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Qualia K-1

「語り得ぬものについて」

(第一回Qualia Community 関西meeting)

主催 羽尻公一郎+The Qualia Manifesto

 

日時 2002年7月13日(土) 午後2時〜午後6時

立命館大学びわこくさつキャンパス(滋賀県草津市)

コアステーション3F第3会議室

http://www.ritsumei.ac.jp/mng/gl/koho/access-map/bkc-access.htm

Program

午後2時 開会の挨拶(10秒)

午後2時〜午後3時 羽尻公一郎 言語のハードプロブレム

午後3時〜午後4時 茂木健一郎 表象と生成の精密学

午後4時〜午後5時 塩谷賢 時間における語り得ぬもの

午後5時〜午後6時 自己紹介、近況報告、Discussion。

懇親会(近くの居酒屋)

参加申し込みは、茂木健一郎 kenmogi@csl.sony.co.jpまでメイルで、

または

The Qualia Community 関西掲示板

で参加表明をしてください。

Abstract

羽尻公一郎 言語のハードプロブレムまでの道のりとこれから

子供のころ、私、羽尻公一郎は自我の強い、とてもアホな子供だった。人工知能で言うところの共有信念の確立能力、平たく言えば相手のことを気遣ってしゃべるということがまるで出来なかった。じつはいまでもそうかも(?)。ともあれ、子供のころの私は大変なおしゃべりだった。言葉が泉から湧き出るように一日中喋っているような子供だった。と同時に、一人遊びが大好きで、レゴで夢中で遊んでいた。ある日、いつものようにレゴで遊んでいるとき、ふと、ブロックではなくそれを持つ手に興味がわいた。私の命じるまま、意のように指が動く。おもしろくて指をまげ続けた。

そしてある瞬間、指を曲げることを楽しんでいる自分を発見した。つまり、「指を動かそう」という意図を持った自分を観測する「動かすことを楽しむ」自分、つまりメタな自分を発見した。では、メタのメタな自分は発見できるか?私は頭が熱くなるくらい頑張ったが、メタメタ自分は発見できなかった。

また、例のクオリアに気づく典型例も幼いころに経験した。自分が見ている赤い色は本当に父や母にも赤く見えているのだろうか?ほんとうは彼らには赤く見えているのではないか? でも、それを確かめる術がないことにほどなく気づき、私の心脳問題は頭の片隅の倉庫にずっとしまわれたまま、私は大人になっていった。

やがて大学でAIを学び、自然言語処理を研究テーマとして与えられた。具体的なテーマは、発話の産出過程の認知計算モデルの構築に決めた。そしてすぐ、そのモデルの入力である概念とはなにか、どうやって記述すべきなのか悩んだ。悩んでいては研究が進まないので、概念はAIの古典的な記述を採用した。あ、ちなみに私の博士論文にこのモデルのことが書いてあります。

http://i.am/hajiri/をちぇけら!

閑話休題。概念の記述、すなわち意味論の問題の深刻さに気づいた私は、意味論をむさぼるように学んだ。しかし、どの学説も私を納得させてはくれなかった。意味の主観性に切り込み、言葉のクオリアについて研究しているひとは、極々少数の哲学者の、極々部分的な思想にしか見つけられなかった。「謎があるなら、それを解くことを躊躇っては研究者ではない!」私は自分に発破をかけ、大いなる主観性の世界へと旅立った。しかし、その世界の険しさときたら! 

というわけで、言語の本当の意味論、すなわち主観的意味論の困難さと私が今考えている突破方法について話します。

茂木健一郎 表象と生成の精密学

哲学的ゾンビの概念が可能であるように思えてしまうこと自体、私たちがクオリアに満ちた主観的体験が生み出される第一原理を理解していないことを意味する。今の意識へのアプローチは、全て希望的観測による錬心術に過ぎない。どうすれば錬心術を超えられるか? クオリアの耐え難き精密さから新たな精密法則の次元に向かう道を探る。

 

塩谷賢 「時間にまつわる個物」

 時間について動的な立場から考察するときには、関係論的な立場に根差した存在論をとることが有利であると考えられる。にもかかわらず時間が解明され尽くし、別の概念によって完全に定義されることはありそうに思われない。つまり時間は経験の現実性を離れて存在することは不可能なものであろう。このような時間の原基に深く根差す経験性の姿を垣間見せるものの一つが個物である。個物はもっとも身近なように見えながらもその機能的な規定がなんであるかは解明されていない、いわば使われ、生きられながら、理解されていない概念である。そこで個物と時間の関係を機能論的立場から考察して行きたい。