パリのワグナー

茂木健一郎

この練習作品は、Richard Wagnerへのオマージュとして1994年頃に書いたものです。

この作品の主要なプロットは、ワグナーの自伝Mein Lebenの記述に基づいています。

(c)茂木健一郎
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 リヒャルト・ワグナーはもぞもぞとベッドの中で動いた。白い、甘美な夢の名残が頭の中で花火のようにきらめいていた。しかし、その花火のきらめきも、リヒャルトの自我の温度が上がっていくにつれて次第に弱くなり、ついには消えた。
 リヒャルトは目を開けた。彼の現在の王国である、冷え冷えとした小部屋が目に入ってきた。痛々しい程白い壁が、視野に仄暗く入って来る。そして、11月のパリの弱々しい光が、窓のカーテン越しにベッドの上のリヒャルトの体を照らしていた。
 リヒャルトは、ベッドの上で上半身を起こした。ミンナが、彼の動きに眠りを覚まされて、毛布の下の体を動かした。リヒャルトの体は、冷たい朝の光の中で、しばらく凍り付いたように動かなくなった。
 「ミンナ、ミンナ。」
 リヒャルトは上半身を固くこわばらせたまま、傍らの妻に呼びかけた。ミンナはしばらくもぞもぞと動くと、また動かなくなった。
 「ミンナ、ミンナ。」
 リヒャルトは、今度は以前よりも強い調子で妻に呼びかけた。むずがる妻の体を強く揺り動かしさえした。
 「ミンナ」
 リヒャルトがミンナの頬に優しく接吻すると、ミンナはその温りを感じたのか、やっと目を覚ました。
 「ミンナ、出かけるよ。」
 「もう? こんなに早く?」
 ミンナは言葉にならないとぎれとぎれの吐息の断片を発した。ミンナは上からのぞき込むリヒャルトの顔を寝ぼけたように見つめていたが、やがてため息を一つつくと、ベッドの上に起きあがった。ミンナは、そのままの姿勢で、窓から差し込む白い光をまぶしそうに見つめた。そして、リヒャルトに体の重みをやさしくかけた。ミンナとリヒャルトは、しばらくそうやってベッドの上に上半身を起こしたまま、肩を寄せ合って白い光を凝視していたが、やがて、諦めたようにリヒャルトはベッドの中から抜け出した。
 リヒャルトの身支度は簡単だった。何しろ、シャツといっても、夏からずっと着ていて、殆ど皮膚の一部になっているやつが一つあるきりだから。それに、ズボンは、布が揉まれ、擦れて、軟体動物のようになっているやつのほうが、かえってはきやすいくらいなのだ。時には、疲れ果ててそのままベッドの上で眠りこけてしまうこともあって、そんな朝には、身支度と言っても、ベッドの上にぴょこんと起き上がるだけで済むのだった。その上、リヒャルトと来たら、時には、コサックのように勢い良く飛び上がるので、ベッドが壊れるのではないかとミンナが心配するほどであった。
 その日、リヒャルトは朝食なしで出かけなければならなかった。最後の資金源であった質屋の預かり証もその前日に尽きて、リヒャルトの家庭にはパン一つなかったからである。リヒャルトは、特にやることもなかったわけだが、儀式のようにアパルトマンの部屋の中をぐるりと見回した。ほこりをかぶった総譜がいくつか、目に入った。リヒャルトが今でも一応作曲家であるとするならば、これらの総譜が、一応の物質的証拠であるはずだった。 
 十分後、リヒャルトは「英雄通り」のアパルトマンを出て、早朝のパリの静けさの中へと吸い込まれて行った。そのリヒャルトの姿を、アパルトマンの彼らの部屋から、ミンナが不安そうな眼差しで見送った。 深い霧の中で、身長160cm足らずのリヒャルトの体は、白い海の中へと今にも沈んでしまいそうに見えた。リヒャルトは、小柄な彼にとっても小さすぎる薄いマントをはおり、わき目もふらずにパリの迷路のような路地を歩いていった。
 静かな朝であった。聞こえるのはサッサッサッと一定のリズムで歩いていくリヒャルトの足音だけだったが、彼のブーツの底はすっかり抜けていたから、それは弱々しく控えめな音であった。
 リヒャルト・ワグナーは27才。借金の返済ができず、ロシア領のリガから逃亡し、ここパリに作曲家としての「成功」を夢見て乗り込んで来てから、1年以上の月日が経っていた。しかし、洗練され確立された作曲家が全ヨーロッパから集まってきているパリにおいて、ドイツの無名作曲家が頭角を表すのは不可能に近いことであった。(おまけに、田舎臭く、野心だけギラギラときている!)今、パリの霧の中を歩くリヒャルトの顔には、精神的な苦悩と生活上の苦闘が残した、はっきりとした固いプロフィールが浮き出ていた。しかし、その猛きん類を思わせる鋭い眼差しからは、どんな苦難にも負けまいとする強い意志がみてとれた。ただ、心配なのは、その意志も遠からず擦り切れてしまうのではないかということであった。
 その日のリヒャルトの用向きもそれほど愉快なものとは言えなかった。まず、彼の新作のオペラ、「リエンッイ」の正確なテンポを設定するのに借りたメトロノームを持ち主のところまで返しに行かなければならなかった。そのメトロノームは、リヒャルトの薄手のコートの下に、しっかりと包まれていた。その後には、アパルトマンの調度を買うために振り出した約束手形の満期を延ばしてもらう、困難な仕事に取り組まなければならなかった。おまけに、約束手形の持ち主は次々と変わるのが例であったから、リヒャルトは現在の持ち主をパリ市の隅から隅まで駆け回って探し出さなければならなかったのだ。最後に、義兄のハインリッヒ・ブロックハウスに、なにがしかの金の無用を試みるという気の重い用事も待っていた。実際、「生存」という見地から見れば、この用事が、今日の最も重要な案件だったのだ。リヒャルトがアパルトマンを出るとき、その窓からミンナが不安そうに見送っていたのも、リヒャルトの用件が借金の申込であったからであった。ミンナは、リヒャルトが金を「調達」しに出かけたときには、いつも帰りが遅くなることを知っていたからである。
 リヒャルトは、先ず、約束手形の現在の持ち主であると思われる、シテ島に住むチーズ屋のところへ行くことにした。目的地に急ぐリヒャルトの目に、朝霧の中のパリの風景が流れるように飛び込んできた。それは、もはや1年前の9月に、リヒャルトが胸を躍らせて乗り込んできた、あの花の都パリではなかった。その表面的な華やかさと繁栄は、そのようなものと無縁に生活苦に喘がなければならないリヒャルトにとっては、苦痛を巻き起こす幻影に過ぎなかった。幻影ーそれは正にぴったりした言葉であった。リヒャルトは、パリの町並みが、まるで現実感のないまぼろしのように思われてならなかった。何しろ、目玉の中に霞がかかったようで、よく見えないのだ。リヒャルトの胸の中には、打ち砕かれた希望、毎日の生活の苦労、胸を締め付けられるような将来への不安、自分の才能に対する自信と疑い、そのような様々な思いがまぼろしのように浮かんでは消えていった。過去と未来、現実と空想の間を漂いながら、リヒャルトは急ぎ足で朝もやに包まれたパリを歩いていった。
 リヒャルトが、そのようにしてミンナと時折行く、青と白のストライプのひさしのかかったカフェの角を曲がったその時である。リヒャルトの目の中に、もう一つの、はっきりとした形をとったまぼろしが飛び込んできた。
 「ロバー!」
 それは、一年前に、パリに来てまもなくリヒャルトのもとから行方不明になってしまった、リヒャルトの愛犬の姿であった。
 「ロバー!」
 そのニュー・ファウンドランド犬の姿をしたものは、深い霧の中で微動だにしなかった。リヒャルトは、さてはこれは幽霊に違いないと思った。あるいは、空腹のせいで、頭がどうかしてしまったのか。しかし、リヒャルトがもう一度その名前を呼ぶと、犬はリヒャルトの方を振り向いた。リヒャルトが見つめていると、犬はリヒャルトの方に2、3歩近づいたように見えた。犬は、明らかに以前の主人をそれと認めたようであった。リヒャルトを上目使いにうかがいながら、ロバーはさらに2、3歩、リヒャルトの方に近づいた。
 幻影ではない、現実だ! リヒャルトは、再会の喜びに胸を躍らせ、両手を大きく広げてかっての愛犬の方へ歩み寄ろうとした。すると、何と言うことか、ロバーはおずおずと後ずさりした。やはり、私のことはもう忘れてしまったか。リヒャルトの脳裏にふとそのような考えがよぎった。しかし、ロバーは依然として立ち去らずに、リヒャルトの方を見ている。
 「ロバー!」
 リヒャルトはもう一度叫んでみた。ロバーは自分の名前を認識したかのように体をぴくっと動かした。しかし、リヒャルトが近づくとロバーは後ずさりし、リヒャルトが駆け寄ろうとすると、ロバーはとことこと逃げ出すのであった。それでも、ロバーがリヒャルトのことを覚えていることは、逃げながらも時折リヒャルトの上を振り返って見てみることで明らかであった。
 リガからの困難に満ちた逃避行の間も決して離れることのなかったロバーであった。ノルウエー船に乗ってのロンドンへの長い航海、嵐に襲われてのフィヨルドへの避難、ロンドンでの一週間の冒険、そしてパリへの旅。あの地獄の底を見るような嵐の最中、ものすごい黒雲の中に走る稲妻を、リヒャルトとロバーは船室の小窓から震えながら見上げたのではなかったか? そのように苦楽を共にした愛犬が、昔の飼い主から逃げようとするという事実は、リヒャルトの心を深く傷つけた。
 「ロバー!」
 リヒャルトは、パリの曲がりくねった細い路地を、メトロノームを抱えながらロバーを追跡した。厚く垂れ込めた白い霧の中で、リヒャルトはともすればロバーを見失いそうになった。しかし、ロバーはその度に立ち止まって、リヒャルトのすがたを確認するまで待っているのであった。
 リヒャルトの白い霧の中の追跡は、そのようにしてしばらく続いた。リヒャルトには、ロバーが何故逃げようとするのかわからなかった。ロバーがいなくなったとき、ロバーは立派なニューファウンドランド犬であったから、リヒャルトもミンナも、誰かに連れ去られたのだろうと考えた。しかし、今こうしてリヒャルトを避けようとするところを見ると、ロバーは自分から逃げだしたのかもしれなかった。リヒャルトが以前に、何度かロバーを叱ったときの記憶が、ロバーを恐れさせているのであろうか。それとも、貧しいリヒャルトの家ではロバーにろくな食べ物も与えなかったから、リヒャルトがミンナによく冗談めかして言っていたように、より裕福な飼い主を求めてさまよい出たのであろうか。
 「ロバー!」
 リヒャルトは、パリでの生活に夢を見いだしていた頃の自分の分身を追いかけるように、ロバーを追跡した。しかし、St. Roch教会の近くで、すっかり疲れきったリヒャルトが立ち止まって息を整えているうちに、ロバーはついにもはや振り返ることなく、全速力で彼方の霧の中へと消え去ってしまった。
 リヒャルトは呆然として、その場に立ち尽くし、ロバーの消えた方向を見つめた。愛犬が昔の主人から、まるで野生の動物のように逃げようとしたことは、リヒャルトを愕然とさせた。それは、リヒャルトのパリ生活の前途についての、不吉な前兆であるように思われた。リヒャルトは、それでもロバーが今にもまた白い霧の中から現れるのではないかと期待したが、ロバーはパリという迷宮の中に永遠に消え去ってしまったようだった。気が付くと、リヒャルトは汗まみれになって、骨の蕊まで凍えていた。
 リヒャルトはため息を一つつくと、とぼとぼとその日の用向きに戻った。
 シテ島のチーズ屋は、ノートル・ダム寺院から5ブロックほどいった路地にあった。それは、なかなか立派な店構えで、その上が、アパルトマンになっていた。リヒャルトは、そのチーズ屋の様子をしばらく観察した。そして、どうやら繁栄しているらしいことを見て、安堵を覚えた。これなら、手形の支払いを猶予してもらえるかも知れない。リヒャルトの中に、はからずも発達した小ずるい観察力が、慎重な上目づかいのなかに、チーズ屋の経済状態を読みとっていた。
 「それで、手形は待ってもらえたの?」
 ミンナは、その日の夜、愉快そうにチーズ屋に並んだ丸いのやら、三角のやら、青かびや、白かびやらの壮観を語って聞かせるリヒャルトに尋ねた。しかし、リヒャルトは、笑って手を振るだけで、チーズ屋で何が起きたのかを、ミンナにはどうしても言おうとしなかったのである。
 チーズ屋を出たリヒャルトは、今度は義兄のハインリッヒ・ブロックハウスのところへ金の無心に出かけた。ブロックハウス出版者の裕福な経営者であるハインリッヒには、リヒャルトに何がしかの財政的援助を与えるだけの余裕があるはずであった。しかし、リヒャルトの心の中には、すでにこの訪問の成果に対する悪い予感があった。実際、ハインリッヒからリヒャルトが得たものは、援助の約束どころか、事実上の絶縁の言い渡しであった。
 「君のために僕がしてあげられることはないと思うね、リヒャルト。何しろ、君の人生のやり方に僕はまったく賛成できないのだから。」
 リヒャルトは、激しい恥辱を感じながらハインリッヒのもとを辞した。ハインリッヒの拒絶がリヒャルトにとって恥辱であるだけでなく、どれほどの深刻な経済的打撃を意味するかを、義兄は知るはずもなかった。
 こうなると、最後の頼みの綱は、音楽出版業者シュレジンガーだけであった。
 モーリス・シュレジンガーをリヒャルトに紹介したのは、当時の楽壇の第一人者、マイヤーベアであった。パリで成功を求める一人の無名の音楽家として、既にマイヤーベアから多くの援助を得ていたリヒャルトは、当座の収入をもたらす仕事を与えてくれる人物として音楽出版業者、シュレジンガーを紹介されたのであった。シュレジンガーのがリヒャルトに会ったあと、マイヤーベアに密かに語った親切極まりない第一印象は、
 「あんな粗野で生意気なドイツ野郎を、どう扱ったらいいっていうんだ!」
というものであった。しかし、そのうちにシュレジンガーも、リヒャルトが不平を言いながらも与えられた仕事を結構器用にこなすことを見て取った。そして、リヒャルトはシュレジンガーからオペラの器楽曲への編曲や、シュレジンガーの発行する「音楽新聞」への寄稿など、こまごまとした仕事を提供されるようになったのであった。シュレジンガーは音楽に対して純粋な関心を持っているというよりは、当時のパリの流行音楽の中に、良い金儲けの種を見いだしている男であった。リヒャルトに仕事を与えるのも、若い無名の音楽家の生活を支えようと言う篤心からというよりは、単にリヒャルトが低賃金でよく働く労働者であるからに過ぎなかった。一方、リヒャルトの方もシュレジンガーから与えられる仕事に内心辟易しながらも、今日、明日の生活のためにはそれに頼らなければならなかった。こうして、シュレジンガーとリヒャルトの、相手をとりたてて尊敬はしていないが、互いに利用し合うという関係が続いていた。
 その日は、シュレジンガーの事務所の中でも、リヒャルトは好運にめぐりあうことができなかった。シュレジンガーは、リヒャルトが何のために来たのか百も承知していながら、リヒャルトを彼の事務所の待合室に、何時間も放っておいた。その間、シュレジンガーは次から次へと訪れる客と、わざとらしく長々と、とるに足らない会話を続けるのであった。
 「よろしいでしょう、ロベールさん。あの楽譜の出版については、まあ、そういうことで。因みに、今日、私は時間がたっぷりありますから、もう小一時間コーヒーでも飲んで行ってください。この前見つけた、小粋なビストロを紹介しますよ。何ね、内臓の煮込み料理が得意な親父がいてね。おい、君、コーヒーを二つ持ってきてくれ。それでね、ロベールさん・・・」
 シュレジンガーの部屋のドアは半開きにされたままで、リヒャルトには、シュレジンガーが机の端をパイプで叩く音までが聞こえてくる始末だった。リヒャルトは顔が熱くなるほどの屈辱を感じた。
 「今日という日は、パリで成功を求めようなどという不遜者にふさわしい不運を、私に徹底的に味あわせるために悪魔がしくんだ罠に違いない!」
リヒャルトは内心毒づいた。
 無為のまま夜になり、リヒャルトはシュレジンガーの事務所を辞した。リヒャルトは、ミンナの待つ下宿へと、何の成果もなく帰らなければならなかった。
 リヒャルトの足どりは重かった。彼の憔悴しきった表情から、その日も何の「成果」もなかったことを悟ったときのミンナの落胆ぶりが、今から彼には見えるようであった。
 「畜生。おれの思う通りのオペラが上演できさえすれば。」
 リヒャルトは自分の才能を確信していたが、一方、彼のようにあやふやな「未来」に希望を託した若く貧しい芸術家がこのパリという巨大な渦の中に無数存在することも知っていた。現在のところ、彼、リヒャルト・ワグナーと他の大勢の無名の芸術家を区別するものは何もなかった。リヒャルトは、濁流の中にもがく小さな一粒の木の実にすぎなかった。リヒャルトの額に、選ばれし者の刻印が押される日が来るとは、どう見ても思えなかった。
 リヒャルトは、彼とミンナがよく訪れる、1フランで食事のできる定食屋の角を曲がった。リヒャルトはゆっくり歩いた。できるだけ、ミンナが待っているあの冷え冷えとした部屋に着くのを、ミンナに悪いニュースを明かすのを、先に延ばしたかったのだ。リヒャルトは、自分の足を載せるパリの歩道の冷たさに身を震わせながら、下宿へと通じる道をとぼとぼと歩いていった。
 可哀想なミンナ! リヒャルトがミンナに初めて会ったとき、彼女は輝かしい美しさにあふれた、若き女優であった。なかなか彼の愛を受け入れようとしなかったミンナに、リヒャルトはねばり強く、情熱的に求愛した。しかし、ミンナにとってリヒャルトは彼女の美しさに引かれて言い寄ってくる多数の男達の一人に過ぎなかった。ミンナはリヒャルトの求愛を冷たくはねつけ続けた。だが、あの忘れもしない夜、リヒャルトが開かれようとしないミンナの心に絶望し、泥酔してミンナの下宿へとたどりついた時、ミンナの心の中にあった自己破滅的な若者への憐れみと同情が、愛へと変わったのであった。翌朝、ミンナのベッドで目覚め、白い光が人生の新しい時代の幕開けを告げるかのように彼の上に降り注ぐのをじっと見つめていたあの時以来、ミンナの人生はリヒャルトのそれと分かち難く絡み合ったのであった。あの朝、リヒャルトは自分とミンナの前に、輝かしい白い道がどこまでも続いているように思ったのであるが・・・。
 気がつくと、リヒャルトは自分の下宿の前まで来ていた。二階の窓から薄明かりがもれ、少し開けられたカーテンの向こうからミンナが心配そうにリヒャルトの方をうかがっているのが見えた。ミンナは、そのようにして何時間も待っていたのであろう。通りのガス燈に照らされたミンナの顔はこころなしか青く、マグデブルグ時代に、彼が夢中になって求婚したあの若い女優と同じ人の顔とは、とても思えなかった。リヒャルトが手を振ると、ミンナは軽くうなずいて、窓から離れた。カーテンが閉じられ、リヒャルトはため息をついた。

 リヒャルトの部屋の暖炉の火は乏しかったが、それでも底冷えのする12月のパリの夜よりは暖かかった。リヒャルトの擦り切れたコートを受け取りながら、ミンナは努めて明るく尋ねた。
 「シュレジンガーさんはお金をくれた? 次のオペラがもうすぐ完成するはずだって言ったの?」
 リヒャルトは皮肉っぽく笑った。
 「駄目だ、駄目だ。やつにとっては、音楽はいい金になるただの商品に過ぎないのだから。音楽自体には、これっぽっちの価値も認めていないのだからな。」
 ミンナは、肩をすくめた。
 「そう思って、ブリックスさんからお金を借りておいたの。」
 「食べ物があるのか」
 リヒャルトは、突然自分が先ほどから激しい空腹を感じていたことに気がついた。
 
 質素な、しかし滋養に富んだ食事を終えると、リヒャルトはさっそくシュレジンガーから以前与えられた「La Favorita」の編曲の仕事にとりかかった。その膨大な、そして内容のない仕事にリヒャルトは大いに苦しめられていた。あの時、前払い金に引きつけられて引き受けなければよかったと、リヒャルトは何度も後悔したが、その前払い金さえも使い果たした今となっては、もう遅かった。それでもリヒャルトは、食事の後かたづけをしているミンナにこぼさずにはいられなかった。
 「まったく、この間抜けな作品には恐れ入るよ。いくら貧乏だからといって、こんな作品をいじらなくちゃならないとは、屈辱の限りだな。」
 実際的なミンナは、リヒャルトのなだめ方を心得ていた。
 「でも、そのおかげで1100フランも入ったじゃない。この仕事がなかったら、どうやって冬を越していいかわからなかったでしょうよ。それに、少なくとも音楽の仕事ではあるわ。」
 リヒャルトは、やれやれというように背伸びをすると、再び無意味な音符の羅列をアレンジする仕事にとりかかった。
 パリの夜は更けていった。月は冴え冴えと白く輝き、くねくねと入り組んだパリの路地を照らし出した。パリという巨大な迷路の中で、若いエネルギーを浪費し、進む方向を見失った多くの魂が、失意のうちに眠りにつこうとしていた。しかし、リヒャルト・ワグナーの質素な下宿では、月が西に傾き、東の空が赤くなって雀たちが鳴き出す頃まで、一人の無名の音楽家が生活の糧を得んがためにひたすら夜なべ仕事をする姿が見られた。

 その年のクリスマスが近づいても、ワグナー家の生活は少しも楽にならなかった。前払い金に釣られて引き受けた「La Favorita」の仕事が重いかせとなって、リヒャルトに単調で根気のいる生活を強いた。暖房費用の節約のために、彼の寝室が、同時に居間となり、食堂となり、仕事場となった。仕事机から椅子をくるりと一振りすると、もうそこに食卓があるという寸法であった。
 リヒャルトの頭の中には様々なアイデアが溶岩のように沸き返っている活火山があったが、そのエネルギーが創作となってあふれ出ることはなくなっていた。リヒャルトは、夜眠りにつく前の束の間の夢見る時間を除いては、全てをシュレジンガーの編曲の仕事に当てなければならなかったからだ。友人が訪ねてきてくれたときでも、軽口をたたきながらもリヒャルトの音符を書き込む手の動きは止まることはなかった。しかし、その音符の列はと言えば、リヒャルトの精神とは全く無関係に、妥協と、技巧と、マンネリズムが生み出すがらくたに過ぎなかった。リヒャルトに割り当てられた編曲の仕事とは、そういった類の機械作業であった。リヒャルトの音楽家としての生命は死んだも同然であった。彼もまた、多くの若い芸術家が陥ったように、その日その日の糧を仕事で稼がねばならない、抜け道のない袋小路へと追い込まれてしまったのだ。
 そんなリヒャルトが、唯一の心の拠り所としたのが、リヒャルトと同じように貧しい友人たちとの交わりであった。アンダース、レアーズ、キーツ、ベヒトの四人である。
 アンダースは、リヒャルトが妹のセシリーを通して知り合ったドイツ人で、王立図書館の音楽部門で働いていた。アンダースは独身で、年齢は50歳くらいであり、ラインに財産を持っていたのだが、人の良さに付け込まれ、欺され、全てを失ったという過去を持っていた。裕福だった頃、アンダースの趣味は書籍収集、とりわけ音楽関係の書籍の収集であったが、アンダースは今、王立図書館でかっての趣味を生かして薄給を得、何とか自分の生活を支えて行かなければならない立場にあった。
 彼は自分の本名を決して明かさず、「アンダース(別の)」という偽名で通っていた。彼は、自分の過去の生活について余り語りたがらなかった。アンダースの知識は膨大であったが、甘やかされて育った子供時代のせいか、生き馬の目を抜くパリではい上がろうという気概には全くと言うほど欠けていた。従ってアンダースは王立図書館では全く出世することができず、彼よりはるかに劣った者たちが次々と上の地位についていくのを黙って見ているしかないのであった。孤独の中で老いを迎えつつあったアンダースは、リヒャルトの若々しい、大胆な野心の中に自分自身の希望をも見いだして、その実現に心を打つ熱意をもって協力した。
 レアーズは、哲学者であり、ディードという男の下で、ギリシャ古典選集の編集の仕事をしていた。レアーズは数年前、哲学で身を立てようとパリにやってきたのであったが、結局ものにならず、困窮に付け込まれてディードの下で恥ずべき低賃金で働かされていた。レアーズの生活は絶えざる貧困との闘いであった。しかし、そんな生活もレアーズの底抜けの人の良さを変えることはなかった。
 アンダースとレアーズは友人同士で、夕方になるリヒャルトの下宿を訪ねてくるのが日課となっていた。夕方の「サークル」の会話は、リヒャルトがどうすればパリで成功できるかということに集中した。リヒャルトがパリで成功できる見通しは次第にわずかなものになっていったが、アンダースとレアーズはリヒャルトの才能に対する信頼を決して失わなかった。
 キーツは、ドレスデンから来た若い画家であった。彼は明るいパステルで肖像画を描く才能を故郷の街で発揮し、かなりの経済的成功を得たため、今度はパリで運を試してみようとやってきたのであった。キーツは、まるで子供のような無邪気さを持った、人の良い、陽気な男であった。老いた臆病なアンダースや、真面目で威厳のあるレアーズと全く対照的なキーツの性格は、夕方の「サークル」の雰囲気を明るく盛り上げ、とりわけミンナを喜ばせた。
 キーツも、他の仲間と同じように、成功というものから見放されていた。彼の才能はかなりのものであったが、きちんとした教育と、意志の強さが欠けていたのであった。キーツはデラロッシェという画家のアトリエで油絵を学んでいたのであるが、彼の研さんぶりといえば、絵の具をパレットの上で混ぜているうちに短い冬の一日が終わってしまい、いざ描こうとするときにはもう十分な光がなく、また明日にしようといった調子であった。キーツに肖像画を依頼した顧客たちは、なかなか作品を手に入れることができなかった。キーツは、しまいには顧客たちが肖像画の完成する前に次々と死んでしまうとこぼす始末であった。
 もう一人の作家、ベヒトもキーツとともにデラロッシェのアトリエで油絵を学んでいた。ベヒトはキーツほどの才能はなかったものの、新しいことを持ち前の勤勉さで着実に学んでいくことができた。彼は面白みはないが、信頼のおける人間であった。ベヒトも、アンダースやレアーズ、キーツほどの親密さはなかったものの、リヒャルトとミンナの夜のサークルにほとんど毎晩顔を出していた。
 
 大晦日が来た。パリの街は新年の到来を祝う人々の波であふれ、馬車が行き交い、シャンパンの栓が抜かれ、人々の歓声が冴え冴えと晴れ渡った夜空にこだました。
 リヒャルトの部屋では、「La Favorita」の編曲の仕事が続いていた。傍らでは、ミンナが食卓の前に腰掛け、ぼんやりと外の明かりを見つめていた。
 ミンナがその生涯に迎えた数多くの大晦日の中で、その夜はとりわけ静かで、平和な夜であった。静寂の中で、リヒャルトがペンを走らせる音だけが聞こえた。無意味な編曲の仕事を続けながら、リヒャルトの頭の中は空っぽであった。またも、何の成果もなく過ぎ去った一年に対する何の感慨も、来たるべき1841年に対する何の幻想も、彼の頭の中にはなかった。リヒャルトの眼は音符の羅列を追いながら、心は喧噪のあふれるパリの街の上に広がった星空のように、澄み渡っていた。
 ミンナとリヒャルトがそうして静かな平和の中に新年を迎えようとしていると、突然ドアのベルがなって、レアーズが飛び込んできた。
 「リヒャルト! 何をやっているんだ。大晦日の晩まで働くことはないだろう。パーティだ!」
 ミンナはレアーズが脇に抱えてきた、よくあぶってある子牛の足を見つけて歓声を上げた。
 レアーズに続いて、キーツがラム酒に砂糖、レモンを持って入ってきた。ベヒトはがちょうを、アンダースはシャンパン2本を抱えて現れた。リヒャルトの友人たちは、大晦日まで働いているであろうリヒャルトを驚かそうと、不意のパーティを計画したのであった。こうなると、リヒャルトも仕事を続けることができなかった。彼はすぐ「La Favorita」のスコアを横に押しやると、ペンを投げ捨てた。
 「「La Favorita」などくそくらえだ。友情を祝おう!」
 仕事机はどけられ、食卓が中央に据え付けられた。アンダースとベヒトは居間の暖房をともし、リヒャルトはミンナの台所仕事を手伝った。キーツとレアーズは、足りないものを惣菜屋へと買いに走った。
 準備ができると、パリの街の貧しき同胞たちはさっそくシャンパンを開けた。アンダースが栓を開けると、黄金の泡があふれ出て、リヒャルトの小さな客間は歓声に包まれた。
 「乾杯!」
 不揃いなグラスが音を立てると、部屋の中は一瞬静まり返り、6人の同胞たちはお互いの顔を幸せそうに見つめあいながら、一気にグラスの中身を飲み干した。
 「アンダース! アンダース!」
 リヒャルトがはしゃいでアンダースの肩をたたいた。
 「アンダース! こんなにいいシャンパンを一体どうやって手にいれたのか、披露し給え。」 
 「そうだ。そうだ。アンダース!」
 ベヒトがたたみかけた。
 「リヒャルトに話してやれよ! 君がこのシャンパンを手にいれた、愉快ないきさつをさ!」
 アンダースはいたずらっぽく笑うと、ミンナが差しだした椅子にどさっと腰を下ろして、足を前に組んだ。
 「王立図書館の音楽部門のスタッフとして、一寸した仕事をした報酬さ。つまり、ある楽器製造業者から、その会社のピアノをほめる記事を書いてくれと頼まれたわけだ。実際、いいピアノだったのだが、良心が痛まない程度に誇張して書いてやった。その成果が、今君達の前に輝いているこの黄金のシャンパンというわけさ。」
 「その楽器製造業者に乾杯!」
 キーツが叫んだ。
 「我々の友情に乾杯だ。」 
 リヒャルトはシャンパンの二杯目を一同に注ぎながら、アンダースにささやきかけた。
 「今度、その楽器業者から、グランドピアノを一台手に入れるわけにはいかないだろうか。そろそろ、作曲を始めようと思うんだ。」
 シャンパンがなくなると、今度はパンチが振る舞われた。それと同時に、リヒャルトを囲むサークルにとって滅多にない、豪華な食事が始まった。体がやや弱っているレアーズの皿には、本人が辞するにもかかわらず滋養に富んだ子牛の足がたっぷりと盛りつけられた。
 「レアーズ! 君は辞書編集者、ディードにたっぷり搾り取られて、精気がなくなりつつある。ギリシャ文字ばかり相手にしないで、たまにはパンチと、こってり油の乗った子牛の足を友とすべきだよ。」
 レアーズは威厳のある顔つきを少し緩めて、微笑んだ。
 「そんなことより、君の方こそシュレジンガーのくだらない仕事に首までどっぷりとつかっているではないか、リヒャルト。君の名字、ワグナー(Wagner)はだてにあるんじゃないだろう。名前の通り、敢行(Wagen)すべきだよ。」
 キーツは真面目なアンダースを茶化すのが好きであった。
 「おやおや、また哲学者さんの講義が始まったぜ。全く、レアーズの言うように「敢行」していたら、このパリでは3月ともたないよ。何しろ、芸術家のために用意された月桂冠はほんの数えるほどしかなくって、それをすでに多すぎる「大家」たちが争って奪おうとしている。実際、洗練された芸術の都パリでは、ドイツから来た田舎者なんかには、これっぽっちのチャンスもないんだから。」
 そう言いながら、キーツはリヒャルトの方を挑発するように見た。
シャンパンを一気に飲み干し、パンチがそれに拍車をかけて、リヒャルトは既にかなり酔っていた。
 「ドイツから来た田舎者はこの洗練された芸術の都パリではこれっぽちのチャンスもないって?」
 リヒャルトはキーツにからむような口調で言ったが、目はいたずらっぽく笑っていた。リヒャルトは、一呼吸おくとパンチを一気に飲み干した。
 「その通りさ。僕のような田舎者は、この洗練された芸術の都パリの、洗練された聴衆のお気に召すような音楽はどだい作れないんだ。」 「よしよし、威勢が良くなってきたぞ!」
 空になったリヒャルトのグラスに、キーツがパンチを注いだ。
 「この街では、音楽の流行は全く気まぐれなもので、きのうマイヤーベアが拍手喝采を浴びたと思ったら、今日はベルリオーズ、明日は誰の頭上に月桂冠が載せられるか、わかったもんじゃない。そうなると、僕にも、あたかも宝くじに当たるように、栄光が訪れるチャンスがあるということになるが、そんなことはない。なぜならば・・・」
 リヒャルトは、ミンナが止めるのも聞かずパンチを再び一気にあおった。
 「なぜならば、僕にはもう、パリの聴衆の気にいるような、軽薄な、上面だけの、表面的な音楽を書く気が全くないからだ。パリでの成功だって? そんなものは、くそくらえだ。」
 リヒャルトは、馬車に揺られて初めてパリに足を踏み入れた時のことをありありと思い出していた。乱雑で、何もかもがものすごい速さで行き来しているパリの街角にミンナと一緒に立ち、一体これからここで何をどうすれば良いのか、途方に暮れたこと、早くこの「混沌」の中から、パリ楽壇での勝利をつかもうと心に誓ったこと、そして、勝利は間近なもののように思えたこと・・・。
 「ドイツだ。ドイツに、僕は還りたい。霧深いあの地にこそ、あのうっそうとした森の中にこそ、僕の音楽が宿るべきふるさとがある。僕は、このパリの表面的な虚飾に目を奪われるのはもうごめんだ。今こそ、目を閉じて僕の心の中にあるドイツ的なものに還らなければならないんだ。ベートーベンだ!」
 リヒャルトは遠くを見るような表情をした。その表情は、リヒャルトが夢想しているときの表情として、友人達にはおなじみのものであった。
 「ドイツでは、音楽は人々の心の中に深く、分かち難い親密さをもって根付いている。ドイツでは、音楽はここパリのように単なる生活の中の気晴らしではなく、人生そのものなのだ。どんな小さな町にもオーケストラがあって、演奏家たちが心を込めて、民衆に良質の音楽を提供している。彼らは金のためではなく、音楽そのものの喜びのために演奏するのだ。」
 「リヒャルト、全くもって・・・」 
 アンダースがため息をついた。
 「ドイツにおける音楽の現実が、君の言う通りだとしたら、どんなに良かったろうね。」
 アンダースの一言で、リヒャルトは黙ってしまった。リヒャルトが黙ってしまったので、一同の中で話を続けるものがいなくなってしまった。この夕べのサークルで、一同の会話を盛り上げるのは実際リヒャルトしかいなかったからだ。
 「おい、おい、アンダース」
 キーツがアンダースをとがめるように言った。
 「君が分別臭いこというから、リヒャルトが黙ってしまったじゃないか。せっかく。またやつの面白い演説が拝聴できると思ったのに。リヒャルト! 演説を途中で止めてしまうなんて、ひどいじゃないか。ちょうどこちらも興が乗ってきたところなのに。もっとパリの音楽をけなして、ドイツの音楽をたたえてくれ!」
 キーツがリヒャルトの肩に手をかけて、うながしてもリヒャルトは一言も口をきこうとしなかった。キーツはリヒャルトの顔をのぞき込んだ。
 「そんなに深刻な顔をするな、リヒャルト。人生、君みたいに深刻に考えていちゃやり切れないよ。」
 リヒャルトは喉の奥から声を絞り出すようにして言った。
 「人生を、そんなに深刻に考えてなどいるものか。人生など、全て幻想に過ぎないというのに。」
 「その幻想に、我々は踊らされるというわけだな。」
 アンダースが考え深そうに言った。
 リヒャルトは激昂した。
 「幻想、そう幻想だ。パリでの音楽的成功などというのも幻想に過ぎない。成功したところで、何になるというのだ。金か? 金! 金! これこそ、人間を堕落させるために悪魔がこの世に送り込んだものさ。皆、この光り輝く小さなもののために、不自由になっているんだ。金のために、あくせく働く人生などくそくらえだ。金という幻想の支配する、このパリなどくそくらえだ!」
 「いいぞ、いいぞ。リヒャルト! その調子だ!」
 キーツのおどけた挑発が効を奏して、リヒャルトの演説は次第に熱を帯びていった。リヒャルトは、人生をこきおろした。志の高い人間ほど没落していく現実のありようを呪った。演演説のボルテージは大いに上がり、リヒャルトの友人たちは大喜びではやし立てた。リヒャルトはすでに椅子の上に立って演説していたが、ついには食卓の上に立ち上がり、その高みから熱狂した友人たちに向かって説教を続けた。
 「君たちも、人生というものに、世界というものに期待しちゃいけないよ。というのも、世界はもうどうしょうもないほど堕落しているからさ。その堕落しきった世界の中でうまくやっていくには、自分自身も堕落するに限る。」
 「そう、僕のようにシュレジンガーから与えられた仕事をうまくこなす三流音楽家になるとか、キーツのように顧客のくだらない趣味におもねる三流肖像家になるとかね。」
 「たとえ、ギリシャ悲劇に相当する傑作を創造したとしても、考えてもみたまえ・・・今のパリの聴衆が、それをどう扱うかを! 他のがらくたと一緒くたにして、笑い飛ばすのがおちさ。」
 「時代が変わるか、我々が変わるかだ。そして、もし我々が変わるとしたら、それは堕落するということなのだ。」
 リヒャルトの堕落のすすめは、パンチが回るにつれて、次第に支離滅裂なものになっていった。それが、友人たちを一層喜ばせた。ついには、リヒャルトは南アメリカの自由国家をたたえ、皆で移住しようとまで言い出した。この期に及んで一同は胸がいっぱいとなり、笑い、泣き、たまりかねてミンナはパーティの終わりを宣言した。
 リヒャルトの友人たちはとてもそれぞれの家までたどり着ける状態ではなかったので、リヒャルト・ワグナーの下宿では、その夜、リヒャルト・ワグナー夫妻と貧しき四人の同胞たち、レアーズ、アンダース、キーツ、ベヒトが一つの屋根の下で新年を迎えることになった。ミンナとリヒャルトは今のソファの上に互いにぴったりと付いて横になり、四匹の灰色ねずみたちは寝室のベッドの隅に小さく丸くなって夜を空かした。レアーズが最後までもぞもぞと動いていたが、新年を告げる鐘がなるころには、部屋の中はしんと寝静まった。いつもは底冷えのするリヒャルトの部屋も、その夜は多くの人間の人いきれでほんのりと暖かいくらいだった。
 翌朝、四人の客がそろそろ起き出して帰ろうとする頃には、リヒャルトはすでに仕事机に向かって、「La Favorita」の編曲の仕事にとりかかっていた。四人は、帰る前にリヒャルトにひとこと言おうと居間をのぞき込んだが、リヒャルトの仕事への静かな専念ぶりを見て、結局そのまま立ち去ることにした。四人がミンナに別れの挨拶をしていると、リヒャルトが仕事の手を休めて、彼らの背に声をかけた。
 「春になって、新緑が吹き出す頃に、皆で郊外にピクニックに出かけようじゃないか。」
 リヒャルトのこの突然の思いつきを、皆とても気に入った。爽やかな緑の風が吹く春に郊外に出かけたら、さぞかし愉快なことであろう。
 「大いに賛成だ、リヒャルト! それじゃあ、仕事を頑張り給え。」
 レアーズ、キーツ、アンダース、ベヒトが外に出てみると、そこには真冬の、寒々とした、パリの朝があった。

 四人の友人たちが、リヒャルト、ミンナと一緒に、パリの郊外にピクニックに出かけたのは、復活祭も終ったある晴れた日曜日のことであった。石垣に詰まれた石の間からは緑色の芽生えが吹き出し、冬の間空に垂れ込めていた雲は去って、オレンジ色の太陽が微笑んでいた。

 1842年4月7日、ついにパリを去る時が来た。リヒャルトのオペラがベルリンで上演されることになったので、それをわずかな手がかりに、ドイツへ還ることになったのだ。パリは、もう既に新緑の萌え出ずる季節となって、街の木々には小鳥たちがさえずっていた。
 リヒャルトの下宿の前には馬車が止まり、わずかばかりの荷物が積み込まれた。パリに来たときにミンナが持参した結婚祝いの銀食器、女優時代の宝石、優美なドレスは全てなくなっていた。リヒャルトは、これらの品々を全て質屋に持って行って生活費に替えなければならなかったからだ。
 アンダース、レアーズ、それにキーツが、リヒャルトとミンナを見送りに来た。リヒャルトは何時になく、口数が少なかった。リヒャルトの若い夢を砕いたパリの2年半の困窮生活の中で、苦楽をともにしてきた友人たちとの惜別の情で、胸が一杯だったからだ。
 アンダースはすでに高齢となり、困窮生活の中で身体は衰弱し、もう長くは生きられそうもなかった。リヒャルトは、この貧乏だが、善良であり、高貴な精神を持つ人物と、もう2度と生きて会うことのないだろうことを確信していた。
 友人たちと別れを惜しみ、リヒャルトとミンナが馬車に乗り込むと、キーツがポケットから5フラン硬貨を取り出して、リヒャルトに渡した。
 「リヒャルト、これは僕から君への最後の心づくしだ。どうせ、旅費が足りないのだろう?」
 リヒャルトは、5フラン硬貨をキーツの方に押し返した。5フランは、受け取るわけにはいかなかった。リヒャルトもミンナも、5フランといえばキーツの現在の全財産であろうことを知っていたからである。
 「ありがとう。気持ちはうれしいけれど、これは受け取るわけには行かないよ。旅費は何とかなるから。」
 しかし、キーツはどうしてもリヒャルトが5フランを受け取らなければならないと言い張った。しまいには、受け取らないと絶交するとまで言ったので、リヒャルトも仕方なく受け取ることにした。
 ついに出発の時が来た。御者が馬に鞭を入れて、馬車が動きだした。リヒャルトとミンナは窓から首を出して、後ろを振り返った。レアーズ、アンダース、キーツの3人がリヒャルトの下宿の窓の下に立って、何時までも馬車の方を見送っているのが見えた。しかしその姿も、馬車が大通りへと曲がったところで、見えなくなってしまった。
 リヒャルトとミンナを載せた馬車は、春の息吹が爽やかに溢れるパリの街を走って行った。長い冬がやっと終わり、人々の表情は明るく、富めるものは着飾り、貧しきものはまぶしそうに青空を見上げていた。しかし、リヒャルトとミンナの目からは涙がとめどもなく溢れて、二年半その中で苦闘した、パリの街の最後の姿を見ることはできなかった。
 馬車がパリの市門を通り抜け、郊外の田園地帯へと入っていく頃にはようやく二人の涙も乾いた。リヒャルトは、ぼんやりと、放心したように、新緑に溢れる木々を眺めていた。そこには、パリの街の灰色の石畳の代わりに、どこまでもうねりながら広がっていく、緑の丘陵があった。馬車がパリから遠くへ、さらに遠くへと二人を運んで行くにつれて、リヒャルトの心の中の惜別の情は消えて行き、かわってほとんど狂おしいほどの歓喜が、胸の奥から湧き上がって来た。
 リヒャルトは、隣のミンナの手をそっと握った。