(友人の池上高志と区別するために)「グレート池上先生」 と言われる人がいて、要するに認知言語学会の中心人物なのだが、 この人も、直接話すといろいろ言ってくれるのだが、publicの場面では 立場を考えて発言をひかえるとのこと。  その「グレート池上」先生がメインシンポの司会だった。  私は基本的に思ったことを言うほうだから、あのまま会場にいたら 「不規則発言」をしていたかもしれない。  時田が来て会場に来て外に出たので、難を逃れた。  「プチ池上」池上高志がオーガナイズした「複雑系と言語」 のワークショップは面白かった。  終了後、6人で梅田の近くの居酒屋に。  岡ノ谷一夫さんが「こういう店はつみれ鍋がいい」と言ったが その通り。  「プチ池上」高志に電話があって、別の場所で飲んでいた 若き言語学者たちに合流することに。  ワークショップの渡辺さんの発表に文句を言おうと思ったが、 マシュマロに腕押しのようで適当に停戦。  よくわからずワインを飲み、言語学の現場感覚というのを一度 つかんでみる必要があるのかもしれないと思いながら午前0時を 越える。 2001.9.17.  8時に起きて下のレストランに降りていったら、何だか狭くて 暗いので、朝食を食べる気がなくなって、そのまま部屋に戻ってチェック アウトした。  9時前には、新幹線のぞみに乗って東京に向かっていた。  餃子弁当を食べると、眠気が襲ってきて、名古屋を通過したのは 覚えているが、気が付くともう新横浜だった。  東京に帰ってきて、ビルを見ていると、あの2倍、3倍の高さの 建造物に旅客機が衝突したんだよなと思う。  絵もそうだが、音響のすさまじさだけは想像がつかない。  アメリカに批判的なことも書いたが、基本的に、一般市民が 巻き込まれるテロが悲劇なのは言うまでもない。  テロリストたちは、アメリカで航空訓練を受けた。数百万円を 払えば誰でも、という、アメリカの自由なシステムをいわば利用 したわけである。テロリズムそのものが、アメリカの自由なシステムが 存在しなければ不可能だったろう。  その意味で、テロリストは実はアメリカのシステムに依存している、 寄生しているということもできる。  しかし、「戦争」と言われて違和感があるのは、この行為が、 国家によるものではなくて、世界中に緩やかに広がった、個人の ネットワークによるものだということである。  報復するといっても、一体どこを攻撃すればいいのか?  サイバー空間にいる敵を、物理的空間のどこかを叩いて 壊滅しようというようなもので、インターネットを破壊するのに、 そこここにあるサーバーマシーンを破壊しようとするのに似ている。 New Warなどと言っているが、この事態の新しさを どれくらい深刻に考えているのだろうか?  旅客機でビルに突っ込んで、自分を含めて無差別に殺戮する。 このような行為は、確かに狂っているように見える。  確かに、アメリカをはじめとする先進国で安定した市民生活を している人から見れば、狂気の沙汰のように見えるだろう。  だが、突っ込んだテロリストも人間である。彼らが、家族を残し、 自らの死を持ってまでWTCを破壊しようとしたのは 何故か? なぜ、そこまで彼らは追い込まれたのか?  その生活のリアリティが想像できなければ、このようなテロリズム の根本原因を取り除くことはできない。  そのようなテロリストを生み出した生活環境、生育環境のリアリティを 想像できずに、単に敵、悪魔だと片付けるところにブッシュに代表される アメリカ人のメンタリティの限界がある。  「この卑劣な行為をしたやつらは、必ず報いを受けるだろう。」 そのようにテレビに向かって話すブッシュの顔を見て、五十余年 前には、日本に対してまったく同じようなことが言われていたの だろうと考える。  テロリストたちのリアリティと、自分の国の半世紀前のリアリティに 共通点があるかもしれない。  自分も、また、彼らの置かれた環境のリアリティに置かれていたら、 旅客機に乗ってWTCに突っ込んでいたかもしれない。  そのような想像力の行使を経由して、初めて自体が本当に変わるのだと 思う。  アメリカには美質が多くある。しかし、自分たちの価値の 普遍性に対する信仰が強すぎることで、全く異なるリアリティを 持つ(それも同じ人間なのだ!)人たちの立場に対する感受性が 欠けている。  アメリカ人にとって、今はretaliationの時ではなく、soul searching の時であるべきなのだと私は思うのである。 2001.9.18.  今回の事件について、親しい人の何人かの意見と、私の 意見は、表面上違いがあるように見える。  竹内薫は、子供時代をNew Yorkで過ごした。New Yorkには、 強い愛情を抱いていて、その美しい街がこんなひどい状態に なったことに、強い憤りを覚えるという。  また、イスラム原理主義に限らず、そもそもイスラム文化の 反ヒューマニズム的側面、例えば女性に対する抑圧的な扱いに ガマンができないと言う。  「悪魔の詩」の著者や翻訳者に対する迫害も許容できない と言う。  New Yorkには計2週間しかいたことがないが、確かに、あの自由な 雰囲気(特に南のSohoやGreenwich Villageのあたり)は他には得難い ものがある。  イスラム文化における人権の抑圧に対しては、私も薫と全く同意見で ある。  本を訳しただけで殺されてしまっては、たまらないなと思う。  Chicago在住の友人からは、茂木はアメリカに対して厳しすぎる、 Bushやハリウッド映画だけがアメリカではないという意見をいただいた。 これも確かにその通りで、多様さこそ、アメリカの本質である。  以前、日米学生会議に参加して1ヶ月アメリカに滞在した時、 Opening Partyでアメリカ側がI am a typical Americanという出し物を やった。  「私の母はイタリアから、私の父はギリシャから移民してきました。 私はその子供です。私は典型的なアメリカ人です。」  「私の祖先はアイルランドから来て、私は5代目です。私は典型的 なアメリカ人です。」  「私の祖先はアフリカから来ました。私が何代目かは判りません。 私は典型的なアメリカ人です。」  ・・・・・・  どんな人でも、典型的なアメリカ人である・・・・  4年前にアリゾナの学会に行った時に、砂漠の中をどこまでも 車で走っていき、数時間民家が見えず、やがて下がり始めて カリフォルニアに降りていった時、「ああ、私はアメリカと 恋に落ちているな」と思った。  カリフォルニアから数時間走っただけで、そこには広大な 手つかずの土地がある。  サンタモニカの海岸の美しい人工生活と、美しい無垢の自然が すぐ近くで共存している。  あのような巨大なフロンティアが ある国というのは、やはり特別な国である。  それにも関わらず、私が今回のテロ事件でアメリカに自制を求めるのは、 これが基本的に強者対弱者の問題であるように思うからである。  イスラム原理主義が台頭し、反米感情が強い国のアメリカ大使館の 前には、ヴィザを求める人の長い列がある。  人々は、アメリカという繁栄のシンボルにあこがれているのである。 アフガニスタンの一人あたりの国民所得は700ドルで、Bostonと Los Angelsの間の航空運賃程度だという。  犯人たちは、今回のテロをやるに際して、母国の平均年収と同じ 額を使わなければならなかったのだ。  イスラム文化の中で生きている人たちは、平均で見れば圧倒的に貧しい。 テロで自爆するのも、典型的には貧しい境遇で育った若者たちである。  このようなことを考えたとき、  私は、人権や自由というそれ自体は否定しようのない価値を 説教することが、別の視点からすると、強者の弱者に対する抑圧に 通じないかと懸念するのである。    様々な行き違いがあったとは言え、真珠湾攻撃で「卑怯者の邪悪な やつら」と決めつけられた日本人が、「自由の国」アメリカについには 原爆を投下されるところまで追いつめられたのはたった半世紀前の ことである。  あの頃の日本人も、アメリカとの関係で見れば弱者だった。  弱者が、様々な奇妙な思考回路に陥りがちなことは、より小さなスケール、 個人レベルで見ても明らかだろう。  だからといって、弱者の上に原爆を落としていいということにはならない。  「正義」の暴力は許容されると思っている限り、アメリカは本当に 成熟した国にはならないだろう。  いろいろな意味で、今回の事件がアメリカがより成熟した、魅力的な 国になるきっかけになればいいと思っている。  アメリカの課題は、それでも、イスラム諸国の課題よりはよほどやさしい。  アメリカはあくまでも強者だからだ。 2001.9.19.  またあの苦しい思いをするのかと思いながら、 11月25日のつくばマラソンにエントリーした。    数日前から走り始めている。  光が丘公園を走っていると、野球場でよく試合をしている。  30分くらい走ったところで、水分を補給しようと、 ポケットにしのばせておいた120円でポカリスエットを 買った。  バックネット裏で風に吹かれて見ていると、7回の裏。攻撃が 終わり、審判の周りに両チームから2、3人集まって協議している。  「時間もないしね。」  「監督会議で、サドンデスでいいと決まったんですよね。」  「じゃあ、1回表裏やって、それで決着しなかったら、じゃんけんと いうことで。」    私には、サドンデスというものが何だか判らなかった。1点入った 時点で終わりというのでは、先攻の方が有利になってしまう。  いったい、どういうことなのだろうと思っているうちに、先頭 打者がライトフライを打った。ああ、取った取ったと思ううちに、 何か変である。三塁から走者が突っ込んでくる。見事なバックホームが あり、タイミングはセーフに見えたが、球審の右手が高々と上がった。  「やった、やった、これでもらった!」  守備側のチームが歓喜している。  なぜ三塁に走者がいたのか、なぜチェンジになったのかと考えている うちに、ああ、そうか、サドンデスというのは、走者を置いてワンアウト から始めるのだなと気が付いた。  裏の攻撃になり、何だか若くてすばやそうなのが、お前行けと 三塁に押し出されて、にやにや笑っている。  先頭打者がバッターボックスに立ち、染みいるように鮮やかな ユニフォームを数えてみると、一塁にも、二塁にもランナーがいた。  ワンアウト満塁だから、これは点が入るだろうなと思って見ていると、 内野ゴロでホームアウトになり、最後はピッチャーフライになって、 ついにじゃんけんになってしまった。  ジャンケンポン! ワー。  ジャンケンポン! ウォー。  ホームの前に一列に整列したユニフォーム姿の男たちが、 雄叫びを上げている。  やがて、片方のチームがわーっと歓声を上げ、身体をぶつけあって お互いの肩を叩いた。  「いい試合でした。最後に、握手して終わりにしましょう。」  審判がそう言って選手を整列させ、試合は終わった。  勝った方のチームがバックネット裏のワイシャツ姿のオジサン たちに向かって一列に並び、礼をしそうな気配になったので、私は そそくさと逃げ出した。他にも気配を察知した野次馬が一人。  私の視野の隅に、帽子をとって深々と礼をする男たちの姿。  「まあ、とにかく勝利は勝利だから。」  ワイシャツおじさんが満足そうに言った。  再び走り始めた私の目に、「君よ北東京の星になれ。ヤマト 運輸***営業所」という幟のイメージが入り込んでくる。  そうだ。アスリートだ。  マラソンまでに体重を5キロは絞りたいと、どうせできない 算段をしながら、再び木立の中を走り始める。 2001.9.20.  仕事に追い込まれていて、かなりの量のことを10月中旬にかけて しなくてはならない。  険しい山が幾つかある。  走っても体重があまり減らないような気がするので、 ついに筋肉トレーニングを始めた。  何かというと、床の上に寝転がって、腹筋や腕立てをやる。  回数を数えるのではなく、リズムの中に取り入れる。  普段より遠くの駅まで歩いて、その間、40分間、クオリアの 問題について集中的に考えた。  本当に考える時には、外部からの入力に依存しないで、脳の中で 「体操」をする必要がある。  「体操」を始めると、脳が今までにない形で活性化し、血流が 変わることが、内的感覚として判る。  fMRI や MEGといったメタファーが得られる前から、そのことは 知っていたように思う。  人生の究極の目的とか、達成すべき課題とか、そのようなことを 考え始めると混迷する。  確かにクオリアは解くべき問題だが、現状では様々な部分問題 に一見分かれていて、それらにとらわれると、本質が隠蔽される。  鳥瞰図を見ようとしても、あそこが、ここが、曇っている。  これは、先が長いということだけは判る。  三段跳びの織田幹雄が、競技する際に、身体が躍動する、 その喜びを味わうためにやっているのだ、そのようなことを 言ったと読んだことがある。  結局、思考する喜びもそれに尽きる。  修行のようなもので、苦しみを積み重ねていった結果、 生まれる清澄な瞬間がある。  Osama bin Ladenだが、世界中の人々の脳の中に、テロの イメージが植え付けられ、人々がそのことについて考える ことによって失われるCPU timeが、実は最大の被害なのではないか。 私も、何回もあのイメージを心の中で再現した。イスラムについて、 アメリカについて、追いつめられた人々について、突如死を迎えた 市民たちについて、グローバリズムについて、資本主義について、 随分考えた。  でも、そろそろいったん切り離すべき時かなと思う。  そうでないと、知らずのうちに流されることになる。  今日から再びロード生活。  国際シンポで札幌に行く。  郡司さんや三宅さん、相沢さん、Poeppelらが参加。 2001.9.21.  どうしても終わらせなくてはならない仕事を必死になって終わらせて、 午後8時5分発の日航機に飛び乗った。  空腹であり、とにかく眠い。  空腹だと普通目が冴えそうなものだが、ああ、こうやってエネルギーを 節約しようとするのかなと思う。  「転校生とブラックジャック」を読みながら、いつの間にか意識が なくなる。  どすんと音がして、もう飛行機は滑走路を走っていた。  三宅さんがとってくださったホテルは、北10西4,北大のすぐ近く。 駅から北に向かって10分ほどだった。  入り口で、相澤洋二さんに出くわす。  ローソンの袋を持っている。  「今食事して、もどってきたところなんです。来たときには、誰も いなかったみたいです。」  とてもエライ先生なのに、いつもとても丁寧な口調。  あっ、そうですかとお辞儀をしながら、チェックインを済ます。  どこかで食事をしようと出ようとして、ふと思いついてフロントの 人に郡司さんは来ていますかとたずねた。  「いらしています。その方は4階の10号室です。」  電話をかけると、今シャンプーを頭につけたところで、15分後 くらいに待ち合わせようと言う。時計を見ると、11時。  それでいったん切ったが、どうにも空腹で、ふらふら外に出ると、 ホテルの向かいに「おばちゃん」という焼鳥屋がある。  何時までやっていますかと言うと、12時までだ、まだ大丈夫 と言うので、ホテルに戻って、向かいの「おばちゃん」にいると再び 電話。  カウンターに腰掛け、生ビールを飲み、突き出しの茄子を食べていると 案外早く郡司さんは来た。  私「永井さんのコピー人間の思考実験を読みながら来たけど、どうも どうなんだか。睡眠の前後でなぜ「私」 が継続するのか、その類の問題の方が深刻のような気がする。」  郡司「いやあ、オレは、子供の頃から死ぬのが怖くて、いつも自分が 死ぬ夢ばかり見ていて、身体がバラバラになる夢とか見ていて、 それで、その時、まさにその問題を考えて。で、ある時、 じゃあオレは死ぬのが怖いと思っているけど、瞬間瞬間のオレは なぜ連続していると思っているのか、本当は一瞬一瞬死んでいるじゃないか と。そんなことを考えて、死につつ私ということを考えて、で、 死を超えてつながる存在っていうのかな。そんなことを。」  私「郡司さんは刹那というのを体感したことがありますか。」  郡司「いや。」  私「どうも、時間の感覚が本質のような気がする。連続性の擬制が 行われているのだけど、そういう感覚を一度ばらばらにすると、 郡司さんの言う生きながら実は死んでいる、そんなことが見えてくるような 気がする・・・・」  店を出て、ローソンでワインやスナックを買い、三宅さんのいる 507号室のドアをノックした。  三宅さんは我々の姿を見てにやりと笑い、  「いや、ちょっと今日は仕事をしているから。明日だったらOKですよ。」 と言うので、そのまま郡司さんの部屋に行って、2時まで飲んだ。  「ああ、何だかしんみりとしてしまったよ。」  昔のことを思い出して郡司さんが神妙な顔つきになり、私は、 赤にロゼを混ぜた微妙な色は生まれてはじめて見たような気がすると 感じていた。 2001.9.22.  レストランに降りていったら、  入り口から続くカウンターに、コップとカップ、それに白い布 に覆われたパンが置いてある。  それが全てだと悟って、あれまと思う。  朝食券はラミネートされて再使用するようになっているし、 徹底的に合理的なホテルである。  10時前に410に電話したら、「今起きたところです。」と。 部屋に上がっていって、一緒に外に出た。  冷たい風が突き刺さり、骨まで寒気の粒が忍び込んで くるように感じる。  「茂木さんTシャツで大丈夫ですか?」  郡司さんのその言葉に、大丈夫じゃないということに気が付いて、 私はブルージンズのジャケットを羽織った。  それでも大丈夫ではない。  「服を買ってもいいですか」と聞くと、  「何か食べたいですね」と帰ってきた。  札幌駅の駅ビルの中で「札幌ラーメン」を食べ、その後7階に9 月15日にオープンしたというユニクロで茶のセーターを買う。  昇りのエレベータの中で、ドアを背にして立つと、私より背が 随分低いおばあちゃんたちが、丸い顔を上に向けて階表示を見ている。 その、顔が並んだ感じが何かに似ているなと思い出そうとしていて、 今朝になって、ああ、ボッシュの絵に大きな顔が細密にならんだ のがあったなと思い出した。  Name tagにはKenichiro Mogiと書かれている。Ken Mogiなので、 カミソリで剃ろうと思ったが、いつものことなので、Ken Ichiro とmiddle nameにしてしまおうかと思う。  シンポで話す。Have much time do I have?と聞いた時には4分 前だった。郡司さんの英語版の話と、三宅さんと相澤さんの話を 初めて聞いた。  懇親会の後、焼鳥屋でPoeppel夫妻も交えて話す。  OktoberfestにErnst Poeppelは行きたいのだが、奥さんのEvaが 今年はテロがあるかもしれない、あぶないからやめろという。  Ernstが何か言おうとすると、Evaがそれを制止してまくしたて、 Ernstがしばらく黙って、「May I continue?」という。  あれ、これは話者交代(turn taking)の素晴らしいケースだな と思っているうちに、店は12時でオシマイになり、 氷雨の中を京王プラザホテル(なぜか札幌にそのような名前が) にタクシーで行き、バーでまたしばらく飲んだ。  さらにホテルに帰ってきて、郡司さんの部屋で三宅さん、相澤さん と4人で飲んだ。  郡司さんが寝てしまったので、カッパえびせんを口に二つ入れたら 牙のようになった。  しばらくそのまま眠っていたが、やがてむくっと起きあがった ら間髪を入れずにえびせんをむしゃむしゃと食べ始めたのは さすがだった。  郡司さん、三宅さん、相澤さんとは、10月の生物物理学会で 再びシンポジウムをやる。  しばしさらばである。 2001.9.23.  時々無謀なことがしたくなる。  テロの影響でアメリカ人が来なくてセッションがなくなり、  それじゃあというのでチェックアウトして荷物を札幌駅の ロッカーに預け、そのまま藻岩山方面に向かった。  登山口まで歩いて一時間くらいだろうと読んで いた。  札幌の街をこんなに歩くのは初めて。  大通り公園から小学生のブラスバンドが行進している。  その近くのコンビニで地図を買い、時々開きながらひたすら歩いた。    慈恵会病院の奥の登山口に着き、ダカラを飲んで一息つき、 おもむろに登り始めた。  谷間の一番上がほぼ中間点。ここまで30分で、しばらく休んでいると、 下の谷を白い鳥が横切って行く。  ちゅん、ちゅんというような感覚で、次々と2、3羽の単位で鳥が 横切っていく。  ああ、谷渡というのは本当にあるのだなと思いながら、ぐっしょり 濡れたTシャツに風を受ける。  山頂の売店でコンサドーレ札幌の赤いTシャツを買って、トイレで 着替える。  個室に入ろうとして、そういえば前にもここでこうしてTシャツを 買って着替えたような、と思い出す。    ロープウェーの駅からも再び歩き出して、南7西12の「てつや」を 目指す。  白石区に親戚のある田森佳秀に電話して、「てつや」というラーメン 屋はおいしいよと教えてもらったのだ。  西屯田兵通りの住宅街のその店に着き、十数人の列の最後に並んだ。 あまり列をつくってまで食べることはしないが、ここまで来た心理的 コストが高いので、諦めきれない。  トンコツの臭みが全くないしょうゆスープに背油の粒が浮き、こんがり と外側が焦げた柔らかい焼豚の載ったラーメンは、確かに普通はない 清澄さと繊細さを持っていた。  羽田に着陸する前のしばらく、地上の星たちを見ていた。  暗い所は森なのか、海なのか。  そんな心の幾何学をしばらくやっていて、突然、空と、海と、 黒い広がりの間に区別がなくなって、地球という丸い塊も なくなり、ただ一つながりの空間の中に星々が浮いている、そんな 表象が立ち上がり、うわーと叫びたくなった。  月のない夜の夜間飛行士が見る夢幻の世界についてある メタファーを得て、札幌で飲んだアルコールがすっと消えていく ような気がした。  帰宅の電車の中でダライラマ自伝を読了。  中国がチベットでやっていることはジェノサイドである。  彼らは、モンゴルや満州でも同じことをやっている。  共産主義のイデオロギーなど、手前勝手な帝国主義を隠すための 巧妙な言い訳に過ぎない。  一人一人の生身の中国人とはフレンドリーにつき合うが、  中国の政治文化については何の同情も持たない。  一人一人の中国人とは人間として向き合いたいが、  中国の今の政治文化は地球上に現れたガン細胞である。  経済発展が、結果として中国のミームを「自由」や「他者」を 尊重する方向に導くことを願いたい。 2001.9.23.  郡司ペギオ幸夫と札幌駅に歩きながら話した時のこと。  今回の事件について、私と彼の感じ方は基本的に似ていると思った。  私は、今回のテロを見て、世界がもともと悲惨な事件の可能性を はらんでいるということを思い出させられ、厳粛な気分になっただけで、 あのような事態が悪意によってもたらされた例外的なものだとは 思わない。実際には世界のあちらこちらで、今も、かって、そして これからも悲惨なことは起こり続けている。人は死に続けているし、 暴力は加え続けられている。たまたま今回は旅客機がビルにぶつかり、 CNNが生中継したから「認知バイアス」で人々の記憶に強く 印象づけられただけだが、同じように、いやそれ以上に悲惨なことは アフリカで、チベットで、ロシアで、中国で、かって、今も起こり 続けているじゃないか、世界から悲惨を取り除こうとするのならば、 旅客機がビルにぶつかる方だけじゃなくて、他の目に見えない悲惨 にも気を払うべきだ、そのように言ったのだが、郡司は、  「いやあ、ぼくもそうなんですよ。阪神大震災(彼は神戸に住んでいる) の時も、ぼくは、そのことに驚くというよりも、むしろ世界がもともと そのようなものだったということを再確認しただけだったんですよ。」 と言った。  私と郡司は、それから、  もちろん、そういうことと、もし現場にいたらどうしたかという ことは違う。私だって、現場にいたら、人を助けようとビルの中に 入ろうとしたかもしれないし、それで巻き込まれていたかもしれない。 しかし、そのような、現場にいたらどうするかという話と、ああいう 事件を世界観の中でどう位置づけるかという話は別問題だ。 ということについて話しながら、札幌駅のラーメン屋を目指して いったのだった。 2001.9.24.  何となく、ほぼ二ヶ月くらい前だろうか、北九州でのBridge the Gap の会議の際に、朽網(くさみ)まで行ってみた時のことを書きたくなった。  母の実家が小倉近郊の下曽根というところにあって、子供の頃、 夏毎に里帰りしていた。  朽網というのは、母の妹が嫁いだ先で、平原さんという、大きな農家 がある。  確か小学校の一年の頃だったか、一ヶ月一人でいたこともあった。  (子供心には)巨大な裏山があって、そこに、関東では見たことも ない虫がいたから、夢中になって毎日通ったものである。  そのあたりに行って見ようと、  小倉で日豊本線に乗り、朽網まで行った。  子供の頃歩いた森の名残を探し当てて歩く。  平原さんの家はすぐに見つかったが、家だけが面影が残っていて、 平原さんの裏山はない。住宅地になっている。  家の庭にあるかぼちゃ畑はそのままで、夏の終わりになると、  このあたりにウラナミシジミが飛んでいたのを良く覚えている。  隠密なので、声をかけずに通り過ぎる。  さらに奥の、平野が山に変わるところあたりはまだ残っているだろうと 推測して、歩いていった。  「貴船神社」という、小高い山の上にある社の下に 池があり、このあたりの先の森は面影を残していた。  珍しいトンボがこの周囲に飛んでいたのを覚えている。  今でも、トンボの影は濃かった。。  さらに奥に進んで行くと、記憶の中の子供時代と変わらない風景が 続いていく。  昭和池公園の下の道を上がっていって、沢沿いに右に折れて 行く道。以前と全く代わりがない。ナガサキアゲハやモンキアゲハ、 カラスアゲハなどの蝶が乱舞している。よく、この山の道を一人で歩いて いったものだ。  九州の森の生命の豊穣は、あふれ出すようで、関東は全く異なる。 こんなところで子供の頃夏を暮らしていたことが、私の精神性に 絶対に影響を与えているだろうなと思う。  山を降りてきて、しばらく探して、記憶の中で小学校のプールだと 思っていたところを探し当てたが、そこは実は市民プールだった。  沢、山、プール。全てが歩いていける範囲内にあり、家々は まだ残る水田の中を細く曲がって続いていく道の両側にある。  ああ、朽網は子供が休暇を過ごすには理想的な里山環境だなと思った。  日豊本線で一駅戻って、下曽根の空港側を少し歩いた。  以前、母親とかき氷を食べた記憶がある店がないかなと思ったが、 見つからなかった。    それから、八幡に戻り、会議に参加していた池上さんと合流した。    そんなことがあったなあと、空気が夏の終わりを告げている今日に なって思い出す。   世界は多様である。多様さを画一性で塗りつぶそうとする者は、 必ずしっぺ返しを受ける。どんな単純な力学系もカオティックであるという ことは、そういうことである。 2001.9.25.  狭山市の北にあるサイボクハムというところに行って、 レストランでSGPスペシャルカツレツというのを食べた。  その帰り道、狭山のサティの横を通り過ぎて、神社の横に 来た時に、虫の声が聞こえるような気がする。  カーペンターズのテープを止め、窓を開けると、  リーリーリーリーという声が、意外なほど大きく聞こえてくる。  まるで音の壁のように、フラットにどこまでも聞こえてくる。  車は、やがて左折して水田地帯の中を走り始めたが、  開けたドアの向こうに、いつまでもつづく音の壁がある。  結局、音は、三芳町のケヤキ並木を越えて、川越街道との 藤久保交差点に到達するまでずっと聞こえていた。  その間、私は窓を開けて、いつまで続くかと思われる音の 壁に向き合っていた。  狭山から三芳町にかけて、秋の夜、巨大な音の沼が出現する。  それが本来どこでも当たり前だったはずである。  当たり前ではなくなった川越街道沿いの町並みを、私は 理研時代から醜悪だと思っていたが、  昨日は特に醜悪に思った。  どうも、文明は、来るところまで来てしまっていて、  このような生活状態が幾世代も継続可能だとはとても思えない、  そのように思う。    NYの高層ビルが崩れ落ちるのを見たとき、ああいう風に一カ所に 何万人もの人を押し込めて働かせる、そんなライフスタイルが もはや最先端でも流行でもなく、むしろもはや最盛期を過ぎた、 かっこわるいものになる、そんな直感が働いた。  草むらのそこここに潜む虫たちが作り出す音の壁の感触を味わいながら、 自然に囲まれてその中に美を見いだしていた平安時代の人たちのこと、 アマゾンで夜ボートに乗って出かけて、懐中電灯に照らし出されて そこここで輝いていたワニの目のこと、  いろいろなことを思い出していた。 2001.9.26.  NHK出版の大場さんと打ち合わせのため、午後7時に 渋谷のモアイ像前で待ち合わせた。  大場さんはいつものようにオシャレな服を着て(今日は黒だった) ちょうど煙草に火を付けるところだったが、私が声をかけると さっと引っ込めた。  あと数秒遅く到着すれば良かったと思いながら、歩き始めた。  ぐずぐずしていたら、「最後通告」が来て、出版12月中に決めました というので、10月中旬までに300枚くらいの原稿を書かなくては ならない。  システム論についてはもういいかげんに考えをまとめなくてはならない と思っていたし、大場さんは怒ると怖そうなので、がんばることにする。 ミラーニューロン、ボディイメージ、ミラーテスト。このあたりがもやもや していて、追い込むと何か新しいものが出るような気がする。  東急プラザのエレベーターの中で、妙な感じになった。  2階から乗ってきたおばさんが、心配そうに回数表示を見ていたのだが、 どうにも双子のように良く似ているのだ。  気のせいかなと思って、良く良く生え際のあたりや、顔のプロファイル や、鼻の形を見るのだが、どうにも良く似ている。微妙な差があるが、 それも、年月を経て少し変化が生じたのかなと思えば思えなくもない。 とにかく、キンさんとギンさんよりは似ている。  ・・・  考え込んでいると、エレベーターは6階で止まり、奥の方にいた 30代前半くらいの女の二人連れがドアの方に向かった。  その二人の顔を見て、私は驚愕した。  似ている。  二人とも髪の毛をひっつめにしており、つるんとした卵のような 顔や、目元や、眉毛や、口元が似ている。  背格好も一緒である。  この二人も一卵性双生児だろうか。それにしても、同じエレベーターに、 一卵性双生児が連れ立って二組乗る確率は・・・・・  そう思っているうちに、9階に着き、大場さんがロシア料理に しましょうと言った。  席に座ってビールを飲んでいるうちに、ひょっとして、東急プラザで、 双子大会か何かあったのだろうかと思いついてみたが、どうも大場さんは 謎の双子二組に気が付かなかったようなので、私の思い過ごしかもしれない。  発狂する時には、  こんな小さなことから、現実感覚は崩れていくものかもしれない。  大場さんの本を書き終わるまでは発狂しないことにする。  打ち合わせの 後、テロ問題について語り合う。大場さんは両刃で複数のものをばっさり 切るような鋭さがあって、ナイーヴな私の持つロープはいつもざくざく に切られるが、その切られてだらりと垂れ下がった感じが心地よい。 2001.9.27.  どうやら、「双子症候群」になったらしい。  朝、代々木駅のプラットフォームで試してみたら、階段の近くに 立っている二人の背広を着たオジサンが双子に見える。  5メートルくらい離れて立っている無関係の二人の女の子が 双子に見える。  もちろん、顔は違うのだが、双子と思って見れば、双子に見えなくも ないような気がする。  うぁーっ、世界のヒトが、皆双子になってしまった。  あまり面白いので、電車の中でも双子遊びをやっていた。  キンさんとギンさんの顔は、かなり違っていた。あれでも一卵性 の双子なのだから、自分の周囲で探すと、これとこれは双子だと 思ってもいいなという組が見つかる。  しかし、ひょっとしたら、顔を認識する下側頭葉がいかれて しまったのではないか、そのような不安を抱きつつ、五反田駅 に降りる。  光藤君も同席して、特許についての打ち合わせ。  ソニーの高輪オフィスに出かける。  宣伝部に入るのは初めてで、様々な賞のトロフィーや楯を 眺めながら、河野さんや平間さんに「いやあ、さすがソニーの 宣伝部は最強ですね」と言う。  発想を柔軟にというわけで、脳の話を1時間する。  宣伝部の方々や他社の方々と飲み会。  仕事でいく場所が楽しいところが多いようで、ウラヤマシク思う。  いつもとてもキレイにまとまっている河野さんの髪型が、実は 過去30年間自分で刈ったものだということを知り、愕然。  私は床屋に行かなくなって6年だが、30年経つとあんなにうまく 刈れるようになるのかと思う。  「後ろにこう手を回して、まさにボディ・イメージですよ。」 と河野さんが言う。  平間さんと代々木まで帰ってきて、北海道のヒトは、なぜ 「じょっぴんかる」とか「ごはんがたかさる」とかいうのを 方言だと思わずに標準語だと思っているのだろうかという話題になった。 平間説によると、北海道弁はイントネーションが標準語と変わらない ので、方言だと思わなくなってしまうということだった。  地下鉄の中、大修館書店の「言語」を読みながら帰ってくる。  脳の話で、1994年にクオリアの問題に気付いた時、そういえば 車両と車両のつなぎ目に立っていたなということを思い出して、 久しぶりにそこに立ってみる。  クジラの下あごのようなヒダヒダのゴムがあって、そこに寄りかかると 心地よい。  「言語」の巻末にある言語学専攻の入試問題をおもしろがって読んでいる うちに、ターミナルに着いた。 2001.9.28.  朝、150円を持ってランニングに出かける。  片方のポケットに100円玉、もう片方に50円を入れる。  一つのポケットに二つコインが入ると、じゃらじゃらしてうるさい。  うまく150円の自販機が見つかって、おつりなしで大きな アイソトニック飲料を買う。  100円、110円、120円、140円。  これくらいの可能性があるので、いくら持っていっていくらのを 買ったら行きも帰りもコインの数が2枚以下になるか、一つのかけに なる。  ペットボトルを飲みながら歩いて中休みして、やれやれと言いながらまた 走り出す。    あっ、と、また双子を発見する。  おそろいの服を着た男の子。  しかし、よく見ると、片方がずいぶん小さい。  お母さんに甘えて、だっこしてもらっている。  どうやら2歳くらい離れた兄弟らしい。  しかし、良く似ている。髪型も顔の形も、よく似ている。  双子に見える。  やはり、双子症候群にかかっているのか。  もっとも、  双子症候群は、なかなか三つ子症候群には発展しない。  その場にいる無関係な人たちが、三つ子になるということはない。  ましてや、会場の人たちが皆クローンに見えるということもない。  やはり、三体問題以上は、脳の認知プロセスにとっても、 扱いにくいらしい。  随分遠くまで来てしまっていて、家まで30分で帰ろうと心に 決めて走る。  アサギマラダが、ゆったりと木立の中を飛んでいる。まるで、 何かの前触れのように、美しく、確信に満ちて飛んでいる。  飛ぶアサギマダラは、少しヒガンバナと似た質感があるなと思う。  夜、大阪から出てきた田谷くんと原宿のフジママで食事。  最近、インターナショナルな雰囲気が心地よい。  異質なもの、他者、そのようなものと向き合っていたい。  店の中は国籍のよくわからない人たちが立ち働いていて、  昼間見たアサギマダラのようだなと思う。  アサギマダラを、都心で見ることは、年に1回あるかないか。 彼らの本来の故郷は、より南、より山地で、そこから強い飛翔力で 飛んでくる。  フジママいる外国人たちも、飛翔力の強い人たちなのだろうな と思いながら、田谷くんと赤ワインを。 2001.9.29. 朝日カルチャーセンターで 「笑う脳」の最終回をするため、住友ビルに来ている。 最上の笑いを成立させる要素は何か、それを詰めるための シリーズだったのだが、詰め切れたかどうか判らない。 今日使う素材は、川柳川柳の「ジャズ息子」、小津安二郎「秋刀魚の味」、 Yes, Minister. Steve Cooganといったところ。 世界のある種のリアリティに接した時に、人はその認知構造の揺らぎに 脅かされ、それが危険なものではなく、むしろ世界とは こういうものだという深い認識をもたらす体験であるということを悟った 時に、ほっとしてゆるみ、感動とともに微笑むのだと思うのだが、 そのような体験(作品)を構成する要素については、 まだ見切ることができない。 午後1時からレクチャーだから、そろそろビデオなどの準備をしなくては。 夜遅くEDAの会議、送別会とはしごして 帰ってきて、ビデオを編集して、今朝から必死で字幕をつくって やっと間に合わせた。 Yes MinisterやSteve Cooganを紹介するのは大変だが、 今回の目的がこれだったのだから、やるしかない。 Leagues of Gentlemenは紹介できなかったし、Monty Pythonも 復習できなかった。 2001.10.1.  小学校の運動会を見に行く。  自分のその頃、運動会というのは随分存在感の大きなイベントだったと思う。  教室の中で先生の質問に答えられるかどうか、テストでいい点数をとれるか どうかということよりも、よほど自我にとっての存在感、圧迫感の大きな イベントだった。  徒競走のスタートを待つ間、緊張して、胸がどきどきして、スタート すると、手足がぱくぱくと空を切って、あっという間にレースは終わり、 自分の意識と自分の身体の間のギアはあまり固くかみ合わないものだとう ことを何回も思い知らされた。  運動会が近づくにつれて、学校の行き帰り、自然にその時のことを 考えて、名前を知らずのうちに、イメージトレーニングのようなことに なったように思う。  白い運動着に包まれた小さな人たちがスタートラインに並んでいる のを見て、彼らもそのような圧迫感を感じているのかなと思う。  傍観者から見れば、次から次へと白い波が走っていくだけで、 誰が1位になってもびりになっても、それほどのことではないが、 小さな本人たちにとっては、それはとても大きな意味を持つことなの だろうか?  集団で列を作り、波を模したり、ピラミッドをつくったりする 団体体操。  人は、なぜ、あるモード、コンテクストに置かれると、ある行動を せざるを得なくなるのだろうか?  波が列を伝わっていく時、一人の人間は一つの粒子と同じになる。  その頭蓋の中に、どのような内面世界が広がっていたとしても、 彼、もしくは彼女は、一つの粒子と同じように振る舞う。  本来、どんなことをしても自由なはずなのに、何故、突然列から 離れてグラウンドを駆けていくような脳が、これだけ多くの脳がここに あるのに、現れないのだろう。  そんなことを考えているうちに、私が小学生の頃、スタートラインに 立っていた時に感じていた圧迫感、緊張感の性質について今までとは 違った見方が立ち上がってきて、はて、運動会というのは一体何なのだろう と、意味のない虚無にいったん戻って、再び考えさせられる。  そんな、傍観者としての私も、人が足りないと綱引きと障害物 競争にかり出され、綱を引いている時や、二人三脚をしている時、 ボールを二つの棒で挟んで運んでいる時には、そのコンテクストの中で 全力を尽くそうとそのことで脳は支配され、突然競技を投げ出して グラウンドを駆けていこうとは思わないのだった。  人間の脳というものは、そのように出来ており、そこに戦争などの 様々なevilの種を見るのは簡単なことである。  昔、大学院生の時、三島由紀夫の楯(たて)の会に対抗して 「横の会」(横になって何もしない会)を作ろうと冗談で言っていた ことがある。  人間社会が作り出す美しいものも醜いものも、その起源は、 運動会でスタートラインに立った時に走り出さざるを得ないという 人間の脳のつくりにあるように思う。 2001.10.2.  夕方、池上高志から電話があって、  渋谷で9時から面白いパフォーマンスがあるから来ないかという。 体調が悪くて参っていたので、今日はだめだあと答える。  その後、雑談しているうちに、「ダイエーが近鉄戦でローズに ストライクを投げなかったのはひどい、どうせアメリカに帰る選手には 日本記録を取らせない、そんなことがあっていいのか。茂木さんは 自分のホームページを持っているのだから、そこで書いてくれ。」 と池上が言う。  「君が書けばいいじゃないか。」 と言うと、  「オレはホームページを持っていないからなあ。」 と言う。  geocitiesだったら、1分で作れるよと言おうと思ったが、  少し思い出したことがあったので、  「体調も悪いし、書くようなこともないだろうから、 明日の日記で書くよ。」 と言うと、池上は、  「それじゃあ、身体に気を付けて。バイ。」 と電話を切った。  思い出したのは、1985年、阪神が優勝した年の、後楽園球場の 阪神巨人最終戦のことである。  この試合を、私は何故か見にいっていた。大学院の1年に 入った年のはずである。  ガラガラで、内野の3塁側に座ったのを覚えている。  デーゲームで、良く晴れた秋の日だった。  バースが54本のホームランを打ち、あと1本でという時に、 王監督が指示したのかどうか、敬遠が続いたあの試合である。  「また四球か。」と場内が苦笑する中、バースの無念よりも 印象に残ったのは、3塁側外野席から聞こえてきた、「優勝できない ジャイアンツ、優勝できないジャイアンツ・・・」という阪神ファンの 合唱だった。それが、晩秋の日差しの下で季節遅れの蝉の声のように 聞こえ、ジャイアンツの白いユニフォームがその蝉時雨の中でじっと 耐えているように見えた。  そのようなことの全てを、シーズンが終わり、これから休息が 始まるという時期の、自然現象のようなものとして眺めていたように思う。  この件について、私が池上ほど腹を立てないのは、若菜という人の 言動、それに従うピッチャーの投球を、あの時のように、一つの 自然現象のようなものとして見ているからかもしれない。  野球場に行っていつも思うのは、ファンの蝉時雨、陽光、白いユニ フォーム、あるいはカクテルライトといったものが醸し出す質感が、 自然現象としてキレイだなということである。  私は、数字や成績といったものを、もともと、そのような自然現象 に無理矢理計量の網をかぶせた、人為的なものとして見ているのかも しれない。 2001.10.3. Metaphors  朝、ちょっと買うものがあって車で「角の店」まで行った。  CDで、「千と千尋」のテーマソング「いつでも何度でも」を聴いた。  この曲を聴く度に、 郡司と札幌で交わした会話を思い出す。  生きつつ、実は繰りかえし死んでいる。死んでいると思っていたら 生きている。  はやい話が、私を構成している分子は、死んでいる。私は、しにつつ、 いきている。  そのように考えると、実は、問題なのは死と生の区別ではなくて、 「私」というくくりである。  帰ってきて駐車場に止めた瞬間、うさぎのメタファーが浮かんだ。  昔、大学院の昔、タンパク質の研究をしていて、材料をとるために うさぎを殺した時のこと、新鮮なままとるために、筋弛緩剤を打ち、 気管を切開して、人工呼吸する。一方では殺す準備をし、一方では 生かすために人工呼吸する。あの時の矛盾した、やりきれない 感じに、アフガンのテロリストを空爆しつつ市民には食料を投下する と言っているアメリカの遣り口は似ている。  何かをするためには、何かを決めつけなければならない。  アメリカという国は、多くのことをするために、多くのことを 決めつけてきた。  私の中にもそのような「決めつけ」のモードはあるし、 一方で、柱に寄りかかって月を見上げ、中宮にからかわれる 清少納言のようなモードもある。  どうも、長く生きるほど、ますます世界のことは良く判らなく なってくるようである。  「決めつけ」をして行動しなくてはいけない立場におかれている 人たちが、そうするのはよくわかる。  ブッシュもコイズミもそうなのだろう。  みんなが柱に寄りかかって月を見上げていたら、 世界は何も進まない。  生きつつ、死ぬ、死につつ生きる、決めつけつつ、月を見上げる。 そのようなダブル・バインドな人生を生きていくしかないようだ。 2001.10.4.  今朝の  Herald TribuneのConsumer Overindulgence Loses Appeal in America.  という記事。  抜粋すれば、  Neiman Marcusという会社からクリスマスのカタログが 届いた。1ヶ月前に印刷されたそのカタログが、今のアメリカの「気分」 とは全く離れてしまっている。  ミンクの皮を使ったハンガーが65ドル、  バーバリのベビーカーが4250ドル、付属のおむつバッグが375ドル。  レースに淡水産の真珠が手で縫いつけられた黒いストッキングが 500ドル。  ベル社製のヘリコプターで、正装パーティーの会場まで送迎する サービス。。。。  タリバンのスポークスマンは、「アメリカ人は、現世における 物質的享楽を守るために戦っている。しかし、われわれは、 アラーの名のもとに死ぬために戦っている。」と言った。  タリバンのリーダーであるオマールは、「人生というものは、 質素なものが少しあればそれで十分だ。贅沢品は、意味がない。」 と語った・・・・  それから、記事は、物質的な豊かさではなく、 消防士たちの自己犠牲精神や、93便でテロリストたちと戦った 乗客、人々の団結といったものにこそ、アメリカの価値があることに 我々は気が付いたと書き進める。  昨日、駅に歩きながら、「人生の目的」とか、「人生の価値」 などということについて、特定の目的、特定の価値を設定しない ということが近代の叡智なのだろうということを思った。  特定の目的、価値がいかに素晴らしいものに思えたとしても、 それが集団に強制され、個人に強制され、人間の自然を無視して 遂行される時、醜悪なものが現れる。  私たちは歴史の中でそのことを何回も経験してきたように思うし、 今も経験しつつあるのだろう。  しかし、そのようなほろ苦い叡智によって得られた生活の空虚さ は何なのだろう。  アメリカ映画、ある種のハリウッド映画を 見た時に感じる底知れない空虚さ。そこには、タリバンのような むき出しの原理主義者たちに容易に突かれてしまう空白がある。  だからといって、ある特定の信条、形而上学、宇宙観に拘泥 することの愚かさも、私たちは知っている。  ニーチェが言っていたように、我々は踊るしかないのかも しれない。  小さな予感。楽しみへの希望。死の恐怖。そのようなものに駆り立てられ つつ、私たちは踊り続ける。  そこには究極の目的も価値もないが、高度に発達した大脳皮質に 宿る知性に裏付けられた、生命の発露がある。  これが現代のスタイルだとすれば、タリバンたちには、そのスタイルを 壊すまでの力はないようである。  ただ、割り切れなさは残り、その割り切れなさに真摯に直面して いない点において、アメリカのマス・カルチャーは結局ダメなのである。 2001.10.5.  CSLの中は、一種の戦場と化していて、  東工大のM1たちが、生物物理学会の準備に走っている。  光藤君も、明日からの国際シンポの準備をしていて、 ポスターを作っている。    私もいろいろやらなくてはならないことがあって、 コアルームに座って、パタパタとキーボードを打っていると、 4人がいろいろ用事を持ってやってくる。  光藤君「国際シンポというのは、ジャケットを着ていかなくては ならないものなんでしょうか。」  柳川君「茂木さん、このΔSというのは、なぜ理想的な観察者 と実際の観察者で一緒になるのですか? このσというのは何ですか? ベクトル空間の中の分散ですか?」  長島君「茂木さん茂木さん、こんなんでいいですかね。拡大すると、 曲がって見えなくなってしまうんですよ。」  小俣君「2人めの被験者終わりました。左右で差がでませんね。タスク に慣れないと、きちんとした結果がでないのかもしれません・・・」  私はDHCPで結んで、OHPの台の上にパワーブックG4を載せて ぱたぱた打っていて、それで上のような感じで5分に一回来て、 その度に思考が中断する。  バロウズのカットアップのような午後だった。  午後6時から、本郷の医学書院で開かれる「生体の科学」の 座談会に出るために、御徒町駅から本郷三丁目の交差点に向かって歩く。  会議室に上がると、もう伊藤正男さんや野々村さん、乾さん、藤田 さんが来ていた。  「一番近いから一番遅れるんだよ。」 と言われていた合原一幸さんが、やあやあという感じで入ってくる。  食事をして、その後2時間「脳と心」について話す。皆論客なので、 私は最初の30分くらいじっと黙って聞いていて、それから本格的に 参戦した。  帰宅して、「数理科学」の原稿を書き始める。「金曜までに終わらせろ。 さもないとひどいぞ」という脅しのメイルが来たので、明けて今日の 午前11時までに終わらせようと思ったのである。  1時間ちょっとで7枚分くらい書けた。  今日の午後、光藤君の国際シンポに出るため、室蘭に行く。室蘭から、 まっすぐ大阪へ。大阪は生物物理学会。12日に帰ってくる。  頭をいろいろ使わなくてはならない時期だが、米長邦雄さんが、 対局を一つやると2キロ減ると書いてあって、11月25日のつくば マラソンまでに体重を減らすために頭を使うのはいいんじゃないかと 思うとウレシクなった。 2001.10.6.  「数理科学」の原稿二十数枚を書き終えて、急いでパッキングして 向かったが、初めてチケットレスの締め切りに遅れてしまった。  受付の人がカウンターの後ろに向かい、  発券してきてくれた。  千歳到着は午後3時30分。  滑走路を走る時、NHK radioを聞いていた。  「外務大臣に答弁させますか? 外務大臣。・・・・・。 いや。・・・質問が難しすぎましたでしょうか。(笑)総理でいいでしょ うか。私としては、総理に答弁いただければ。それでは。小泉内閣 総理大臣・・・・」  どうにもお腹が空いてしまって、「特急 すずらん」が出るには まだ1時間あるからと、北海道ラーメンの店に入る。  最近、塩ラーメンが好きになっている。    さて、と緑の窓口に行くと、  「あーこれはもう間に合わないよ。南千歳4時36分発だから、ここ からは4時18分発のに乗らないと。」  電光掲示板にでかでかと出ていた時刻は、千歳空港駅発時刻ではなく、 一駅先からの時刻だったというのだ。  そんなこと、思いもしないよなあと、カウンターでコーヒーを 注文すると、  「こちらで飲まれますか?」  「はい。」  「どこに座りますか?」  「ここでいいです。」  「ホットで良かったですか?」  どうも、過去形で質問するというニューウェーヴを最初に聞いたのは 北海道だったような気がする。  特急は混んでいて、日経サイエンスから書評を頼まれている 「心は機械で作れるか?」を読みながら、煙草の煙の充満した 通路に立つ。  「あーほとんど特急しかないからねえ。」 と係員が言っていたが、このあたりの電車事情というのはどうなって いるのだろうか?    小学校5年の時に北海道に昆虫採集をしに来たとき、一瞬室蘭を 通ったような気がするが、とにかくそれ以来か、生まれて初めてである。  「旅の窓口」でさんざん探してやっと見つけたバストイレなしの部屋に チェックインして、ぼうっとしていると、光藤から電話。  「今、ビヤキャビンというところで、懇親会やっています。」 と言う。  小雨の中、タクシーを飛ばして行くと、ログハウスの中、 30人くらいの人がテーブルに散らばってジンギスカンを食べている。 5分後には、生ビールを飲み、カニ足を食べていた。  ないと思っていた名刺がサイフから大量に出てきて、もらった人たちに 渡す。  室蘭工大についていろいろ喋っているうちに、二次会、三次会となり、 気が付くと、光藤と「ビジネスホテル 室蘭ロイヤル」の前に立っていた。  講演会で、会場に座っている女性があまりな質問をするので、「ちょっと ひどいじゃないか」とたしなめたら、怒って鉛筆や筆箱やらを投げつけて くる夢を見た。腕で顔を覆って守っているうちに、目が覚めた。 2001.10.6.  大阪には何回も来ているけど、伊丹空港へ向かうのは初めてだ。  飛行機が千歳を飛び立ってしばらく、右手に鍵のように曲がった 地形。  はて何だろうと記憶と連想を総合しているうちに、あれは函館 ではないかと気が付いた。  湾があって、その南にぐるりと巻いている舌がある。  函館は、歩いてみると風合いのあるところで、恐らく港町 としては日本で一番authenticな歴史遺物が残っているところだと 思う。  その中に滞在し、その中に暮らせば、自分という存在を大きく 包み込むような空間。  それが、上から見ると、あのように小さくなる。  夕刻で、スケールがわかりにくくなっているが、まるで、端から端 まで10分歩けば終わる松原のように見える。    このような風景に出会うたび、「スケールの暴力」ということを 考える。  エノラゲイから見た広島の街が模型のように見えてしまうこと、 レバーを倒すという自由度が10万人の死につながること、これも またスケールの暴力である。  為替相場の変動が、その国に住む何百万人という人の生活に影響を 与えるのも、スケールの暴力である。  ある自由度が、てこの支点を得て、マクロに影響を与える。  「我に支点を与えよ。されば、地球を持ち上げてみせよう」 といったアルキメデスは、将来、様々な意味で、地球規模の影響を 及ぼす支点を獲得する自由度が頻出する時代が来ることを少しでも 想像しただろうか?  モノレールで千里中央に出て、江坂のホテルにチェックインすると、 東工大の柳川、小俣、長島が仲良く3連の部屋に。  明日、生物物理学会でポスター発表するのだが、準備がぎりぎりに なった。  有楽町のビッグカメラで長島がプリンタを買って、それを部屋に 持ち込んだ。  「店員さんが、「どこか遠くから買いに来られたのですか?」と言って いましたよ。新幹線の中で、みんなジロジロ見ていた。3人席に 座ったんですけど、3人が並んでパソコン広げてピコピコやって いたから、あれはみんな見ていたよな、小俣。」  長島が楽しそうに言う。  とりあえずは腹ごしらえと、近くのお好み焼き屋に行き、 ビールはジョッキ1.5杯までと。帰ってきて部屋を巡回していろいろ やっているうちに、夜は更けていく。  散歩に行こうと、サンクスでアサヒ本生とベビースターラーメンを 買ってくる。  「これ飲むと眠くなってしまいますよ」と小俣が 言った。 2001.10.7.  昼食は、医学部本部の前の芝生で、寝転がって 池上さんや田谷君とおにぎりを食べた。  外国から携帯に電話がかかってきてびっくりした。  ポスターセッションの途中で、外に出て芝生に 寝転がり、郡司さんや池上さん、時田さんと喋った。  とにかく、寝転がってばかりいた。  生物物理学会を阪大吹田キャンパスでやるのは初めてではないのか? 広すぎて、どうも日本でやっている学会という感じがしない。  小俣、柳川、長島のM1の3人は、立派にポスター発表を する。  どうも、朝4時30分くらいまでやっていたらしい。  陣中見舞いに私が買って来た本生は、誰も手をつけなかったと。  懇親会に出て、いろんな人と喋った後、先に梅田に出撃していた 池上さんたちと合流する。  曾根崎で飲むが、総勢18人に。  通総研の江田さんや本郷の佐野さんも。    郡司が、めずらしくぐいぐい赤ワインを飲んでいるなあと思ったら、 御堂筋線の梅田駅に行く途中で暴れ始めた。  リュックの背を持って歩く、あばれ馬のようにぐいぐい 動く。  ズボンの前をあけようとしたり、ホームに寝転がったりする。  「もう少しあばれると駅員さんが来てくれますよ。」 と長島が言う。  小俣がビデオで撮影していたので、これは歴史に残る映像だな と言った。  江阪に着き、郡司さんが長島の顔を見て、   「いやあ、お前の顔を見た瞬間、こいつは何かやりそうなやつだなあ と思った。お前、ネアンデルタール人のような顔をしやがって・・・」 などと言いながら角を曲がり、とりあえず郡司さんと青野を クライトン江阪にチェックインさせる。  M1の3人は帰り、北林、郡司、青野とバーに行って飲む。  私はポートワインを前に、うとうととしているうちに3人は何かを 話したらしい。    午前2時過ぎの街。 私「千と千尋の主題歌に、「ゼロになる身体」とか、 「粉々に砕け散った鏡にも新しい風景が 映る」というのがあるけど、あれは郡司さんそのものだよね。 生きていると思っているけど死んでいる、死んでいると思うと生きている。」 G「二人の娘が、いつも歌っていますよ。パパ、まだ歌詞覚えないの、 バカねといって。  茂木さんが、郡司死ぬなと言った後に、(早稲田の)相澤さんが、 「いやあ、郡司さんは、随分前から死んでいますよね。」と言った。 だから、生きていろとか、問題を解くとか、そういうことは本当はどうでも いいことなんですよ。」 私「それは判るが、しかし、だからと言って、死ねばいいというものでは ない。一生懸命生きて、それでにっこり死んでいけばいいんですよ。 ああ、死ぬことと生きることは絡み合っていたんだなって。」 G「それは判りますよ。」  そんなことを言いながら、ホテルに帰っていった。  今朝聞くと、M1の3人はすぐに眠らずに、昨日私が買って来た 本生を見ながら、サッカーを見ていたらしい。  「風呂から帰って来たら、攻撃が始まっていて、びっくりしました。」 と朝食の時に柳川が言った。 2001.10.9.  生物物理学会のシンポジウムの出番は一番最後で、 私は郡司さん、相澤さん、三宅さん、三輪さんの話を聞きながら、 格闘していた。  昨日長島にもらったポスター原稿を入れたCD−Rが排出できずに、 それでフリーズが連発するようになったからだ。    「困った時の田森」に電話して、  「すまんが後少しで喋らなくてはいけないんだが、Powerbook G4 のCDの強制排出の仕方を調べてくれ」と言った。  しばらくして、クリックボタンを押し下げながら起動するといいと 教えてもらい、それで何とか間に合った。    話は、アジテーションであり、スライドショーであった。  千里中央に向かい、大腸菌進化の四方哲也さんも参加して16名の 大飲み会になった。  帰るはずだった池上さんや三宅さんも、「明日の始発で帰ればいいや」 といって飲み続けている。  その場所で、私は生まれて初めて煙草を吸った。今まで吸う夢を 何回も見ていたけども、なんだかゴホゴホする気がして、口にしなかった。 それが、何の拍子か、郡司さんの煙草を一本すっと取って、火を付けて、 吸い込んで見た。  何ということはなかった。マイルドセブンというやつ。  その後、カラオケに行って、また二本吸った。しかし、何ということは なかった。一度、深く吸い込んで、それでゴホンとなった。  今朝になって、何となくまた吸ってみたい気になる。ニコチンの 常習性は、3本ですでに立ち上がるのか? しかし、あれはカオスの 一時的ピークで、おそらく吸うという習慣は定着しないと思う。  郡司さんはヘビースモーカーで、池上さんや塩谷賢は人が吸っていると もらってすうだけだが、これで私も行動のヴァリエーションが 一つ増えた。  今朝、東京に戻る。明日は人間ドックのはずだが、風邪気味なので のばしてもらおうかとも思う。 2001.10.10.  新幹線の中で、日経ビジネスの「電機全滅」という特集号を 読んだ。  安藤さんが左を向いている写真が写っている。  安藤さんは、一見、出井さんに比べると地味に見えるけど、 実際に会ってみるとものすごく頭の切れる人である。  ソニー株は今かなり安くなっているので、買い時かと思う。  特集号が終わった後、志向的クオリアと感覚的クオリアについて ぱちぱちと書き始める。  電光ニュースは、テロ関連の項目を次々と流す。  手前では、席の向きを変えて座っている女性がお弁当を食べながら 談笑している。  となりのオジサンは日経新聞を読んでいる。  生命の危機と日常が共存しているのが地球というもの、現世 というもので、  危機だからみんなでどんと走り出すということにならないのが 現実というものである。  見通しのいい公園などに知人と行って、知人が離れていく。 緑のキャンバスの中の、赤い点になる。  今まで親しく話していた人が、近くに息づかいを感じていた人が、 遠く遠くに離れて点になり、やがて消える。  街角で別れる時にはそのようなことはないけれども、たまに そのようなことがあると、それがメタファーとして強烈に残る。  世界はそういうものだという事実が、痛切に、しかし不可避に 感じられる。  私にとってアフガンやテロの問題というのは 緑のキャンバスの中に消えていく赤い点の問題である。 ブッシュのようにとにかく具体的に行動しなくてはならない人に とっては、全く違う問題だろう。  そんな私も、ブッシュと同じ立場に立ったら、緑のキャンバスの中に 消えていく赤い点のことは忘れてしまうかもしれない。  日本の伝統芸のお師匠さんは、とにかく徹底的に模倣させる。 それでも、完全に模倣できずに、その人のユニークさが出る、 それが個性である。  養老さんは、そんなことを良く言われるが、立場とか状況とかの 強制力にあがらってにじみ出すものが個性なのかもしれない。 2001.10.11.  養老孟司さんとの対談本の件で、新宿で角川書店の松永さんと 打ち合わせをする。  他に、二人が同席。  「魚民」で飲んでいて、店員が「あの、こちらラストオーダーになり ますけど。」と言いに来て、9時前なのに何でだろうと思っていたら、 松永さんが、「テーブル毎に2時間とか制限があるのでしょう」と。  こういう時の機転の利き方が、松永さんにはかなわない。 その前に、銀座の文壇バーの話が出ていて、 「いやあ、あんなところはつまらないですよ。独特の文化があって、 それになじむかどうかの話で。」 とか言われても、そんなところに言ったことのない私としては、 一度行ってみたいなあと思うし、さらに松永さんが 「食い物の道楽は大したことないですよ。せいぜい食べて、一人5万 くらいでしょう。飲み物の道楽は、平気で20、30といってしまいます からねえ。」 と言うと、私は「どこの世界の話か」と思ってしまう。  全般に、出版社のヒトは、ある種の世界を短い時間に濃密に体験 してしまうようで、「そういうのも体験してみたい」というのと 「もうそんなのは体験して見切った」というのでは、人間として 大きな差がついてしまっているわけであるが、その中でも松永さんは コワイ方だと思う。  魚民を追い出されてしまったので、西口のバガボンドに行く。  銀河高原ビールを飲みながら、カウンターの中にあった 「9000」という単位の謎の東南アジアのお札はどこに いってしまったのだろうと思う。  帰ろうと思ったら、松永さんが角川の黄色いチケットをくれたので、 わあうれしいと思いながらタクシーを捕まえた。  ここのところ、本をまともに出していない。一番最後に自分が 書いて出したのは、1999年の「心が脳を感じる時」(講談社) である。何で書いていないのか、良く自分でも判らないのだが、今 NHK出版の大場さんに追い込まれてばーっと書字活動をしてみると、 単なるモード、リズムの問題なのだなと思う。  せいぜい一日2時間、ばーっと書字活動をすれば、月産600枚 になる計算だから、年に12冊出せてしまうではないか。  (私は調子がいい時は1時間に10枚書く)  もちろん、そんな計算通りにはいかないけども、それにしても、 言いたいことは沢山あるんだし、もっとアスリートになるべきだ、 それで研究活動に支障が出るわけではないしと、バックシートで うとうとしながら考える。 2001.10.12.  朝早くからCSLの合宿があるので、その前に少しゆっくり仕事を しようと、それをかねて横須賀に泊まる。  横須賀は通り過ぎたことは何回もあるけれども、降りるのは初めて。 横須賀中央駅で降りて、汐入駅まで戻る。   米軍ゲート前には、あっちにもこっちにも、長い棒を持った警察官が おもちゃの兵隊さんのように立っていた。  時節柄、重いバッグを持った私はどうかと思うが、見向きもされない。  汐入駅からJR横須賀駅まで、ちょうど米軍と自衛隊の間の入り江が ボードウォークになっていて、  夜光浮きとでもいうのか、光る浮きをつけて釣りをしている人がいる。  しばらくベンチに座って、それが軍事施設でも軍艦でも照明弾でも、 暗闇の中の光というものはきれいなものだなと思った。  さて仕事をと思ったが、疲れているらしく、テレビの前に横たわって めずらしくゴールデンアワーの民放をぼっと見る。  マジシャンが出て、演技した後種明かしをしている。  タレントたちが、ああでもない、こうでもないと言い合う。  タレントたちが出てちゃらちゃらと喋るバラエティ番組は、 私が一番感性的に耐えられない類だけど、  今回、ベッドの上に横たわってしばらく見てみて、気が付いた ことがある。  それはとりも直さず「偶像崇拝」の問題であって、 ああいう映像はそのタレントに好感を持っている人が見ると、 何を喋っているかにかかわらず心地よいものなのだろう、  ラジオとテレビのメディアとしての違いは あんがいそんなところにある。  タリバンたちが偶像崇拝を禁止する心理的遠因も判るような 気がする。  朝から三浦海岸でプレゼンして、人の話をきき、これから 京都へ。  新横浜から乗るのは初めてだ。 2001.10.13.  8時過ぎに丸太町上がるのパレスサイドホテルに着くと、案に反して まだフルコースのディナーのオードブルが終わったところで、  終わっているだろうと思って新幹線の中でシュウマイ弁当を食べてきた 私は、再びスープ、魚、シャーベット、牛、デザートと食べることに。  浅田稔さんがやっている新領域探索研究会の第2回目。  今回は発達に焦点が当たっていて、心の理論について興味深い発表が あったようなのだが、聞けなくて残念。  終了後、池上さん、谷さん、入来さん、岡ノ谷さん、銅谷さん、 村田さん、多賀さんらと二次会へ。  丸太通りをさらに下ったところにあった店に入ると、  「うちは湯葉と豆腐がおいしいです」と言う。 それではと注文すると、確かに別天地のクオリアである。  メニューをよく見ると、「京都で唯一現代の名工に選ばれた ○○氏の・・・」などと書いてあった。  しかし、気分は何だか大変ラジカルになっていて、 夜の京都の町を歩きながら、池上さんに、大抵の認知の問題は、 複雑な力学系の振る舞いに重ね描きをしているだけである。そこには、 何のハードプロブレムもないと吐く。  池上さんは、それに対して、ニュートン力学にもなっていない と言う。  認知の問題は、一つ一つが現象としては大変面白くて、 私もそれについて普段は熱っぽく議論するけれども、 なぜか今夜の京都は空気の分子がラジカルに光って、  クオリアや志向性の問題を抜きにして、認知の問題が語れる と思っているのか、大体、志向性を抜きにして言語をやろうなんて ちゃんちゃらおかしいぜ、ああペンローズに会いたくなって しまった、ああいう人は本当に少ないね、天才は少ない、 こういうことをやっていて、30年経って、結局革命はなかった ということになりそうだな、集団の中にいて、議論して、一緒に 酒を飲んで、しかし孤立していることが重要だ。  そんなことを話しながらセブンイレブンの灯にすーっと引きつけられて、 中に入ってDAKARAと赤塚不二夫のマンガを買った。   2001.10.14.  川人さんの話はいつも見事で、デモをするヒューマノイド・ロボット を見ていても、これは他のところはcompeteしない方がいいのでは ないかと思うくらいである。  エアホッケーをしたり、ジャグリングをしたりする。  印象主義ではなく、きちんと詰めるところはさすがである。  川人さんが標榜しているcomputational approachは、運動制御の 問題に関して言えば、大きな成果を挙げている。  しかし、それが、認知の問題に至ると、深刻な限界にぶつかるのでは ないか?  それが私の質問の趣旨だった。  しかし、川人さんは、そんなことはない、認知の問題でも有効だ ということを、多くの人たちが認めている、例えば、自分で自分を くすぐってもくすぐったくないという現象に関して言えば、フォワード モデルが有効であることが認められていると言った。  そこで、私は、それは運動信号の話だから、性質上やりやすいだろうが、 相手との関係や、置かれているコンテクスト、歴史性によって他人に くすぐられてもその感じ方が違う、こちらが認知の問題の本質であって、 そのようなものにカルマンフィルターとか、フォワードモデルとか、 そういう計算主義が拡張できると思うのか、そう言った。  池上さんが隣で憤然と立ち上がって、言語の問題については、川人 さん流の計算主義は役に立たないだろう、ある人の脳について、計算 主義が必要とするようなモデル構造、パラメータ・チューニングを したとしても、その人が次に何を言うかということは予測できないだろう と言った。  私は、言語に関する拘束条件(constraint)は与えられるだろうが、 言葉の意味などの問題について、計算主義が何か本質的な貢献を できるとは思えないと補足した。  しかし、川人さんは、あくまでも計算主義の有効性を主張して 譲らなかった。  クオリアの問題を持ち出さなくても、運動系の話一つをとってきても、 フォワードモデルとかインヴァースモデルで説明されてもなぜか 心に響かないんだよな、と池上さんと夕食の時に言った。おそらく、 これは、自然科学と工学の差の問題なのだろう。川人さんのアプローチに 感じる違和感は、工学上の概念に基づいたモデルから、小脳のニューロン の発火を予測できるとか、そのようなことをモデルの検証と言っている ところにあるのだろう、結局は、審美性の問題なのだろう、もし、 川人さんが計算理論で認知のかなりの部分を説明したとしても、 それで脳のことが判ったという気には全くなれないだろう、そんな 話をした。  脳科学の現状をを少しでも知っている人なら、 川人さんは超大国アメリカのような ものだということは判るだろう。それで、これはジハードだな ということになって二人で笑った。  我々の感じている違和感は、恐らく多くの人が感じているのだが、 日本における川人さんのプレゼンスで、皆が遠慮して言わない。しかし、 おかしいものはおかしい。計算主義の先を示さなければ、脳が 本当に判ったということには絶対ならないだろう。 Whiteheadや、Wittgensteinや、勇気を持って世界の深淵を 見つめてきた多くの先人たちに申し訳ない。 Alternativeなやり方を示すには、 クオリア問題を解いちまえばいいんだ、 川人さんも、結び付け問題は難しいと認めていただろう、結び付け 問題は、クオリア問題そのものだからな。  学生が、川人さんが攻撃されたのを初めて見たと言っていたが、 今朝は爽やかである。  ミッションは、はっきりしている。 2001.10.15.  川人光男さんは、なかなか恐るべき人で、最終日の昼食で、 カレーライスを食べながら話していると、川人さんが 古典的な計算主義者ではないような気がしてくる。  丸め込まれそうになる。  隣で、池上さんも丸め込まれそうになる。  哲学の道を歩いてみようと、池上さんとタクシーで銀閣寺前までいった。 そこから道を南下した途中のSAGANという店でびいるを飲む。  川人さんとの議論では言わなかったけども、こちらにはクオリア という担保がある。  少なくとも、クオリアの問題だけは、(そしてそれに関連した、言葉の 持つ志向性、すなわち意味の問題だけは)、川人さんが標榜している 計算主義では解けないことは明白だから、それを対抗軸にすれば いいだろう、そんな話になる。  池上さんも、最近、クオリアの問題をexactnessの問題として定式化 して考えている。  しかし、相手はヒューマノイドにジャグリングをやらせたり、 テニスをやらせたり、いろいろ派手である。  こちらは当分は目に見えない理論的、概念的な活動に終始せざるを 得ないわけで、  このジハードはまさに見えない山岳地帯に隠れて密かにコーランを 読むようなものである。  オペラ歌手の花月真さんに会おうと思ったのだが、ダメだという ことで、いい店ありませんかと聞くと、岡崎公園のそば屋、ごろんた がいいと言う。行くと酒から何から素晴らしく、池上さんの友人の 京大基礎物理学研究所の野坂さんも加わって、しばし湯葉や豆腐や ニシンの棒煮などを。  「われわれはジハードモードだからな」 と池上さんが繰り返し言う。  私はその言葉を聞いて、  猪口をことんと置き、テーブルの上に登り、  われわれはあ、計算帝国主義のお、圧政にい、対抗してえ、 クオリアとお、exactnessのお、問題をお、言語論的てんかいにい、 しかしてえ、意識の問題を、解明してえ、認識のお、革命をお、 目指しててえ・・・ などというアジ演説はしなかった。  祇園ホテルに泊まり、祇園を散歩してコンビニでMIUを2つ買い( 深海魚フィギュアーを集めているのだ)、カップ麺を買って 部屋で食べた。  NHK出版の大場さんから追い込まれているので、ばばばばばばと タイプした。言語やボディイメージについて、考えながら書いている。 追い込まれると、案外いいアイデアがでる。  ジハードは一日してはならない。まずは仕事仕事である。 2001.10.16.  祇園ホテルを出て、四条大橋を渡り、四条烏丸に向かっている時、 ビルの間から、京都の西の方の山並みが見えた。  その瞬間、あああと思った。  前の晩、タクシーに乗っている時、京都ホテルの横を通った。 拝観禁止にされたホテルだが、それを待たずして、今、京都市内に いて山際を見ることは難しい。スカイラインは四角や直角で占められている。  平安時代は違っていたろう。  スカイラインは、低層の木造建築によって妨げられることがなく、 時折山の端を遮るものがあるとすれば、それは寺院の屋根のスタッカート で、  人々は、見上げるたびに、季節の移り変わりを、太陽の運行を、天候の 変化を、そして自分自身の内面的な気分の変化を山の表情に読みとって いただろう。  あまりにも事態は変わってしまった。  私の心の中には、近代文明、とりわけ都市の景観に対しては非常に 深い懐疑の念があって、それは、少年の頃、自分が愛する森がブルドーザーで 次々とつぶされていった体験とも共鳴している。  だからと言って、もちろん、愛用のパワーブックと接している時の 心地よさ、力を持たされる感覚、京都でも、室蘭でも、ロンドンでも、 さっと行ってさっと帰って来れる便利さ、バイエルン歌劇場のオペラを DVDで見ることができる喜び。このようなものが、都市の景観を 生み出した近代文明と切り離せないことも判っている。    私が京都の町並みを歩いている時に感じた揺らぎは、むしろ、 現代の目に見えるものにとらわれることなく、志向性の可能性を 追求すべきだ、そのようなアジテーションの揺らぎだったように 思う。  感覚的クオリアから志向的クオリアへ。  志向性の方に、私が世界をミステリーだと感じるツボが移った この1、2年、生き方に関する私の感受性も随分変わってきたように 思う。  朝、マリナーズを見ていたら、Tusconの締め切りが15日で、 アメリカ時間はまだ15日だということに気が付いて、あわてて 500 wordsのabstractを3本書いた。  こういうのをぱっとインターネットでonline submissionできるという のも、近代文明がもたらした利便である。  Tusconは、砂漠の中でウイスキーを飲む快感が忘れられず、行かずには いられない。 2001.10.17.  脳にカオスがあるかどうかと言えば、きっとあるのだろう。  しかし、それが機能的に重要な意味を持っているかどうかは判らない。  少数自由度の力学系が予測できないような振る舞いをするということが 驚きだったわけだけども、どうもそのようなことは元々大自由度の Open Systemである脳においてはあまり意味のないことなのではないか、 そんなことを言っていつも池上さんと議論になる。  それはそうとして、生きるという現場においては、確かに人生は カオスだと思っていた方がいいな、最近そんなことをつくづく思う。  まず、自分の人生をコントロールできると思ってはいけない。 将来がリニアに判ると思ってはいけない。これはまさにその通りで、 五年前に五年後に自分がこういうところでこういう状況にある ということは全く思っていなかったし、7年前には、自分がクオリア の問題を考え始めるとも思っていなかった。十年前には、自分が 脳のことをやるとは思っていなかった。  そういうわけだから、これから五年後、十年後のことも おそらくあまり予想がつかないし、自分の人生の軌道がどちらの方に 向かうか、これはまあ判らないことだと扱うのがいいと思う。  それに加えて思うのは、本当に小さなことで人生の方向というのは 変わってしまうということである。蝶が羽ばたいて台風ができるというのが バタフライ効果だが、それに類したことは人生で確かにある。人との出会い、 本との出会い、あるメタファーとの出会い。そんな、エネルギーとか 時間とかそういうことで言えば小さなことが、その後の自分の考えや 行動に影響を与える。  そういうことを、やっかいだと思うよりは、私はむしろ だからこそ人生は楽しいと思う。  養老さんが、何月何日にどこに行けという日程が決まっているのは、 それは「変えられない未来」だから、「現在」のようなものだ、 「未来」というものは、本来は徹底的に無限定でなくてはならない とよく言われるけども、それは本当にそうだと思う。  私がハリウッド映画の悪口をなぜあんなに言うのかと不思議に 思う人がいるかもしれないが、それは、ハリウッド映画が、まさに スケジュールの済んだ現在を延々と描いているからである。  あれは堪らない。  小津、キアロスタミ、オルミ、タルコフスキー、エリセ。これら、 私が愛する監督たちの映画の中には、沢山のバタフライ効果と、 無限定な未来が詰まっている。 2001.10.18.  この前の大阪で、発作的に、生まれて初めて煙草を吸って以来、 呼吸の一回性とでもいうのか、すーっと吸ってふーっと吐く時に、 あっ、と思うことがある。  これは、煙草を吸う呼吸に似ているなと。  あの時は飲み会の時に1本吸って、カラオケで2本吸っただけだったが、 2−3日は口の中に妙なaftertasteが残っていたように思う。  それは消えたが、微妙な呼吸の頃合いの記憶がまだ残っている。  面白いものである。  東工大のすずかけ台キャンパスに、博士論文の中間発表の審査に 行く。  自分が博士論文を書いていた頃のことを思い出す。  最後の一週間は、ずっと学校の電子顕微鏡の横の部屋に寝て、 不整脈が出た。  発表をして、密室の審査をすませて、「合格です」と言われて、 呆然として居室に帰ってきたとき、ちょうどラジオから ワグナーの「ジークフリート牧歌」が流れていた。  あんなにタイミングのいい音楽との出会いは、滅多にあるものではない。  審査を終えて、院生の居室に行く。  柳川くんと長島くんがいた。  週一回のゼミの時に、今は2編づつ論文を読んでいるけれども、 それに加えて「数理トレーニング」の時間というのをもうけよう、 一回30分、それぞれが、自分が興味を持った数学的な概念について 自由にプレゼンすることにしようアイデアを話す。  第一回は柳川君がヴォランティアしてt検定の話をすることにする。  その後はカテゴリー論とか、様相論理とか、変なものまでいろいろ やれば面白いと思う。  オレも何かで参入しようか。  「認知科学のための数学」という感じで、プラクティカルなものから ファンタスティックなものまで本にまとめたら面白いんじゃないか ということに。  池上高志さんに、「夏の闇」をすすめたら、とてもいいと言う。 あの作品は開高の中でも特別である。  オーパの釣り三昧にたどりつく前に、彼がいかに痛切な体験をしたか。  家族を前にして、「やめた。もうやめた。戦場に行くのはやめた。」 と彼が言って、その瞬間、妻と娘が今までずっとためた物をぱーっと 解放するような仕草をする。  そして、開高は、自身解放されたように、釣り旅行を始める。  そんな下りが後の作品にある。  「夏の闇」は、ヨーロッパの湖の畔で女と暮らし、やがて 北爆開始の知らせに殆ど寝たきりだった男がむっくと起きあがって、 みるみる生気が漲ってくる。女が、「やっぱり行くのね」という、そんな 作品である。  私は、オーパの楽天が痛ましいという話をしたことがあるのだが、 それを聞いていた友人は私の意見に反対した。  ケアフリーに釣りの話を楽しんでいるだから、そういう純粋さが 濁る話はやめてくれと。  なるほど、と思ったが、ベトナム体験がなかったら、オーパも なかったことは恐らく事実だと思う。  私の煙草は開高のベトナムに比べればくだらん話だが、一回性の 体験が脳の軌道を変えるという意味では、スケール不変に昨日の 日記の話につながる話でもある。  今日はどういう軌道になるか。 2001.10.19.  最近、集中して仕事をだーっとやりたい気分なのだが、 どうしてもいろいろ雑音が入る。  結晶化した部屋で結晶化した時間を集中したいと思うのだが、 どうしても雑音が入る。  どうも、生きている限り、雑音が入る。  一時期、モンゴメリーの「赤毛のアン」シリーズを (原書で)だーっと読んでいたことがある。  プリンスエドワード島にも何故か2回行った。  親友の田森佳秀は熱心な読者で(確かに彼の出身の帯広地方は カナダに似ている)、「マシューカスバートが死んだ時に 読んでいた新聞は何か?」というようなトリヴィアに答えることが できた。  それはともかく、モンゴメリーは、無名時代、新聞社に勤めながら、 5分、10分空いた時間で作品を書いたというのを読んだことがある。  漱石は、『猫』を書いてデビューした後、一高や帝大やらで講師をかけもち していて、授業の下調べ、試験の問題製作、答案の採点などで自由時間 が殆どなかった。  ある時、たまたま次の授業が始まるまで2週間空いて、その時に 『坊ちゃん』を集中して書き上げた、そんなことを読んだ。  どうも、生きていることは雑多で猥雑なことであり、仕事は、 断片化した時間をつなげていくことでやるしかないようだ。 それが生きることの本質で、仕方がないことなのだろう。  結晶化した時間を志向することは、死を志向することに等しい。  とは言いつつ、どこかに閉じこもって20時間でも30時間でも 集中してみたいものだと思う。  今やりたいのは、集中して仕事をすることと、温泉に行って、 露天風呂で、冷たい外気へと立ち上る白い湯気を見ながら、暖かい 湯につかり、そして枯れ葉の舞う木の梢を見上げることである。  そうそう、免許の書き換えにいかないと失効する。 これも避けられない「雑音」である。 2001.10.20.  午前4時に、喉がいがらっぽくて目が覚めた。  こうなると、もう眠れない。  寝間着の上にジャケットを引っかけて、  家の近くの自動販売機にVitaeneCを買いにいく。  1962年の今日、私は生まれた。  それで、昨日は免許の書き換えにいった。  何だか、ケロタンみたいな変な髪型になってしまって、  まあ、免許なんて誰にも見せないからいいやと思った。  警察から駅まで歩いて戻る時に、  前を四人の女子高生が制服を着て歩いていた。  何だか、直感的に、「ああ、こいつら、女子高生というコンテクスト に安住しているな」と思った。  次の瞬間、そうか、私は、コンテクストに安住していないヒトが好き なんだと思った。  どんなヒトであれ、私は、あるヒトがあるコンテクストに安住 し始めた瞬間、そのヒトはもう終わりだと思って、見捨ててしまう、 そんなところがあるのではないか、そんなことを思う。  自分自身も、存在論的な不安にかられることがなくなったらオシマイ だ、そのように思う。  年齢というのも一つのコンテクストだとしたら、  そんなものはクソくらえだと思う。  郡司ペギオ幸夫は42くらいのはずだが、どうみてもメンタリティーは 十五の夜の尾崎と同じである。それが彼の素敵なところだ。  池上高志だって、40かそこらだが、未だにティーンエージャーの ように暴れている。  しばらく前に、郡司は、選択しつつ、未来に投企しつつ生きるので なければ、生きていても意味がないと言ったような気がするが、 全くその通りだ。  それは、別の言い方をすれば、あるコンテクストに安住せず、 コンテクストをずらしながら生きることだと思う。  それで、いつかは死んでいくんだろうが、どうせ、自分が生まれる 前に何十億年、何百億年という時間が流れていたんだから、そんなことは かまわない。  生きていく不思議、死んでいく不思議、  花も風も街もみんな同じ。  この花も風も街もというところがポイントである。 2001.10.21.  保育園で喋るのは初めてである。  午前8時に家を出て、  上福岡市の「なかよし保育園」に向かう。  改札の外で、村上園長が待っていてくださった。  以前、EDAの会でお会いして以来である。  まずは、「体育ローテーション」を見てくださいと、屋上に導かれる。  跳び箱をしたり、ロープ飛びをしたり、逆立ちをしたり、棒のぼりを したりしている。  参観の日で、ビデオを持った人が沢山いる。  屋上の遊技場に、秋の陽があかあかと差している。  ああ、穏やかなと思っているうちに、どうも何か普通じゃないなと 思い始めた。  そう、どうも、活動がインテンスなのだ。子供たちが、次々と ローテーションしながら、違う種目にチャレンジしていく。  それが、延々と続く。  「ハイ!」などと言いながら子供たちに跳び箱をやらせる先生たちの 動作も、きびきびしていて隙がない。  「毎日、これから始まるんです」と村上園長。  教室に入ってからは、さらにテンションが上がる。  英語をやって、音楽をやって、詩を朗読させる。  カードを次々とさっさっさと変えて、鸚鵡とか孔雀とか 不如帰とか、そういう難しい漢字を読ませる。  これはこれはと目を白黒させているうちに、  自分が喋る番になった。     参ったなあと思いながら、父兄を前に、「一回性」とか、 「ボディ・イメージ」とか、「カプグラ妄想」とか、「フリン効果」 などについて話す。  終わった後、村上園長に、「先生の本当のご専門はクオリアと 言いまして」と言われて、初めてそうか、今日はクオリアと いう単語を一言も発しなかったなと気が付いた。  打ち上げで薬膳料理の店に行き、生まれて初めてスッポンの血 というのを飲む。  「精力が付きますよ」と言われて飲み込むと、10分くらいして 確かにかっかとして来たような気がする。  送っていきますというのを、いや、酔い覚ましにと駅までぶらぶら 歩いて、初めて見る町並を心の中に取り入れる。 2001.10.22.  「石松代参」と「石松三十石船道中」のテープがどこかにいってしまった ので、上福岡に行った時CDを買った。  それをいそいそとCDチェンジャーに入れて、ドライヴしながら 聞いた。  「江戸っ子だってねえ。」  「神田の生まれよ。」  「寿司を食いねえ、酒を飲みねえ、もっとこっちに寄りねえ」 の「石松三十石船道中」はあまりにも有名だが、 私は「石松代参」で、石松が次郎長に  「金比羅さままで代わりに詣でてこい」 と言われて、  「道中酒を飲むななんて、そんな無理なことはできません」 というと、次郎長が、  「そんなやつは生かしちゃおけねえ」 と刀を抜いて、 実は誰かが止めてくれるのを待っていると、大政が  「なあ石松、どうせ 親分には道中酒を飲んだかどうかは判らないんだから、道中はまあ 自由に飲んで、 もう何里で清水に着くという時から酒をやめて、歩いてすっかり 酔いをさましてから親分のところに来て、はい親分この通り、道中 酒は一滴も飲みませんでした、と、どうしてそうできないんだ」 と言う、あのあたりの呼吸が大好きである。  私も、池上さんも、良く脳の一回性ということを言うのだけども、 広沢虎造みたいに、知っているのに何回聞いてもいいというのはまた 別の話としてあるのだろうと思う。聞き慣れたtakeと別の takeを買って、微妙に呼吸がずれていると、違和感を感じることが あるくらいである。  グールドの「ゴールドベルク変奏曲」は、1957年のに加えて、 ザルツブルク、モスクワ、そして最後の何年だったかの録音が出ている ように思うが、やはり私の中では1957年のやつがスタンダードで、 他の録音は微妙にズレを感じる。  これは、考えてみると大変なことである。録音技術が出現する 前は、演奏といっても生は毎回少しづつ異なり、それこそ一回性しか ないような世界だったと思うのだが、  録音技術により、結晶構造のような、固まった時間の流れを定着 することが可能になった。  そのような、「固定されたもの」が出現したことで、我々の 精神生活がどれだけ変わったか。  もはや、「固定されたもの」がなかった頃の時代を想像するのが 難しいほど、キャパの写真は、小津の映画は、虎造の石松は、 志ん生の落語は、我々が把握する「世界」の中の固定点になってしまった。  しかし、本当は、全てのものは、自分の身体や精神も含めて、 時々刻々と変わり、二度と同じところには戻ってこないものである。  そのような不断の更新、消滅、死の感覚が、世界の中に固定点が 増えることで失われるとすれば(宇多田ヒカルのCDをかければ、 いつも同じ音楽が聞こえる。世界はそのようなものだと思ってしまう)、 それは間違いなくクリエイティヴな精神からは遠いし、「生きる」 ということからも遠い。。  「次の瞬間は全く異なった世界であり得る」という「未来感覚」を いかにとぎすますか。  潮は常に流れていて、二度と同じ場所には戻ってこれない。 2001.10.23.  朝9時53分の東京駅。  さて、行きの新幹線の中では、talkの準備をして、その後NHK出版の 本の仕事をだーっとやるぞと思って、  そうだ、お昼にマツタケご飯をたべるのだと、創健美茶と一緒に 買う。  そういえば、2日前に、郡司さんから、公衆電話発信で、「ああ、 おれだけど。またかけるわ。きのうのばんも・・・」というナゾの留守電 があったことを思い出して、自宅にかけると、名古屋で入不二さんの 研究会を聞き逃して夜の飲み会だけ出たという話だった。    発車ギリギリになり、さっと乗り込んで、Aだから窓際だな、と座ろう とすると、「おはようございます」と声が。  いやになれなれしいオジサンだなと思ってさっと横を見たら、 幼児開発協会(EDA)の菊池さんだった。  ああ、そうだったかと一瞬で納得して、頭を下げる。 http://www.eda.or.jp    もともと、今日はEDAの関西支部で話をする仕事のため、日帰り で大阪に行くのだった。何となく東京から一人でいくような気がして いたけど、考えてみればEDAのヒトタチが乗っているのは当たり前で、 チケット送っていただいたんだから、隣になる確率は高いわけで。  ファインマンだったら、そこまで先読みしていたかなと、オノレの 先見のなさを。  面白い話をしているうちに新横浜を過ぎ、コーヒーを飲み終わり、 実は今日のtalkの準備をしていないのでさせてくださいと言うと、 菊池さんは、「それじゃあ私も」と言って、ポケットからWedgeを 取り出して読み始めた。  早く終わらせる予定が、チンパンジーの自己認識のスライドを自作して いたら案外時間がかかって、新大阪に着いた時はまだ終わっていなかった。  これじゃあ、どうせNHK出版の仕事はできなかったなとまたもや 先見のなさを。  無事話が終わり、懇親会の時になって、ソニーの井深さんが焼け跡 となった東京に帰ってきて、これからの復興は教育と科学技術立国しか ないと思い立ち、まだソニーが小さな企業だった頃から、当時のお金 で100万、今の価値では2000万くらいのお金を優秀校に贈呈して 財団が始まった・・・・  菊池さんのお話を聞きながら、何となくアフガンのことを思う。  帰りの新幹線は一人で、大場さんのコワイ顔を思い浮かべながら 心理的時間と物理的時間について書き始めたが、名古屋を過ぎると いつの間眠っていた。  なぜか、帰りはいつも名古屋を過ぎると眠る。  志向的クオリアと感覚的クオリアの相互関係について夢を見て、 ああ、そうか、おれは勘違いしていたと思った時に目が覚めた。 2001.10.24.  フェルマーの最終定理を証明したWilesは、5年間自宅の2階に 閉じこもって、久しぶりに学会に参加した時は、みんなが死んだと 思っていたWilesが表れたので驚いたという。  Qualiaの問題も似たようなことをしなくてはダメだなと時々 思うのだが、実際にはなかなかこもれない。それで、フラストレーションが たまっていく。  外に出るのがツマラナイというわけではない。面白いから困るのだ。    SD社の方が来て、光藤君と一緒にあるものの購入について相談。  その後、東工大茂木研のゼミ。今日はamygdala損傷患者における 感情的にsalientなword processingの損傷の話と、睡眠不足の ヒトが課題をこなすときに、頭頂葉がかえって補うために活性化する という話。その後、柳川君がt検定の話をする。  私が、少し心の理論と、Capgras delusionの話をする。  そうしているうちに、ソニー本社がMさんとMさんが来て、 二人のMさんと重要な打ち合わせへ。  戻ってきて、学生に、「もう朝日カルチャーに行かなくては」 といって、一緒に出る。  午後6時30分から、朝日カルチャーセンター。  「脳から学ぶ発想法」と軽いタイトルを付けたが、本当は デリダ的なポストモダニズムと科学主義をいかに本質的なところで 和解させるかということを話したいのだと言う。  朝カルが終わった後は、聴講者6人くらいと居酒屋で軽く飲む。  これは、それを楽しみにしている人たちがいるので、仕方がない。  というわけで、今日もNHK出版の原稿を書く時間ががまとめて とれませんでした、スミマセン大場さん。  しかしである(ドーンと机を叩く)。だーっとNHKの 原稿を書いてしまって、がーっと終わらせてしまい、その後は 論文を数編がーっと書いてしまい、その後はあれとかこれとか がーっと書いてしまうのだ、はあはあはあと久しぶりに椎名誠 風になったのは、「スミマセン大場さん」という文を書いたからかも しれない。    それにしても、アフガン空爆の件は、時が経てば経つほど腹が 立ってくる。  ダブルスタンダード、ここにきわまれりである。  今朝の新聞にもあったが、なぜ国内ではどんな凶悪犯罪についても 死刑を廃止している国が、他の国を空爆して「死刑」を実施するんだ? 完全なダブルスタンダードだよな。  Nationstateがどうのこうの、国益がどうのこうのとかしたり顔で いうバカ評論家どもの話は聞き飽きた。  おまえら、時代遅れでかっこわるいなあ。  「国家」という概念を前提にあれこれ言うヤツは、頭の悪い実務家には なれるかもしれないが、透徹した思想家には決してなれないね。  自分の頭が悪いことを、幻想の左翼思想、反米思想をStrawmanに 仕立て上げて正当化するなよな、って感じだ。    今朝はかなりいらだっている。 2001.10.25.  眠る前に、ふと、小学校1年のクリスマスのことを思い出した。  確か、あれは、私がはじめてクリスマスプレゼントということを 自覚的に思った時のことだと思う。  サンタクロースにもらうという受動性が消えて、自ら望むプレゼントを 買ってもらう、そんな能動性が立ち上がった冬だった。  チラシのパンフレットに所有欲をそそるものの写真かイラストが 並んでいて、その中で、サンダーバード2号の発進基地が無性に欲しく なった。  2号と、南の島があって、スライドするプールがあったかどうかは 覚えていないが、確か、噴射を受け止めるポッドはあったと思う。  それで、クリスマスが近づいた日、家から自転車に乗って、母親と 踏切の向こうのその店まで買いにいった。  縞模様の包装紙に包んでもらって、クリスマスまで待つのよと 言われ、確かその日の朝に開けたのではないかと思う。  そんなことを思い出すと、あの時はすでに30年以上前のことだけども、 全く別の時代のような気がする。あの時間や空間がどこかにいってしまった ということの不思議さに比べたら、大抵のことはどうでもいいことのように 思える。  永井均さんはあまり経験主義科学に興味があるようには思えないけど、  <私>が<私>であることや、時間が流れていってしまうことの不思議さ から比べたら、経験主義科学が明らかにすることなど、大抵どうでも いいことだということは、気分としては判る。  そんなことを考えているうちに、私が、なぜ幼児「教育」という ことにあまり関心が持てないかということの理由に思い当たった。  要するに、私は、幼児期の自分の心の状態が、「教育されるべき」 次元の低いものだったとはあまり思えないのである。  判るのは自分のことだけども、おそらく他の人もそうなのではないか?  むしろ、<私>が<私>であることの不思議さ、時間の流れの不思議さ、 世界の中にわけがわからないうちにぽーんと投げ出されてしまっている ことのどうしょうもなさ、そのようなことに対する感覚は、いろんな ことを知って構造化されたしまった今の私よりも、よほど純粋で ひたむきなものを持っていたように思う。  そういうのを「教育」することよりも、いかに自分がそのような状態 に還るか、維持するか、そちらの方に私の関心があるのだなあという ことに、眠る前に思い至った。   それから、5歳くらいの時は、どんな感じだったかしらんと考えて いるうちに、どきどきしてきて眠れなくなった。  枕元の明かりをつけて、ゴルゴ13を読んでいる うちに、眠くなった。  今朝になってみると、5、6歳の時の気持ちに戻ってみようという モティーフは残っていて、本当に、どんな感じだったか、記憶の 糸を探り続けてみようと思う。なぜか、今の私にとって、とても 大切なことのように思えるのである。 2001.10.26.  しばらく前に、中吊り広告の雑誌の見出しを見ていたら、  「問題を起こす不良社員、5つの兆候」 などという記事があって、その中に  「定期健康診断を受けない」というのがあった。  私は、思わず、心の中で、アチャっと思った。    誕生月の10月になると、社内便で健康センターから受診案内が 送られてくる。  最初の年は受けたのだが、その後、封筒が送られてきても、何となく 面倒になって、行かない、催促の封筒が来ると、また行かない、その うち向こうが諦める。  そんな風な年が2、3年続いたのだろうか?  そんな話を、この前神戸で郡司さんにしたら、  「いやあ、茂木さん、ぼくももう10年くらい大学の健康診断受けて いないんですよ。」 という。  不良社員が、不良教官と喋っているわけである。  それで、今年は何だかいつもの案内と違って、人間ドックを受けろ、 さもなくば定期健康診断を受けろと言って来ている、人間ドックという ものは今まで受けたことがないので、面白そう だから受けてみようかと思っていると言うと、郡司さんは、  「いやあ、ぼくもそう思って、この前、人間ドック申し込んだんです けど、当日の朝になってキャンセルしたんです。」 と言う。  そのくせ、郡司さんは、しょっちゅう「身体の調子が悪い」 といって医者にいき、 「どこも悪くありません」と言われて帰ってくるというのだから 何が何だかわけがわからない。    私の方は、当日の朝、キャンセルしなかった。  一番面白かったのは、「バリウム検査」である。  検査台の前に立って、まずはじけると二酸化炭素か何かが出る 紛状キャンデーを飲む。  「ゲップしないでください」 と言われて、膨満感をガマンする。  すると、検査台ががーっと横に 傾いていき、私はそこに寝る形になる。  「はい、バリウムを一口飲んでください。仰向けになってください。 私の方に45度向いてください。もう少し。はい、結構です。今度は、 右回りに、検査台の上で回転してください。まずうつぶせになって、 はい、そのまま仰向けになってください。はい、ここで、またバリウムを 一口飲んでください。私の方に、少し身体を傾けてください。もう少し。 はい、結構です。今度は、うつぶせになって、私の方に、45度くらい 身体を傾けてください。ちょっと行きすぎたかな。はい、結構です。 また、バリウムを一口飲んでください・・・・」  白い検査着の私は、まるで意図せざるバレリーナのように、検査台の 上で言われるままにぐるぐる回ったり、身体を傾けたりした。  ぐるうると回っているうちに、健康診断が、何か全く別のものに 転化していくような気がした。  「コペンハーゲン」を見に行こうと思って、健康診断の前に池上 さんにメイルを送ってとっておいてくれと頼んだのだけども、 夜になってメイルが来て、「おい、とれなかったぞ。コペンのせいか、 アクセスができなくて、できたら終わっていた。どうすればいいんだ。 このままじゃ悔しいな」と言う。  私も悔しいので、今日は自分でトライしてみようと思う。 2001.10.27.  夢の中に、大学院で一緒だった長島重広くんが出てきて、  「茂木さん、茂木さん、最近泳いでいますか?」 と言う。  「いや、泳いでいない」 と言うと、  「うーむ。ダメですねえー。私なんか、毎日3時間泳いでいますよ。」 と言う。  「どうして?」 と聞くと、  「水産実習で、魚を捕っているんですよ。フィンとか付けて。茂木さん、 『淵(ふち)』って判ります?」  「いや、判らない。」  「うーむ。『淵(ふち)』も判らないで泳いでいるんですか。淵というの は海ではないんですよ。川が海に流れ込む、手前のところなんですよ。」  そうだったのかと驚いて目が覚めた。  不思議なもので、話者交代(turn taking)の呼吸など、まさに長島くん そのものである。しかし、もちろん、具体的に交わした会話の内容は、 夢で初めて出会ったものである。  それでも、「長島くん」という人物のキャラクターの感じが濃く 感じられて、まるで本当に本人に会ったような気がする。  夢を見ることで、自分の脳の状態が変わるというのは本当にあることで、 私には何回も経験がある。  大昔、夢の中に長年会っていない人が出てきて、それで気になり始めて、 連絡をとったことがある。  面白いのは、こういうとき、現代人ならば、自分が無意識の中で相手を 気にしているから夢に出てくるのだろうと思うが、  平安時代の人は、相手が自分のことを思っているからこそ自分の夢に 出てくると解釈していたということである。  いわば、能動と受動が入れ替わっていたわけである。  この、相手が自分のことを思っているからこそ、自分の夢の中に出てくる という考え方には、何か、迷信とは片付け切れない、<私>の心と <他者>の心の関係についてのある真実を含んでいるような気がして、 以前から時々気になって考えてみる。  もちろん、私は、長島くんが私のことを思っているから夢に出てきた とは思わない。  一方で、私が長島くんのことを無意識のうちに気にする理由があるとも 思えないので、昨日の夢は宙ぶらりんである。  随分久しぶりでマスカットを食べた。おいしい。マスカット・オブ・ アレクサンドリアと書いてあるが、あのあたりでとれるのだろうか? アラブのカルチャーは、厳格な禁欲主義の裏にある官能性というメタファー に実に心が引かれる。ラダマンで日没後にごちそうを食べるのもそうだが、 どうも、タリバンやビンラディンのような現象も、その根底に 官能性があるような気がしてならない。  今日、明日は家に閉じこもって原稿を書く予定。 2001.10.28.  マスカット・オブ・アレクサンドリアを食べ終わった後の房を 流しの横に転がしておいた。  今朝、カレーを食べようと皿を洗っている時に、それがふと 眼に入った。  そして、ああ、なんて精妙で美しい枝分かれの構造をしている んだろうと思った。  仕事に追われていると、そのような小さなものに対する視線が どうしてもナゾルだけになる。  道端の花に目をとめることもなくなる。  天の海に 雲の波立ち  月の船 星の林に漕ぎ隠る見ゆ  は万葉集の人麻呂の歌だが、身近の小さなものにも、 空の天体現象にも、目を配る心のゆとりが欲しいと思う。  真理を究明するためにというのならともかく、現実的で実際的な ことに精力を注がなければならない政治家、軍人、経済人。  本当にご苦労なことだと思う。  私は、そういうことに精力を使って人生を終わるのはイヤである。  円がドルに対していくらになったとか、ビン・ラディンがどこに いるとか、田中大臣は辞めるかどうかとか、そういうことに 興味がある人は、やっていれば良いが、私はそんな時間があるんだったら、  月や花やブドウの房の枝分かれを眺めていたいと思う。  平安時代というのは私の中ではある意味では理想化されていて、 小さなものへの関心の払い方が和歌として制度化されていて、 そのようなことを天皇や政府高官たちが真面目にやっていたというのは 類希なことだと思うのだが(現代の俵万智的な和歌は私の天敵であって、 あのような凡庸な感性を正当化してポピュラリティを得るだけの 堕落的作品群は見るに耐えない)、そのような時代は遠くに過ぎ去って しまったのだろうか。  という私も、普段は仕事やら何やらに追われていて、小さき物、 天体現象、風の向き、水温む時、そのようなものにゆったりと沈潜 することができない。  このところ、ランニングに行くと、近くの児童公園の片隅にある 白い薔薇がまだ花を付けている。  5月ぐらいから咲いているから、随分花期が長い。  身近で密かに咲いている花を見逃さないようにしたい。 2001.10.29.  ハムスターが、廊下の壁の脇の籠の中にいる。  ずっと、そこにいることは判っていて、餌や水ももちろんやっている んだが、  何しろいつも紙くずの中に隠れているので、  ほんの時々、「おっ、いたか」と思うくらいだった。  ところが、このところ、秋になってハムスターも寂しくなってきたのか、  いつも、紙くずの中から出て一番こちら側(人間が通る側)の 壁際にぴたっと身を寄せて何かを待っているような仕草をするように なった。  指をつっこむと、くんくんと嗅ぐ。  それで、こっちも、手で触ったり、お腹をなでたり、何かやったり、 いろいろコミュニケーションをとるようになった。  先日はマスカット・オブ・アレクサンドリアをあげたら いたく気に入ったらしく、抱え込んでむしゃむしゃと 勢いよく食べた。  アリが水滴を運ぶのと同じで、ハムスターにとっては一粒といっても 体に対してかなりのプロポーションである。  オレが、一斗樽のマスカットを食べるようなものかなと思うと うわっと思った。  どうしても擬人的な記述をしがちなハムスターだが、果たして ハムスターに「自分は自分である」という自意識はあるのか?  あるいは、他人(他のハムスターや、人間)に心があるという意識は あるのか?  ハムスターの中には、かけがえのない<私>について考える 永井均はいるのか?  これは、今書いている本とも関係するのだが、答えはノーではないか と思う。  そして、意外なことに、チンパンジーやオランウータンに関しても ノーなのではないかと思うのである。  全世界の中で、人間だけが、「私が私であると思う」、「他人に心が あると思う」、明示的な(explicit) 能力を持っているのではないかという考えに 今傾いている。  その場合、鍵になるのは表象化の能力で、結局、言語につながるような 表象化の能力がないと、自分の心の存在にも他者の心の問題にも気が付き 得ないということになろうか。  とは言っても、ハムスターを擬人化するのはこちらの勝手である。 今朝も、この上ない「人類の孤独感」を感じつつ、ハムスターと戯れる。 2001.10.30.  そういえば、最近音楽を聴いていないなと思い、机の横に転がっていた 黄色のCDーWALKMANを手に街に出た。  ちょうど、月がビルの上の雲の中に見え隠れしていて、  雲の際が照らされて煌々と輝くそのクオリアが、 耳から聞こえるベーム指揮のトリスタンの前奏曲と共鳴して 独特の効果をつくる。  NHK出版の大場さんと渋谷のモアイ像前で待ち合わせ。  東急会館のエレベーターの前で、突然 「茂木さんは観察力がスルドイですからね。」 と言う。  何のことかと思ったら、この前やはり東急会館でうち合わせした 時に、エレベーターの中で一卵性の双子ばかりいるような気がした ということを日記に書いたことらしい。  それ以来、街を歩いていると、あのヒトとこのヒトも、 あそこの二人も、と次々と一卵性双生児に見える「双子症候群」 にかかったということを日記に書いた、そのことを「スルドイ」 と言ったらしい。  いや、あれはスルドイのではなくて、ぼけているんですという 言葉を飲み込んで、寿司屋のカウンターへ。  お前は、地図が読めない女とか、前頭葉が壊れているとか、ああいうのを どう思っているんだ、えっ、前書きで、エセ脳科学書に翻弄されている 一般読者に、脳は本当はこういう風にシステムとして動いているんだと、 そういうのを問いかけたらどうなんだ。えっ、どうなんだ。  バンバンバンと机を叩く大場さんの言葉を聞きながら、  一瞬、8合目だと思っていたら、5合目にもどされるのかと思ってしま った。    具体的な入稿の段取りを決めて、あとはにこやかにプロレス の話などをする。  コイズミとかタケナカとかをばったばったと切る「月光 仮面の・・・・・」とかいう本をKさんに書かせたということで、 「これは売れそうです」と大場さんはにこやかに言うのであった。    CD-WALMANでトリスタンの第一幕の続きを聞きながら駅から 家まで歩く。  暗闇のあちらこちらからクオリアが花のようにぽつぽつぽつと 咲いては消え、志向性の森に雑念が溶かされ、闇に紛れていった。 2001.10.31.  朝、熱帯魚の入っている水槽のフィルターから水が出ていないことに 気が付いた。  よしよし、掃除してやろうと、風呂場でジャージャーとシャワーを かけて、さらに蛇口を指で押さえて水鉄砲を作ってシューと穴を 打って、再び水がサラサラと流れるようになった。  水が流れると、水槽の中に動きが出る。  それで、魚が喜んでいるような気がして、そのままランニングに出た。    公園の中を走っていると、頭の中が何かに駆り立てられている気がして、 さらさらと、水が流れ続けているような状態の気がして、  うーむ、精神の健康のためには、淀みも必要だなと思った。  感情のよどみにとらわれて、何も表面的にはやっていないヒトも、 そのような淀みにいることで、何かを得ている側面があると思う。  淀みたい、淀み大意と思いつつ、CSLに行ってゼミで論文を 二つ。  4月に入ったM1の3人も、短い間に随分成長している。  やけくそだというので、ビデオ屋でThere is something about Mary. を借りてきて見た。  4年くらい前か、Cambridgeでポスターを見てから、いつか見ようと 思っていた。  ハリウッド映画の悪口ばかり言っている私だが、時々は見る。 特に、この映画のような、学生もの、青春ものは見る。Real Geniusなどは かなり面白かった。  There is something about Mary.は、やっぱりオバカな映画だったが、 この手のオバカは許せるような気がする。  学生の時は、みんなオバカだし、オバカな悩みを抱えているものだ。  私が許せないのは、凡庸な人生観をマジメにドラマ化している大人の 振りをした映画。例えばPretty Womanとか。  しかし、An officer and a gentleman.は何故か許せる気がする。  まあ、あのころは私もナイーヴだったから。  恐ろしいのは、Tristanの1幕を聴いて、 やはりこれは天才的な作品だと思いつつ、しかしRichard Wagner自身の 人生も含めて、我々の人生というものは、大抵の場合、Tristanよりも There is something about Maryの方に近いのではないかと思うこと である。  フィクションの中ではタナトスやエロスに親近感を感じても、実生活は パンやミルクで出来ているというのが人間というものか。  オバカ淀みを2時間体験して、その後はまた仕事。  最近は、机に座ると、よどみなくそのまますっと仕事に入る。  それで、すっとランニングに出る。  ホントは、ランニングに出て走っていると次第に縄文人のように 野生化してきて頭がすーっとモードチェンジするはずなのだが、 走りながらも仕事のこととかを考えてしまう。  これはヤバイと思って、ゼミの後学生たちと酒を飲んだけども、 あまり解放されていないような気がする。  淀みたい、淀みたいと思いつつ、今日もさらさらと水が流れる。