「現実と仮想」 茂木健一郎 2002.3.23. 讀賣新聞夕刊 掲載  毎年、この季節になると落ち着かなくなる。木の芽が吹き、花のつぼみ が膨らみ、風が爽やかに薫る。やがて来るもの、まだ形になっていないも のへの憧れの気持ちが強くなる。  脳はもともと、現実に存在しないものをイメージする能力を持っている。 外界からの刺激を受動的に取り入れるだけでない。認識とは、現実(今こ こにあるもの)と仮想(今ここにないもの)の出会いであるというのが、 脳科学が切り開きつつある人間観である。内なる世界観に基づいて、様 々な仮想を自ら作り出す。仮想を世界の上に重ね合わせる。そこに、創 造性が立ち現れる。  昨年の暮のこと。朝一番の飛行機で出張から帰ってきた私は、羽田空 港のレストランでカレーライスを食べていた。クリスマスソングが流れ ていた。隣の席に、家族連れがいた。五歳くらいの女の子が、三歳くら いの女の子に向き直り、次のような質問を発した。  「ねえ、サンタさんて本当にいると思う?」  それから、大きい女の子は、サンタの実在性について、自分の考え方 を独り言のように話し始めた。  「私ねえ、サンタさんて、本当は・・・・・だと思うの・・・・・」  春の気配が深まるにつれ、あの時のことを繰り返し思い出す。  サンタの本質は仮想である。5歳の女の子にとってのサンタの切実さ は、それが現実にはどこにもないということの中にある。あの時、あの 女の子は、仮想というものの切実さについて語っていたのだ。  花見の季節である。桜の花は、何とも言えない質感に満ちている。ほ んのりとした色づき、優美な花びらの形。感覚の中にあふれる質感を、 現代の脳科学は「クオリア」と呼ぶ。春の空気に触れて心の中に立ち上 がるそこはかとない憧れもクオリアである。サンタがプレゼントを持っ てくるという予感もクオリアである。五歳の女の子も、私たちも、様々 なクオリアのかたまりとして世界を体験している。  酒を持ってふらりと出かける。満開の桜の木の下に座る。手を叩き、 空を見上げる。宴の後、どこか完全には満たされない気持ちが残る。酔 いが覚めた後の幻滅だけではない。おそらく、私たちは、仮想を希求す る心が現実に肩すかしされてしまったことを感じるのだ。  それでも、私たちはまた桜の花を見に出かける。  桜の木に近づく私たちは、サンタのことを思う五歳の女の子と同じよ うに胸を弾ませている。数字にも言葉にもできない、たおやかで繊細で、 そして切実なクオリアたちに導かれ、私たちはまた春を迎える。