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RFC#19

クオリア消滅体験とトランスパーソナル

天田未惟

m-amada@h9.dion.ne.jp

 

(c) 天田未惟 2002

 

 <要約>

 

 私のある瞑想体験を通じてのクオリアをめぐる考察と、いくつかの変性意識

体験を比較参照しながらトランスパーソナル心理学の主に超個的領域と言わ

れる意識の高次領域を具体的に検討する。それと関係して、心脳問題との

連関を考察する。

 

 初めに

 

 クオリアの私秘性、自分の見ている赤と他者が見ている赤とは同じ赤

なのだろうか。これを確実に証明することは不可能だといわれている。哲学上

の難問の1つである。さまざまな感覚的クオリア、志向的クオリア、表象、それ

によって形成されるさまざまな体験、これは本人しか知り得ない私秘性を

持っている。言語によってある程度、他者との間にこの体験を共有することが

できるだろう。その場合、その他者がある程度、自分の体験と共通する土台を

持っているということが、言語によるコミュニケーションを成立させるための重要

な要素である。

 

 表面上、自分と非常に近しい体験をしていると思われる他者とのコミュニケ

ーションでも、それが自分と同じ体験をその他者がしているという確証は、

哲学的な厳密さで追求すれは怪しいものとなっていってしまう。

 

 自分の体験と他者の体験が全く違う土台、あるいは非常に離れている

土台しかなかったという場合、当然のことながらその体験を共有する部分は

小さなものにならざるを得ない。そのコミュニケーションが非常に困難なものに

なるのは想像に難くない。哲学上のクオリアの私秘性のレベルの高い領域

があり、相対的にみて低いレベル(通常のクオリアの私秘性など)よりもさらに

輪をかけて難しい問題になってくるだろう。

 

 いわゆる、超常体験、至高体験、瞑想などの宗教的体験などは、共通する

土台を持つことが難しい、クオリアの私秘性の高いレベルの領域だということ

が言える。体験者からは「体験したことのない人にいくら言葉で説明しても

わかることではない。」ということもよく聞かれることである。

 

 しかし、言語による伝達が困難だったとしても、その努力は続けていかなけ

ればならないことだと思われる。このような領域が世界全体に及ぼす影響は

科学のようにはっきりと目に見えるわけではないが、決して小さくはないのでは

ないだろうか。そのことによって、対立項のように考えられている科学との関係も

考慮の対象になっていくだろう。

 

 そのような言語伝達の不可能性をわきまえつつ、私自身の瞑想体験とある

臨死体験、、それは同時に至高体験である、、、を考えていきたいと思う。

 

 それと同時に、トランスパーソナル心理学の超個的領域にそれらの体験を

当てはめる試みをし、具体的にそれらの領域がどのようなものであるか、を

示すことを試みてみたいと思う。実際、これらの領域は理論的、抽象的に

語られることが多く、具体例を示すことは少ないようである。

 

 

 (I) クオリア消滅体験

 

 1、ある瞑想修業

 

 今から、20年近く前の私の体験した瞑想修業について話してみたいと

思う。そこに至るまでの過程は、かなり特殊で説明するのに難しいので簡単に

状況だけを説明したい。それは仏教系のある宗派の中で実践されていた一つ

の修業である。私自身は宗教的なものには以前から興味はあったが、実際

宗教的なものを自分自身で実践するということには、ほとんど関心はなかった

のである。その瞑想修業をすることになったのは、成り行き上する羽目になっ

た、という感じが強い。

 

 そのころはまだ、心理学にはあまり興味はなかった。興味の中心は美術、

特に近現代絵画だった。芸術的感性でも瞑想と通ずるところがあるように

思う。特に現代の抽象絵画の中には、目を開けたまま見るという行為を通じ

て瞑想する、、、そのような鑑賞の仕方がふさわしい、といえるものもある。

あとでトランスパーソナル心理学との関係を論じることになるが、その時は

ユングもトランスパーソナル心理学も全く知らなかったのである。もちろん

脳科学、クオリアのハードプロブレムも知らなかった。ただ、クオリアの問題

に関してはそれに近いことを十代のころからよく考えてはいたが。すなわち、

これらの理論と瞑想体験との照合はすべて事後的なものである。

 

 瞑想といっても、いろいろな形式があるようである。異なる瞑想形式の相互の

理解というのもかなり難しいような気がする。私は自分自身で経験した瞑想

形式のことしかよくわからない。よく取り上げられるのが座禅である。他にも

ヨーガなとがあるが、これらの瞑想は文献や体験談などを読んでみても、今

ひとつピンとこない。これらはクオリアの私秘性のレベルの高い領域なので

当然のことかもしれない。ある瞑想を体験したといっても、瞑想全体に体験的

に通じているとはいえないと思う。

 

 私の体験した瞑想の形式は、坐禅とはかなり違い能動的で精神を集中する

タイプのものだった。その意味で瞑想というのはあまりふさわしい表現ではない

かもしれない。畳の上で正座し、手を合わせて精神を集中する、雑念や妄想を

徹底的に排除する、いかなる表象も生じない状態を目指すものだったようだ。

ゆっくりと時間をかけて静かに自我の働きを鎮めていく坐禅とは、むしろ対照

的で、短時間に全神経を集中させてある状態を実現させる、というものである。

さまざまな瞑想修業と同じように、指導者がいてその過程を見ている。どの

瞑想修業でも適切な指導者の存在は不可欠で、自己流はよい結果をもたら

さない。ひとりで修行する行者などは、余程修練を積んだ後でなければでき

ないのではないだろうか。私の体験した瞑想修業は、特にその点は厳しく

ひとりでしてはならない、とされていた。

 

 2、クオリアの消滅?

 

 1日に30分程度、その瞑想修行をするのであるが、それ以上は時間をかけ

ない。あまり長時間続けてはできないのである。それも1カ月に1回程度である。

最初の2、3回はかなり頑張ってみたものの、満足いく状態にはならなかった。

どうしても雑念や妄想か浮かんでくる。どうでもいいようなくだらないことが、次

から次へとわき出てくる、といった感じである。1点に集中し続けることはなかなか

できなかった。

 

 しかし、4回目くらいだったろうか、修行を初めてしばらくして、集中力を持続

することがうまくできたようだった。雑念や妄想の表象が全くないクリアな状態

がかなりの時間保てたようだった。

 

 突然、意識が何かに吸い込まれるような感じがしたかと思うと、座っている

畳の感触とすぐ横にある障子の感覚、そのような身体感覚と空間感覚が一瞬

のうちに消え去ってしまった。視覚と聴覚からの感覚も同時に消滅した。

しかし、意識そのものはこれ以上ないような鮮明さで存在しているのである。

 

 この状態を言葉で説明するのは非常に困難なようである。私がこの体験を

する以前に、これと同じ体験をした人からいくら説明されたとしても、決してわか

らなかっただろう、ということは分かっている。しかし、そういっただけではどう

しようもないので、できる限り精緻に表現していきたいと思う。

 

 3、諸感覚の状態

 

 他の変性意識状態との比較をするために、RFC 7の境界人氏の体外離脱

体験を取り上げ、比較対照して考えていきたい。(以下、RFC 7と表記、また

1番目の体験をRFC 7ー1、2番目の体験をRFC 7ー2と表記する。)

 

 まず、聴覚からであるが、その時回りにはかなり音のある状態だった。それが

一瞬にして消えてしまったのである。しかし、それはしーんとした無音の状態に

なった、ということではない。そのように言うしかない状態である。RFC 7の体外

離脱状態においては、「ニーン」といった高周波音のようなものが聞こえたと

いう。それ以外の外部的な音はどうだったのかはよくわからないが、実際あまり

音のある状況ではなかったようである。

 

 音が全く消え去ってしまったのに、それはしーんとした無音の状態ではない、と

いうのは論理的には考えられないだろう。それは、聴覚だけでなく、視覚、身体

感覚、空間感覚、時間感覚などと全く同期して起こったことであり、感覚のモダ

リティの内ひとつを取り上げても適切ではない。それはクオリアの根本的な

存在の在り方を示しているように思われた。もちろん、その時はクオリアという

概念は知らなかったわけであるが、その時の状態は現在でも鮮明な記憶となっ

て残っているので、考察の信頼性のある対象になりうると考えている。

 

 音のクオリアはさまざまな周波数の音波が聴覚器官から脳に伝わり、ニュー

ロンの発火が起こり、マッハの原理によって表象される、と仮定してみれば音の

ない状態でも(全くの無音になる、というのは不可能だろう。例えば心臓の音は

かすかに聞こえてくる。)抑制性結合が最大限発揮されているわけであり、それ

は抑制性結合は発火しないことによって、認識に寄与している。それは音のある

状態のニューロンの発火パターン(それは無限にある。)との関係において意味

を持つことになるだろう。音のない状態は、無音のクオリアとして表象されてい

るわけである。つまり、この瞑想状態においては、いかなる音のクオリアも

全く無音のクオリアも表象されていないといえる状態なのである。しかも、睡眠

状態や酒を飲み過ぎて何も覚えていない、という状態との決定的な違いは、意

識そのものは全く鮮明である、ということなのである。

 

 視覚においても同様なことが言えると思う。瞑想は目を閉じた状態でする

わけだが、やはり、視覚からの感覚は強烈なので目を開いたままでは修業は

困難だということなのだろう。これは他の瞑想修業と同様である。しかし、部屋

は蛍光灯でかなり明るかったので、目を閉じていても真っ暗というわけではな

い。よく臨死体験や至高体験などで現実の光とは違う神秘的な光を見た、と

いうことをよく聞くが、その瞑想状態に入ったときはそのような光を見た、とい

うことは全くなかった。といって普通の閉じた瞼から入ってくる現実の光というも

のは全く消え去ってしまったのである。そして、それはやはり、真っ暗になった

状態ではないのである。ここでも音のクオリアの消滅と同様に、光のクオリア、

さまざまな色のクオリアという視覚クオリア自体が消滅したように感じられた。

 

 この時、V1から高次視覚野におけるニューロンの発火パターンは、どうなって

いたのだろうか。意識がありながら視覚クオリアが存在しない、というのはひとつ

のパラドックスなのだろうか。これはRFC 7の体験と比較してみるとよく分かる。

この体外離脱の状態においては、その視点というのは物理的にはあり得ない

視点ではあるが、その視覚クオリアは通常の状態にかなり近いものだということ

が言える。部屋全体が黄色くぼんやりと明るかった、というのはやや異質な感じ

がする。それでも普通の肉眼で見る状態に近いわけであり、実際その位置から

見たらそう見えるだろうと予想する範囲に収まっている。寝ている自分を上から

見るというのはもちろん、特異な現象であるわけだが。

 

 身体感覚の消滅も劇的だった。また、味覚や嗅覚も同様だったと思われる。

畳の上に正座をしていたので、畳の固い感触があった。身体のとっている姿勢

また、どのような姿勢を維持しようとしているか、という自分の意志、それらをす

べて含めて、、、感覚的クオリア、志向的クオリア、表象のすべてが瞬間的に

消滅してしまった。この身体感覚の消滅というのも、ふわふわした浮遊感を

持つようになった、ということではまったくないわけである。RFC 7ー1においては

ある特殊な身体感覚を持った状態だといえるだろう。風船のような浮遊感を持

った状態であり、物質としての存在感もかなり希薄になっているようである。そし

て、意志によって自由になる範囲というのも限定されていたといえる。しかし、身

体感覚のクオリアは依然として存在している。ところが、RFC 7ー2の場合に

は空中に視点のみが存在し、(聴覚も存在していたようであるが)自分を見て

いた、ということなので身体感覚に関しては消滅した状態なのかもしれない。

 

 クオリアの消滅という特殊な状態を強調すると「本当に完全にクオリアが

消滅したのか。」と問われそうであるが、五感の感覚的クオリア、志向的クオ

リアに関してはほぼそうなのではないかと思う。ただ、空間感覚に関しては少し

違うかもしれない。通常の空間感覚はほぼ完全に消滅したといえるのだが、あ

る特殊な空間感覚があったように思う。その中を意識それ自体がすーっと移動

していくような感覚があったのである。その意味ではクオリアの消滅といっても

パーフェクトとはいえないかもしれない。

 

 時間感覚も通常の状態では全くなかった。クオリアの消滅した状態において

は時間感覚も全く変わってしまうのは当然である。その時、一体どれくらい時間

が経過したのか全くわからないのである。一瞬だったような気もするし、かなり

長かったような気もする。

 

 この瞑想状態に入るか、入らないかというのはかなり二元的な感じがした。

完全にその状態に入るか、あるいは全く入らないかどちらかである。その中間

というものがほとんどないのであり、ある臨界を越えた瞬間、一気にその状態に

没入する、ということである。極度に精神を集中した状態なので、心の中に僅か

な表象が生じると直ちにそこに力が集中してしまい、クリアな状態を保てなくな

る。いわゆる雑念というやつである。「クオリアの消滅」という事態も、二元的な

状態の片方の極なのである。この瞑想状態において、世界を感じる起点として

の<私>は消滅したといえるのである。

 

 4、クオリアの回復

 

 一体、どれくらい経ったのだろうか。数秒か数十秒か分からなかったが、肩に

手が置かれる感覚がしてその瞑想状態に終わりが来た。それは指導していた

人が肩をたたくことによって、その瞑想状態を終わらせるのである。その瞬間、

どっと洪水のように感覚的クオリアが流れこんできた。視覚、聴覚の感覚が元

に戻り、身体感覚が回復した。その時、体の姿勢は全く変わっていなかったので、

クオリアが消滅した状態においても、筋肉への出力は変わっていなかったと思

われる。周りの状態はその瞑想に入る前と何も変わっていなかった。しかし、私

の内面は全く変わったものになってしまったかのようである。

 

 瞑想状態が終わり、クオリアが回復する過程において、その瞑想状態が

どのようなものであったのか本当に理解することができたといえる。瞑想状態に

入っている最中は、いかなる表象も思考も存在しないので理解ということも

存在し得ないのである。真の啓示はその帰り道の瞬間にもたらされた。

 

 洪水のように流れこむ感覚的クオリア、それと同時に志向的クオリアが立ち

上がる。そして、それに伴いありとあらゆる感情が回復してきた。心の中で

「ああ、そういうことか。」という深い納得のようなものがもたらされた。その瞑想

状態に入っていたとき、感情もまた全く存在していなかったのだ。クオリアと

感情は一体不可分なものである。志向性と感情も一体不可分なものである。

そのような納得がもたらされたと思う。クオリアや志向性という概念は

その時は持っていなかったわけであるが、今思い返してそのようなものであった

と思われる。過去は現在の思考や概念、感情によって変えられてしまうもので

あるが、この時得られた洞察は不動のものであり、それ以後の思考や概念に

よって大きく変えられることはないと思う。

 

 よく至高体験や臨死体験などで言葉に言い表せないほどの愛に満ちた光の

存在に出会う、あるいは神のような人に出会うということを聞く、その時心は

無上の幸福感、安心感、満ちたりた充足感などを味わうという。体験したこと

のない人にとっては?マークが付くような話である。私にとってもそれは同様であ

り、(この状態は?トランスパーソナルにおいて詳しく論じてみたい。)この瞑想

状態では上のような至福感、安心感、満ち足りた感覚のようなものは全く存在

しないのである。私自身、そのような至高体験などによる感覚と感情を経験した

ことは、それ以前も、それ以後もないのである。もう少し違った形での至高体験

というものはあるのだが。

 

 5、クオリアと感情の二元性

 

 感覚的クオリア、志向的クオリア、志向性と感情、情動は一体不可分なもの

である。それがこの瞑想状態から回復したときに一瞬の間にもたらされた、洞察

というより悟りといったほうがよいだろうか。それと同時に、それらすべては「二

元性において生起している。」ということが理解されたように思われる。

論理的な理解というのではなく、直感的全体的に会得される、といった方が

よいだろうか。単純な感覚的クオリアなら論理的にも分かりやすい。例えば、

明るい、という感覚は明るい、というそれだけで感覚されるのではなく、暗い、

という感覚があって初めて明るい、と感覚されるわけである。高い、という認識

は高い、というだけでは存在し得ない、低い、という認識があって初めて存在

できるわけである。認識論的にも存在論的にもそれらは相補的であり、二元性

であり、仏教用語でいえば「縁起」ということになる。これらは無限に指摘す

ることができるだろう。音の強弱、周波数の高い低い、熱さ冷たさ、甘さ苦さ、、、

これらは「認識のマッハの原理」に対応していると言えるだろう。

 

 感情においても同じことが言えるわけである。喜怒哀楽、愛憎、、さまざまな

感情もまた相補的であり二元性において存在している。ただ、単純な感覚的ク

オリアに比べると感情ははるかに複雑でとらえにくいものになっている。志向的

クオリア、志向性もまた相補的であり二元性において生起している、といえ

るのではないだろうか。複雑な言葉で言い表せないような感情、情動も

それらと不可分なものであり、相補性、二元性において生起している。しかし、

これらは単純な感覚的クオリアに比べて非常に複雑で把握しにくく、あいまいで

あり、理論的に相補性、二元性の言説として語ることが難しい。感覚的クオリア

でさえ、自然科学的アプローチが難しいのであるから、これらは輪をかけて難しい

ものになっている。この困難さの中で、複雑な志向的クオリア、志向性、感情、

情動はあたかもそれ単独で成立するような感覚を持ってしまうのではないだろ

うか。それらがどれほど複雑で入り組んだものであったとしても、それに対応す

る複雑な相補性、二元性において存在するものである。この瞑想状態におい

てはその相補性、二元性が消滅する、そのような非二元の意識状態であったと

いえるのである。

 

 ここでRFC 7の体験を考えてみると、特殊なクオリアの状態であったわけだが、

その時生じた感情はおおよそ予想できる範囲であったといえるだろう。浮遊し

ている今までにないような身体感覚に戸惑い、寝ている自分自身の姿を上から

見て驚く、あまり自由がきかないそのような状態に「困ったなあ。」と戸惑う。特殊

な状態のクオリアでもそれに対応する感情が生じるわけである。この体外離脱

の状態は非二元の意識状態とはかなり隔たっているといえるだろう。また、この

体外離脱は明晰夢ではないか、という見方も当然あると思うが、夢のクオリアと

感情の関係は覚醒時とはかなり違った点も多い。この体外離脱体験はクオリア

と感情の関係が覚醒時に近いような気がする。

 

 私の瞑想体験の意識状態を「非二元の意識」とここでは呼ぶことにしたい。そう

呼ぶことが適切かどうかは分からないが、のちに検討するトランスパーソナル心

理学との関係もあり暫定的にそう呼んでおくことにしたいと思う。

 

 6、その後の瞑想修業

 

 こうして、その瞑想修行で満足できる結果を出せたわけだが、その瞑想に習熟

しその次からは容易にその状態に達することができる、そのようになって

いくのではないかと思っていた。ところが事態は全く違っていた。その後も数回

にわたってその瞑想修行をしたのであるが、おかしなことに(当然というべきか)

今度はその「非二元の意識」に対する志向性が生じてしまい、どうしても無心な

クリアな状態になれなくなってしまった。「これで何の表象もなくなった。」と思え

ば「これで何の表象もなくなった。」という表象が生じてしまう。そのような雑念

がどうしても生じてきて、あの時のような臨界を超える、という状態にはならな

かった。何回やってもダメであり、その時あの状態が恐ろしく難しいものであった

ということが分かってきたのである。こうして「非二元の意識」状態は2度と再現

されることはなかったのである。まさに1回性であった。一生の間に1度だけ(こ

れからのことは分からないにせよ)カーテンは開かれそれは姿を現した、そして

ただちに閉じられ2度と開かれることはない。そのような体験であった。

 

 7、体験の帰結と考察

 

 この瞑想体験によって得られたことを要約すると、

 

 (1)あらゆる感情はクオリアである。

 

 (2)すべてのクオリア、志向性が除去されても意識の核は残りうる。

 

 (3)あらゆるクオリア、志向性、感情は相補的、二元的に生じる。

 

 (1)に関してはかなりの確信を持っている。そしてこれは、かなり一般的にも

合意を得られやすいものではないかと思う。

 

 (2)は(1)ほどの確信は持てないようである。つまり、この瞑想状態が本当に

すべてのクオリア、志向性が除去された状態であるのか、という確信が持てる

か、どうかという問題になる。しかし、これはとてつもなく難しい問題であり、私も

1回しか体験できず、他の多くの人に追体験してもらい間主観的合意を得る、と

いうことも非常に困難である。これはひとつの可能性として受け取ってもらえれ

ばよいのではないかと思う。

 

 これは後に検討するトランスパーソナル心理学にとって非常に重要な論点

になると思われる。また、哲学的にみても大きな論点になるのではないだろう

か。経験論からすれば意識、心は白紙の上に描き込まれてゆくクオリアによ

って形成されてゆく、白紙というのは神経細胞が形成されてゆくフィールドと

して考えられていて、意識そのものとは考えられないだろう。このような非二元

の意識があってそこに成長するにしたがってクオリアによって描き込まれて

いく、ということは考えられない。私自身、そのような非二元の鮮明な意識が

最初にあった、という記憶は全くないし、そのような話は聞いたこともない。

 

 そのことと関係して、脳科学的見地からすれはどのようなことになるのだろう

か。神経細胞形成のフィールドの上にクオリアによって描き込まれ、神経細胞

のネットワークそのものになる。そのネットワークから志向性が生じてくる。な

ぜ、どこから志向性が生じるのか議論の多いところだと思うが、この見地からす

れば意識、心はクオリアと志向性の集合体ということになり、クオリアと志向性

がすべて除去された状態は意識が「無」ということになるのだろうか。そうである

ならば、この瞑想体験はこの見地と相反することになるのだろうか?

 

 (3)は実を言うとこの瞑想体験によってのみ得られたことではなく、他のさま

ざまな体験、思考、知識などの影響を受けている。絶対的クオリア、絶対的

志向性、絶対的感情というものは存在しない、というのが私の考えである。

 

 (II) トランスパーソナル心理学

 

 1、トランスパーソナル心理学の高次領域

 

 この章ではトランスパーソナル心理学の超個的領域とよばれる高次の領域

に具体的な体験例を当てはめる試みをし、考察していきたいと思う。トランスパ

ーソナル心理学の全体像をここで詳細に論じることは、膨大な論述が必要に

なってくることなので、興味のある方は関連の文献に当たっていただきたいと思

う。ここでは自我領域から究極的と呼ばれる段階まで簡単にスケッチをし、身近

な例を挙げておきたい。最も高次の領域は体験例も非常に少なく、私秘性のレベ

ルが高く考察が困難な領域であるが、ある臨死体験がその中でも理解しやすい

と思われたので、その体験談を掲載することにした。

 

  

 誕生・・・→未統合の自我→成熟した自我→ケンタウロス→サイキック(霊的)

        (仮面、影)

 

 →サトル(微細)→コーザル(元因)→究極的(非二元、空)

 

                     <図1>

 

 <図1>は非常に簡略化したトランスパーソナル心理学の発達図式である。

成熟した自我は対社会的、倫理的、道徳的に成熟しているという意味だけで

なく、それ以前の仮面(超自我の働きによる理想化された自己意識、社会的

なよそゆきの顔など)と影(超自我による抑圧された情緒、欲望など)が十分に

自覚されそれらが統合されている段階である。ケンタウロスとは半人半獣の

神話的存在であるが、心と身体が統合され一体化された状態のシンボルと

して使われている。それ以前の成熟された自我を包み込みそれと身体を一体化

した段階とみなされている。例えば、スポーツや武道などで高いレベルの集中

した状態、さまざまな芸術的創作活動の高いレベルの段階などもこの中に含ま

れる。

 

 このケンタウロスの領域にとって重要なことは、それ以前の発達段階、幼児期

におけるような心と体が融合した状態、未分化な状態とは全く違うということで

ある。いったん自我意識が確立された後、その状態を保持しつつ身体と一体化す

るということであり、自我意識が確立される以前の心身融合状態へ帰ることで

はない。当たり前のように思われることだが、これが自我意識の段階を軸として

前個的状態と超個的状態を分かつ重要な境目となる。ここまでの見解は常識

的であり、一般的にも広く受け入れられるものだと思う。ケンタウロスの領域が

精神的発達の到達点であり終点である、というのがひとつの健全な見方とされ

ているのである。

 

 2、サイキック(霊的)領域

 

 しかし、精神的発達の段階はケンタウロスで終点となるわけではない、という

のがトランスパーソナル心理学の立場である。それよりさらに高次の意識の拡

大、拡張、統一性の増大が進むと考えられている。それは単に個人としての意

識を越えて広がっていくということである。そして、ここからが問題の多い領域に

入っていくことになる。

 

 この領域は超心理学が対象にするようなESP、PK、予知、体外離脱などが含

まれてくる。人類学が対象にするようなシャーマニズム、呪術などもこの領域に

入ってくる。そして、一般的に言われている霊的な現象、霊的能力も対象になる。

当然、非科学的であり胡散臭いという反応も出てくると思われるが、解釈の

問題はひとまずおいて、意識の現象学としてまずありのままにとらえようという

のが最初の基本的なスタンスにならなければならないだろう。このような個人を

超えた領域に(空間的、時間的にも)直接的にアクセスする最初の段階という

ことである。それはトランスパーソナル心理学における発達段階(それは理想

的、理念的ともいえるが)のケンタウロスの次にくるものである。

 

 サイキック領域ではリスクが急激に増大する、といわれている。それは今ま

での自我領域、ケンタウロス領域での安定した陸地から最初に大海に漕ぎ

出した小舟のように不安定なものとなる。なぜ発達段階が重視されるかというと

成熟した自我意識やケンタウロスの強い心身一体というものを通過せず、未発

達な自我意識、抑圧された強い欲望や情動などをそのままにしてサイキック領

域にアクセスしてしまうと、それら欲望や情動と融合し前個的状態に退行してし

まうことが多いからで、より高いところに登ってから落ちるのでダメージが大きく

なる。このような逸脱の危険性を絶えずはらんでいるのである。

 

 RFC 7における体外離脱体験はまさにこのサイキック領域に相当するという

ことになる。それは単に体の外に出たという事実(たとえそれが明晰夢と解釈

されたとしてもその心的事実として)にだけあるのではなく、意識の拡大として

とらえるべきものである。このような強いインパクトを持つ体験は、その後一生を

通じて強い影響力を持つことが多い。しかし、トランスパーソナル心理学の発達

段階に照らしてみるとこの体験は中学生の時で、まだ自我意識の発展途上

であり必ずしも段階の通りに事が進んでいるわけではない。霊的能力があると

されている人たちの証言を信じれば、その能力はほとんど生得的に持って

いた場合が多いようである。現実は必ずしも理論の通りには進まない、、、

トランスパーソナル心理学の段階理論は理念的なものでもあるように思わ

れる。

 

 さまざまな瞑想などによる意識の変容も、十分成功した場合にはこの領域に

入ってくる。例えば、シャーマニズムのワークショップがアメリカなどを中心に

行われているようであるが、適切な指導によりうまくその状態に入れたときは

サイキック領域に達しているといえそうである。

 

 芸術的な創作活動も思いのほかこの領域との関係が深いのではないかと考え

ている。多くの芸術家が個人を超えたより大きな存在とのアクセスによってイン

スピレーションを与えられたり、創作のプロセスそのものに深いかかわりを持っ

ている、ということを話している。F、クプカという抽象画家は実際に霊媒的な能

力を持っていて体外離脱によって地球を外から見た経験があるという。それら

の経験から得たビジョン、イメージを抽象的な色彩と形態に変換し絵画を制作

するのである。シャーマニズムのシャーマンで脱魂状態で見たさまざまな情景

を後で絵画で精密に再現する、という画家もいる。

 

 これらのサイキック領域からそれ以上の領域においての主観的リアリティーと

心脳問題、クオリア問題との関係はまた改めて考えてみたいと思う。

 

 3、サトル(微細)、コーザル(元因)領域

 

 サイキック領域の上には、さらに高次のサトル、コーザル領域が広がっている、

とされている。意識の分化、拡大、統合がさらに進んで行く。サトル領域では

普遍的かつ一貫して、高次の宗教的直感、霊感を受けて高い次元の元型的

象徴的形態の光による視覚化や可聴的なものとして感じられるという。宗教の

開祖やその弟子たちの話の中などによく出てくるようなことである。

 

 コーザル領域はサトル領域よりもさらに高次な意識の拡大、統一性が開示さ

れる。これは、具体的なイメージを越えて非常に理念的なリアリティーの世界

である。また、大きな愛と慈悲の超越的な光輝として体験されることがある

ようである。

 

 抽象的な論述だけではわかりにくいところが多いと思われるので、ここで具

体的な体験談を紹介したいと思う。この体験は臨死体験であり、体外離脱体験

であり、至高体験である、といったような変性意識状態の多くの要素を兼ね備

えている。至高体験の部分はサトル領域からコーザル領域に達していると考

えられる。多くの臨死体験の中でも、これほどまでにトランスパーソナル心理

学の高次領域に達したと感じられる事例は非常にまれである。

 

 以下の体験談は、臨死体験者の著書を紹介者がまとめたものである。本文

中の「私」とはその紹介者のことである。

 

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 高木善之氏の臨死体験

 

◆オートバイ事故◆

 

 ここに取り上げるのは、高木善之氏の臨死体験である。松下電器産業の研究員

であり、松下中央合唱団の常任指揮者でもあった彼は、1981年、33歳のとき

に交通事故に遭い、瀕死の重傷を負った。 その日、オートバイで国道一号線を走っ

ていた高木氏は、突如として対向車線からUターンしようとして進入してきた自動車

を目にする。とっさにブレーキをかけたが間に合うはずもなく、その車に激突。その

時車は、時間感覚が変化したのか、急にスローモーションのようにゆっくりと接近し

たという。「自分の身体が飛んでいく、オートバイが転がっていく‥‥。人々の叫

び、救急車のサイレン‥‥。」 交差点はUターン禁止。運転手は19歳の少年で、

事故の責任は全面的に相手にあった。

 

  が、結果は惨憺たるものだった。首の骨の損傷。骨盤がばらばらに割れ、右足が

付け根からはずれ、右足の骨動脈は4本とも切断されていたという。さらに手首の粉

砕骨折、他に肩関節、膝関節など骨折多数‥‥。担当の救急医師が「死んでもなんの

不思議もない」といったほどの重体で、意識不明が続いた。その間に彼は臨死体験を

した。

 

  彼は、その内容を簡潔な表現で語っている。いくつかの著作から拾ってみよう。

事故の後、彼は自分が担架で病院の中に運ばれていくのを「天井の高さでテレビカメ

ラのように」追ったという。そして、自分が手術されるのを、やはり天井から逐一見

ていたという。その後、ベッドに横たわる自分に妻が絶叫しているのを見て、「大丈

夫、僕はここにいる、心配いらない‥‥」と呼びかけるが、もちろん伝わらない。

やがて彼の意識は愛媛県松山市の郊外、重信川という大きな川の河原に飛んだらし

い。その河原は、彼の父親の仕事の関係で三歳から六歳の頃を過ごした土地のすぐ

近くにあった。川面に石を投げたり、水遊びをしたりした美しい思い出の河原だっ

た。しかしその緑濃い自然は大きく変わっていた。土手も河川敷もコンクリートで固

められ見る影もない。自分が住んでいた一画のどこにも住居はなく一面の草地に

変わり、父が勤めていた近くの病院や、彼が通った小学校はすっかり立派になって

いた。

 

◆「地球は生きていたんだ・」◆

 

 その後彼は、ひばりのように上へ上へと上昇し始めた。彼は子供の頃、ひばりは泣

きながら天に舞い上がって死に、そして二度と帰ってこないのだと信じていた。そし

て今、自分がひばりになって空に舞い上がっていると思った時、自分の死を自覚し、

強烈なショックが襲った。しかしやがて自分の死という事実を受け入れると、苦しみ

が去り、楽な気持ちになって、またなめらかに上昇を始めたという。 彼はさらに高

く上昇を続け、山々が小さくなり、やがて四国が視野に入って小さくなり、そして日

本が小さくなり、ついに目の前に地球が現れる。その強烈な映像、その美しさ、大き

さ、厳粛さ、偉大さに満ち足り、至福の感動を覚えたという。彼はその感動をつぎの

ように表現している。

 

 今、目の前に巨大な地球。 本物の地球、三次元の地球、

立体の地球が圧倒的な迫力で語りかけてくる。 それを見たとたん、激しい衝撃。

“生きている・ 地球は生きていたんだ・ 魂が揺すぶられる‥‥‥

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

感動の涙がこみ上げる‥‥‥

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

今、自分が変わりつつあることがはっきり分かる‥‥‥

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

自分が地球と宇宙とつながっていくような感覚‥‥‥‥

 

 彼の意識は、実際に地球を一望できる高さにまで上昇して地球を見ていたのだろう

か。もちろん実際にそうだったのかどうかについては何とも言えない。しかし彼が事

故後、病院から愛媛県松山市郊外の重信川の河原やその周辺へ飛んで見た景色は、事

故から一三年後に講演で松山市を訪れた時に立ち寄って確認したものと同じだったと

いう。その訪問は、少年の頃以来、四〇年ぶりのものだった。木造の駅舎も駅前広場

も、モダンになった小学校も病院も、昔住んでいた一画が草地になってしまった光景

も、子供の頃に見た光景とはまったく違っていた。しかし、あの一三年前に「意識が

飛んだ」時に見た様子とは同じであった。また思い出深い重信川も、堤防と河川敷が

コンクリートで固められ、水の流れもなく死んだ姿は、やはりあの事故のあとに見た

光景とまったく同じだったという。だとすれば、‥‥つまり事故のあと意識だけが飛

んだ時に見た光景が幻覚ではなく現実の光景だったのだとすれば、彼が地球を一望し

たのも単なる幻覚とは言い切れないのではないか。  

 

◆「光の世界はゼロ次元」◆

 

 さて、高木氏が暗黒の宇宙の中で美しく輝いている地球を見ていると、そのうちに

周りが明るくなり、その明るさが次第に輝きを増していったという。やがて光の激し

い眩しさに何も見えなくなり、轟音に包まれてなにも聞こえなくなった。そして「光

の世界」に入っていく。彼は、その「光の世界」を以下のように表現する。  

 

 自分は死んだのだ。そしてあの世(光の世界)に来たのだ。 痛くもないし、苦し

くもない。とても自由で幸せな感じ。  ここには何も無い。 お花畑も河原も、天国

も地獄も無い。 ここには物質的なものは何も無い。 宇宙のように何も無いのかと言

えばそうではなく空間も無いのだ。 ちょうど目をつむって何かを考えているような

感じ。 意識やイメージはあるが物質的なものは何も無い。 ここには意識だけがあ

る。 ちょうど暗闇の中で考えているような感じ。 自分の身体は無く、ただ意識だけ

がある。 自分の意識とは別にもう一つ巨大な意識がある。 その意識はすべての意識

の集合体のようなもので、全体意識と呼んでもいい。 自分はこの全体意識の一部な

のだ。 全体意識にはすべてがある。 全体意識には過去現在未来のすべての出来事、

すべての記憶がある。 過去の記憶、現在の出来事だけでなく未来の記憶もある。 た

とえるならば、私はスーパーコンピュータに接続されたパソコンのように、知りたい

ことは何でも知ることができる。 むしろ、全体意識の中に(自意識)があるといっ

てもいい。 ここには過去現在未来という時間の流れも無い。 たとえるならば、すべ

て現在である。 時間は意識の中に認識としてだけ存在する。 光の世界はゼロ次元で

ある。 ゼロ次元というのは空間も時間も無いという意味である。 光の世界には何も

無い。あるのは意識だけである。 光の世界はゼロ次元。ゼロ次元はすべての次元に

含まれている。 光の世界はこのすべての場所、すべての時間に存在する。 光の世界

はこの世とつながり、この世のすべてを含んでいる。

 

 彼はまた、別の箇所で「光」と地球上のすべての生命との関係や、「光」と魂との

関係に力点をおきながら次のようにも述べている。これはおそらく、高木氏が臨死体

験中に学びとった確信なのだろう。

 

 生命は光です。生命はすべてたった一つの光の世界から雨が降るように地上に下

りてきたのです。それを記憶しているものも忘れているものも自分の使命を負えた

あとはすべて光の世界へ帰っていくのです。こちらでもあちらでも実はすべてつな

がっているのです。

 

 すべての知識も体験も、そこに集合意識として一体となっているわけです。私た

ちはすべて、“もう一度”この地球に生まれてきたのです。生命は同じ所から来

て、同じところに帰るのです。動物も、虫も人間も、みんな同じです。魂は

一個の独立体ではなく、光のなかに包含されているものです。すべてが一つに

溶け合っているのです。(地球大予測240)

 

 これらの表現が「宇宙のすべてが一つにつながっている(宇宙の全一性=ワンネ

ス)」という感覚や「宇宙との一体感」を端的に表していることはいうまでもない。

 

 それにしても彼が体験した「光の世界」は、欧米の臨死体験者に典型的に見られる

ものとはかなり違う。そこには多少とも具体性をともなった存在は何も登場しない。

あの人格性を帯びた「光の生命」ないし「光の存在」も登場しない。「ここには何も

無い。/お花畑も河原も、天国も地獄も無い。/ここには物質的なものは何も無い」

という無い無いづくしの世界である。時間も空間もなく、無=ゼロ次元としかいいよ

うのない全体意識の世界である。彼の表現は、「光の世界」を根源とする宇宙観、世

界観ないしは哲学といったおもむきを示している。それだけにその体験はきわめて根

源的な世界を表現しているのかも知れない。もしかしたら、このように無=ゼロ次元

としての「光の世界」こそが根源にあって、様々な体験者の様々な具体性を帯びた

「光」体験は、その無数のヴァリエーションあるいは派生体として生まれてくるのか

も知れない。

 

◆地球の未来を見た◆

 

 さて高木氏は、その時間の無い「光の世界」で過去現在未来のさまざまな映像を見

たという。それらの映像は、きわめて簡潔な語句でしか語られていないが、そのいく

つかを拾ってみる。

 

 「めくるめく光の波」「無数の映像、無数のフラッシュ」‥‥‥‥、  「自分の

過去現在未来」「自分の未来」‥‥‥、  「世界の過去現在未来のフラッシュ」

「十年後ソビエトの崩壊、二十年後アメリカの  崩壊、四十年後世界の崩

壊」‥‥‥、  「未来は決まっていない、未来は選択可能、滅亡も進化も選択可

能」‥‥‥、    「銀河の誕生と死、無限の繰り返し」「星々の誕生と

死」‥‥‥、  「生命の進化」「単細胞、多細胞、固体中生命体、液体中生命体、

気体中 生命体、  精神精神体」‥‥‥、  「地球の誕生」「海の誕生、生命の

誕生、森の誕生、生物の繁栄」‥‥‥、  「太陽の膨張、地球の終焉、太陽の

死」‥‥‥、  「宇宙は永遠、精神生命体も永遠、すべては一つ」

 

 ざっとこんな調子だが、これらの断片的な語句の中でいちばん気になるのは、やは

り「十年後ソビエトの崩壊、二十年後アメリカの崩壊、四十年後世界の崩壊」という

部分だろう。

 

 私は光に包まれ、至福の長い時間をすごしたのです。

そして意識が戻った時には、未来の記憶を持って帰ってきたのです。たとえば、

10年後(1991年=筆者注)にソ連が崩壊し、20年後(2001年)にアメ

リカが崩壊し、40年後(2021年)に世界が崩壊することを知っていたので

す。そしてその通り歴史は進んでいます、今も‥‥。

絶望的な気持ちで毎日を過ごしていました。と同時に、知ってしまったことを何

とか伝えなけらばならないと強く思いました。(地球大予測229)

 

 もし「光の世界」が、高木氏が見たように「過去現在未来のすべての出来事、すべ

ての記憶」が内蔵されている全体意識の世界であるなら、そして根源的なレベルでは

一人ひとりの人間の意識がその全体意識の一部であるとするなら、意識はちょうど

「スーパーコンピュータに接続されたパソコンのように」、過去現在未来のどんな記

憶でも知ることができるができるわけだ。だとすれば、臨死体験者が地球の未来をか

いま見るようなことも、もしかしたら本当にあり得ることなのかも知れない。

 

◆「非対立」のエコロジー運動◆

 

 さて交通事故に遭う前までの高木氏は、環境問題とはまったく無縁だったという。

しかし、突然多くのことを知り、気づいてしまった。彼が事故にあった1980年代

初頭は、環境問題といえば公害を指す場合が多く、まだ地球環境など、ほとんどの人

が関心を持っていない時代だった。ところが彼は、「オゾン層の破壊、地球の温暖

化、森林破壊、酸性雨、人口爆発など、世界的な規模で解決に取り組まなければなら

なくなる地球環境問題のことを、はっきりと知っていた」という。どうすればいいか

もはっきりと知っていた。「将来の地球の姿がわかってしまった以上、自分がなすべ

きことは何なのかは明らかだった。」 そしてある日、自分の生きる道がはっきりと

浮かび上がった。 これらの気づきがあってから、寝たきりの彼に「意欲と力」が湧

いてきて、それから重傷だった身体が急速に治りはじめた。そして不思議なことに事

故からわずか1年で社会復帰をした。医者からは「回復は困難」と言われていた体

だったにもかかわらずである。

 

  生きる道は決まった。しかし臨死体験によって知ったこと、気づいたことをその

まま話しても、「悪い冗談や世迷いごと、哲学や宗教」と言われるだけだろう。そこ

で決意をする、だったら「未来の話をするのではなく現在の事実、実態を語ることを

始めよう。科学者として確実なデータをベースに事実を語ろう」、「地球環境の事実

を伝えることにより、この社会の破局を避けることを伝えていこう」と。それから彼

は、約10年にわたって地球環境についての資料やデータを集めて研究を続け、学会

や国際会議にも参加し、専門的な知識を持つようになる。その成果をもとにして、広

く講演や提言を始めるようになったのである。

 

  こうした高木氏の呼びかけに賛同する人々が一人二人と増え続け、やがて『地球

村』と呼ばれるネットワークが設立された。『地球村』は、国連などが提唱している

“Global Comunity”、永続可能な社会の実現をめざして啓蒙や提言などの活動をし

ているNGO(ボランティア)だという。 (ネットワーク『地球村』の会員は、ど

んどん増え続け、一九九八年四月現在で一三八五〇人にもなっているという。)

 

 彼の研究の成果や提言は『地球大予測』(総合法令出版)や『「地球村」宣言』

(ビジネス社)に詳しい。私も、社会科の教員として地球環境問題を生徒に語ること

は多い。しかし正直いってそれほどの危機意識を持って語ってきたわけではない。し

かし彼の本を読むと、環境問題を説く類書に比べてはるかに強く心を揺さぶられ、自

分も何かをしようという思いにかられる。

 

 それはなぜだろうか。おそらく彼が語る「事実の深刻さ」だけからくるのではな

い。彼の絶望感の深さ、そして動機の深さが、私たちの魂を突き動かすからではない

だろうか。深い絶望を乗り越えて、なお一歩一歩進んでいこうとする、その動機の真

実さに心を揺すぶられるからではないだろうか。彼の提言や運動の根底には、おそら

く臨死体験によって学びとったと思われる「底知れず澄んだ知恵や愛」のようなもの

があって、それが私たちに訴えかけてくるのではないだろうか。

 

  彼は言う、

 

「人を変えることはできない。/自分が変わることはできる。自分が変わることで相

手が変わる。/自分が変わることで周りが変わり、世界が変わる。」と。

 

 私もまた、彼が変わったことによって影響をうけているひとりなのだろう。 ネッ

トワーク『地球村』は、その基本理念のひとつを次のようにうたっている。

 

 ◇非対立(謙虚、調和) ・抗議しない/要求しない/責めない/決めつけない/

主義主張しない ・事実事態を伝える/具体的な提言をする ・よく聞く/理解する/

共に考える/気づくまで待つ など

 

  この「非対立」という理念も、彼が交通事故で寝たきりになった時に学んだこと

のようだ。

 

 対立から出発した行動(抗議や要求)は、攻撃ですから必ず反撃が生まれ、問題が

こじれます。‥‥ 本気で事態を解決しようとするなら、まず自分から対立をやめ

ることです。実際、何が正しいかはわからないのですから、自分が謙虚にならなけ

れば、相手も素直になれません。対立をやめ、謙虚になることを相手に求めてもは

じまらないのです。 そして非対立、謙虚はうわべだけでは通じません。心から非対

立、謙虚でなければダメです。そして、これはすぐ完全にできるものではありませ

ん。少しずつ始めるしかないのです。そのコツは、一体感ということの体得です。

この「すべては一体」ということは、言葉では言い尽くせません。私自身、このこ 

とは交通事故で寝たきりになった時、それまで信じきたあらゆるもの(夢も希望も野

心も)を失った時、突然、腹の底から沸き上がる歓喜とともに体得したことなので

す。 

 

  彼の「すべては一体」という非対立の感覚は、「すべてが光の中に包含されてひ

とつに溶け合っている」という臨死体験中の感覚と、深い部分で響き合っているはず

だ。ともあれ、環境問題への彼の取り組みは、臨死体験による意識の変化、価値観の

変化と分かちがたく結びつき、からみあいながら展開しているのである。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 以上が、コーザル領域にまで達したと思われる至高体験の事例である。この

体験は臨死体験によって本人の意図とは全く関係なく、突発的に起こり、トラン

スパーソナルの階梯を一気に駆け登ってしまったという、非常に特殊なケースで

ある。一般的には、瞑想修行などを通して段階的に登って行くというのが普通で

あるわけだ。その意味でも、典型的な事例というわけではなく、あくまで特殊な

ひとつの事例である。いずれにせよ、この領域にまで達した人というのは、かなり

少数になるようである。

 

 4、トランスパーソナル体験と心脳問題

 

 これまで見てきたような、トランスパーソナル体験と心脳問題との関係を考え

ていきたいと思う。それは解釈の問題ともかかわってくるわけである。トランス

パーソナルサイドからすれば重要なのは主観的リアリティーであり、心脳問題、

解釈などは「知ったことではないね。」というのが最も健全な姿勢かもしれない。

しかし、解釈の問題がまったくどうでもよい、というわけにはやはり、いかないの

ではないかと思う。解釈の問題からは逃れられないように思われる。それにし

ても、これらの体験には無数の解釈が錯綜していて「下手な解釈休むに似た

り。」と思えるものもある。深入りするときりがないともいえるが、ある程度の私論

を述べてみたい。併せて体験の詳しい分析もしてみたい。

 

 上述した「高木氏の至高体験」を具体例として検討してみたい。RFC7の体験は、

この体験の要素の中に含まれるとみてよいだろう。私の「非二元の意識」は根本

的に違うところがあるので、後に詳しく検討して行きたいと思う。

 

 このような体験の解釈は一般的に大きく2つに分かれる。いうまでもなく、

これは「現実」なのか「幻覚」なのか、ということである。それは、霊魂説(ESP

説というのもある)と脳内現象説にそれぞれ対応している。霊魂説は、実際に

認識主体が身体の外に出て、外部の光景を見てきたというものである。その

認識主体をどう呼ぶかは重要なことではない。霊魂・魂、エクトプラズムなどと

呼ばれている。脳内現象説はいわゆる科学的世界観に立脚したものである。

脳科学的知見に基づいた現代の先進国社会においては常識的な見解である。

この霊魂説と脳内現象説をそれぞれ検討してみたい。

 

(a)霊魂説

 

 この場合、霊魂というのは身体、物質と完全に独立した実体として考えられて

いる。流転変化していく物質世界、生命の身体は不安定なものであり、かならず

死すべき運命にある。意識はこの苦しみに満ちた物質世界と同化したものとし

てこの世界を認識してきたが、その物質的身体の崩壊、ないし危機的状況の

中で物質との同化を離れ、意識それ自体として(霊魂として)自由になり、その

認識の幅を今までと比較にならないほど拡大できる。意識自体は物質とは完全

に独立した不滅のものである。(恒久的に不滅かどうかは保証されないかもし

れないが)この連続性、不滅性の期待、意識拡大、自己と他者との境界の消滅、

それは全体意識への融合、愛に満ちた全一性の獲得といった非常にポジティブ

な本質を持っている。これは臨死体験、至高体験全体に当てはまりやすいこと

である。物質世界を超えた意味のある世界、、、

 

 しかし、この解釈を取ればすべてうまくいくかというと、そう簡単にはいかない

ように思われる。体外離脱によって得た情報が客観的現実と一致する、という

ことは自然と説明できるだろう。(これもまた、体験者の証言を信用する、という

以外にはない。追試による確認は不可能である)だが、この解釈は意識、霊魂

と物質、身体を完全に分離した実体とする物心二元論の立場をとることになる。

なぜとることになるかというと、やはりわれわれがデカルトを通過してしまってい

るからであり、その影響からはもはや逃れられない、ということなのだろう。それ

以前の昔においてはそれはまだ曖昧であり、無意識の中に沈んでいた、と

いえるかもしれない。この問題にタッチしないようにするには、解釈そのものをし

ないというのが賢明である。

 

 このような強い二元論の立場をとった時、さまざまな困難が生じてくるのは、

哲学上の古典的なアポリアとして議論されてきたことである。なぜ、心と物

質が完全に別個な実体であるならば、心、意識は脳とこれほどまでに密接

に関係しているのだろうか。脳のある部分が損傷すれば、それはただちに意識

に影響を与え重大な変化をもたらす。動物における脳の大きさの大小、複雑性

はその動物の行動様式、知性などと密接な平行関係にある。霊魂の世界と物

質の世界とはどうしてかかわり合うのだろう。霊魂の世界にいる意識が物質と

しての身体にある期間同化して、その身体の崩壊とともに霊魂の世界に戻り、

またある時に生命個体の誕生とともにその身体と同化する。いわゆる輪廻転生

説であるが、このように原理的に違った状態が2つあるというのは、非常にお

かしいといえないだろうか。また、霊魂の世界がそれほどまでに自由で至福

に満ちた世界であったなら、なぜこの牢獄のような物質世界に同化しなければ

ならないのだろうか。これには何らかの宗教的な答えがあるかもしれないが。

しかし、このような二元論が絶対あり得ない、ともいえないわけである。

 

 霊魂説、二元論の立場をとることは、当然、ポジティブな側面も大きいわけで

ある。死の恐怖の軽減や人生の意味の連続性といったものがあげられるだろう。

と同時に、ネガティブな側面も大きい。現実の人間存在の在り方について、世界

の統一性について逃避、あるいは怠惰な傍観者的立場になりかねない。長所と

短所は表裏一体のものである。

 

 (b)霊魂説とトランスパーソナル

 

 霊魂説とトランスパーソナル心理学との関係はどうなるだろうか。トランスパー

ソナル心理学は基本的には解釈そのものにかかわらない、ということだと思う。

これは初期仏教と共通するところがあると思われる。このような形而上学的な

問題にはかかわらず、実践や経験が重視されるわけである。ただし、臨死体験

のような場合は形而上学的な領域と経験との境界が曖昧になるのであるが。

 

 「高木氏の至高体験」を例にとり、霊魂説、あるいは二元論という解釈との関係

を考えてみよう。この場合、当事者とその体験談を聞いた第三者とは、かなり

立場が違うと予想される。当事者がどう考えるかは当事者に聞いてみなければ

わからないことであるが、ある程度の推測はできるかもしれない。私の推測では

1番感じることは「解釈などどうでもよい。」ということのように思われる。直接体

験で得たことがすべてであり、そのことによって与えられた自分の生き方を遂行

していくだけである。主観的リアリティーが最も重要なことであるが、当事者に

してみれば、主観も客観もなくそれらはひとつのものとしてとらえられているの

ではないだろうか。

 

 解釈とは、第三者的立場にとって必要になってくるわけである。ある意味で

その体験者とその体験をさせたものも包括してとらえる「神の視点」を持とうと

するものである。その「主観的リアリティーの内容」からすると、霊魂説、二元論

あるいは輪廻転生を支持するかに見えるが、総合的に見れば意識と意識の

一体性、それらと物質世界との一体性、輪廻転生をさらに包含した全一性といっ

た一元論的な世界観が展開されているように思えるのである。

 

(c)脳内現象説

 

 次は脳内現象説を検討してみたい。これは科学および科学的世界観による

アプローチになるわけだが、同時に哲学的にも非常に微妙でスリリングなもの

になりそうである。

 

 すべての意識活動は脳のニューロンの発火によってもたらされる。すべての

意識の特性はニューロンの発火のみから説明されなければならない。「認識の

ニューロン原理」はそのように説く。これは当然、変性意識に対してのみあては

まることではなく、意識というものすべてに該当するものである。通常であっても

変性であっても関係はない。脳内現象説は普遍的なものであるわけである。

しかし、よく指摘されるように脳内現象説は深刻なパラドックスをその内に含ん

でいる。すべては脳内の表象にすぎない、この脳内現象説を極端に進めると

唯脳一元論の立場になる。すべては脳内の表象にすぎないのだから、なにが

起こってもすべて脳内の表象にすぎない。体外離脱しようが、地球の外に出

ようが、宇宙の果てまで行こうが、それがどれほどリアルなものであっても、

また曖昧なものであっても、すべて脳内の表象にすぎない。すべてが脳内の

表象にすぎない、と思うことも脳内の表象にすぎない。結局、強い脳内現象説

の立場をとることは、何でもありであり、別に体外離脱、至高体験であっても、

言うべきことは何もない、ということになる。脳内現象説を極端に進めると、脳内

現象説自体を破壊してしまうことになる。

 

 脳内現象説自体の自己崩壊を防ぐには、ある特別な例外的な立場を導入し

なければならない。脳内現象説を説く主体を脳科学としてみれば、脳科学だ

けは「脳の内と外」を知っている。脳科学だけは「脳の内と外」を語る資格を持っ

ている。脳科学以外は何を感じ、何を考えてもそれは脳内の表象にすぎない。

そのように、脳科学は脳内現象説を説くために超越的な「神の視点」を持たなけ

ればならない。これは明らかに虚偽である。しかし、この虚偽をラジカルに突き

つめて無効とするならば、先に挙げた強い脳内現象説、唯脳一元論の立場に

なり、何でもありのモラルハザード、無秩序状態になってしまう。

 

 脳内現象説の立場をとることは、そのような問題を抱えている。しかし、それは

宗教においても全く同じことが言えるわけである。この点において、科学と宗教

は鏡像関係にあるといえる。「神の視点、全知全能性の虚偽性」と「モラルハザ

ード、無秩序状態」を両極とし、現実にはその中間のどこかでバランスをとり、妥

協するわけである。しかし、そのことによって問題の根本が解決されるわけでは

ない。一般的には、科学は宗教の「全知全能性の虚偽性」を批判し、宗教は科

学の「モラルハザード、無秩序状態」を批判する傾向にある。

 

 脳内現象説の立場を取るときに、好むと好まざるとにかかわらず「神の視点」は

導入せざるを得ない。これは認められなければならないことであり、認められな

ければ同じ理由でほとんどの宗教は認められないことになってしまうだろう。

 

 臨死体験、至高体験などに対して神経生理学や心理学的見地から、さまざ

まな研究や解釈が行われているようである。なかでも脱抑制説とエンドルフィン

説は有力とされている。脱抑制説とは臨死状態のような危機的状態(激しい苦

行などの時もその可能性がある)の時に、脳に対する血流の酸素濃度の低下、

血行の不良などにより、脳が酸素不足になりダメージを受ける。ニューロンの

結びつきには興奮性と抑制性があるが、酸素不足によるダメージは興奮性よ

りも抑制性の方が大きい。(これは動物実験では確認されているという)それに

より、抑制が効かなくなる状態、脱抑制の状態になり興奮性結合が異常に活

性化され、ニューロンの異常発火か起きる。これが側頭葉で起きると強い幻覚

が引き起こされる可能性があるという。それが視覚野で起きると眩い光の幻

覚となって現れる。聴覚においては轟音などのさまざまな音として感じられる。

そのような可能性があるというわけだ。

 

 また、臨死状態のような強いストレス時、苦行やスポーツのような場合でも、

脳内麻薬物質であるエンドルフィンが大量に放出されることがあるという。麻

薬作用により、恍惚感、至福感あるいはすべてを知り尽くした悟りのような心

理状態を創り出す可能性があるという。実際、ドラッグによる変性意識状態

への移行はひとつのテクニックとして使われているのである。このような脱抑

制や脳内麻薬物質の作用、その他さまざまな心理的要因、文化的宗教的

背景などがからみあって、臨死体験や至高体験が形作られる、ということで

ある

 

 (d)脳内現象説に対する批判

 

 主に霊魂説、二元論的世界観を支持する立場からは、当然のごとく脳内現象

説に対する批判が生じてくる。体験者自身はほとんどが脳内現象説に批判的

なようである。一般的に言われている幻覚とは明らかに違うのではないだろう

か。普通は支離滅裂で荒唐無稽であり、意識は不明瞭でその内容はネガティブ

なものがほとんどである。「高木氏の至高体験」を例にとれば、その文章から

推測する限り、意識は明晰であり、そのクオリアは鮮明で安定している。その

ストーリーは首尾一貫していて、その内容が客観的現実(普遍的間主観性)に

符合している(これが非常に大きな争点になるわけだが)しかし、この符合という

ことを除外したとしても、鮮明さ首尾一貫性は驚異的である。その心理状態は

一般的な幻覚と正反対ともいえるポジティブなものである。というより、普通の

自我意識状態、クオリアや志向性の世界では得られないようなポジティブさを

持っている。さらに空間や時間を超えた広がりの認識を本当に得られていたと

いえるかもしれない。このようなことから脳内現象説ではとても説明しきれない。

以上のような反論が主になされている。

 

 (e)解釈の完結不可能性と心脳問題

 

 これまで霊魂説と脳内現象説をひと通り見てきたが、どちらを取ったにしても

さまざまな疑問点、問題点があり一筋縄ではいかないようである。個人的には

このような二者択一的な解釈の設定そのものが問題ではないかと感じている。

次に心脳問題との関係でどうなるかを考えていきたい。

 

 記憶はニューロンのパターンとして保存されている。霊魂説の立場を取ったと

き、体外離脱中の体験は脳のニューロンのパターンとしては存在しないことに

なる。しかし、体験後起こったことを記憶しているということは、それに対応する

ニューロンの結合のパターンが形成されている、ということである。そうなると、

霊魂が体外から体内に戻った瞬間に、超越的な力(?)でニューロンの結合の

パターンを形成する、ということにならなければならないが、これはとても信じが

たいことである。やはり、体外離脱中、至高体験の最中も認識のニューロン

原理に従う、あるいは対応していると考えたい。しかし、そのことは意識の死後

存続に対し、そのようなものは存在しない、ということを意味しているわけではな

い。これは反証も証明もできない問題として残るだろう。

 

 それでは、体外離脱、至高体験によって客観的現実に符合する情報を得

られる。あるいは通常の意識状態では得られないような、時間的空間的制約

を超えた情報、ビジョンが得られる、そのような可能性まで考えられる、という

のはどの様に説明されたらよいのだろうか?また、このことは物理法則、因果

性に反していることになるのだろうか?常識的に考えれば、このようなことは

物理法則、因果性に全く相反するもののようにとらえられている。この問いの中

に心脳問題の核心に迫る重要な問題が隠されているように思われるのだ。

 

 このような超情報性は認識のニューロン原理に矛盾すると考えられている。

しかし、果たしてそうだろうか。認識のニューロン原理は「心のすべての属性は、

脳の中のニューロンの発火の特性だけですべて説明できる。」ということである。

このような超情報性のニューロンの発火パターンが存在すれば、認識のニュー

ロン原理に何ら矛盾することはない。問題はそれがどこから来たのか、という

ことになる。外部の情報は感覚器官からの物理的な入力による以外ないは

ずである。つまりこれは「同一説ないし随伴説による意識の情報理論的描像」に

よる解釈である。(以下、意識の情報理論的描像)これと超情報性とは何として

も相反してしまう。空想や幻覚によっては、客観的現実との符合は確率的に

ゼロに近いのである。しかし、意識の情報理論的描像による解釈が唯一無二

の真理であると決まったわけではない。

 

 意識の情報理論的描像(同一説ないし随伴説)を唯一無二のものとすれば

トランスパーソナル的意識、体験は物理法則に反するものとして立ち現れてくる。

しかし、そのことと物理法則自体との関係を混同してはならないと思う。意識の

情報理論的描像を除外し、外部観測的にトランスパーソナル体験を追って行

ったとき、そこには物理法則に反することは「何ひとつ起こってはいない。」ので

はないだろうか。意識の情報理論的描像という解釈のアプローチの都合に合わ

せて現象を規定してしまうことはできない。実戦的には意識の情報理論的描像に

フレキシブルに対応する余地を残しておくべきではないだろうか。そうすること

で意識の情報理論的描像が他の何かにそっくり取って代わられる、などという

ことはあり得ないし、意識の情報理論的描像の有効性が損なわれる、という

こともあり得ないと思うのである。それは意識活動のほとんど大部分に当て

はまることであり、トランスパーソナル的意識は全体からすれば微々たるもの

に過ぎないのである。また、そうすることで(ここが非常に重要なところで)二元

論を導入しなければならないことになる、とは限らない。結局、極端な二元論に

流れていくのではないだろうか、という危惧が常につきまとうのである。何として

も、この微妙な地点に踏みとどまらなければならないのではないだろうか。

 

 意識の情報理論的描像を唯一のものとすれば、超情報性、意識拡大は否定

され、トランスパーソナル的意識は自我意識領域(その場合単なる虚偽)か病的

な精神状態に強引に回収するしかなくなるのである。

 

 現時点の解釈が完結する見通しは立っていないというべきであり、無理にそう

することはあまり意味のあることではないだろう。トランスパーソナル的意識は

クオリア問題に対峙するもののように考えられているのかもしれない。それは、

クオリア問題が意識の情報理論的描像によるアプローチによって考えられて

きたからである。しかし、トランスパーソナル的意識、体験もそれ固有のクオリア、

志向性を持っているわけであり、クオリア問題のバリエーションのひとつとみな

すべきではないだろうか。もし、トランスパーソナル体験が常時存在する世界

があり、その世界の哲学者や科学者がクオリア問題に気づいたならば、その

体験はクオリア問題の一部に自然と組み込まれていただろう。

 

 (f)外部観測と主観的リアリティー

 

 トランスパーソナル体験、(高木氏の事例に沿って考えてみる)を外部観測

として追って行ったときどのようなことが起こっているのであろうか。そのことと

主観的リアリティーとの関係はどうなるのであろうか。交通事故によって身体が

非常なダメージを受ける、それによって脳の状態がどうなっていたか、という

ことの詳細はもちろんわからない。そこで現在、脳内現象説からの研究と解釈

を取り入れて、脱抑制とエンドルフィンの放出が起こり強い幻覚が生じていたと

仮定してみよう。これはあくまでも仮説である。一方、比較対照するためにそれ

に近い脳の異常がある患者を考えてみる。その患者も強い幻覚を見ているわ

けである。ニューロンの発火のパターンはどちらも似たような異常発火を起こし

ている。しかし、その主観的リアリティーの世界はまったく違ったものになって

いる。高木氏のそれに対し、患者のそれはクオリアは不鮮明で歪んでいてその

ストーリーは支離滅裂で荒唐無稽である。患者の心理状態に非常にネガティブ

なものしかもたらさない。悪夢が強いリアリティーを獲得したようなものだ。

 

 高木氏の状態を追って行ったとすれば、交通事故の後病院に運ばれ、手術

をし懸命な治療が施されただろう。意識不明が続いた後、やっと回復しその後

奇跡的な回復を遂げる。その後、環境保護活動に邁進することになるわけで、

その活動がどのように評価されているかは、ここではわからないのだが間違い

なくその影響は波及していって地球全体の物理的状態に影響を与える。その

プロセスを外部観測として追って行ったとき、物理法則に反することは何ひとつ

起こってはいないだろう。脳のニューロンの発火パターンも、それからの外部

への入出力も、自然法則に従って時間発展していくに過ぎないのである。

地球の物理状態への影響の波及はバタフライ効果として説明できるだろう。

一方、脳に異常のある患者のニューロンの発火パターンも自然法則に従って

時間発展していくだけである。それなのに、両者の間には遠大な差異が生じ

ている。ここにリアリティーの深淵が口を開けている・・・ 

 

 トランスパーソナル体験、至高体験の主観的リアリティーを生み出すニュー

ロンの発火パターンの由来は何なのか。これは大変な難問であり、もち

ろん、ここでその答えを示すことはできない。しかし、普通の幻覚を見るニュー

ロンの発火パターンが物理法則に従い、トランスパーソナルの主観的リアリ

ティーを生み出すニューロンの発火パターンが、何か超越的な作用によって

形成されてくる、そのようなことはあり得ない、というのが私の立場である。

どちらも同じ自然法則に従っているはずである。このパラドックスを解決する

ための私個人としての仮説を示しておきたい。

 

 これはトランスパーソナル的意識に限らず、意識全般の「意識の理論」におけ

る自然法則、そのような未知の自然法則が存在すると仮定して、その自然法則

と物理法則、化学法則との関係はどのようなものであるか、ということである。

それは物理法則、重力や電磁気力のようにそれ以上還元できない法則である

という点で同じ性質を持っている。しかし、重力と電磁気力の関係と同じように

物理法則と「意識の理論」における自然法則は関係してはいない。相似の関係

ではない。重力と電磁気力は干渉し合う関係にある、そのような並列な関係に

あるわけである。しかし「意識の理論」における自然法則は物理法則や化学

法則をすっぽりと完全に包み込んでいる。そして、物理法則や化学法則に全く

「干渉」しないのである。物理法則や化学法則がそれ自身の一部なのである。

 

 そのように、「意識の理論」における自然法則は物理法則や化学法則と並列

の関係にあるわけではなく、それを包み超えている。物理法則の中にどれほど

微細な姿も見せず、いかなる痕跡も残さない。そして、トランスパーソナルの主観

的リアリティーと一般の幻覚の個別の差異を生じさせる。あらゆる意識活動の

個別性や1回性と関係してくるのかもしれない。そのような自然法則は常識では

とても考えられず、現在のわれわれの論理的思考ではとらえられないものかも

しれない。

 

 以上で、トランスパーソナル体験と心脳問題をめぐる考察を終わりにしたいと

思う。以下の節では本筋である主観的リアリティー中心の問題に戻りたい。

 

 5、持続性と還相、還元

 

 トランスパーソナル心理学の高次領域について、今まであまり指摘されてこ

なかった問題を考えていきたいと思う。それはトランスパーソナル心理学の高次

領域は自我意識領域までの比較的安定した発達段階と同様にみなすことは

できない、というものである。この問題はケンタウロス領域からすでに始まって

いる。それは持続性、恒常性の問題である。考えてみればすぐにわかるように、

ケンタウロス領域の意識状態、例えばスポーツや武道などで精神を集中した

心身一体の状態は日常生活全体にわたる常態とすることは困難である。それは

かなり短時間の間しか持続することはできない。それ以外の時間は、それより

下位の意識状態である自我意識領域にいるわけである。

 

 しかし、自我意識領域まで発達し、それ以上のケンタウロス領域から上の領

域にほとんど達したことのない人と、ケンタウロス領域に達しそれから自我意識

領域に降りてきている人(適切な表現ではないかもしれないが)とは何らかの

違いが生じているのは明らかである。いったん高次の領域にアクセスしそれから

下位の領域で世界を見たとき、その見方は根本的に何か違ったものになって

いる。これを禅で使っている用語で「還相」と呼ぶことにしたい。これをひとくちに

言うことはほとんど不可能である。個人個人によってすべて違うだろうし、ケース

バイケースといえるだろう。

 

 持続性そしてその状態の再現、反復性はケンタウロス、サイキック、サトル、コ

ーザルと上位に行くにつれて難しいものになっていく傾向がある。ケンタウロス

領域における再現性や反復性は比較的意図によって実現できるものである。

サイキック領域に入るとこれがかなり難しくなってくる。中には生得的に霊的

能力を持ち、常時この領域にアクセスできる人がごく少数ながらいるかもしれ

ないが、大部分が瞑想修業やシャーマニズムのワークショップなどに成功した

場合、あるいはRFC 7のように本人の意図とは関係なく突発的に起こる、といっ

た状態で持続性を持つことは難しく、1回限りという場合もある。もっとも、RFC 7

のような体外離脱の状態がそのまま持続したらこれは大変なことになってしまう。

これが明晰夢だったとしても、夢から目覚めない、ということになってしまう!

 

 「高木氏の至高体験」を持続性、再現性といった観点から見てみれば、さらに

コントロールの不可能なものであることがはっきりする。臨死体験全体にいえる

ことであるが、これはほとんど1回限りのものである。中には複数回体験したと

いう事例もあるようだが。私の「非二元の意識」もこれまで述べてきたように、ごく

短時間の間しか持続せず、1回限りの出来事だったのである。

 

 「高木氏の至高体験」を例にとると、体験後自己の内面の根本的な変化とそ

れに伴い、対人間関係、対社会、世界に対する見方、捉え方の変化が起こっ

ている。これが体験から回帰した後の「還相」ということになるわけである。これ

は臨死体験や至高体験全体にほとんどあてはまるものになっている。このような

体験をして世界に対する見方が全く変わらないということはまずありえないだろう。

そして、内面の変化、「還相」に従い、対人間関係、対社会、世界に何らかの働

きかけをして、現実の変化としての影響を及ぼすことを「還元」と呼ぶことにした

い。高木氏の場合は、あのような環境保護活動という形になって表れているわ

けである。それはポジティブなケースが多いと思われるが、中にはネガティブな

方向に行ってしまうこともあるかもしれない。これもケースバイケースといえる

だろう。

 

 6、現実と理論のギャップ

 

 トランスパーソナル心理学の発達段階理論は誕生からプレローマ、ウロボ

ロス、メンバーシップ、自我といった一般的、普遍的な構造とケンタウロスより

高次の意識領域を一連のものとして考えていく傾向を持っている。しかし、この

前個から個と超個の領域を同等なものとみなすと、現実と理論の間にギァップが

生じてくることになる。自我領域までの発達段階は、比較的安定していて、一般

的なものである。心理学やほとんどの科学の対象になるのはこの自我領域まで

の過程である。心脳問題でも「心、意識」といった場合、ほとんどこの領域が

対象になっているわけである。それは、当然のことと言えるわけであるが、超個

の領域まで同様なものとみなすと、先に検討してきたように、持続性、再現性

に大きな困難があるわけであり理論的(それは理念といってもよいものである

が)なものと現実の間に大きな食い違いが生じてくるのである。これはトランスパ

ーソナルな状態が、物理的、生物学的、あるいは社会的な厳しい制約を受け

ているからだとも考えられるだろう。

 

 このギャップの問題を考えるとき、トランスパーソナルな状態から通常の意識

状態に戻ったときの「還相」「還元」をどのように評価すべきかが課題となる。

「高木氏の至高体験」を例にとってみれば、少し意地の悪い見方になるが凄い

体験をした割にはその後の活動はやや平凡だともいえるだろう。あの「光の世

界」のすべてが分かる、という状態なら環境保護に関しても、もっと画期的な

科学的な手段とかがもたらされてもよいのではないだろうか。また、そのような

環境保護活動をするためにあのような至高体験が絶対必要不可欠とまでは

言えないだろう。しかし、1,980年代初頭といった早い段階で、環境問題に対する

深い危機感と、至高体験によってもたらされた正鵠を得たビジョンに動機付け

られた活動を開始したというのは、やはり大きく評価されるべきだろう。このように

「還相」「還元」を過大評価することなく、また過小評価することもないようにする

のが望ましいと思われる。そしてこれは意外と難しいことなのである。

 

 トランスパーソナルなものの社会の中での位置付けは、長期的に見てどうなる

か分からないにしても、短期的には個性化のひとつと捉えた方が良いように思わ

れる。トランスパーソナルの理念は理念としてそれを絶対視することはもちろん

できないわけである。芸術的な素質を持つ人は芸術の方向に、科学の素質を

持つ人はその分野に進めばよいわけであり、それと同じようにトランスパーソ

ナルも考えていけばよいのではないだろうか。

 

 7、コーザルと非二元

 

 最後に、コーザル領域と究極的(非二元、空)と呼ばれている領域について、

考察してみたいと思う。ここは体験例が非常に少なく、具体的な事例をもとに

考察するのが難しいといわれている。トランスパーソナル心理学の理論家

自身がこの領域に到達し、それをもとに理論を組み立てているわけではない、

ということが指摘されている。つまり、自分でもわからないことを論じているわけ

である。しかし、これは仕方がないとも言えるわけであり、理論家としての素質

を持つ人が、同時に経験としての素質や条件も兼ね備えるということはなかなか

できないことだろう。

 

 誕生・・・→未統合の自我→成熟した自我→ケンタウロス→サイキック(霊的)

        (仮面、影)

 

 →サトル(微細)→コーザル(元因)→究極的(非二元、空)

 

                     <図1>

 

 

 コーザル領域については「高木氏の至高体験」をひとつの事例として論じてき

た。特に体外離脱をして地球の外に出て「光の世界」に入っていくが、この「光

の世界」がコーザル領域の特徴をよく示しているように思われる。非常に理

念的であり、時間、空間の観念が希薄になるのと同時に非常に拡大され、全一

的統合的なビジョンの把握がなされている。このビジョンの全体像が、どれほど

客観的現実に符合しているかどうか、客観的な検証をしなければならないところ

だと思うが、このような体験全体にいえることであるけれども非常に難しいことで

ある。結局は本人しか分からない主観的リアリティーの世界だということになる

だろう。

 

 究極的(非二元、空)を考察することは最も難しいことである。ヒンズー教のア

ートマン、仏教の空などといっても、その定義、解釈は複雑で膨大なものがあ

る。一神教の神の概念はまた根本的に違ったものである。そこで、私の瞑想体

験からその定義を考えていきたいと思う。私の瞑想体験がこの領域、非二元の

状態に相当するのかどうか、ということは全く自信のないところである。これは

あくまで私個人の見解として受け取っていただきたいと思う。このことは同時に

トランスパーソナル心理学内部における争点となるかもしれない。

 

 コーザル領域以下の意識状態と非二元の意識を分かつ差・・・それは「クオリア

の差」である。コーザル領域「高木氏の至高体験」のようにそれは非常に特殊な

クオリアと志向性の世界である。体験したことのない者にとっては想像するしか

ないわけであるが、それはそのようなクオリアとそれに結びついた感情が伴っ

ている。それはどれほど特殊であったとしても

 

 意識=クオリア=感情

 

という基本的な等式そのものは変わりはない。これはほとんどの変性意識、また

通常の意識について当てはまるものである。しかし、非二元の意識においては

 

 意識

 

ただそれのみがある。基本的な等式が消滅するのである。それは明るさもなく

暗さもない、光もなく闇もない、上もなく下もない、全く音はなく静寂もない、

身体感覚はないので身体の内と外もない、したがって体外離脱も存在しない。

また全一感、宇宙との一体感というものも存在しない。至高体験もまた消滅する。

喜怒哀楽はもちろん存在しない、愛もなく憎しみもない。至福もなければ苦悩

もない。希望もなければ絶望もない。不安や恐れ、、生存に関するすべての苦は

消滅するわけである。

 

 非二元の意識において、持続性、恒常性、再現性におけるギャップは最大とな

る。仏陀、、ゴータマ・シッダールタは出家してからの修業過程において、この

非二元の意識状態に到達したが、持続性、恒常性の問題について、全く満足が

いかなかった。そこでこのギャップの克服に向かったのではないだろうか、という

のが私の推測である。仏陀の修業の内容はほとんどがこのギャップの克服に

あったのではないだろうか、しかしそれは全く想像もできないことである。

 

 8、仏教

 

仏教は長い歴史の中で、膨大な体験的会得、研究と解釈、考察が行われて

きたが、依然としてその核心的部分は「謎のそのまた謎」である。ゴータマ・シッ

ダールタは王子の身分を捨てて出家したわけであるが、その目的は「生、老、病、

死」という人間存在、生命存在の最も根本的な「苦」の止滅にあった。決して、

超常体験、至高体験を得るために出家したのではない。彼は最終的に菩提樹の

下で「宇宙の真理、宇宙の根本原理」を悟ったといわれているが、現代物理

学や天文学の宇宙論のイメージで考えると、そのことと人間の苦の止滅とはいっ

たい何の関係があるのだろうか。

 

 有史の中で数人しかでないような宗教的天才の内面を推し量ることは、それだ

けでおそれ多いことであるが、仏伝の中で彼は出家してすぐ、瞑想や苦行をした

とされている。その瞑想の部分で、「瞑想に入っているときは、いかなる不安や恐

れも感じないでいられるが、それが終わるとたちまち元の状態に戻ってしまう。」と

言い、その瞑想修行を捨てて独自の修行の道に入ったとされている。このことが

「非二元の恒常性」を目指したのではないか、と考える理由である。

 

 しかし、「非二元の恒常性」すなわち、クオリア消滅の恒常性というのは、常識で

は全く考えられないだろう。悟りを得た仏陀がクオリアを持たなかった、、、それ

では彼は本当に「哲学的ゾンビ」!?だったということになるが、いくらなんでも

それはあり得ない。それがどのような状態か全く想像することもできないのであ

る。また、その状態が実現できたとして、どうしてそれが恒常的だという確信が

持てるのだろうか。それは時間に関する根本的な解決を同時に意味しているのだ

ろうか。

 

 

 参考文献

 

 立花隆 著

「臨死体験」 文芸春秋社

 

 茂木健一郎 著

「脳とクオリア」 日経サイエンス社

「生きて死ぬ私」 徳間書店

「心を生みだす脳のシステム」 日本放送出版協会

 

 K・ウィルバー 著 「アートマン・プロジェクト」 春秋社

 Ken Wilber

「万物の歴史」 春秋社

「眼には眼を」 青土社 

 

 関連URL

 

 心脳問題RFC#7 「体外離脱体験」 境界人

 http://www.qualia-manifesto.com/rfc/rfc7.html

 

 至高体験事例集 臨死体験者の場合 高木善之氏 Noboru Ishii

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/1702/case/NDE/takagi.html 

 

(c) 天田未惟 2002

 

 

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