スキンタッチを着ること 茂木健一郎 2003年4月
原美術館「ヤマモトヨウジ展」に寄せて
ファッションのミーム(文化的遺伝子)の流通は、圧倒的に視覚イメージによってなされる。服を選ぶ時も、それに自分が包まれている絵を想像する。そして、必要ならば鏡に映して決める。服の消費において、視覚が圧倒的優位に立っていることは事実である。
しかし、服を着るという体験のほとんどを占めているのは、実はスキンタッチである。服が目の前にあるときはその全体像が見えているが、着てしまえば、見えるのは自分の胸のあたり、腕のあたり、足のあたりだけである。一方、肌を布が包んでいるという皮膚感覚は、服を着ている限りずっとつきまとう。ちょっときつめのタートルネックを着た時に、最初は首のあたりが気になってしょうがないが、やがて忘れてしまうように、確かに私たちは布のスキンタッチを常に意識しているわけではない。だからこそ、布が皮膚を包む感覚は、無意識の身体性の中に取り込まれて、それをまとう私たちの幸福に重大な関わりを持つ。
服のスキンタッチは、静的なものではない。服は、来ている間ずっと身体を撫で続けている。腕を動かす時、肩をすくめる時、階段を降りる時、椅子から立ち上がる時。布と皮膚の間に生じるずれ、接触、乖離を通して、服は私たちの身体全体を撫で続ける。部屋に帰り、ほっと一息をついて、それから服を脱いでしまった時に私たちが感じるある種の寂しさは、単なる温度の変化、視覚的変化だけではなく、それまでずっと自分の身体を撫で続けてくれたやさしいメディアと別れる寂しさでもある。毎日繰り返される服のスキンタッチとの会合と別離は、通常は意識されないものであるがゆえに、かえって私たちの生活における身体性のリズムの基底となる。
服のデザインとは、素材としての布の選択、カット、仕立てを通したスキンタッチのデザインでもあるのである。
山本耀司のデザインプリンシプル、すなわち、ボディラインを強調するのではなく、ゆったりと重力で垂れ下がるままに任せた布で柔らかに体を包むことは、スキンタッチという属性に寄り添っている。たとえば、2003年春夏コレクションで見られた、ふわっと広がった裾がモデルが足を進める度にぽん、ぽんと柔らかに足を打つスカートは、心が躍るようなスキンタッチをそれを着る者にもたらす。山本耀司自身が好んで着る服、その硬くなく、鋭角的でもなく、ゆったりと柔らかに身体を包むスタイルは、やさしいスキンタッチへの予感に満ちている。
もちろん、服は、着ると同時に見られるもの、見せるものである。服を着て街に出る時、数十、数百の視覚体験が一つのスキンタッチの体験をとり囲む。プライベートなスキンタッチ体験と、パブリックな視覚体験の間の圧倒的な不均衡が、服というメディアの持つ可能性である。
山本耀司の服は、着るもののスキンタッチを志向するデザイン原理を通して、確かにそのような可能性を探求している。山本耀司が好んで用いる黒は、肌が布に接する暗闇、すべての生命をもたらす母胎の暗闇に通じる。デザイナーが裁ち鋏で布を切るとき、その手は、やがて仕上げられた服を着る者の肌を間接的に撫でている。そこに、一つの愛の形を見ることは大げさではないだろう。私たちがこの世界に産み落とされて最初に出会う他者との関係性が、新しい生命を愛おしむ母の手の感触であるとすれば、山本耀司の生み出す服は、私たちがそのような母胎的なものに包まれて世界の中を歩き回るための装置となっている。
だからこそ、山本耀司の服は、中性的であると同時にどこか母性的なものをそれを着る者、見る者に感じさせるのである。